Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その8)
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義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー <英訳あり> (あんみつ姫, 2005/6/16 18:51)
- 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その2) (あんみつ姫, 2005/6/16 18:52)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その3) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:12)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その4) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:13)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その5) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:15)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その6) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:16)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その7) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:17)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その8) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:18)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その9) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:19)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その10) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:20)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その11) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:21)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その12) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:22)
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
十二月になり、満州全体が平定されたので、我々は鞍山製鉄所を復興する事になり、十ヵ月ぶりで鞍山に戻った。今度は汽車が通じており、鞍山まで列車の旅であった。
鞍山は全くの廃墟《はいきょ=荒れ果てたところ》と化していた。荒らされた社宅はあるが、誰も住んで居らぬ、実に淋しい死の街であった。
日本人の家族持ちは守備隊前一帯に住む事になり、我々単身者は直ぐ傍のお寺の裏にあった独身寮に落ち着いた。いよいよ鉄鋼所を復興することになったので、満人も順次帰って来て、その内に商店もでき、多少街らしくなってきた。
我々は毎日出勤して復興に取りかかった。その当時、会社にはバスが一台あっただけで、それには我々日本人だけが乗り、幹部も一般従業員も満人は殆どが自転車で通った。
会社へ行っても椅子も机も殆ど無い。しかしそんな中でも、製鉄所を復興しようという熱意は実に旺盛《おうせい》なものであった。我々敗戦国の日本人は、捕虜ではあったが非常に大事にしてくれ、戦勝国民の敗戦国民に対するような態度は微塵《みじん》も無かった。
製鉄所の復興という大目的に向かっては、日本人の力が不可欠である事を良く知って居り、彼らは日本人を100%利用したと思うが、我々も十分それに応えるだけの仕事はしたと思う。私は
戦前従業員であった満人を使って、毎日復興作業に励んだ。時に満人を怒鳴りつけたり、幹部に文句を言う事もしばしばだったが、彼らは決して逆らわなかった。その点、中共の方針は立派だったと思う。
会社の幹部は骸炭の事など何も知らなかったが、満人の旧社員は、ある程度判っているので、優秀な満人を使って順次復興を進め、八ヵ月後の七月、スタートの運びとなった。骸炭炉のスタートは大変な作業である。間違えば爆発の危険がある。炉の乾燥に着手する前から、私は目星をつけた満人グループを幾組 か作り、各組に分担業務を決め、何度もシュミレーションを繰り返して教育した。
乾燥も殆ど終わり、いよいよスタートの直前になって、ソ聯人の技術者が四~五人やって来て、現場の仕事を見て居った。私はソ聯人が来たからには、彼らが指揮を執るかと考え、会社の幹部に次のように問いただした。
「ソ聯人が来たようだが、今回のスタート業務は彼らの指揮に従って進めるのか。それとも私が指揮を執るのか。もしソ聯人が指揮を執るのであれば、私は見学はするが何も言わぬ。もし、私が指揮を執るなら、ソ聯人が私のやり方を見るのは構わぬが一切口出しはして貰いたくない。
どちらでも良いから決めてくれ。」と。幹部は即答しなかったが、翌日『お前の指揮でやれ』と云われた。
鞍山は全くの廃墟《はいきょ=荒れ果てたところ》と化していた。荒らされた社宅はあるが、誰も住んで居らぬ、実に淋しい死の街であった。
日本人の家族持ちは守備隊前一帯に住む事になり、我々単身者は直ぐ傍のお寺の裏にあった独身寮に落ち着いた。いよいよ鉄鋼所を復興することになったので、満人も順次帰って来て、その内に商店もでき、多少街らしくなってきた。
我々は毎日出勤して復興に取りかかった。その当時、会社にはバスが一台あっただけで、それには我々日本人だけが乗り、幹部も一般従業員も満人は殆どが自転車で通った。
会社へ行っても椅子も机も殆ど無い。しかしそんな中でも、製鉄所を復興しようという熱意は実に旺盛《おうせい》なものであった。我々敗戦国の日本人は、捕虜ではあったが非常に大事にしてくれ、戦勝国民の敗戦国民に対するような態度は微塵《みじん》も無かった。
製鉄所の復興という大目的に向かっては、日本人の力が不可欠である事を良く知って居り、彼らは日本人を100%利用したと思うが、我々も十分それに応えるだけの仕事はしたと思う。私は
戦前従業員であった満人を使って、毎日復興作業に励んだ。時に満人を怒鳴りつけたり、幹部に文句を言う事もしばしばだったが、彼らは決して逆らわなかった。その点、中共の方針は立派だったと思う。
会社の幹部は骸炭の事など何も知らなかったが、満人の旧社員は、ある程度判っているので、優秀な満人を使って順次復興を進め、八ヵ月後の七月、スタートの運びとなった。骸炭炉のスタートは大変な作業である。間違えば爆発の危険がある。炉の乾燥に着手する前から、私は目星をつけた満人グループを幾組 か作り、各組に分担業務を決め、何度もシュミレーションを繰り返して教育した。
乾燥も殆ど終わり、いよいよスタートの直前になって、ソ聯人の技術者が四~五人やって来て、現場の仕事を見て居った。私はソ聯人が来たからには、彼らが指揮を執るかと考え、会社の幹部に次のように問いただした。
「ソ聯人が来たようだが、今回のスタート業務は彼らの指揮に従って進めるのか。それとも私が指揮を執るのか。もしソ聯人が指揮を執るのであれば、私は見学はするが何も言わぬ。もし、私が指揮を執るなら、ソ聯人が私のやり方を見るのは構わぬが一切口出しはして貰いたくない。
どちらでも良いから決めてくれ。」と。幹部は即答しなかったが、翌日『お前の指揮でやれ』と云われた。
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あんみつ姫