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義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー <英訳あり>

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/6/16 19:22
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
帰国

 いよいよ帰国ができると決まったのは二十八年《1953年》四月の初旬だった。全員を集めて第一陣で出発する者の名前が呼び上げられた時は、私もその中に入っているかどうか、死刑の宣告を受けるような気持ちで聞いて居ったが、自分の名が呼ばれた時は飛びあがるほど嬉しかった。

 第一陣の者は家族持ちも全員寮に集まり、諸準備、諸手続きを済ませた後、残る約1/3の第二陣の者達に送られて鞍山の駅から無蓋車《むがいしゃ》で出発した。先ず奉天に行き、鞍山以外から来た者達と合流して一夜奉天での歓送会に出席し、翌日、泰皇島に到着した。奉天と泰皇島での中共側の見送りは実に盛大なものであった。

 泰皇島には既に迎えの船も着いて居り、日本からは共産党員数名が迎えに来て居って、出航前夜彼らが歓迎の言葉と共に現在の日本の状況などを説明してくれたが、我々鞍山組の者には共産思想を背景にした彼等の説明には、余り興味が持てなかった。

 帰国に際し私は日の丸の旗を作ろうと思い、白布と赤布を持ち込んで居ったので、公海に出た後、赤布を丸く切って白布に縫い付け、持ってきたステッキにつけて、立派な国旗日の丸を作った。鞍山組の中で日の丸の国旗を作った者は、他にも二、三人居った。迎えに来た共産党員たちは、我々のこうした態度を苦々しい思いで見ているようであった。

 上陸前夜、他地区からの帰国者(主として鶴岡炭鉱からの若者でミッチリ共産教育を受けた者)、鞍山からの帰国者、迎えに来た共産党員との会合があり、鞍山組からは病院のK君と私が代表で出席した。

 会合の趣旨は、第二船帰国者一同で政府に要望する事項を検討しようと言うものであった。彼等の要望は、国鉄の全線切符をくれとか、全員を無条件で希望の所へ就職させろとか、その他私の
考えでは非常識と思われる事ばかりだった。

 こんな事を一同で打電する事には鞍山組は反対だから除外してくれと言ったが、彼等は一同でなくては力が弱いからと言うので随分激論になった。しかし、結局は我々の意見が通って「第二船帰国者有志」として要望事項を打電する事になった。

 会合が終わってから船長室に行きご挨拶《あいさつ》をしたところ、玉置船長から「今回の帰国者は、第一船の者とは大分様子が違いますね」等と言われた。第一船の者達は、共産党員を相手に思う事も言えなかったのであろうと思われた。日本の様子などいろいろ話しを聞いたり、日本の煙草《たばこ》を頂いたりして暫《しば》し談笑した記憶がある。

 四月二十八日の朝いよいよ舞鶴港に入港した時、私が日の丸を振って歓迎に応えたので、新聞記者達は驚いた様子であった。鞍山組の者達が第一船帰国者とは余りに違って居ったので、その夜、記者団が大勢鞍山組の所へ来て、色々質問された。私は未だ残っている者が無事帰国しなければならぬので、中共を非難するような事は言わず、我々の生活状況とか待遇とか、一般的な話しのみをした。

 帰国列車が長野県に入ると、各駅でお茶や漬物や、郷里の懐かしい物を持って列車に乗り込んで来ては「ご苦労様でした」と言って歓迎してくれた事は、本当に嬉しかった。

        [ 了 ]

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/6/16 19:21
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
 抑留生活を楽しもうといろいろ工夫しては居ったが、何といっても一日も早く帰国したいという気持は頭から離れなかった。そんな中で一番の楽しみは、日本からの手紙であった。寮に帰って玄関の状差し《=ポスト》に自分宛《あ》ての手紙があると、ほんとうに嬉しかった。私のところには頻繁《ひんぱん》に便りがあって、皆からうらやましがられた。帰国した同じ工場の者から手紙の来るのは私くらいで、その点は友達に恵まれたと、心から感謝した。

 私は会社へ行っても殆ど《ほとんど》仕事はせず、毎日日記のように手紙を書き一週間分を纏《まと》めて送った。内地の様子が判り、家族の苦労を知るにつけ、何とかして日本に帰らねばとの気持ばかりが支配した。

 家内を通じ代議士に連絡をとり、天津の英国領事館まで行けばどうにか帰れるような算段《さんだん=やりくり》をしてもらったので、どうにかして天津まで行こうと家内の診断書を取り寄せたりして、天津までの旅行許可を申請したが、どうしても許されなかった。

 家内の生活が大変なのは良く分かるので、いろいろ考えた末、金の延べ板を写真の間に挟み、手紙と一緒に送ったこともあった。こんな事が発覚すれば首になるところだったが、敢《あ》えて実行した。
この事は帰国船の中で初めて残留組の者に話したが、今考えると、良くあのような危険を侵したものだと思う。

 家族が苦しい生活をして居るとき、日本鋼管に居った何人かの仲間が乏しい給料の中から援助してくれた事を手紙で知った時は、嬉しくて涙が出て眠れなかった。

 そうこうしている内に、何となく帰国できるような気配が見えたので、天津まで旅行させて欲しいという申し出は取下げた。

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/6/16 19:20
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
 その内に日本と文通できるようになり、単身者にとっては帰国させた家族の消息が判り、また新たな心配も出てきた。

 私も家内からの手紙で、無事郷里に着いたが、頼りにして居った土地は不在地主《ふざいじぬし=戦後行われた農地改革、所在地に居住していない地主は所有権を失った》で取られ、生活は苦しく、子供が遠足に行くのにおにぎりしか持たせてやれなかった事、米を買うのにも事欠く事、家内が行商をして僅《わず》かな収入を得たことなど、余りにもみじめな生活であるのを知り、涙が出て一晩中眠れなかった。

 その後、家内は小学校の教員になり、私の中学校時代の同級生が校長をしていたので、何くれと面倒を見てくれた事を知り、多少安堵《あんど=安心》した。しかし抑留期間中の生活は、このように気の滅入る事ばかりではなく、結構楽しい事もあった。

 休日にOさんと鉄西の奥の湖に行き、投網で魚を採ってきてフライにしたり、前夜池に針を仕掛けておき、翌日行ってみると大きな草魚《そうぎょ=大型の淡水魚、中国や台湾に多い》が掛って居り、刺身にして食べたりした。あんな大きな草魚がいることや、あんな方法で採れることなど、驚くことばかりであった。

 日本酒は勿論《もちろん》ない。白酒(パイチュー)に四季折々の果実と砂糖を入れ、三週間くらい置くと、白酒のあの嫌な臭いが消え、結構上等なブランデーが出来た。余り酒を呑《の》まない私だったが、果実によって色の異なるブランデーを何種類も作っておき、少しずつ呑むのも楽しかった。中でも初夏に採れる梨《なし》(南カン梨という小さな梨)を入れて作ったブランデーは中々美味であった。

 お盆には寮の庭で子供達も全員加わって、盆踊りもやった。丁度、私が木曾踊りを知って居ったので皆に教え、中々上手に踊れるようになり、お盆には中国人も見物に来た。

 秋には運動会もやった。謡曲会、コーラスの会、ダンスの会、麻雀《マージャン》会などもあって、結構楽しかった。

 麻雀については面白い話しがある。

 中共《=中国共産党》の天下になってから麻雀は禁止され、各人の持っている麻雀牌《マージャンぱい》は集められてストーブで焼かれてしまった。しかし日本人は賭《か》け麻雀をやって居らなかったので、大目にみてくれて所持を許されて居った。

 旧正月の日、中共のポリさんが麻雀を借りに来た。麻雀は日本人の所にしか無かったので、遊びたくなった彼らが寮までやって来たのだ。不許可の麻雀を日本人にだけ許可してくれているのだから、貸してやろうという事になり、何組か貸してやった。ポリさん大喜びで夕方返しに来た。



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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/6/16 19:19
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
 骸炭炉のスタートが復興の第一号だったため、当日は会社の幹部やソ聯人が大勢見学に来た。こうなると日本人の面目にかけてもスムーズにスタートさせねばならず、随分緊張しながらW君に押出機の運転をさせた。

 真っ赤なコークスが押出し出され、消火棟にパタンと落下した時は実に嬉しくて一人で「万歳、万歳」と叫び、涙が止まらなかった。後から炉上に上がって来たW君も、共に抱き合って男泣きに泣いた。今まで炉のスタートを何度も経験したが、あんな感動を覚えたのは初めてであった。こうして骸炭炉は実にスムーズにスタートする事ができた。

 引続き高炉、製鉄部の各工場も、日本人の指導によって事無くスタートし、鞍山製鉄所は何年ぶりかで操業を開始した。我々が安東から帰って来た時は死の街のようだった鞍山も、活気を取り戻し、昔の姿に戻った感があった。製鉄所の復興を記念した祝賀会では、日本人はその功績が大きかっ たというので表彰され、一人づつ壇上に上がり胸に大きな花をつけてもらった。

 それから後は、私は余り働かなかった。もうスタートしたのだから何か問題があった時に聞きに来いと言って、殆ど事務所に居った。我々は責任を果たしたのだから、早く日本に帰してくれと願ったが、中々思うようには運ばなかった。

 鞍山にはもともと製鉄所に勤めて居った者の外に、北満の開拓団《注1》から苦労して流れて来た若い男女も相当居った。我々と同じ単身寮で生活して居ったが、彼らの生活は苦しく、食生活などは我々とは随分違っておった。

 家族持ちは畳も無く、アンペラを敷きベッドの生活であったが、食事に困るようなことは無かった。しかし、何としても早く日本に帰りたいという気持は一日として頭から離れず、精神的には追い詰められたような生活であった。

《注1  開拓団》
《満蒙開拓団、日本から中国東北部へ送り出された農業移民団で約30万人。
 ソ連参戦により多くの犠牲者、孤児を生じるなど大きな被害を出した》
 

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/6/16 19:18
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
 十二月になり、満州全体が平定されたので、我々は鞍山製鉄所を復興する事になり、十ヵ月ぶりで鞍山に戻った。今度は汽車が通じており、鞍山まで列車の旅であった。

 鞍山は全くの廃墟《はいきょ=荒れ果てたところ》と化していた。荒らされた社宅はあるが、誰も住んで居らぬ、実に淋しい死の街であった。

 日本人の家族持ちは守備隊前一帯に住む事になり、我々単身者は直ぐ傍のお寺の裏にあった独身寮に落ち着いた。いよいよ鉄鋼所を復興することになったので、満人も順次帰って来て、その内に商店もでき、多少街らしくなってきた。

 我々は毎日出勤して復興に取りかかった。その当時、会社にはバスが一台あっただけで、それには我々日本人だけが乗り、幹部も一般従業員も満人は殆どが自転車で通った。

 会社へ行っても椅子も机も殆ど無い。しかしそんな中でも、製鉄所を復興しようという熱意は実に旺盛《おうせい》なものであった。我々敗戦国の日本人は、捕虜ではあったが非常に大事にしてくれ、戦勝国民の敗戦国民に対するような態度は微塵《みじん》も無かった。

 製鉄所の復興という大目的に向かっては、日本人の力が不可欠である事を良く知って居り、彼らは日本人を100%利用したと思うが、我々も十分それに応えるだけの仕事はしたと思う。私は
戦前従業員であった満人を使って、毎日復興作業に励んだ。時に満人を怒鳴りつけたり、幹部に文句を言う事もしばしばだったが、彼らは決して逆らわなかった。その点、中共の方針は立派だったと思う。

 会社の幹部は骸炭の事など何も知らなかったが、満人の旧社員は、ある程度判っているので、優秀な満人を使って順次復興を進め、八ヵ月後の七月、スタートの運びとなった。骸炭炉のスタートは大変な作業である。間違えば爆発の危険がある。炉の乾燥に着手する前から、私は目星をつけた満人グループを幾組 か作り、各組に分担業務を決め、何度もシュミレーションを繰り返して教育した。

 乾燥も殆ど終わり、いよいよスタートの直前になって、ソ聯人の技術者が四~五人やって来て、現場の仕事を見て居った。私はソ聯人が来たからには、彼らが指揮を執るかと考え、会社の幹部に次のように問いただした。

 「ソ聯人が来たようだが、今回のスタート業務は彼らの指揮に従って進めるのか。それとも私が指揮を執るのか。もしソ聯人が指揮を執るのであれば、私は見学はするが何も言わぬ。もし、私が指揮を執るなら、ソ聯人が私のやり方を見るのは構わぬが一切口出しはして貰いたくない。
どちらでも良いから決めてくれ。」と。幹部は即答しなかったが、翌日『お前の指揮でやれ』と云われた。

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/6/16 19:17
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
 二十三年二月、国民党と中共軍との大きな衝突が鞍山で始まり、銃声が激しくなると地下室に逃げ込んだりして居った。二日くらいの激戦で、鞍山は完全に中共軍が占領してしまった。
我々も捕まり、軍の幹部の所へ連れて行かれたが、大正通りの広い道路を渡る時には機関銃の音が激しく迫り、死ぬかと思った。

 私は足が痛いので他の者のようには走れない。ようやく台町の幹部が占拠した家に辿《たど》り付いたが、別に何を聞くでもなく、顔を見ただけで帰れといわれた。

 また皆で昔の白菊寮まで帰ったが、その時には機関銃の音が更に激しくなり、銃声の合間を見て道路を渡るのだが、私一人だけが残ってしまった。もはや流れ弾に当っても仕方ないと、思い切って走り抜け、向う側に着いた時には、やれやれ生きられたと安堵《あんど》した。戦争が収まった
後、日本人部落まで行ってみたが、双方の死骸であろう、そこここに転がった死骸はまだ片付けもされず、放置されて居った。

 その内に軍の命令で日本人は全員移動する事になり、荷物を馬車に積んで、二月九日、鞍山を出発した。我々には何処へ行くのか全く判らない。私の乗った馬車と他の二台は、弓張嶺を通り、翌日の午後、本渓湖に到着した。他の者は何処へ行ったのか全く判らない。

 本渓湖に三日ばかり居った後、本隊が続々と到着した。後続の本隊は我々の通った道とは違うルートで随分危険な個所もあり、その上馬車が故障して歩いたりしたため、私達より三日も遅れた事が判った。

 本渓湖からは鉄道が通じて居ったので、鉄道で安東に行き、昔の満鉄寮に落ち着いて、安東での生活が始まった。別に仕事は無いが、月々若干《じゃっかん=いくらか》の手当てを貰《もら》って居った。これを貰うとボロ市に行き、日本人が帰国の際売り払っていった物を買っては、帰国に備えて居った。

 時々共産教育も受けた。外見的には呑気《のんき》なように見えたが、精神的には辛い日々であった。何時帰れるのか全く望みはない。鴨緑江を何とかして渡って朝鮮へ逃げる方法はないかと検討した事もあったが、結局実行に移した者はなかった。

 こんな生活をしていると精神的に参ってしまうので、何か心の支えになるような事をしようと話し合い、コーラス組、謡組、その他の様々な組ができて、気を紛らすことができた。

 家族持ちは子供の教育に苦労した。学校の先生は二人しか居らず中学校の先生は一人も居らない。そこで、我々の中で専門別に中学生を教えることになり、私は化学を7~8人の生徒に教えた。

 基礎的な事だけでも身につけて日本に帰れるようにと、一生懸命教えたが、生徒の大部分は、帰国後一流の大学を卒業して立派な社会人になっている。



  【復興中の工場】


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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/6/16 19:16
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
 やがて気が付いたときは、助かった嬉しさがこみ上げた。その時十二時のサイレンが鳴ったと記憶している。外には出られたものの、足が痛くて歩けない。這《は》って道路まで出ると満人が通り掛ったので、洗炭工場の事務所に日本人が居るから知らせてくれと頼んだ。しばらくすると大勢の者が来てくれ、事務所に運ばれて、そこからは馬車で家に運んでくれた。一週間以上は随分苦しかった。次第に回復したが歩行は無理だった。

 防空壕の中には上着を残してあったので、若い者が取りに入り、私と同じ方法で上がろうとしたが、どうしても上がれなかったとの事だった。人間、死ぬか生きるかの瀬戸際に立つと、考え
られない程の力が出るものだと、つくづく思った。

 会社では私の足の治療の為、奉天病院にやってくれたり鉄西の満人の病院へもやってくれたが、骨が変形したので、そう簡単には治らない。会社からの専用馬車と、松葉杖《まつばづえ》で出勤して居った。会社では仕事らしい仕事も無く過ぎる内に、また遣送話が出た。「私は残るから他の者は帰してくれ。」と申し出て、何人かが順次帰国した。

 いよいよ最後の遣送と思われる二十二年九月には、皆と共に私も帰国できる積りでお願いしたが、私だけはどうしても帰れず、後半年手伝ってくれと言われ、仕方なく家族だけ帰して私一人残る事になった。その頃は松葉杖からステッキで歩ける程、回復してはいたものの、残る私も不安だったが、帰る家族は後ろ髪を引かれる思いであったろう。

 無蓋車で鞍山駅を出発する家族を、私は奉天まで見送りに行った。いよいよ汽車が出発した時、手を振って家族と別れたが、これが家族との永遠の別れになるかも知れぬと思うと、体中の力が抜けた様な気持ちであった。その夜は駅近くの収容所に泊り、翌日鞍山に帰ったが、日本人の姿は殆ど《ほとんど》見当たらず、寂しい限りであった。

 工場の者で、いよいよ最後まで残された者は、洗炭のH君と骸炭のW君、それに私の三人だけであった。我々残留者は製鉄所全体で約百名、家族を合わせて三百名ほどであった。私のように家族を帰して単身で残った者も三十名くらい居った。

この頃から中共軍の攻撃が激しくなり、平和のように思えた国民党の天下も怪しくなってきた。

内戦が終わらないので復興どころではなく、手伝えと云《い》われた工場の仕事も手につかないような状況であった。ある時は、鞍山が戦場になるので何処かへ避難しなくてはならぬかも知れぬ等と云われ、不安な日が続いた。

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/6/16 19:15
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485



  【抑留中の義父(右)】









二十一年春になって、国民党軍により完全に平和が取り戻されたように思われた。夏になり一般遣送が始まって大部分の者はリュックサック一個を肩にして、無蓋車《むがいしゃ=
屋根の無い貨車》
に乗って鞍山駅を離れた。私も見送りに行ったが、あの時の情景は今でもハッキリ思い出す。

 工場の者は、洗炭、骸炭《がいたん=コークス》合わせて約三十名が強制的に抑留される事になり、宿舎は満鉄病院の一帯をあてがわれた。我々が残された目的は工場の復旧の仕事に携《たずさ》わる為であったが、さして仕事も無く、毎日会社へ出勤するだけだったように記憶している。

 二十二年一月初旬、こんな事があった。S君と二人で四骸炭へ部品を探しに行き、帰りに私は四骸炭のコールバンカーの中を見て帰ろうと思い、倉庫課の道路を通って帰るS君と別れて、暗いコールバンカーの中に入った。

 コールバンカーの中には防空壕《ぼうくうごう》があり、その入り口が何処にあるかは百も承知して居ったのに、何故《なぜ》か防空壕の中に落ちてしまいそのまま気を失ってしまった。何時間経ったろうか自分には分からなかったが、気がついて上を見ると、四角い穴が見える。夢ではないかと疑ったが、段々意識がハッキリしてきて、防空壕に落ちた事が判った。

 深さは三メートル以上ある。これは大変だ。上がれぬかも知れぬ。梯子《はしご》は無い。部屋の中を見まわすと、電燈線が一本張ってある。これを適当な高さに張ってその上に立てば、上の入り口の壁に掴《つか》まる事ができるかも知れない。何回も試みたが駄目だ。悪い事に、落ちたときに怪我をしたらしく足が痛い。

 時々大声を出してみたが、勿論《もちろん》何の応答もない。夕方になって私が居ない事が判れば、S君が四骸炭で別れた事を知って居るので、探しに来てくれるかも知れぬ。その時の目印にと思い、腰のタオルを上に投げておいた。

 だが探しに来てくれても今夜か明朝になるだろう。そんなに長くはとても生きて居られぬ。何とか自力で上がる事を考えなくてはならぬ。頼りは一本の電燈線のみだ。その高さを何回も変えては努力してみたが、どうしても上がれない。上着を脱ぎ、小便をして気分を落ち着け、又何回もやってみた。

 その時、蛙《かえる》が何回も何回も繰り返し試みて遂に柳の枝に飛びついた話しを思い出し、兎に角《とにかく》死に物狂いで飛び上がってみた。息が切れて落ちると、休んで体力を蓄えては又試みた。

 遂に電線の上に乗り、壁に背をつけて立つ事ができた。丁度その上部に鉄筋が出ているのに気が付き、それを掴まえた。これを離せば死んでしまうぞと思い、全身の力を振り絞ってようやく穴の上に出た時、また気を失ってしまったようだ。

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/6/16 19:13
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
 その内に千山に篭《こも》って居ったという日本兵が何人か入って来て、千山が一斉襲撃された事が判った。牢の中も一番多い時は七~八人が一緒に入れられたため、夜などとても、寝られたものではない。

 自分の足が下だと上の者の足が重くてとても眠れない。それで自分の足を一番上にする。その内に他の者が一番上になる。こんな事を繰り返して居る内に白々と夜が明ける。南京虫《ナンキンむし=害虫、トコジラミ》に悩まされたのは勿論の事であった。家内が大福餅やその他の物を差し入れてくれ、それを皆で少しづつ分けて食べた。

 そんな事をしている内に、ある日兵士が来て、私に外へ出るようにと云った。何処へ連れて行かれるのか判らない。三、四人の兵士の居る部屋でちょっとした尋問《じんもん=問いただし》のようなものがあったが、もう良いから帰れといわれた。約十日ぶりで我が家に帰れた時は、本当に嬉しかった。家族は私が今日帰ることなどは全く知らなかったので、大層驚いた。

 後で聞いた話しだが、千山に立て篭もった軍隊を手引きしたのが、私だという疑いがかけられたようだったが、結局は、何か口実を作って金を巻き上げるのが目的だったようだ。会社でパーローに捕《つか》まったのは私が最初であった。会社が金を出したので、牢から出て来られたのだと察知した。

 会社の理事長に無事帰った事を報告したが、その理事長は、その日に捕まり連れて行かれてしまった。理事長は少々風邪気味だったので、奥さんが看護の旁《かたわら》ついて行ったが、それから間もなく、奥さんは持って行った青酸カリを飲んで自殺した。その後、あちこちで理事長を見かけたという話しも聞いたが、真偽は不明のまま、何時何処で殺されたか判らないままであった。その後も会社の幹部が何人か連れて行かれ、A総務部長も、N厚生部長も、何処へ連れて行かれたか全く行方が判らなかった。

 各人は生活のために思い思いに何かをやった。私は所持品を売却したり、家内はシュークリームを作って新雅園に納め、生活の足しにした。このシュークリームは当時ちょっと有名になって売れ行きも良かった。

 電燈も水道もない、遠くまで水を汲《く》みに行ったり、臨時に掘った井戸に早朝並んで水を汲み、風呂に溜《た》めておいて使った。ローソクはとても勿体無《もったいな》くて使えない。燈明《とうみょう=》生活であった。

 国民党とパーローとの戦闘が続き、一般民衆も担架《たんか》隊に駆り出され、終に帰らない者もあった。台町付近で戦闘が激しくなり、畳を地下室に運び、一日中地下室で暮らした事もあった。戦闘が止み、家の窓から外を見ると、どちらの兵士か判らないが、三、四人の死骸《しがい》が見える。毎日不安の連続で、嫌《いや》な時期だった。

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/6/16 19:12
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
 
 ソ聯人は工場を撤去して持って行ってしまえば用がないのだろう。後はパーローの天下になったり、国民党の天下になったりで、内戦は絶えなかった。

 工場は細々と、残りの設備を動かしたり止まったりして居った。十二月頃だったろうか、工場から電話が懸ってきて、ブロワーの故障が直ったので、炉をスタートすると連絡があった。
スムーズにスタートさせる為に、私も工場に行こうと思ったが、その時はもう薄暗い六時過ぎで、外出禁止時間だったのでとても一人では行かれない。

 ちょうど私の家の上にパーローの幹部の宿舎があるので、そこへ行き事情を話し、工場まで送ってくれと頼んでみた。「よく来てくれた。ただ今来客中だから済んだら送ってやるから待って居れ。」といわれ、待って居ったが何時まで経っても何の気配もない。その内に銃声が聞こえ、それが次第に近くなり、この家を襲うための攻撃ではないかと感ずるようになった。

部屋に居った者も何処かへ出て行ってしまい、銃声はいよいよ激しく、ここを襲う目的である事はハッキリして来た。

 とんでもない事になってしまった。この部屋のどの位置に居れば弾丸が当らないかを調べ、そこへ伏せて居った。その内に満服《=満州人の服装》抜き身の日本刀を持った日本人の軍人が入って来て、『誰か居るか』と怒鳴った。「私は日本人です」『よし』『おい、ここにあるぞ。持って行け。』と、弾丸箱であろう、そこにあった箱二個を、後から来た兵士に持たせ、電燈を刀で壊すと部屋から出て行った。

 辺りは真っ暗闇《まっくらやみ》であったが、二階からは呻《うめ》き声が聞こえ、誰かが殺《や》られたのであろうと思った。やがて静かになったので、私は家に帰りたいと思ったが、例の兵士が傍を離れず、トイレにまで付いて来て帰れない。夜が明けたので、もう一人で帰れるからと言っても帰してくれない。その内に二人の兵士に囲まれるようにして外に出、市公舎に連れて行かれた。

 家内や子供は銃声が激しくなった時、現場近くのI君の家まで来て様子を伺っていたようだ。
私が外に出ると、窓から心配そうに覗《のぞ》いている家内達が見えたので、「何も心配はいらん。直ぐ帰るだろうから。」と言って私が通ったので、ともかくも私が無事で居ることは判った。

 市公舎に行っても別に調べるでもなく、殆ど《ほとんど》一日止められ、夕方警察の牢《ろう》に入れられた。
四・五畳くらいの部屋で、部屋の中に便所があり、味噌《みそ》も糞《くそ》も一緒だ。そこに四人くらい入っており、食事といえば高粱《こうりゃん=もろこし》とタクアンだけであった。





  【鞍山の工場】








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あんみつ姫

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