Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その7)
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義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー <英訳あり> (あんみつ姫, 2005/6/16 18:51)
- 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その2) (あんみつ姫, 2005/6/16 18:52)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その3) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:12)
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- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その6) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:16)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その7) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:17)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その8) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:18)
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- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その10) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:20)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その11) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:21)
- Re: 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー(その12) (あんみつ姫, 2005/6/16 19:22)
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
二十三年二月、国民党と中共軍との大きな衝突が鞍山で始まり、銃声が激しくなると地下室に逃げ込んだりして居った。二日くらいの激戦で、鞍山は完全に中共軍が占領してしまった。
我々も捕まり、軍の幹部の所へ連れて行かれたが、大正通りの広い道路を渡る時には機関銃の音が激しく迫り、死ぬかと思った。
私は足が痛いので他の者のようには走れない。ようやく台町の幹部が占拠した家に辿《たど》り付いたが、別に何を聞くでもなく、顔を見ただけで帰れといわれた。
また皆で昔の白菊寮まで帰ったが、その時には機関銃の音が更に激しくなり、銃声の合間を見て道路を渡るのだが、私一人だけが残ってしまった。もはや流れ弾に当っても仕方ないと、思い切って走り抜け、向う側に着いた時には、やれやれ生きられたと安堵《あんど》した。戦争が収まった
後、日本人部落まで行ってみたが、双方の死骸であろう、そこここに転がった死骸はまだ片付けもされず、放置されて居った。
その内に軍の命令で日本人は全員移動する事になり、荷物を馬車に積んで、二月九日、鞍山を出発した。我々には何処へ行くのか全く判らない。私の乗った馬車と他の二台は、弓張嶺を通り、翌日の午後、本渓湖に到着した。他の者は何処へ行ったのか全く判らない。
本渓湖に三日ばかり居った後、本隊が続々と到着した。後続の本隊は我々の通った道とは違うルートで随分危険な個所もあり、その上馬車が故障して歩いたりしたため、私達より三日も遅れた事が判った。
本渓湖からは鉄道が通じて居ったので、鉄道で安東に行き、昔の満鉄寮に落ち着いて、安東での生活が始まった。別に仕事は無いが、月々若干《じゃっかん=いくらか》の手当てを貰《もら》って居った。これを貰うとボロ市に行き、日本人が帰国の際売り払っていった物を買っては、帰国に備えて居った。
時々共産教育も受けた。外見的には呑気《のんき》なように見えたが、精神的には辛い日々であった。何時帰れるのか全く望みはない。鴨緑江を何とかして渡って朝鮮へ逃げる方法はないかと検討した事もあったが、結局実行に移した者はなかった。
こんな生活をしていると精神的に参ってしまうので、何か心の支えになるような事をしようと話し合い、コーラス組、謡組、その他の様々な組ができて、気を紛らすことができた。
家族持ちは子供の教育に苦労した。学校の先生は二人しか居らず中学校の先生は一人も居らない。そこで、我々の中で専門別に中学生を教えることになり、私は化学を7~8人の生徒に教えた。
基礎的な事だけでも身につけて日本に帰れるようにと、一生懸命教えたが、生徒の大部分は、帰国後一流の大学を卒業して立派な社会人になっている。
【復興中の工場】
我々も捕まり、軍の幹部の所へ連れて行かれたが、大正通りの広い道路を渡る時には機関銃の音が激しく迫り、死ぬかと思った。
私は足が痛いので他の者のようには走れない。ようやく台町の幹部が占拠した家に辿《たど》り付いたが、別に何を聞くでもなく、顔を見ただけで帰れといわれた。
また皆で昔の白菊寮まで帰ったが、その時には機関銃の音が更に激しくなり、銃声の合間を見て道路を渡るのだが、私一人だけが残ってしまった。もはや流れ弾に当っても仕方ないと、思い切って走り抜け、向う側に着いた時には、やれやれ生きられたと安堵《あんど》した。戦争が収まった
後、日本人部落まで行ってみたが、双方の死骸であろう、そこここに転がった死骸はまだ片付けもされず、放置されて居った。
その内に軍の命令で日本人は全員移動する事になり、荷物を馬車に積んで、二月九日、鞍山を出発した。我々には何処へ行くのか全く判らない。私の乗った馬車と他の二台は、弓張嶺を通り、翌日の午後、本渓湖に到着した。他の者は何処へ行ったのか全く判らない。
本渓湖に三日ばかり居った後、本隊が続々と到着した。後続の本隊は我々の通った道とは違うルートで随分危険な個所もあり、その上馬車が故障して歩いたりしたため、私達より三日も遅れた事が判った。
本渓湖からは鉄道が通じて居ったので、鉄道で安東に行き、昔の満鉄寮に落ち着いて、安東での生活が始まった。別に仕事は無いが、月々若干《じゃっかん=いくらか》の手当てを貰《もら》って居った。これを貰うとボロ市に行き、日本人が帰国の際売り払っていった物を買っては、帰国に備えて居った。
時々共産教育も受けた。外見的には呑気《のんき》なように見えたが、精神的には辛い日々であった。何時帰れるのか全く望みはない。鴨緑江を何とかして渡って朝鮮へ逃げる方法はないかと検討した事もあったが、結局実行に移した者はなかった。
こんな生活をしていると精神的に参ってしまうので、何か心の支えになるような事をしようと話し合い、コーラス組、謡組、その他の様々な組ができて、気を紛らすことができた。
家族持ちは子供の教育に苦労した。学校の先生は二人しか居らず中学校の先生は一人も居らない。そこで、我々の中で専門別に中学生を教えることになり、私は化学を7~8人の生徒に教えた。
基礎的な事だけでも身につけて日本に帰れるようにと、一生懸命教えたが、生徒の大部分は、帰国後一流の大学を卒業して立派な社会人になっている。
【復興中の工場】
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あんみつ姫