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Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その6)

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あんみつ姫

通常 Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その6)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/6/16 19:16
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
 やがて気が付いたときは、助かった嬉しさがこみ上げた。その時十二時のサイレンが鳴ったと記憶している。外には出られたものの、足が痛くて歩けない。這《は》って道路まで出ると満人が通り掛ったので、洗炭工場の事務所に日本人が居るから知らせてくれと頼んだ。しばらくすると大勢の者が来てくれ、事務所に運ばれて、そこからは馬車で家に運んでくれた。一週間以上は随分苦しかった。次第に回復したが歩行は無理だった。

 防空壕の中には上着を残してあったので、若い者が取りに入り、私と同じ方法で上がろうとしたが、どうしても上がれなかったとの事だった。人間、死ぬか生きるかの瀬戸際に立つと、考え
られない程の力が出るものだと、つくづく思った。

 会社では私の足の治療の為、奉天病院にやってくれたり鉄西の満人の病院へもやってくれたが、骨が変形したので、そう簡単には治らない。会社からの専用馬車と、松葉杖《まつばづえ》で出勤して居った。会社では仕事らしい仕事も無く過ぎる内に、また遣送話が出た。「私は残るから他の者は帰してくれ。」と申し出て、何人かが順次帰国した。

 いよいよ最後の遣送と思われる二十二年九月には、皆と共に私も帰国できる積りでお願いしたが、私だけはどうしても帰れず、後半年手伝ってくれと言われ、仕方なく家族だけ帰して私一人残る事になった。その頃は松葉杖からステッキで歩ける程、回復してはいたものの、残る私も不安だったが、帰る家族は後ろ髪を引かれる思いであったろう。

 無蓋車で鞍山駅を出発する家族を、私は奉天まで見送りに行った。いよいよ汽車が出発した時、手を振って家族と別れたが、これが家族との永遠の別れになるかも知れぬと思うと、体中の力が抜けた様な気持ちであった。その夜は駅近くの収容所に泊り、翌日鞍山に帰ったが、日本人の姿は殆ど《ほとんど》見当たらず、寂しい限りであった。

 工場の者で、いよいよ最後まで残された者は、洗炭のH君と骸炭のW君、それに私の三人だけであった。我々残留者は製鉄所全体で約百名、家族を合わせて三百名ほどであった。私のように家族を帰して単身で残った者も三十名くらい居った。

この頃から中共軍の攻撃が激しくなり、平和のように思えた国民党の天下も怪しくなってきた。

内戦が終わらないので復興どころではなく、手伝えと云《い》われた工場の仕事も手につかないような状況であった。ある時は、鞍山が戦場になるので何処かへ避難しなくてはならぬかも知れぬ等と云われ、不安な日が続いた。

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あんみつ姫

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