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[No.103] がれきの中で本当にあったこと 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/14(Tue) 06:54
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産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

村長の信念が村を守った

東日本大震災による津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸で
岩手県普代(ふだい)村は死者ゼロ、行方不明者1名にとどまった。

被害を食い止めたのは、かつて猛反対を受けながらも
和村幸得村長が造った高さ15.5メートルの防潮堤と水門
そして震災当日の消防士の献身的な行動だった。

普代村は明治29年と昭和8年の三陸沖地震による大津波で
計439人の犠牲者を出している。

防潮堤と水門の工事費は約36億円。
人口約3千人の村には巨額の費用で、15メートルを超える高さの必要性が
疑問視されたが、和村村長は「明治29年の大津波は高さ15メートルあった」
という言い伝えに基づき譲らなかった。


丈夫すぎる防潮堤や耐震構造物にお金をかけすぎると
反対する会計検査院も、経済だけ考えて防災をおろそかにする点では
原発事故を起こした電力会社と、どこか通じる点がある。

せっかく防潮堤や水門があったのに、錆びていたり、電源が働かず
そのとき閉まらなくて、役に立たなかった地域もありました。
 毎年防災訓練で確認しておかなくては。


[No.121] Re: がれきの中で本当にあったこと 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/16(Thu) 09:48
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Re: がれきの中で本当にあったこと
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> 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

日本一の防潮堤、無残

過去の津波被害を教訓に、高さ10メートルの防潮堤が整備された岩手県宮古市田老地区。
しかし、東日本大震災では、大きな津波が防潮堤をあっさり越えた。
市によると、防潮堤を信じた結果、犠牲になった住民は少なくないという。

田老地区は津波被害で有名
明治29年6月の明治三陸地震の津波で1859人
昭和8年の昭和三陸地震の津波では911人の死者・行方不明者が出た。

これらの津波被害を教訓に、防潮堤工事が始まり
最終的には昭和53年に完成。
海側と陸側の二重構造で、高さ10メートル、総延長約2.4キロと
国内屈指の規模となった。

この間、昭和35年のチリ地震の津波では
ほかの三陸沿岸地域で犠牲者がでたが、田老地区ではゼロ。
「日本一の防潮堤」として、国内外の研究者が視察に訪れ注目を集めた。

しかし、東日本大震災の大津波はいとも簡単に越えてしまった。
「高さ20メートル以上」ともいわれる津波が次々と押し寄せ
海側の500メートルの防潮堤は崩壊し、真っ黒な濁流が田老地区を一気に飲み込んだ。


[No.123] Re: がれきの中で本当にあったこと 投稿者:旭岳  投稿日:2013/05/16(Thu) 20:24
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男爵さん こんばんは

やはりこの世には人智の及ばない事があると、謙虚に自然と向き合わなければ
ならにと言う事でしょうね。

どう折り合うかは難しい所ですが。


[No.124] Re: がれきの中で本当にあったこと 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/17(Fri) 16:37
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旭岳さん 

> やはりこの世には人智の及ばない事があると、謙虚に自然と向き合わなければ
> ならにと言う事でしょうね。

地震や津波はどんどん記録が書きかえられますから
その都度、人間も進歩して対応していくのがいいと思います。

さてまた紹介します。


命救った先人の教訓

宮城県石巻市雄勝町の水浜集落は
約130戸の集落がほぼ壊滅したが、住民は380人中
死者1人、行方不明者8人で全体の2%ほどだった。
背景には、地域で受け継がれてきた知恵や防災意識の高さがあった。

地区では、毎年高台に上る訓練を実施している。
地区会長の^頭さんは「水浜のもんは、高台までの一番近い道を体で覚えている」
という。
「貴重品やアルバムはすぐに持ち出せるよう、リュックサックにまとめている」
と話す住民もいた。

集落には1人暮らしのお年寄りも多かったが
伊藤さんは「どこの家に誰がいるか、頭に入っている」。
自身も独居高齢者を家から連れ出し、背中を押して高台を目指した。

集落は石巻市中心部から30キロ以上離れ、当初、道路はがれきや土砂で寸断された。
4日間は完全に隔離されたが、全く慌てなかったという。

もともと市内から離れたこの地域は米や缶詰などの保存食を備蓄する習慣があり
水が引いてから被害に遭わなかった家に備蓄されていた食料を全員で分け合っていた。

さらにガソリンを節約するため、集落中の燃料をまとめて1台の車だけを使用
数日たってから1本だけ通った道を使って買い出しや、親類などへの連絡を効率的に行った。

高台の避難所では約120人が共同生活をおくっていた。


[No.125] 被災地に生きる 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/18(Sat) 12:04
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> 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

看護師の夢、母に残した合格証書

宮城県東松島市野蒜で津波に遭い亡くなった22歳の志保さんは
2月の看護師国家試験に合格していた。

彼女の母親も看護師で、市内の病院で看護部長を務めていた。

祭壇には三人の遺影が並んでいた。
津波は志保さんだけではなく、夫も長男の命も奪った。
自宅が流されてしまったため、遺影は携帯電話に残った画像を使った。

震災から5日後に廃墟と化した野蒜駅付近で志保さんが見つかり
まもなく、そこから数十メートル離れた場所で水没した車中から
夫と長男が寄り添うように倒れているのが発見された。

「志保が生きた証がほしい」という母の願いに
亡くなった人には交付されない免許状は
事情を知った国会議員らによって国会で取り上げられ、厚生労働省も動いた。

特別に、母親に合格証書が手渡された。


[No.126] Re: 被災地に生きる 投稿者:旭岳  投稿日:2013/05/18(Sat) 20:17
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男爵さん こんばんは
多くの方が犠牲になったと言う事は又、残された方も多いと言う事ですね。

「被災地に生きる」の見出しの通り、残された方々に幸多かれとお祈りする
ばかりです。


[No.127] Re: 被災地に生きる 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/19(Sun) 18:12
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旭岳さん こんにちは

> 「被災地に生きる」の見出しの通り、残された方々に幸多かれとお祈りする
> ばかりです。

それでは次の話です。

生命の息吹「海を愛する子に」と命名

石巻の病院で4月3日に生まれた長男に
会社員の克弥さんは
母と自宅を津波で失ったが
わが子の名は海にちなんだ名前の浬(かいり)とした。
「困難を乗り越え、海を愛する子になってほしい」

地震の揺れがおさまると、克弥さんは勤務先から牡鹿半島の石巻市小渕浜の自宅に
電話したが、すでに妊婦の妻は近所の自動車修理工場に避難していた。

東松島市内の簡易郵便局で働く母にも連絡して
「津波が来るから逃げろ」と呼びかけると、母はほかの家族の無事を確認するよう求めて電話を切った。

しかし、夜になっても母は帰ってこなかった。
不安になって車で探しに行ったが道路は寸断されていて、その日は泣く泣くあきらめた。

高台にあった自動車修理工場では約200人の被災者が集まり、出産間近の克弥さんの妻には炊き出しの食事を優先して分けてくれた。
石油ストーブもそばに置いてくれた。「身内が見つからない人も私のことを気遣ってくれた」と彼女は語る。

予定日は3月20日で、4月1日に陣痛が始まり、石巻市内の病院に入院した。

生まれた子どもの名前はすでに決めていた。
克弥さんの母もその名前を気に入ってくれていた。ベビー用品も買いそろえて心待ちにしていた母は行方不明である。勤務先も跡形なく流されていた。


[No.128] Re: 被災地に生きる 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/20(Mon) 17:30
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旭岳さん こんにちは

> > 「被災地に生きる」の見出しの通り、残された方々に幸多かれとお祈りする
> > ばかりです。

採用で復興誓う被災地の会社


被災地の水産加工会社は再開のめども立たずに、高校生の内定取り消しが相次いだ。

そんな中で、壊滅的被害を受けた宮城県南三陸町でいちはやく操業をこぎつけた海苔加工の会社「渡辺海苔店」がある。

高台に立つ同社は無事だった。しかし、従業員の自宅は波にのまれた。
「海苔は放置するとしけってダメになる。責任感から、みな保管作業をしていて家に戻らなかったから、命が助かった」と工場長が言う。

従業員は各避難所にちりぢりとなったが「避難所でじっしているより、仕事がしたい。何かに集中したい」という声が上がり
何かのときのために原料の海苔一年半分を冷凍保管していたので、自家発電用燃料の供給を申し出る業者も現れた。

被災地のおにぎり需要から海苔不足が起きていて、スーパーやコンビニのおにぎり用の注文について全国の取引先から再開の打診があった。

「町の復興の明かりをつけたい」と会社は震災から二週間後に操業を再開した。

しかし、パートの半数は仕事に出られず、稼働率は通常の五割。

そこで地元の志津川高校に相談して、(他の会社の)内定取り消し者の採用に乗り出した。

この本には同校の男女一名ずつが地元の会社に内定していたのに、津波で内定取り消しにあって困っていたのを、地元の「渡辺海苔店」で働くことができたことを書いている。゜


[No.129] Re: 被災地に生きる 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/20(Mon) 19:45
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旭岳さん こんにちは

> > > 「被災地に生きる」の見出しの通り、残された方々に幸多かれとお祈りする
> > > ばかりです。

犠牲の英語教師、父が受け継ぐ日米の絆

米国人ではじめて死亡が確認された女性英語教師テーラー・アンダーソンさん

宮城県石巻市市内の小学校で授業を終えたとき地震が起きた。
大津波警報を受け、自宅のあった門脇町に向かう途中で津波に巻き込まれたとみられる。

震災翌日は中学校の卒業式が行われるはずだった。
教頭は「テーラーさんは、休日なのに式に出席すると言っていた。思いやりが伝わってくる先生だった」と声を震わせる。

米国の大学で日本文学を専攻し、2008年に来日した。
石巻市の小中学校で外国人指導助手として3月まで教鞭を執り
8月に帰国する予定だった。

テーラーさんの父は、悲しみを乗り越え、遺志を継ごうと
3月23日、米国で復興支援基金を創設し
約10日間で5万ドル(約420万円)が集まり
学校再建などに使われるという。

教頭は「交流が終わってしまうと思っていたが、テーラーさんの思いがつながった」と感慨深そうに語った。


門脇町は小高い日和山のふもとです。海や北上川河口の近く。
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E141.18.27.310N38.25.1.350


[No.130] Re: 被災地に生きる 投稿者:旭岳  投稿日:2013/05/20(Mon) 20:48
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男爵さん こんばんは

異国の災害で子供を亡くした親御さんの心を思うと、言葉も有りません。

娘さんが亡くなった災害からの復興の為に義援金をつのる親の思い、
もし自分の子供だったらどうしただろうと思うと、切ないです。


[No.131] プロの誇り 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/21(Tue) 17:43
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> 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

津波に向かい、命捧げた駐在さん

東日本大震災による警察官の死者・行方不明者は宮城県で13人、岩手県で11人、福島県で5人、東北管区警察局で1人の計30人(5月11日現在)が確認されている。

その多くは、住民から親しまれ被災者らの命を守るため自らの危険を顧みずに飛び出し犠牲となった。

「大谷駐在所史上、最高の駐在さん」
宮城県警気仙沼署大谷駐在所の千田浩二巡査部長(30)の地域での評判だ。

平成22年11月、神社の行事で警備についていたとき、お清めして海に入る住民に交じって自らも海に入った。地域の人たちにとっても、予期せぬ行動だった。

大谷に来て始めた釣りに没頭し「老後は大谷に家を買って住みたい」と笑顔で話していたという。

地震発生直後、千田さんは海岸近くに人がいるのを発見した。
ためらうことなくパトカーを走らせた。
「海岸に行く」窓越しに同僚にジェスチャーで伝えたのが最後の姿になった。

千田さんの同僚はパトロールの途中、海から巨大な津波が押し寄せてくるのに気づき
高台の方向に逃げたが、千田さんのパトカーがのまれ、海に流されていくのが目に映った。

22年4月、一緒に駐在所へ居を移した妻(30)と長女(4)と長男(3)は無事だったが、大津波で駐在所の半分がえぐりとられるように損壊した。


宮城県警岩沼署生活安全課の早坂秀文警部補(55)も地震の日、同僚数人と一時
約1200人が孤立した仙台空港近くの沿岸部へ避難誘導に向かい、音信不通となった。

遺体が発見されたのは、3日後の14日午後4時ごろ。海岸から1キロほど離れた民家の敷地内に倒れていた。
ほかの同僚と、乗っていた車両はまだ見つかっていない。

2人の孫のおじいちゃんでもあった。仙台市内の自宅の隣に30平方メートルほどの土地を買って小さな公園を作った。
その芝生で、表情を崩して小学生の孫とキャッチボールに興じるのを、近所の人はよく見ていた。


[No.132] Re: プロの誇り 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/21(Tue) 19:13
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> > 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

山岳用ランプで診察する開業医

家と病院を失った医師たちは自らも被災者でありながら
聴診器が入った往診用カバン、縫合セットなどの器具を包んだシーツを背負い
避難所に駆けつけた。

体調不良で苦しむ避難者たちのために、避難所に診察スペースを作り、治療に力をつくしている。

「先生、熱っぽいです」「そりゃ大変だ。風邪かな?体温を測ってみよう」
約400人が避難する岩手県大槌町の高台にある弓道場、薄暗い場内で医師の植田俊郎さん(56)は山岳用のヘッドランプを点灯させながら被災者と向き合っていた。

海岸沿いにある植田医院と自宅が入る4階建ての建物は3階までのまれ
植田さんは家族や看護師ら18人と屋上に避難。
とっさに聴診器と血圧計が入った往診用カバンと自動体外式除細動器(AED)を手に取った。
「これがないと患者さんを守れない」

地震翌日にヘリコプターで救出されて以来、着の身着のままで弓道場に寝泊まりし、診療を続ける。
医薬品は救援物資で届きはじめたが、患者たちのデータが入ったパソコンは海水に浸り、被災者たちは薬の手帳を失った。
極めて厳しい医療環境だが、「この土地で生きていく。やるしかない」


隣接する山田町の堤防近くにある近藤医院の医師、近藤晃弘さん(51)は地震直後、医院2階の窓ガラス越しに堤防の様子を見ていた。
ぶ厚い堤防が「ズン」という地響きとともに2メートルぐらい津波に押し込まれ、海水が町になだれ込んだ。
看護師ら約20人と3階に逃げた。

医院と自宅は壊滅状態。近藤さんはけが人が多数出ていると考え、3階の手術室にあった添え木、縫合セット、ハサミ、ピンセットをシーツに包み、がれきの中を持ち運んだ。

避難所の山田南小学校で、地元の医師2人とともに診療を開始。
地震直後はがれきで体を負傷した患者が多かったが、「レントゲンが撮れないため、触診で腫れ具合を確認しながら打撲か骨折かを見極めた」

近くの薬局の人たちが泥をかぶりながらも、無事だった医薬品を持って駆けつけてくれた。
みんなで手分けして、かじかむ手で泥を洗い落とした。
「これがあったから、救援物資が届くまでの数日間を絶えることができた」と感謝する。


[No.133] Re: プロの誇り 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/21(Tue) 20:43
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> > > 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

日本の「救世主」ハイパーレスキュー隊


見えない「敵」との戦いだった。
福島第1原発事故で3月19日未明の放水活動を行った東京消防庁ハイパーレスキュー隊。
廃墟と化した原発内で被曝しながら、ホースを手作業で広げる決死の作業だった。
隊長らは「無事にミッションは達成した」と胸を張る一方、「隊員の家族には心配をかけた」と涙で言葉を詰まらせた。

ハイパーレスキュー隊の冨岡豊彦総括隊長(47)が、福島第1原発に最初に足を踏み入れたのは18日午後5時ごろ。
まず、特殊災害対策車でどのように安全にミッションをこなせるかを探った。

当初の東京電力側からの情報では、水をくみ上げる海側までは車で近づけるはずだったが、原発内はがれきで埋まり、進入はすぐに阻まれた。

「ホースを手で広げるしかない」午後7時半から始まった作業会議。がれきを避け、海から放水車までホースを延ばすには被曝の危険が増す車外で作業を行うしかないという結論に達するまでに4時間かかった。

海水を1分間に約3トン送り出すホースは太くて重い。ホースの重さは50メートルで約100キロ、それをロープで引っ張り4人がかりで運ぶ。
敷設は約350メートルで、足場は悪く、危険な作業だった。作戦の決行は高山幸夫総括隊長(54)ら約40人の隊員に委ねられた。

佐藤康雄警防部長は「危険度を熟知する隊員の恐怖心は計り知れないが、拒否する者はいなかった」。
だが、防護服の着用に普段の3倍以上の時間がかかるなど、緊張の色を隠せなかったという。

約20人が車外に出ての作業。車外作業者には、放射線量を測る隊員から危険度を知らせる声がかかった。

「常にそばでパックアップしてくれる仲間がいたからこそ達成できた」と高山隊長。
作業は約15分で完了し、屈折放水塔車は白煙を上げる3号機に向けて、19日午前0時半、放水を開始。20分で約60トンを放水した。


[No.136] Re: プロの誇り 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/22(Wed) 08:18
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> > > > 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

仲間のために行く 原発作業員

ズドン、重い爆発音が響き渡った。
3月14日午前11時1分、東日本大震災で被災した東京電力福島第1原発3号機が水素爆発を起こし、原子炉建屋の上部が吹き飛んだ。
東電の下請け業務を行う協力会社のベテラン社員Nさん(47)は、隣の2号機で電源復旧作業に当たっていた。

外へ出ると3号機は鉄の骨組みがむき出しになり、コンクリートのがれきが散乱していた。灰色の煙がもうもうと青空へ立ち上っていた。

「もうだめだ...」、
仲間の声が聞こえた。Nさんは「放射能をくらうぞ。避難するんだ」と声を上げ、防護服のまま、がれきの上を走った。
乗ってきた車3台は爆風で窓が割れていて使えず、作業基地となっている免震重要棟まで1キロ近くある。最後は息切れして歩いてたどりついた。

全員の無事を確認し、同僚4人ほどと喫煙室で「もし外にいたらかなりの線量をくらっていた」と話し合った。仲間を見ると、たばこを持つ手が震えていた。

Nさんは11日の震災発生時、第1原発の事務所3階にいた。東電の要請に応え、同僚十数人とそのまま原発に残った。
「被曝の危険性があることはわかっていたが、復旧作業には原発で18年間働いてきた俺たちのような者が役に立つ。そう覚悟を決めた」

4日間働き続け、水素爆発に遭遇した翌日にあたる15日朝、東電の緊急待避命令により避難した。

東電によると、第1原発では連日300人程度が働き、うち50人ほどが協力会社の社員だ。
1日の食事は非常食2食、毛布1枚にくるまり雑魚寝という過酷な環境で作業を続ける彼らの大半は地元の住民である。

Nさんは「会社は『すぐ来てくれ』など命令的なことは決して口にしない。ただ『覚悟が決まったら来てほしい』と言う。自己責任を求められる」と話す。

3号機の発電用タービン建屋地下で3月24日に放射性物質(放射能)に汚染された水で被曝した作業員3人もNさんの部下だった
東電社員の中には5日間で年間被曝線量の上限の50年分を浴びた人もいた。

そしてNさんは、ふたたび第1原発へ戻った。
「消防や自衛隊の方は公務だから、われわれ会社員とは使命感の持ちようも異なるかもしれない。同僚たちは今も原発で働いている。少ない人数で頑張っている。
むろん、行かなくても誰も責めないだろうが、自分がよしとはできない。仲間のために自分は行く」


[No.137] Re: プロの誇り 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/22(Wed) 09:17
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> > > > > 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

黙して任務全う 自衛隊員

東日本大震災での自衛隊による被災者支援活動は「最後の砦」である。
隊員はその重みを感じながら黙々と働くが、肉体的、精神的疲労は日ごとに増す。
身内に犠牲が出てもわが身を顧みず、被災地にとどまる隊員も多い。

実績を声高に誇ることもなく、黙して語らぬ隊員の思いと労苦を隊員同士のメールから検証した。
「海には数メートルおきにご遺体が浮いている」
「幼い亡骸を目にすると、わが子とダブってたまらない」

地震に津波の被害が重なった大震災。遺体収容も自衛隊の重要な任務のひとつだ。
日常的に遺体を扱う警察官と違い、慣れているわけではない。とりわけ、海に流された遺体と対面するのはつらい作業だという。
「流木にはさまれ、両手をあげていた。最後まで救助を信じていたように...」

凄惨な現場は、隊員の心を消耗させ、無力感さえ抱かせかねない。
そのために陸上自衛隊はメンタルヘルスを重視し、夜ごと隊員を10人ほどの班に分け車座になって一日を振り返る時間をつくった。
陸上自衛隊員は「仲間と苦しみ、痛みを共有できれば気力がわいてくる」と打ち明ける。

「自宅が全壊、家族も行方不明という隊員が普通に働いている。かけてあげる言葉がみつからない」
身内に被害が出た隊員も支援を続ける。

「被災地に来て12日目。風呂はまだ1回しか入れていない」「毎日、乾パンや缶メシと水だけ」
炊き出して温かい汁ものの食事を被災者に提供しても、隊員が口にするのは冷たいものばかり。

22カ所で入浴支援も行っているが、汗と泥にまみれた隊員は入浴もままならない。
「わが身は顧みず、何ごとも被災者第一」の方針を貫く。

兵たんや偵察といった自衛隊ならではのノウハウを生かし、役割も増している。
集積所によっては滞りがちだった物資輸送の効率化に向けて、自治体や運送会社を束ねるシステムを立ち上げた。
孤立地域のニーズをきめ細かく把握する「御用聞き任務」も始めた。
「被災者の心細さを考えたら...。 がんばる」

東京電力福島第1原発で17日からの放水活動の口火を切ったのも自衛隊だった。

ある隊員からはこんなメールが届いた。
「自衛隊にしかできないなら、危険を冒してでも黙々とやる」
「国民を守る最後の砦。それが、われわれの思いだ」

今日も自衛隊員は被災者のそばにいる。


[No.151] Re: プロの誇り 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/24(Fri) 10:49
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> > > > > > 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

被災に負けず放送「ラジオ石巻」

東日本大震災で深刻な被害を受けた宮城県石巻市で、「ラジオ石巻」の愛称で親しまれる地元のFM局「石巻コミュニティ放送」が、震災に屈することなく被災者向けの放送を続けている。
会社が被災して放送は一時中断したが、市役所の一角を間借りする形で再開。スタッフは「情報を伝えることは私たちの使命」と今日もマイクに向かい、被災地に貴重な情報を届けている。

石巻市役所4階の秘書広報課、奥のスペースにスタジオが設けられている。
スタッフ6人で分担し、午前9時から午後6時まで、被災者の安否やライフラインの復旧状況など、現地で最も必要とされている身近な情報を発信している。

「おじいちゃん、放送を聞いたら連絡ください」といったリスナーからのメッセージも繰り返し放送。
避難所ですごす人の名簿を読み上げ、避難所を移れば、その情報も加えて流す。

「むすぶ・つなぐ・地域の輪」をスローガンとした同局は平成9年5月に放送開始。
石巻市と東松島市の約6万世帯を放送エリアに、市民参加型の地域FM局として親しまれている。

震災当日の3月11日も、できる限りの情報を流し続けたが、午後7時半ごろ、会社から電波塔に電波を送れなくなり、放送が突然中断された。
だが、市との防災協定に基づき、2日後には市役内にスタジオを設置、放送再開にこぎつけた。

「地震直後は、津波から逃げるようにと、繰り返し流し続けた」アナウンサーの高蜂幸枝さん(35)が振り返る。
想像以上の威力を持った津波が町を襲ってからは、リスナーからのSOSメールが殺到。
「家の屋根にいます。助けて」などのメールが数百件届いたという。


[No.157] 自衛隊のヘリ放水 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/25(Sat) 14:55
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船橋 洋一・著
 カウントダウン・メルトダウン 上巻 (2012.12)

> 日本の「救世主」ハイパーレスキュー隊

> 見えない「敵」との戦いだった。
> 福島第1原発事故で3月19日未明の放水活動を行った東京消防庁ハイパーレスキュー隊。
> 廃墟と化した原発内で被曝しながら、ホースを手作業で広げる決死の作業だった。

> 海水を1分間に約3トン送り出すホースは太くて重い。ホースの重さは50メートルで約100キロ、それをロープで引っ張り4人がかりで運ぶ。
> 敷設は約350メートルで、足場は悪く、危険な作業だった。

> 約20人が車外に出ての作業。車外作業者には、放射線量を測る隊員から危険度を知らせる声がかかった。

> 作業は約15分で完了し、屈折放水塔車は白煙を上げる3号機に向けて、19日午前0時半、放水を開始。20分で約60トンを放水した。

このハイパーレスキュー隊の放水作業の前に
まず自衛隊によるヘリコプターからの放水は
17日午前10時1分までに合計4回、約30トンが投下された。

その成功は、株価を反転させる効果をもった。
前日の16日までは、東京証券取引所(東証)は、地震以降3日連続して全面安が続いた。
15日の東証の終値は、前日比1015円安。大阪証券取引所(大証)で、日経平均先物は2年ぶりに8000円の大台を一時割り込んだ。

それが17日、自衛隊の放水後、先物が買い戻され、18日に日経平均株価は9200円台を回復した。

北澤は自衛隊の放水作業の成功を喜んだが、ワシントンは複雑な受け止め方をした。

米政府は、管政権が震災後6日も経っているのに、福島第一原発事故の収拾のために自衛隊を投入せず、東京電力に対応をゆだねていることに強いいらだちを感じていた。

したがって、自衛隊の空からの放水作戦は、日本政府がようやく一丸となって原子力災害危機に取り組むことを示した点で好ましかった。

ただ、その作戦自体については、それがはたしてどれほど効果があるのか、疑っていたし、どれほど持続的な効果を持ちうるのかについてはもっと疑っていた。

「大津波襲来による電源喪失から1週間が経過したその日、日本という大きな国家がなし得ることがヘリ一機による放水に過ぎなかったことに米政府は絶望的な気分さえ味わったのです。しかも、自衛隊の必死の作戦にもかかわらず、投下した水は原子炉冷却に効果があったようには見えませんでした」

上記の本には、日本政府の対応のまずさが、これでもかこれでもかと書かれている。


[No.158] キリン登場 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/26(Sun) 21:19
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船橋 洋一・著
 カウントダウン・メルトダウン 下巻 (2012.12)

> > 日本の「救世主」ハイパーレスキュー隊

もっと優れもののキリンが、まるで出番を待っていたかのように
いいタイミングで登場した。

17日の真夜中に公明党の遠山衆議院議員に、支援者から電話がかかってきた。
「ドイツのプツマイスター社の製造している生コン圧送車が、福島第一原発の使用済み核燃料プールの冷却に役に立ちそうです」
「この生コン圧送車は、チェルノブイリ原発事故後の石棺作業でも活躍したそうです。この車両には58メートルの長いアームが搭載されています。生コンの代わりにピンポイントで水を注入することができます。その車両が横浜港に1台あります」

これはいいと、遠山代議士は早速総理官邸に知らせる。

この知らせを受けた福山官房副長官は調べると
プツマイスター日本法人がベトナムに輸出するため、中古の車両が2台横浜港に荷揚げされていた。同社の鈴木社長がこの後ずっと対応する。

ドイツの本社に問い合わせ、ベトナム行きの車両を急遽日本に回してくれることになった。
アームは1台は52メートルまで、もう1台は58メートルまで伸びる。

この車を海江田はキリンと呼ぶことにした。
さあ、キリンの活躍がはじまるのだが、問題は誰が運転するかである。

消防庁に頼んだら断られた。
では、コンクリート圧送車だから土木事業者に頼んだらということになったが、やはり危険だからだめだろうということになった。

結局、こういう事態を引き起こしたのは東京電力だから東京電力がやれということになり
東電は協力会社(下請け)の東電工業に頼んだのであった。

19日昼頃、58メートルのほうの車両をプツマイスター日本法人の社員が運転して、20日午前6時に東電小名浜コールセンターに到着した。

鈴木社長らは郡山のホテルで、東電側から福島第一原発の敷地内の線量マップの説明を受ける。
「線量の上昇は止まっています。作業時間は10分以内。安全ですから」

20日の午後と21日午前に、小名浜コールセンターでプツマイスター日本法人の技術者が、現地でキリンを動かす技術者たちに操縦を教えた。
長いアームを建屋にぶつけて壊しでもしたら、すべてが水の泡である。神経を使った。

22日午後5時にキリンが現地に登場して、東電工業の二人が早くもコツをつかみ上手に操作した。
かくして放水が開始されたのである。

26日ドイツから来た技術者はこんなことを話した。
チェルノブイリ事故の時は、何十人ものソ連の死刑囚がドイツのシュツットガルトに送り込まれて来た。彼らは鉛板で覆われた運転席に座りビデオカメラで遠隔操作しながらコンクリートポンプ車を操作する訓練を受けた。その作戦に従事すれば全員釈放される約束だった。3カ月近く続いた石棺作戦は成功した。しかし、3年以内に被ばくのせいで彼ら全員が死んだ。

27日から新たにコンクリートポンプ車を3号機の冷却に導入した。
キリンを導入してから、定常的かつ安定的な注水ができるようになった。

この本には直接現場で活躍した東京消防庁ハイパーレスキュー隊や東電工業社員の他に、それに関係した色々なことが書かれてある。

たとえば東京消防庁ハイパーレスキュー隊は愛や義侠心だけで動いたのではない。
管総理が石原都知事に頭を下げて頼んだから、都知事から指令が出てそうなったことが書かれてある。

また事故現場でのがれきの山をこえながら建屋までたどりついて、扉をあけさせるのをアメリカのロボットにさせたのだが、もともと日本でそういうロボットが開発する計画があった。試作品もつくられたのだが、いつしかロボットは製作中止となった。
それは東京電力が原発はそういう事故が起こることはありえないからとロボット開発研究を打ち切ったからである。
(同様に、津波で非常用電源が止まった場合のことを考えて対策をとる研究も提案されたのだが、そういうことはありえないとして東電からストップされたという話をどこかで読んだことがある)

結局
 自衛隊のヘリ放水 → 東京消防庁ハイパーレスキュー隊の放水 → 東電工業のキリンによる放水
となるのだが、実は自衛隊の前に、機動隊の高圧放水車による放水があったのだが、これは放水量が少なくあまり効果がなかった。しかし、放射能被ばくの危険をおかしながら放水作業をしたことで、現場活動のノウハウを関係者に与えたことになり、以後の自衛隊のヘリ放水や東京消防庁ハイパーレスキュー隊の放水ということにつながったのである。


それにしても
この本は読みにくい。
時系列で書いていない。

東電や政府や各省庁や地方自体やその他の
違う視点でそれぞれ何度も
同じ対象について述べている。

だから繰り返しの記述もあれば
違う立場なので、他の言うことを否定したり修正したりする発言もある。

著者は色々多くの資料や証言を集めたので
それらを省略せず、いちいち書き留めたいのだろうけど
読む方はなかなか大変である。 疲れる。


[No.161] Re: キリン登場 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/27(Mon) 09:48
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> 船橋 洋一・著
>  カウントダウン・メルトダウン 下巻 (2012.12)

>それにしても
>この本は読みにくい。
>時系列で書いていない。

>東電や政府や各省庁や地方自体やその他の
>違う視点でそれぞれ何度も
>同じ対象について述べている。

>だから繰り返しの記述もあれば
>違う立場なので、他の言うことを否定したり修正したりする発言もある。

>著者は色々多くの資料や証言を集めたので
>それらを省略せず、いちいち書き留めたいのだろうけど
>読む方はなかなか大変である。 疲れる。

第18章 SPEEDIは動いているか
第19章 飯舘村異変
第20章 計画的避難区域

ここなども読んでいて、それぞれの立場の人間がそれぞれの対応をしているから
時系列的な記述ではない。
戻ったり、同じ出来事を違う立場からどう対応したかなど
繰り返して書かれているため非常に煩雑になっている。

各章の要点だけ書くと下記のようになる。

第18章 SPEEDIは動いているか
 放射性物質の広がりを気象条件などをもとに迅速に予測するシステムSPEEDI。
 放射性雲は、浪江町へと移動し、雨雪となって地上におちたが、その予測は住民には知らされない。

第19章 飯舘村異変
 SPEEDIが当初公表されなかった理由。それは、放射能の放出源情報がなかったためだった。
 実測のモニタリングから逆推定できないかという枝野のアイデアを専門家が試みる。

第20章 計画的避難区域
 4月に入ると一過性の放射能被ばくではなく、累積性の放射能被ばくを避けるための避難が必要になってきた。
 だが、その線引きは、県、文科省などの思惑によって困難を極める。


[No.164] 第18章 SPEEDIは動いているか 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/27(Mon) 19:33
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> > 船橋 洋一・著
> >  カウントダウン・メルトダウン 下巻 (2012.12)
>
> >それにしても
> >この本は読みにくい。
> >時系列で書いていない。

> 第18章 SPEEDIは動いているか
>  放射性物質の広がりを気象条件などをもとに迅速に予測するシステムSPEEDI。
>  放射性雲は、浪江町へと移動し、雨雪となって地上におちたが、その予測は住民には知らされない。

ためしに第18章について
メモ的に紹介する。
これを読む方は、私の言っていることがわかってくださるだろうか。

ただし
ここでは長くなるので
別の項目の記事のほうに続けることにします。

http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/13-semi3/wforum.cgi?no=163&reno=138&oya=138&mode=msgview


[No.140] Re: がれきの中で本当にあったこと 投稿者:人が死ぬということ  投稿日:2013/05/23(Thu) 09:59
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> 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

がれきの海「捜しようもない」

宮城県石巻市の被災地で流れる涙をぬぐおうともせず、くすぶるがれきの中をさまよう男性がいた。

男性は丹野徳雄(54)さん。妻が石巻市南浜で被災した。
幾度も幾度も津波と引き波を繰り返した一帯は、押し流された車の爆発で火災が発生。
数日間燃え続けた火が治まった3月16日、見渡す限りの "がれきの海" に初めて足を踏み入れた。

「体がねえなら何か見覚えのあるものねえかと思ったけど、これでは捜しようもないよね...」

靖子さんは2月に、この地で洋服の直し店を始めたばかりだった。
3人の子供を育てながら家事の合間に自宅で続けてきた仕事で、店を持つのが長年の夢だった。

10坪ほどの店の土台。明るい緑色に塗られたコンクリートの壁がわずかに残っていた。
2人で作った店の面影はこれだけだった。周囲の家も車もすべてが押し流され、近くの高台のふもとに打ち寄せられて焼けこげていた。

妻の店からわずか50メートルほどの高台の上に自宅はある。

「ちょっとのことで助かったはずなのに、5分走れば...。悔しいよ...」
靖子さんとは29年間連れ添った。
「今はばあちゃんだけど、若いころはめんこかったですよ...。ものごとをはっきり言う女で、しょっちゅうケンカしてました。あまりにもむごすぎるよね。これから仲良くしようと思っていたのに...」


[No.141] Re: がれきの中で本当にあったこと 投稿者:人が死ぬということ  投稿日:2013/05/23(Thu) 10:20
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> > 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

妻子失った市職員「負けないで」のメッセージ

東日本大震災で大津波が押し寄せた宮城県名取市の市役所玄関窓ガラスにこんなメッセージが書かれた紙が張り付けてある。

 「最愛の妻と生まれたばかりの一人息子を大津波で失いました。
 いつまでも二人にとって誇れる夫、父親であり続けられるよう精一杯生きます。
 被災されたみなさん
 苦しいけど
  負けないで !
   名取市職員 S」

書いたのは名取市職員の西条卓哉さん(30)。
津波で妻が行方不明になり、8ヶ月の長男を失った。

大震災の後、市役所は地震で混乱し、職員としてさまざまな対応に追われ、12日未明にようやく自宅マンションに戻ったが、エレベータは止まり、部屋に入ると2人の姿はなかった。

妻の実家を目指しながら、一晩中探したが、実家も建物もなくなっていた。

翌日夜に、妻の母とようやく出会えた。
憔悴しきった義母は「2人とも流された。どこにも姿がないの...」という。

息子とみられる遺体が安置所にあると聞き、15日夜身元を確認した。
肌着も服もよだれかけも、妻が好んで着せる組み合わせだった。
安置所で死亡届を出すと居合わせた同僚職員が泣き崩れた。


[No.142] 人が死ぬということ 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/23(Thu) 15:10
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> > > 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

思い出までは流させない

津波で壊滅した岩手県大槌町の避難所の一つ、中央公民館の一角では
1千枚を超す写真が床に展示されている。
子供の運動会、結婚式、旅行、恋人たち...。
震災前の日常が、見る者の胸を打つ。
がれきの中から写真やアルバムを発掘し、展示している同町の飲食店経営、沢田直之さん(68)は、「津波は人も家も飲み込んでしまったが、思い出までは流させない」と力をこめる。

「あ、これおばさんだ!」
展示された写真を見に来た娘の言葉に、父は「ほんとだ」とにっこり。
写真は妹の成人式のときの写真だった。
「家が津波で壊れたときに家に置いてあった写真も流されてしまった。妹は今日は一緒に来られなかったけれど、明日にでも渡したい」

写真の展示を始めた沢田さんも、津波で店舗兼自宅を流され、中央公民館で避難生活を送る。
津波から数日後、がれきの山と化した自宅周辺を歩いた。

「旅行や孫の運動会の写真を収めたアルバムが見つかればと思って」見つけた泥だらけのアルバムを避難所に持ち帰ったが、目当てのものではなかった。

しかし、持ち主が現れればとアルバムを避難所の一角に置いたところ、見に来る人が絶えなくなった。


私も震災後に現地を回ったとき
津波で家がすっかりなくなった土台のところに
置物や教科書や子供の遊具やいろいろな思い出の品々を見つけて
思わず写真に撮ってきましたが、もちろんどこにも公表していません。

津波の恐ろしさ、人間の無力さ、生活していた人々の楽しかったころを思わず考えてしまうのでありました。

訂正
No.140 と  No.141
 これらの記事のタイトルは
「人が死ぬということ」でした。


[No.150] Re: 人が死ぬということ 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/24(Fri) 09:05
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Re: 人が死ぬということ
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> > > > 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

学校も、子どもたちも消えた

石巻市立大川小学校の津波悲劇は他の部屋でも紹介したが
ここで改めてとりあげます。

教科書や鍵盤ハーモニカ、絵、写真などが散乱した校舎。
そこにはがれきをかき分け、児童たちの遺留品を見つけて涙する親の姿があった。
北上川の河口にある宮城県石巻市立大川小学校は、地震で校庭に大半の生徒と教職員が避難していたところを津波にのみこまれた。

全校児童108人のうち、生存が確認されたのはわずか34人。教員も12人のうち10人が死亡、または行方不明になっている。、

大川小学校は海抜ほぼ0メートルの北上川のほとりに立つ。
学校にいて生還した教員は教務主任の男性1人。石巻市教育委員会が聞き取りを行ったこの教諭や関係者の証言から当時の状況が明らかになりつつある。

大きな揺れが襲ったのは、5時間目を終えたときだった。子どもたちは机の下にもぐり、校庭への避難が指示された。

泣き出す子どももいたが、女性教諭らが付き添った。
学校側に自宅があり、2人の孫を亡くしたAさんは「校庭に子どもたちが整列しているのが見えた。ヘルメットをかぶっている子もいた」。

校庭には、離れた地域の児童を送るためのスクールバスが止まっていた。
「今、校庭に並んだ子どもの点呼を取っているところで、学校の指示待ちです」男性運転手は運営会社に無線で連絡した。

これが最後の通信となり、男性運転手も津波で死亡した。
会社側は「詰め込めば児童全員を乗せられただろう」としている。
市教育委員会は「津波の際、どこに避難するか特に決められていなかった」という。

男性教諭は校舎内の確認に向かった。ガラスが散らばり、児童が入れる状況ではなかった。
校庭に戻ると、子どもたちは他の教諭に誘導され、裏山脇の細い農道を列を組んで歩き出していた。
坂道を行くと校庭より7〜8メートル高い新北上大橋のたもとに出る。教諭は列の最後尾についた。

「ドンという地鳴りがあり、何がなんだか分からないうちに列の前から波がきた。逃げなきゃと思った」

気づくと、裏山を登ろうとする児童が見えた。生い茂る杉で周囲は暗いが、ゴーという音で足元まで水が迫っているのが分かった。
「上に行け。上へ。死にものぐるいで上に行け!」と叫んでいた。追いつくと3年の児童だった。

くぼ地で震えながら身を寄せ合ったが、お互いにずぶぬれだった。
「このままでは寒くて危ない」と男児の手を引き、山を越えた。
車のライトが見えた。助けられた。

被害を免れた大半は津波が来る前に車で親が連れ帰った子どもだった。
しかし、他の児童とともに農道を歩きながら助かった5年の男児も2人にいる。

津波で1年の長女と4年の次男を亡くした男性がいる。
「あの日、本当に何があったのか、知りたい」

震災当時、休暇をとって学校を不在にして助かった柏葉照幸校長(57)も捜索を続ける。
男性は裏山を指して柏葉校長に疑問をぶつけた。
「ここに登れば助かったんじゃないですか」
男性によると、柏葉校長は「そうですね。現場にいたらそうしたかもしれません」と答えたという。

市教育委員会は「想定外の津波だった。山が崩れる危険がある中、農道を行く以外に方法があったかは分からない」としている。


くわしい参考文献
池上正樹・加藤順子:あのとき、大川小学校で何が起きたのか (2012.11)

http://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%81%AE%E3%81%A8%E3%81%8D%E3%80%81%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%A7%E4%BD%95%E3%81%8C%E8%B5%B7%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E6%B1%A0%E4%B8%8A-%E6%AD%A3%E6%A8%B9/dp/4905042577

なお
ここにある読書感想文をご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20130111
こちらも
http://matome.naver.jp/odai/2135297930605930701

津波が北上川を逆流して新北上大橋の堤防を超える動画像が載っています。
http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20120626

なお
写真は、石巻市に合併する前の河北町当時の地図です。
北上川河口の新北上大橋の近くの釜谷観音寺の近くに大川小学校があります。


> 訂正
> No.140 と  No.141
>  これらの記事のタイトルは
> 「人が死ぬということ」でした。


[No.159] Re: 人が死ぬということ 投稿者:旭岳  投稿日:2013/05/26(Sun) 21:22
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男爵さん こんばんは

自分の職務に殉じてお亡くなりになった方々、そして後の残された方々には
本当に何と言うべきか言葉も無く、だた幸多くあって欲しいと願うだけです。

助かる時間的余裕があったと思われるのに、小学生の子供を亡くした親の方。
残された親御さんの何故そうなったのかを知りたいと思う気持ちは当然と思い
ます。

公立の小学校なのですから、各関係機関及び各関係者は法的な追求を逃れよう
等とは思うのはもって他、ありのままを伝える義務があると思います。

法的責任以外に道義的責任もあります。


[No.160] Re: 人が死ぬということ 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/27(Mon) 07:52
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Re: 人が死ぬということ
画像サイズ: 525×700 (65kB)
旭岳さん こんにちは

> 自分の職務に殉じてお亡くなりになった方々、そして後の残された方々には
> 本当に何と言うべきか言葉も無く、だた幸多くあって欲しいと願うだけです。
>
> 助かる時間的余裕があったと思われるのに、小学生の子供を亡くした親の方。
> 残された親御さんの何故そうなったのかを知りたいと思う気持ちは当然と思い
> ます。

ほんのわずかの判断や偶然で
永遠の別れとなってしまった人はいつまでも心に痛みが残るでしょう。
今回の大震災で、そういう残された方々の悲しみは、私にとっても忘れることができません。

> 公立の小学校なのですから、各関係機関及び各関係者は法的な追求を逃れよう
> 等とは思うのはもって他、ありのままを伝える義務があると思います。
>
> 法的責任以外に道義的責任もあります。

大川小学校の校長はたまたま休暇を取っていたので
津波の時にはいなかったから助かったのですが
かえって一人だけ残され、辛い毎日だったと思います。
このあと退職してしまい何も語らないようです。

ひとり生き残った先生も教育委員会などから口止めされているようで
いつか語る日が来るかもしれませんが、この先生のストレスも相当なものだと思います。

あのビデオなど見ると
先生方に誘導されて小学生たちが一列になって向かった
新北上大橋のたもとの高台も、実はすっかり津波の飲み込まれたので
後から考えると、わざわざ危険な場所に向かっていったことになりますが
当時としてはわからなかったことなのでしょう。

直感的に裏山に登ったら助かったのは結果論で、山崩れも心配して
山に登らせなかったのでしょう。

この北上川は改修され新しくできたので堤防なども新しいものです。
明治の時の津波とは状況も変わっていたから
過去の例を参考にしながら、新しい予測というものが必要だった気がします。
過去と現在の状況を総合的に判断した防災マップが用意されるべきでした。

なんだか
仙台の大学の先生も地震が来るとは予測していましたが
女川原発とか仙台の都市防災の方に目が奪われて
宮城県の海岸部のことまで手が回らなかったのでしょうか。

写真は新北上大橋です。