Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その4)
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義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー <英訳あり> (あんみつ姫, 2005/6/16 18:51)
- 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その2) (あんみつ姫, 2005/6/16 18:52)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その3) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:12)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その4) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:13)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その5) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:15)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その6) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:16)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その7) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:17)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その8) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:18)
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- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その10) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:20)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その11) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:21)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その12) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:22)
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
その内に千山に篭《こも》って居ったという日本兵が何人か入って来て、千山が一斉襲撃された事が判った。牢の中も一番多い時は七~八人が一緒に入れられたため、夜などとても、寝られたものではない。
自分の足が下だと上の者の足が重くてとても眠れない。それで自分の足を一番上にする。その内に他の者が一番上になる。こんな事を繰り返して居る内に白々と夜が明ける。南京虫《ナンキンむし=害虫、トコジラミ》に悩まされたのは勿論の事であった。家内が大福餅やその他の物を差し入れてくれ、それを皆で少しづつ分けて食べた。
そんな事をしている内に、ある日兵士が来て、私に外へ出るようにと云った。何処へ連れて行かれるのか判らない。三、四人の兵士の居る部屋でちょっとした尋問《じんもん=問いただし》のようなものがあったが、もう良いから帰れといわれた。約十日ぶりで我が家に帰れた時は、本当に嬉しかった。家族は私が今日帰ることなどは全く知らなかったので、大層驚いた。
後で聞いた話しだが、千山に立て篭もった軍隊を手引きしたのが、私だという疑いがかけられたようだったが、結局は、何か口実を作って金を巻き上げるのが目的だったようだ。会社でパーローに捕《つか》まったのは私が最初であった。会社が金を出したので、牢から出て来られたのだと察知した。
会社の理事長に無事帰った事を報告したが、その理事長は、その日に捕まり連れて行かれてしまった。理事長は少々風邪気味だったので、奥さんが看護の旁《かたわら》ついて行ったが、それから間もなく、奥さんは持って行った青酸カリを飲んで自殺した。その後、あちこちで理事長を見かけたという話しも聞いたが、真偽は不明のまま、何時何処で殺されたか判らないままであった。その後も会社の幹部が何人か連れて行かれ、A総務部長も、N厚生部長も、何処へ連れて行かれたか全く行方が判らなかった。
各人は生活のために思い思いに何かをやった。私は所持品を売却したり、家内はシュークリームを作って新雅園に納め、生活の足しにした。このシュークリームは当時ちょっと有名になって売れ行きも良かった。
電燈も水道もない、遠くまで水を汲《く》みに行ったり、臨時に掘った井戸に早朝並んで水を汲み、風呂に溜《た》めておいて使った。ローソクはとても勿体無《もったいな》くて使えない。燈明《とうみょう=》生活であった。
国民党とパーローとの戦闘が続き、一般民衆も担架《たんか》隊に駆り出され、終に帰らない者もあった。台町付近で戦闘が激しくなり、畳を地下室に運び、一日中地下室で暮らした事もあった。戦闘が止み、家の窓から外を見ると、どちらの兵士か判らないが、三、四人の死骸《しがい》が見える。毎日不安の連続で、嫌《いや》な時期だった。
自分の足が下だと上の者の足が重くてとても眠れない。それで自分の足を一番上にする。その内に他の者が一番上になる。こんな事を繰り返して居る内に白々と夜が明ける。南京虫《ナンキンむし=害虫、トコジラミ》に悩まされたのは勿論の事であった。家内が大福餅やその他の物を差し入れてくれ、それを皆で少しづつ分けて食べた。
そんな事をしている内に、ある日兵士が来て、私に外へ出るようにと云った。何処へ連れて行かれるのか判らない。三、四人の兵士の居る部屋でちょっとした尋問《じんもん=問いただし》のようなものがあったが、もう良いから帰れといわれた。約十日ぶりで我が家に帰れた時は、本当に嬉しかった。家族は私が今日帰ることなどは全く知らなかったので、大層驚いた。
後で聞いた話しだが、千山に立て篭もった軍隊を手引きしたのが、私だという疑いがかけられたようだったが、結局は、何か口実を作って金を巻き上げるのが目的だったようだ。会社でパーローに捕《つか》まったのは私が最初であった。会社が金を出したので、牢から出て来られたのだと察知した。
会社の理事長に無事帰った事を報告したが、その理事長は、その日に捕まり連れて行かれてしまった。理事長は少々風邪気味だったので、奥さんが看護の旁《かたわら》ついて行ったが、それから間もなく、奥さんは持って行った青酸カリを飲んで自殺した。その後、あちこちで理事長を見かけたという話しも聞いたが、真偽は不明のまま、何時何処で殺されたか判らないままであった。その後も会社の幹部が何人か連れて行かれ、A総務部長も、N厚生部長も、何処へ連れて行かれたか全く行方が判らなかった。
各人は生活のために思い思いに何かをやった。私は所持品を売却したり、家内はシュークリームを作って新雅園に納め、生活の足しにした。このシュークリームは当時ちょっと有名になって売れ行きも良かった。
電燈も水道もない、遠くまで水を汲《く》みに行ったり、臨時に掘った井戸に早朝並んで水を汲み、風呂に溜《た》めておいて使った。ローソクはとても勿体無《もったいな》くて使えない。燈明《とうみょう=》生活であった。
国民党とパーローとの戦闘が続き、一般民衆も担架《たんか》隊に駆り出され、終に帰らない者もあった。台町付近で戦闘が激しくなり、畳を地下室に運び、一日中地下室で暮らした事もあった。戦闘が止み、家の窓から外を見ると、どちらの兵士か判らないが、三、四人の死骸《しがい》が見える。毎日不安の連続で、嫌《いや》な時期だった。
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あんみつ姫