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Re: イレギュラー虜囚記(その2)

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あんみつ姫

通常 Re: イレギュラー虜囚記(その2)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/12/16 12:47
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
  移動の開始

 四月初め、大雪の翌日、病人を敦化《そんか=吉林省延辺自治州の都市》に後送することになった。両大隊併せて八十人余。結核や栄養失調で敦化まで保つまいと思われる重患もいる。軍医さん、何とか残して下さいと哀願するが、一人の衛生兵も同行を許されない。

クーロフ所長は例の威嚇的な調子で、輸送貨車の設定を命じる。ソ側の規定通りには材料がなくて出来ない。伊藤と自分に拳銃を向けて、「日本人の患者を送るのに日本人が準備してやれないのか」と、規定通り作れない責任を我々に押し付ける。

 四月中頃から我々も移動する気配が見え出した。琿春駅には引揚げソ連軍が続々と到着し、トラックに乗り換えてクラスキノに向う。捕虜の日本軍三ケ大隊も徒歩でソ領に向った。
二等兵まできちんと階級章を付け、軍紀厳正である。旧軍建制のままの部隊のようだ。わが大隊のオッサン兵とは大違い。

前記のアルチョム炭坑ラーゲリに入って初めて知ったが、このラーゲリの主体は第五十九師団で、終戦の一ケ月前まで北支の八路軍と戦い、関東軍に所属になったため、ソ連側から睨まれ、旧軍の建制《けんせい=建軍制度(組織)》のまま労働に従事しつつ、北支時代に支那に対しお互いどれだけ悪事を働いたか相互暴露をやらされていた。
琿春に来た三ケ大隊も五十九師団であったかも知れぬ。

彼らはダモイが遅くなるのを覚悟していたので民主運動など糞食らえであった。同師団の通称号は衣部隊だったので、自からを「破れ衣」と自嘲していた。
我々八人が、初めてアルナョムラーゲリに到着したとき、作業に向う兵隊が「お前ら衣か」と訊いたのをクリカラモンモンの刺青自慢の足立上等兵が聞き違えて「子供かとは何だ!」と怒鳴り返したのを思い出す。

 吉林から引き揚げて来たスプルネンコ大尉に駅で再会。ダモイしたのかと思っていたが、未だいたのかと驚いている。「君だけに言うが、ソ連軍は五月五日ソ満国境を閉鎖するよ」と教えてくれた。
ソ連将校は各自押収した家具や服地をワンサと持っている。典型的な火事場泥棒である。

 四月十六日、両大隊の一般人は満洲に残すと発表あり。吉林では脱走一般人を射殺しておきながらコキ使った後、用済みで釈放とは勝手な話だ。

豊満でも琿春でもラーゲリに大した囲いはなかったので脱走は意のままで、一般人の名簿上の二百三十五人は集まるまいと思ったが、兵隊で満洲に残りたい者、一般人で我々と行動を共にする者などさまざまで結局、人数だけ合わせることになった。

ノーヴアヤの一般人は帰って来たが、奥地や病院、ホテルの使役兵は釈放命令が出る前に入ソしてしまっていた。

 四月二十日、釈放日。ときどきラーゲリに来ていたボグノフ主計少佐の姿も見える。受取り側は何と八路軍だった。
紙製の階級章を襟に付け、日本軍の軍刀を吊った将校と、三八銃や九九式銃で武装した兵隊三人。日本軍の喇叭まで携行している。

将校は「こんなに日本人を寄越しても宿舎も食糧もない」と困ってっている。
クーロフは宿舎は勝手に探せ、俺たちはこの日本人を渡せばそれで終わりだ。この馬鹿野郎!と例の調子で八路軍の将校に食ってかかる。

ボグノフ少佐が見兼ねて「クーロフ、今日は国際間の行事だから、そんな言い方をするな」とたしなめ、穏やかに八路側を納得させた。
希望して満洲に残る連中は大喜びで友人と挨拶をしている。例の小田助監督も哈爾浜へ行くとて「明日越ゆる 山の高さや流れ星」と一句我々に残していった。

一行は付近の陸軍病院跡に入ったらしい。
今にも死にそうな重病人が三人、馬車に座っていたのが哀れである。ソ軍の命令で残留組に入れざるを得なかった。
 
                          (つづく)

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あんみつ姫

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