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特攻インタビュー(第3回)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/2/27 7:57
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆特攻用機材の実態

 --------ある陸軍パイロットの方が、特攻隊にまわされる機材というのは老朽機か壊れてもいいような飛行機ばかりまわされたから途中で不時着したり、落ちたりした人が相当いたんじゃないかと仰っていましたが、やはり、そういうことはありましたか?

 江名‥海軍の場合、特攻の主力の十航艦はもともと練習航空隊で、飛行機そのものが老朽化した訓練用の飛行機でした。私達が乗った二号機は支那事変で使っていた飛行機ですからね。ハワイの時に使った九七艦攻は三号機なんです。三号機は馬力が1千馬力以上ありますが、一号機は750馬力しかないんです。その一号機に800kgの爆弾では加荷重なんですね。

 だけど百里原の場合、第1次の「常盤忠華隊」は6機全部突入しました。2次の「皇花隊」は6機のうち4機突入しました。飛行機の老朽化っていうものは、あれです。優秀な飛行機ほど、最初に持ってってるわけですよね。だから我々の正気隊は、第1回の出撃の時は2機しか突入できませんでした。宇佐とか姫路の航空隊も同じ状況で、機体の劣化から離陸ができなかったり、不時着が多くなるようになりました。

 --------もう10年くらい前になるんですけど、私、串良基地に行ったことがあります。

 江名‥ああ!そうですか!

 --------長い一直線の道路があって、そこが昔の滑走路跡だと教えてもらいましたけど、今も当時とあまり変わらないという感じですか?

 江名‥そうですね。鹿屋は今、海上自衛隊の基地で滑走路はもちろん拡張しましたが、昔の基地の跡が残っています。第二国分は今の鹿児島空港ですけど面影は全くありません。串良の場合は、東西と南北の自動車道路が昔の滑走路です。私は毎年10月15日に串良の慰霊祭に行きますが、桜並木の道路に立ちますと当時のことを思い出します。

 --------近くにある地下通信室も入らせてもらいましたし、洞窟というか壕というか、そこにパイロットの人達が泊まっていたと聞いて、こんな所に寝泊りしていたんだなあと思って。

 江名‥結局、毎日のように空襲がありますでしょ。宿舎は危険で横穴に寝泊りするようになったんですね。私の時はまだね、夜間はあまり空襲なかったから、士官宿舎、ほんとバラックみたいな士官宿舎ですけど、そこに泊まっておりましたけどね。そこも、私が出撃した後、焼けてしまったようですけどね。爆撃で。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/2/26 8:54
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆第2回目の出撃(2)

 --------江名さんの飛行機がトラブルにみまわれたのは、しばらく飛行した後ですか?

 江名‥ええ。ちょうど半ば近くまでいったところでエンジンが息をつき始め、操縦員が「エンジン不調、どうするか」と叫んだので、私は「もうしばらく飛ぼう」と言いました。後席の電信員が記録をとっていましたが、八十番(800kg爆弾)を抱いた機はどんどん高度が落ちてきました。このまま行ったら海没するので、800kg爆弾を投下しました。安全高度は100kg・100mなんです。800kgですから800mの高度が必要でしたが、エンジン不調で高度がとれないんで、やむなく700mで落としました。爆風で持ち上げられましたけど、機体の損傷は幸いありませんでした。それで180度変針しましてね、帰投するため北へ向かったわけです。そしてようやく黒島まで辿り着くことができたわけです。

 --------最初から黒島を目指したんですか?
 
 江名‥ちょうど飛行ルートでしたからね。180度変針すれば黒島へたどり着くことは判っていました。黒鳥の上空を飛んでますからね。東の方に振れば、トカラ列島があるんですけど、目で確認してませんでしょう。だから、黒島、硫黄島、竹島とありますから、どこまで飛べるかということで北へ向かったわけですけど、機は黒島の上空で力尽き海上に不時着しました。

 --------不時着と言っても、そう筒単に上手くいくものではないのでしょうね。

 江名‥私の操縦員が特乙一期生で、あまり飛行時間はないんですけど操縦は上手でした。4月28日、800kgの爆弾を抱えたまま知覧にスムーズに着陸しましたからね。今回も、黒島の沖合い1千mのところに尻から着水しました。機体は1分くらい浮いていて、その間に3人は脱出しました。時化の海上に上手く不時着したんです。彼の腕は凄いなと思いましたね。

 --------3人とも無事に救助されたんですね?

 江名‥ええ、そうです。その時はですね、不時着する時には脱出のため、風防を留めて開けとくんです。それを私が指示しましてね。固く風防をロックしとけということで着水したんですけど、やはり操縦員の方はですね、操縦に専念したから、それを甘くしてたんでしょうね。ペタツと風防が閉まっちゃったんです、着水のショックで。

 電信員の方は電信機に顔をぶつけ、鼻血が出てるんですよね。顔が血だらけなんですよ。電信員は最後に電信を打たなきやなりませんし、暗号書を始末しなければいけませんでしょ。錘を付けて浮き上がらないようにする作業もありましたので、着水の時にまだ作業中だったんですね。電信機にぶつけまして血だらけなんです。

 それで、操縦席が閉まっているので、私はすぐ操縦席の上に跨りまして、操縦員は中から一所懸命、風防を開けようとしてました。幸いちょっとした隙間が開き、上と下からこじ開けて15センチくらい開いたんですよね。かなり大きな男なんですけど、そこから出てきましたからね(笑)上手く脱出できまして、浮いている時間は1分足らずなんですよ。それで3人は飛行機の翼の上に立って、イチ・ニ・サンで飛び込みました。1分間でそれができましたんでね。まだ私達、若かったんでしょうねぇ(笑)。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/2/25 7:24
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆第2回目の出撃(1)

 --------新しい機材をもらって再び出撃されるのは、いつ頃になるんですか?

 江名‥5月11日の菊水六号作戦。串良基地の私達は九三一空の指揮下にありました。本来は海上護衛の部隊ですが、そこに雷撃隊がおりまして、当時は夜間雷撃が主任務でした。機種は「天山」とか九七艦攻三号機でした。その部隊から九七艦攻一号機をもらい、5月11日に私が出撃したわけです。

 --------その5月11日の出撃の時も、やはり前日に発表されたのですか?

 江名‥前日です。5月11日は、百里原空の残存機は3機なんです。姫路空が3機で、宇佐空が1機。可動機は最後の7機なんです。

 --------また「正気隊」の名前が付けられて?

 江名‥5月4日が「第二正気隊」です。次の11日は3回目でしょ。だから「第三正気隊」です。残った3機と姫路空3機、宇佐空1機、計7機が11日の朝5時黎明に出撃しました。

 --------最初の出撃と2回目の出撃では、心境的に何か違ったことはなかったですか?

 江名‥やはり、再出撃が長引けば長引くほど辛いですね。心の苦悩が深まります。私の場合、2回目の方が苦しいですね。もう一度、気持ちの整理をしなきやいけませんしね。前の晩は、ほとんど寝られませんでしたものね。

 --------ペアだったお2人の方は?

 江名‥2人の下士官は宿舎が違いましたので分かりません。残った一緒の士官は3名でしたけどね。寝返りばかり打ってました。まんじりともしないで寝られなかったと思います。

 --------では、5月11日の出撃の様子を、お聞かせ願えればと思います。

 江名‥5月11日は九七艦攻特攻の最悪の日でした。後で知りましたが、7機飛び立ちましたが、百里原空の1機、私の戦友で操縦の小田切君が乗った飛行機1機だけが突っ込みました。後の6機は不時着。私は黒島の海上ですけど、種子島に2機不時着、他は離陸してすぐエンジン不調で戻ったということで、7機のうち1機しか戦果が上がらなかったんです。

 これも後で知りましたけど、その日をもって、九七艦攻特攻が解隊しました。もう九七艦攻特攻は作戦に使えないという判断を九三一空がしたんですね。4月の6日、12日あたりまでは稼働率も良かったんですけど、それ以後、非常に故障機が多発しまして、老朽機は特攻機に使えないという判断を五航艦もしたのだと思います。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/2/24 8:11
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆第1回目の出撃(2)


 --------特攻隊の名前は?

 江名‥「正気隊」です。その28日に突入した2機は「第一正気隊」という名前がつきました。

 --------エンジントラブルは操縦員から報告があったのですか?

 江名‥操縦席が見えますからね。伝声管で報告がありましたし、エンジン故陣は後席でもわかります。

 --------江名さんの命令で知覧に行くと。

 江名‥ええ。とっさの判断ですが、基地まで帰れないと思い、知覧へ緊急着陸したわけです。

 --------エンジントラブルの九七艦攻は、その後、どうなったんですか?

 江名‥翌日、整備員が機上作業練習機「白菊」に乗って知覧に来ました。そこで整備をして後日、串良へ持って帰ったと思います。その飛行機は特攻攻撃には使用できないということで、私は飛行機がなくなったわけです。で、おそらく、その飛行機は持って帰って、良い部品だけを他の飛行機に使ったんじゃないかと思いますけどね。

 --------知覧から「白菊」に乗って串良基地に戻られたのですか?

 江名‥ええ、「白菊」で串良に戻りました。

 --------報告した後は、また特攻待機に?

 江名‥海軍は陸軍と違って……陸軍には「振武寮」というようなものがありましたでしょ。なぜ、ああいう問題が起きましたかと言いますとね、菅原道大中将の六航軍は福岡にあって、知覧とか万世の特攻機の実情を把握できなかったのではないかと思いますね。

 海軍は字垣中将が鹿屋におりまして、串良、第一国分、第二国分、指宿、出水、笠之原など特攻基地がたくさんありますけど、実情を把握しておりました。優秀な整備関係の士官もおりまして、飛行機の故障は整備が全部チェックします。だから、原因がすぐ判る訳ですね。ですから、次の機会を待てという事で。

 多くの飛行機が不時着して帰って来ましても次の出撃まで待機という事で、陸軍のようなトラブルはありませんでした。私の場合も、知覧で飛行機を点検され、隊長から次の機会を待てと言われただけです。ただ、一度特攻になりますと、特攻から逃れることはできません。次の出撃までは待機ということですね。

 --------では、他の2人のペアも同じ状況で?

 江名‥替わらないです。

 --------その時出撃しなかった他の人達も一緒に待機するのですか?

 江名‥そうです。飛行機を失った私を除いた戦友は、次の菊水五号作戦で5月4日に全員、出撃してるんです。ただ5月4日の時も、結局2機しか突入しませんでした。後の2機はエンジン故障で戻って来たり、飛び立てませんでした。だんだん稼働率が悪くなってきているんですね。

 --------そうすると、2回3回と戻って来る方も多かったということですか?

 江名‥九七艦攻の場合、多いですね。私達の百里原だけでなく、その頃になりますと、姫路空も宇佐空も戻ってきたり、出撃できませんでした。それだけ特攻使用に耐える飛行機が少なくなってきたという事でしょうね。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/2/23 6:57
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆第1回目の出撃(1)

 --------11回目の出撃となった4月28日のことを教えてください。

 江名‥艦攻特攻というのは宇佐空と姫路空、それから百里原空の3隊で九七艦攻特攻隊が編成されたんですね。宇佐空と姫路空は五航艦で地元なんです。地元ですから、特攻隊員は串良にたむろしてたんです。その中から出撃の前日に指名されます。特攻隊員として指名されて串良に来て、串良で明日の特攻を指名されるわけですね。外様の百里原空の6機は次の作戦になると、全機出撃で必ず出される覚悟はしてるんですけど、宇佐空と姫路空の人達は前夜に決まるわけです。

 前夜、翌日の作戦会議があります。翌28日は薄暮攻撃で昼間に発進することになりました。宇佐空、姫路空、百里原空の順で、我々、百里原空はいちばん最後でした。それで、いよいよ宇佐空と姫路空が発進して、百里原空の番になったわけです。一蓮托生を誓った6機でしたが、飛び立とうとしたところ、1番機・故障、2番機・故障、3番機が飛び立ち、4番機・故障、5番機、6番機と。だから3番機と5番機、6番機だけが離陸できたんです。

 なぜ、そういうことになったかと言いますとね、初めて800kgの爆弾を着けたんですね。それで、エンジンをふかしましたが、百里原から長距離、串良まで飛んだ私達の老朽機は、飛行機の点火栓の汚れ、ピストンの磨耗、ガソリンタンク・油圧タンクの漏洩などがあったり、また電気系統が故障するとか、百里原空の九七艦攻の老朽化がそこで露呈されました。爆弾を積んで飛び立てないんです。

 私は6番機だったんです。3番機と5番機と6番機だけが28日に離陸できたわけです。3番機、5番機は先に行き、ほとんど単機飛行になりました。単機で開聞岳を過ぎましたら、エンジントラブルが起きました。油漏れ。パッキングがちょっと悪かったんでしょう。油溢れで操縦席が真っ黒になりましてね。800kg爆弾は800m以上ないと落とせないんですね。高度が低いと自爆します。やむを得ず爆弾を抱いたまま、最寄りの知覧の基地に不時着しました。知覧の飛行隊長から、だいぶ叱られましたけどね(笑)。爆弾積んで降りたもんですからね。だから28日は、百里原空は6機列線にいて3機しか飛び立てず、そのうち私1機が知覧に不時着して、2機しか突入できませんでした。私の機の操縦員は特乙一期の梅本満二飛曹、電信は甲13期の前田長明二飛曹でした。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/2/22 9:39
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 海軍航空特攻 江名武彦 氏
 
 ◆特攻基地・串良へ

  --------4月20日にいよいよ串良に移動されますね。当然、飛行機で移動されたわけですが、特にトラブルもなく無事に串良に着かれたのですか?

 江名‥ええ、そうです。朝、百里原を離陸しましてね。6機でまず編隊を組んで。まあ、100時間も乗ってないような操縦員、偵察員が乗っている訳でしょ。6機編隊を組んでそこでバンクを振って百里原基地を出ませんと、我々の練度が笑われますんでね。編隊だけはとにかく組もうということで編隊訓練もだいぶしましたので、うまく編隊を組めました。見送りの人の帽振れの中、バンクを振って串良基地に向かったわけです。

 --------串良までは、飛行機でどれくらい時間がかかったんですか?

 江名‥途中、名古屋航空隊に寄りまして、そこで四国・九州に空襲があるかどうか状況を確かめ、燃料を補給して、それから串良基地へたどり着きました。着いた時は夕方になっておりました。途中、東京の上空を通ったら、上から焼け野原が見えました。これは大変な事だと思いましたね。そうしましたら、今度は横浜でしょ。それから名古屋、大阪、神戸と、みんなその上空から見ますと焼け野原なんですね。いよいよ日本は追い詰められたなという思いに駆られましたよね。

 それで伊豆の山を越え、駿河湾の所に出たわけですけど、その日は雲が垂れ込めておりました。飛行機がガブるっていうんですか、揺れるんですね。伊豆半島を越えて雲上を飛んでいたら右手に富士山が見えたんです。富士山は大井海軍航空隊の時、訓練で毎日眺めておりました。その富士山を見て、厳かな気持ちで国のために殉ずる覚悟をしました。私の戦友で特攻隊で亡くなった、百里原から出た戦友が作った歌があるんです。当時、我々、学生は万葉集とか古今集とかいろいろ読んでいましたから、和歌を詠む者が多かったです。

 亡くなった戦友は、"伊豆の群山(むらやま)越え往けば、神かも山かも富士が迫れり″と詠みました。霊峰・富士山は、この国を守るには自分が犠牲になる事も止むを得ないという気持ちにさせました。名古屋へ着きまして、四国・九州の方面に今、空襲がないから大丈夫だということを確認して、それから串良に飛びましたけど、私はそれまで2時間以上飛んだことないんですよ。ほとんどの人もそうなんですよね。それが丸一日飛んだわけでしょ。それも編隊を組んでますからね。私は疲労困憊しましたね。串良基地は毎日の空襲で穴だらけで、第一線の殺気立った飛行場に降り立ったわけです。だから、いよいよ戦場に来たという思いがしましたね。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/2/21 8:33
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆神風特別攻撃隊「正気隊」編成(2)

 --------指名されてから出撃するまでは、1週間とか訓練期間が決められていたのですか?

 江名‥いや、それは、鹿児島にある字垣長官の五航艦に進出するまでです。宇垣さんのところで、いつ出せって命令が出るんですね。そんなに期間は長くないです。私の場合は、4月10日に指名されて、百里原から串良に行く4月20日までの10日間でした。

 --------特攻の訓練というと、具体的にどんなことをするのですか?

 江名‥それまでの通常訓練とさほど違わないんですけどね。航法は海上に出ましてね、自分でコースを決めてそのコースの中を飛んで、自分の航法の腕前を磨きます。例えば私の場合、水戸の大洗を基点にして、三角形に太平洋に出て帰ってくるわけですけれどね。なかなかドンピシャと大洗に着けないんです、チャート通りには。そうすると、操縦員がニヤツと笑って「だいぶ外れましたな」なんて言われちゃいましてね(笑)。
 また、爆弾を抱えて体当たりするわけですから、突っ込む訓練です。それから夜間出撃もありますから夜間の訓練です。これは非常に危険な飛行訓練です。全くやったことのない訓練でした。とにかく、その間は優先的に特攻機にガソリンをくれますからね。激しい猛訓練をさせられました。

 --------爆弾を積んで突っ込むのですか。

 江名‥ええ、艦攻特攻の場合、800kgの爆弾を積みます。爆弾を積んで訓練はしませんでした。800kgの爆弾は出撃する時、初めて積みました。

 --------それまでは、錘みたいなダミーを?

 江名‥何もつけません。つけないでやりました。

 --------百里原空では特攻指令が続いて、戦友が次々と特攻基地に出撃したのですか?

 江名‥私は4月10日に指名されたんですが、九七艦攻の第3次特攻なんです。それまでに1次、2次があったわけです。私達が百里原空に赴任して、1週間足らずで1次、それから4月の始めに2次、それで10日に3次ですね。3次で九七艦攻の五航艦作戦というか、沖縄作戦は終わりました。だから私達の3次が最後なんです、百里原空では。私の同期生2名が赴任して1週間足らずで1次に指名されました。その2人は4月12日に特攻戦死しました。

 --------見送るものも辛いものでしたか?

 江名‥そうですね。第1次の酒巻一夫君、川野博章君……。大井で私と同じ班だった川野君は明大のマンドリン部で音楽が好きでした。またアメリカ映画も詳しい男でした。彼は4月12日に串良から出撃して特攻戦死したんですけど。百里原から進発の日、彼は非常に朗らかな陽気な男で、自分の悲壮感っていうものを全然外に表さないで機上の人になりました。

 昭和7年のアメリカ映画に「ラ・モーナ」という歌があるんです。「ラ・モーナ~」 って始まる曲なんですけどね。その時、彼はその歌を口ずさみながら機上の人になりました。内心はやはり悩んでたはずなんですけどね。そういった心の中の葛藤を全然見せないで飛び立った彼のことが、今までも心に残っています。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/2/20 7:45
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆神風特別攻撃隊「正気隊」編成(1)

 --------大井から百里原に移る時は、もう特攻は決まっていたわけですか?

 江名‥ええ。もう特攻作戦でしか戦果を上げる事が難しいという判断が大本営にもありました。大井から我々50名が百里原海軍航空隊に昭和20年3月17日に赴任したんですけど、百里原を出る時にはもう特攻要員だということを我々も告げられておりましたし、百里原に赴任しましたら、百里空の司令から「お前達は特攻要員で来たんだぞ」と宣告されましたんでね。それなりの覚悟をさせられましたですね。

 --------赴任されるまで、特に悩んだとか動揺したということはなかったですか?

 江名‥そうですね……。

 --------同期の方と一緒に、そのことについて話したとか?

 江名‥選ばれた者はね、誇りっていうものがあるんですね。それで、選ばれたくないという気持ちもある訳ですよね。しかし、もう選ばれたということで、やはりそれは自分で割り切ると、内心の苦悩を選ばれた誇りで克服しました。選ばれなかった者は我々は後から行きますと。

 --------全員が特攻基地に送られた訳でなくて、まだ残った方もいらっしゃったのですね。

 江名‥ええ。第一陣は3割くらい出た訳ですかね。

 --------江名さんは、第一陣。

 江名‥はい。それで、二陣・三陣とどんどん出て行きました。第1次特攻要員に洩れた14期生も、1カ月後にはほとんどの者が各地の特攻基地に転出していきました。

 --------江名さんが特攻基地に行ったのは昭和20年の何月でしたか?

 江名‥私は4月20日に百里原から串良へ参りました。

 --------自分が出撃する番になると、気持ちも変わったりするものですか?

 江名‥気持ちが変わるっていいますかね。もちろん、個人で色々違うでしょうが。4月10日に飛行作業から飛行場へ戻ってくると、指揮所っていう所がありまして、そこへ必ず指揮官がいますから、行く時も戻ってきた時も報告するわけです。そこにボード、黒板があるんです。その日の飛行作業の順番なんかが書いてありまして、飛行作業が終わりますと、そこへ行って自分で消すんです、飛行作業が終わった後に。

 そのボードに第3次の特攻隊の編成表が書いてあったんですよ。それで私の戦友に「君の名前が載っているぞ、おめでとう」って言われました。私は、血の気の引く思いがしましたね。やはり本能的なものがね、その瞬間に出てくるんですね。生に対する本能を抑えるのが……人によって色々あると思いますけど、私は苦労しました。

 --------特攻隊への指名というのは、突然のような形で発表されるんですか?

 江名‥ええ、私たち九七艦攻「正気隊」の場合はそうでした。

 --------そのボードに一緒に出撃するペアの名前もあるわけですね?

 江名‥そうです。それでペアが初めて組まれました。翌日から特攻訓練を始めるわけです。

 --------特攻隊で出撃するペアというのは特別と言ったら変ですけども、顔合わせした時にはやはり、どんな人なんだろうと。

 江名‥そうですね(笑)。普通の実施部隊でしたらそういうペアは、かなり長期間一緒に乗ってるわけですね。だから人間関係ができるわけです。我々は短時間で人間関係を作らなければいけませんから、意思疎通を急ぎました。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/2/19 9:15
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆余暇にアメリカ映画を観る(3)

 --------部下になったのは予科練出身の方たちですが、江名さんは予備学生出身ということで、その違いを感じられたことはありますか?

 江名‥潔いですよ、予科練の人達は!中学3、4年生で海軍に入ってきます。
 あるいは昔の高等小学校から入ってきてますでしょ。酷いしごきに耐えて軍人精神が入っておりました。私達はね、こんな若いみそらで可哀想だと思っていましたけど、逆に私の方が気を緩めてると「分隊士、頑張りましょうー」と、背中を押される位でした。勇ましいんです。潔いです。我々は「娑婆っ気」がありますからね。やっぱり未練は沢山ありました。彼らは青春を味わっていないんですよ。青春を味わった人間と味わわない人間は潔さが違うと思いました。

 --------そういう純粋さに押されて、勇気づけられたことも?

 江名‥そうです、そうなんですよ(笑)。私なんかやっぱり特攻を指名された時、顔が引き攣っておりました。

 --------江名さんの階級なんですが、航空隊では士官として扱われたのですか?

 江名‥そうですね。予備士官っていうのは海兵の候補生の下なんです。それで兵隊から上がってきた兵曹長の上。そういうステイタスです。まあ、士官としての待遇は受けている訳です。

 --------当時の戦記に、兵隊から叩き上げの下士官や士官達に虐められたというか、厳しく当たられたと書かれたものがありますが?
         
 江名‥そういう方は「特務士官」と言います。特務士官にひがまれた、ということですか?

 --------そうです。

 江名‥それよりもね、やはり海兵の人達に虐められたですね。江田島で3年かかって猛訓練を受けた本職から見て、たった3カ月ですぐに士官になるわけでしょ。ですからね、海軍精神が入ってないと、かなり徹底的に痛め付けられましたね。私はあまりね、そういう恨み辛みはないんですけど、13期、14期予備学生の中には今でも海兵を「嫌だー」っていう男がおります。

 --------出撃して敵艦を発見したら、空母なら空母と見定める必要があると思うのですが、敵艦を発見する訓練は、特別にされたのですか?

 江名‥それはね、今だったらちょっとお笑いでございますけどね。艦の模型を作りまして、それで遠くから見させましてね、戦艦だとかね、空母とか駆逐艦とかを当てるわけですよ。その点は粗末な訓練です(笑)。私は敵艦まで行き着かなかったから分かりませんけど、ピケットラインってあるんです。

 沖縄周辺に駆逐艦がピケットラインを張ってですね、戦艦や空母がいる所に寄せ付けないように、そこで食い止めるために駆逐艦を配置しているんです。それを見て「戦艦発見」というような電信が打たれることもあったようです。初めて実際の艦を見て、駆逐艦が戦艦に見えたり、巡洋艦に見えるっていうのは、私は当然だと思います。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/2/16 8:01
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆余暇にアメリカ映画を観る(2)

 --------九七艦攻の場合、3人搭乗されますが、特攻で出撃するのなら全員ではなく、2人か1人が乗って出撃してもいいのではないかと思うことがあるのですが、江名さんは、どうお考えですか?

 江名‥昭和20年4月10日に、私たちの「正気隊」が編成されました。全部で6機18名ですけど、その中に同期生が6名いたんですよ。それに13期が1人、これは隊長ですけどね。同期生が6名もいたので心強かったし、私の場合はそれで救われましたね。その時、仲間同士の会話でね、後席に乗る電信員のことを話しました。彼らは17歳、18歳なんですよ。予科練の甲の13期、乙の18期ですね。いちばん若いんです。飛行時間は我々と同じ位です。本当に可愛らしい少年なんですよ。どうして海軍は、この子達を殺さなきやいけないのか。電信員を連れて行かなくてもいいじゃないかと語り合いました。

 でも、艦攻の電信員の役割というのはとても重要なんです。九九艦爆でも後席の電信員が乗ってない機があるんですけど、九七艦攻は出撃の時、3人乗るんです。それはね、自分の機の最期を電信で基地に知らせるためなんです。自分の戦果は自分の機が打電するんです。もう、護衛戦闘機がつかないんですよ。それ程、日本軍は追い詰められてもう負け戦なんですね。だから、電信員が乗ってる飛行機だけは、自分の飛行機の、自分の戦果を送れるわけです。だけど、九九艦爆の特攻機になりますとね、大半が隊長機だけに電信員が乗って、列機の2機は操縦員だけで電信員が乗っていないんです。その方を評価する人もいるんですね。もう必要ないんじゃないかと。

 ただね、電信員っていうのは、九九艦爆の場合、ナヴィゲーターも兼ねているんですね。だから、隊長機が落とされると目的地に行けなくなる。九九艦爆の場合、後席の搭乗員はナヴイゲーターと通信、両方やる訳ですよ。艦攻の場合は、真ん中の者がナヴイゲーター、後席が電信です。だから、自分の飛行機が敵機に襲撃されたら襲撃されたという電報を打ちますし、突入する時は、何の艦に突入すると電信を打ちます。実際に、そのとおりの戦果が上がったかどうかは別として、最期の電信が基地に入るわけですね。だから、3人乗せるということは、それだけの戦果を伝えることができるというメリットがあるわけですね。戦闘機には最初から電信員なんかいないでしょ。だから、その飛行機の戦果が判りませんし、九九艦爆の場合でも、隊長機が落とされちゃいますと、もう、隊長機以外は電信を打てないわけです。だから、可哀想と思いましたけど、やっぱり電信員が来るということは、それだけのメリットがあるということです。それに機銃も電信員が撃ちますからね。七・七mmの機銃で応戦しますから。

 --------操縦員、偵察員、電信員の中でいちばん偉いというか、機長はどなたがなるのですか?

 江名‥それはね、ペア編成の時に最先任の者が機長になるんです。ですから、私より先任の者が操縦すれば、操縦が指揮官になります。ただ、ナヴイゲーターは私ですからね。その場合でも私が色々指示する訳ですけども、機長というのは最先任の者がなります。

 それで、面白いんですよ。我々、2000名いますでしょ、14期予備学生が。全員ナンバーが付いているんです。成績のナンバーですね。どうやって付けたか知りませんけどね。1番でも上の者は機長なんです。海兵でもその先任順がありますから、先任の者がやはり海軍省とか軍令部に行きまして、そうでない者が実戦部隊に行くという傾向がありました。成績の良い者が必ずしも優秀だったかどうかは、戦後、軍令部とか海軍省がいろいろ批判されていますけどね。海兵のハンモック・ナンバーが海軍を滅ぼしたと極論する者もいます。でも実際、成績の優秀なのが、みんな大本営に行っていますからね。海軍は、そういう先任を決めるルールがありました。

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