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特攻インタビュー(第1回) 前編

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/11 8:59
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その11

 ◆東海沖特攻出撃(昭和20年3月19日)

 前村‥やっと筑波に帰れたなあと毛布にくるまって布団に寝ていたら、午前10時頃「空中勤務者集合、直ちにビス下前に集合」と呼び出されました。行ってみたら特攻出撃命令でしょ。

 そのときの戦隊長は、有名なサイパン爆撃の功績(アスリート飛行場攻撃に於いてアメリカ軍機12機炎上、全機硫黄島に無事帰還) で天皇陛下に単独拝謁を仰せつかった新海希典少佐という方なんですが、この人が大分海軍航空基地で爆撃くってるときに、逃げずに椅子に座って敵機を睨みつけていたというエピソードを持った人なんです。

 この人が爆撃の最中に一式高練で帰ってくるんですが、飛行場で適当なところがなくて、代々木の練兵場に着陸するんです。そこで航空本部に出頭したら、六二戦隊は特攻出撃しろという命令を受けた。新海さんはそれに強く反対して、ゴチヤゴチヤやっていたみたいです(編注・最後は「やむを得ないので自ら先頭に立ち、特攻として突入する」と主張しだしたという)。
 結局、航空本部の言いなりになって、翌日3機の特攻機を出撃させたんですよ。新海戦隊長は釈然としないまま、自分の先祖代々の墓が桜上水にあって、そこでいとこが坊さんやっているというもんで、お墓参りをしたそうです。翌日立川へ行って、迎えに来いと立川まで一式高練で迎えに来させて筑波に帰って来て、19日の朝早く帰ってきた。帰ってきたらすぐ出撃命令を出したわけです。それで私が1番機の航法ってことになりました。

 新海さんは、やっぱり特攻に出すのは六二戦隊じゃ未熟だということで反対したんでしょう。そりゃそうかもしれません。とうとう新海さんも、自分も戦果確認機として行くというので、我々3機攻撃機の後ろをずっと付いてきたんですよ。
 そして、帰って来なかった。

 --------でも重爆機で戦果確認といっても、実際には命懸けですよね。

 前村‥そうです。命懸けだし、確認は取れていませんが、新海さんはその飛行機に250短の爆弾を積んでいたんじゃないかという話もあります。我々が体当たりをしたのを見て、自分も体当たりをするつもりだったのではないかと言われていますけどね。
 新海さんは、自分が特攻命令を出していたにも関わらず、航空本部では六二戦隊のあの日の出撃を特攻とは認めていないんですね。だから戦死しても特攻隊の戦死者のように2階級特進にはなりませんでした。本来なら大佐のはずなのですが。

 --------私も調べてみましたが、この3月19日の出撃は特攻の記録としてはないですね。

 前村‥ええ。だけど我々は大分海軍航空基地から帰って来て、「空中勤務者集合!」と呼び出され、慌てて飛行場に行ったら黒板に〝攻撃法ハ特攻トス″って、はっきり書いてあるんですよ。ここにある当時の写真に ”攻撃法ハ特攻トス″ の文字が黒板に書いてあるのが見えます。それでも特攻と認めていないんです。特攻であるかないかで遺族年金が違うし、本当に…、ご遺族の方にしてもお気の毒ですよね。

 --------3月19日の出撃は、前村さんとしては初陣となるのでしょうか?

 前村‥初陣ですね。












 (後編へ続く)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/10 7:36
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その10

 ◆戦隊訓練開始(2)

 --------特操出の空中勤務者であるとか、士官学校出の空中勤務者であるとか、操縦がまた全然違うと思うのですが、いかがでしたでしょうか?

 前村‥違いますね。特操でも1期生の古いのは上手でした。

 --------来たばかりの操縦の方が来ると、ヒヤヒヤもんですか?

 前村‥そりゃそうですよ (笑)。やはりヒヤヒヤもんですよ。

 --------気持ちとしては、特攻隊で出撃するのと、あまり変わらなかったのでは?

 前村‥そうそう、いきなり機体がバウンドするしね。やっぱり恐かったですよ。

 --------3月になって、大分海軍航空基地の方に行かれるんですけれども、それは跳飛弾爆撃の訓練ということで行かれたのでしょうか?

 前村‥そうです。一応名目上は跳飛弾爆撃訓練という日的ですが、実際の訓練は挑飛弾なんていうものは落としたことないんですよ。軍艦めがけて、さっと低空で行って軍艦の甲板をスーツと乗り越えて、また超低空で離脱する、でまた超低空でやる、こういうすれすれの飛行訓練を1日、午前・午後と繰り返します。
 私の記憶では午前中12回、午後12回というふうに覚えているのですが、実際にはそんなに行ってないかもしれません。それほど体が続かないと思うんですよ。ああいう飛び方をするには、本当に体力がいるんですよ。こうしたときに、よくGがかかるっていうでしょ、たしかにその通りなんです。頭が上がらないくらいのGがかかってくるんですよね。そういう訓練を1週間~10日と何度も繰り返しましたね。

 --------あれは飛行第六二戦隊の全機が行ったのではなくて、そのうちの何機かが派遣されたのですか?

 前村‥そうです、全機じゃないです。たしか全部で8機~10機くらいいたのかな。そのうちの1機が、軍艦の甲板を乗り越えたのはいいけど、降りすぎて洋上に接触して飛行機が真っ二つに割れ、それに8人乗っていて4人くらいが死んだんじゃないですか。残った4人は病院へ収容されました。その中に1中隊の中隊長の岩本大尉がいたんです。病院へ収容後、1週間~10日で帰ってきましたが……1カ月後には飛行機が墜落して、その人も死んだ。別府湾で洋上に接触したのはその1機だけでしたよ。

 --------海軍の飛行基地に移動して、どこで宿泊していたのでしょうか?

 前村‥我々が宿泊したのは、海軍の基地にあった広い体育館みたいなところに座布団をひいて、そこに寝泊りしていましたよ。

 --------やっぱり、陸軍の基地と海軍の基地とでは違うところがありましたか?

 前村‥そこは臨時の宿泊所だから正式じゃなかったです。10日~2週間くらいいたのかなあ。1週間か10日くらい経ったら、米軍艦載機の爆撃が始まったんですよ。3月18日に爆撃くって慌てて逃げ出して、19日の朝に筑波に帰りました。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/9 8:34
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その9

 ◆戦隊訓練開始 (1)

 --------飛行第六二戦隊が南方から三々五々やってきて、だんだん忙しくなってくると思うんですが、実戦へ向けての訓練という形に変わったのでしょうか? 経験豊富なベテランの先輩方が集まってきて、ようやく部隊としての形ができて…。

 前村‥そうです。歴戦3年も4年も南方でイギリスの基地を爆撃してきた人たちが。当時はまだ特攻攻撃は始まっていないので、通常の水平飛行の爆撃です。それでも爆撃に行って戦闘機に撃たれて、すでに相当数死んでいたわけですけれど。

 内地に帰ってくる本当の歴戦の勇士っていうのは、数えるほどしかいませんでした。皆初々しく特別操縦見習士官だとか逓信省の乗員養成所出身だとか…。うちには少年飛行兵に操縦士はいなかった。何人かはいたけど。通信には少年飛行兵が多かったです。

 --------各務ヶ原飛行場での機体の装備はいかがでしたでしょうか?

 前村‥各務ヶ原飛行場周辺を飛んで、部品が足りないのか何か分からないけれど、長野の松本の飛行場まで行ったりしたこともありましたよ。ほとんど各務ヶ原で。ところが、キー67も標準機から「と号機」とか「さくら弾」を受領したのが、4月から5月にかけてですね。

 実は、三菱重工の名古屋で造った標準機の機体に、さくら弾を乗っけたり、と号機のように爆弾を2発積むような工作をしたりつていうのは、みんな岐阜の各務ヶ原にあった航工廠という、お役所がみんな装備したみたいだね。三菱とか川崎がやった訳じゃない、みんな航工廠がやったみたいですね。そのへんは、はっきりしたことは覚えていないんですけれども、航空廠と川崎重工か川崎飛行機か三菱重工か……こういう絡みはなかったんです。

 --------有名な話で、名古屋の三菱の飛行機で、飛龍なら飛龍を作って、その後、各務ヶ原まで持っていくんですが、三菱の工場近くに大きな飛行場はありません。そこで陸送で持って行かなきやならないんだけど、当時、列車で運ぶには大きすぎてトンネルを通れず、車で持っていくと道路状況が悪く、機体が壊れて揺れてしまうので、牛車に乗せて路上をゆっくりゆっくり運んでいったという話がありますね?

 前村‥そういう話、聞いていますよ。戦後になってからですが、牛車で引っ張ってキー67の機体を運んだって話は、よく聞きますよ。

 --------飛行第六二戦隊の本隊が帰り、機体を受領した頃は、今までの通常の攻撃で陸軍の爆撃法を訓練していたのでしょうか? 海軍の洋上航法のやり方の訓練は、既にその頃から始まっていたのでしょうか?

 前村‥いや、3月末くらいに飛行機がだいぶ揃ったから、洋上航法訓練をやろうっていう場面はなかったですね。ほとんど離着陸の訓練が多かったです。というのは、操縦士が特操の1期・2期とかいう人たちですから、操縦に慣れていない人が多かったんですね。だから、ほとんど夜間や薄暮の離着陸の訓練でしたよ。
 我々航法では、航法訓練をやろうというチャンスがほとんどなかったです。ただ、各務ヶ原に出張するときに自分でやったくらいです。うちの部隊に航法をやれという主任はいましたが、この人は飛行機にあまり乗ったことがないですね。中隊長候補の教官をやったくらいの人なんだけど、この人も操縦の途中で転科した人だから、航法の勉強は六二戦隊ではあまりやらなかったですね。

 --------離着陸の訓練のときには、前村さんには航空士として担当の飛行機や、一緒に乗ってるだけかもしれないですけど、空中勤務者割でペアが決まっていて、ずっといつも一緒に乗る感じなんでしょうか?

 前村‥いや、それが出撃というとペアが決まってしまいましたが、出撃命令の前の段階では、ランダムに乗っていましたね。決まったペアというのは、あまりなかったと思うな。

 --------じゃあ、訓練のときには、相手がランダムに乗ってきたらスタートする、みたいな感じなのでしょうか?

 前村‥そうなんですよ。ただ、航法のくせに離着陸訓練の飛行機にはしょっちゅう乗っていたんですよ。それがまた恐くてねえ(笑)。操縦の特操の少尉さん二人が訓練しているとね、…俺、着陸苦手なんだよね、お前やってくれよ…っていう会話が絶えず訓練中に聞こえてきて、一緒に乗っている私としては恐かったですよ (笑)。

 --------そういえば、飛行機の前方真下の透明な風防のど真ん中にいたのでしたね。

 前村‥そうそう!あそこに座っていると伝声管から聞こえてくるんですよ(笑)。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/8 15:17
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その8

 ◆陸軍飛行第六二戦隊への配属

 --------この後、昭和19年12月に卒業されて、すぐにいよいよ実戦部隊へ配属となったのでしょうか?

 前村‥そうです。ただ、私たちは12月の20日過ぎに卒業して、10人が飛行第六二戦隊に一緒に赴任しましたが、そのまま宇都宮に2~3カ月残っていたグループもいたんです。翌年3月になってから六二戦隊に来たのがいます。ここにいる花道っていう、この間テレビに出ていました彼なんかは、私らより六二戦隊に来たのが3カ月も遅れている、そういう者もいたんですよ。

 --------前村さんは配属が決定されてすぐに?

 前村‥はい、すぐですね。10人の中で私が一番年上なのか成績が良かったのか、先任で号令かけて申告したりしたもんですよ。

 --------それで西筑波の方に赴任されたわけですね。行ったらビックリされたとか?

 前村‥そう、行ったら誰もいないんだ(笑)。その代わり楽でしたよ。炊事場にいけば白米の飯はたっぷりくれるしね。それこそ半分しか食えないくらい大目にくれるんですよ。酒はくれるし航空糧食はくれる。毎日毎日、将棋をやったり。あんまり暇なんで男のくせに刺繍までやりましたよ (笑)。

 --------そのとき飛行第六二戦隊の本部隊は南方にいて、筑波に移動中だったのですね?

 前村‥そうなんです。フィリピンのクラークフィールドからナムレア、スンゲイパタニ、アピ、サイゴン、海口を経て、台湾の嘉義に1回着陸して、福岡、福生、再び残留者の輸送に台湾へ向かう途中、経由地の上海で戦闘機に攻撃され、その間にずいぶん死んだ人もいましたね。うちの中隊長なんかは上海の飛行場の手前で撃たれて、背中に火傷をして病院に入ったっていうのもいるし、結構帰るのも大変だったみたいですよ。私らは行ったことがないから。

 --------前村さんは航法学校、宇都宮に入られた段階では、まだ特幹の学生扱いだったんでしょうか?

 前村‥そうです、学生ですね。階級は、もうそのときは上等兵になっていたかな。

 --------特幹の卒業生として飛行第六二戦隊に派遣ということになったのですか?

 前村‥そうです。ただその辺は、六二戦隊に入って3~4月くらいまでは、皆一列に上等兵として階級章は座金がついていたわけですが、4月になったら、たしか兵長になったと思うんですよ。星がなくて筋1本付いて。それで、私が沖縄に行ったのが昭和20年4月17日なんだけど、兵長で行ったのか上等兵でいったのか、よく覚えていないのですね。

 --------候補生だったのですね?

 前村‥伍長になって座金がとれなければ候補生なんですよ。まだ一人前の下士官じゃないんです。

 --------学生扱いなんですね?

 前村‥そうなんです。同期の花道と大内というのは、昭和20年5月25日に出撃しているのですが、この2人が行くときには伍長になって行っているんですよ。私は行かないものだから、こちらは伍長にならないんです。出撃する人間だけ伍長になっている。ということは、伍長で戦死すれば、特攻で戦死した人は少尉になる。ただ我々みたいに兵長で戦死したのは准尉にしかならない。そういう差がありましたね。彼らは特別待遇で行ったんです。だから私の機のすぐ前を飛んでいた同期の近藤と村瀬なんかは、戦死したけど少尉じゃなくて准尉になってるんじゃないのかなあ。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/7 8:21
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その7

 ◆航法士訓練(2)


 --------爆撃照準するための場所は別の場所にあったのですか?

 前村‥(写真を見て)爆撃照準眼鏡は丁度この下にあるんです。ここにL字型に出ている、ピトー管と言いまして、速度計と風圧計はここにあったんですよ。

 --------それは爆撃手が別にいて、その人がやるのでしょうか? それとも前村さんが調整するのでしょうか?

 前村‥それは爆撃手がやるでしょ、私は航法であって、あまりいろいろな仕事はしてなかったですね。ただ、誰もいないときは射手もやらなきやいけなかったんだけどね。

 --------宇都宮の方の航法学生として12月くらいまでいらして、その次は当然演習の日、他の用途機に乗って実地訓練を受けられたわけですが、先ほど仰しゃられたように金華山沖とか仙台の方に行って訓練されたのでしょうか?

 前村‥機種はみんな一式高練です。一式高練は教育用の飛行機だから、爆撃照準眼鏡を4台か5台くらい並べて、それぞれやっていましたよ。

 --------あれも向き不向きがあるんですか?同期生でも航法士として優秀な人とかちょっとそうでない人とか……。

 前村‥ありますね。よくこんなのが航法に受かったもんだなあっていう同期もいますよ、酒ばっかり食らって(笑)。だけど、やっぱりある程度、勘がないとね。航法の場合はプラスとマイナスをよく間違える。プラスとマイナスじゃ全然逆ですからね。そういう些細なことがあると思うんですよ。

 --------勘の悪い方の乗った飛行機っていうのは、ほとんど帰ってこなかったのでしょうか?

 前村‥まあ、操縦士も航法の基本的なことはやっているから、そうとも言えないでしょうけれど、航法士から「次の進路、何度」 って言われたら、「これ、違うんじゃないか」ということはあると思うんですよ。

 --------やっぱり操縦士と航法士のコンビネーションというか、息がピッタリ合うことが重要なのでしょうか?

 前村‥やっぱりその辺が重要だと思いますね。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/6 9:56
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ◆航法士訓練(1)

 --------ちょうどそのときに矢面に立たされたのが、前村さんの世代ですね。

 前村‥そうなんです。それに呼応して我々が航法を勉強したということですね。

 --------最初に実戦機に乗り込んでからキー67しか乗っていないのですか?

 前村‥私は双発の高等練習機とキー67、2機種しか乗っていないですね。呑龍にも97式重爆撃機にも乗ったことがないです。

 --------キー67の場合だと、操縦士が右側にいて副操縦士がいてというような配置ですが、前村さんの航法士はどちらの配置だったのでしょうか?

 前村‥正操と副操の間に機関係の席がありまして、機関係がどいてくれると階段があるんですよ。3つか4つ。その階段を下に降りたところに、手で引っ張ると前に出てくるような丸い椅子があって、それが航法席なんです。機体前方下の風防ガラスの中に座る状態になっちゃうんですよ。両足を着いていると風防ガラスから下の光景が全部見えるのが、我々航法の座席でした。

 --------前方が風防だけなので視界がいいということですね?

 前村‥そういうことなんでしょうけどね。操縦士との連絡は伝声管と言って、飛行帽の付近に金属パイプが出ていますから(聞き取る方の管)、そのパイプにガチヤツとはめて、口元にはこんなパイプを持って操縦士と話をする。
 今は無線で電話ができるんですが、当時は金属パイプを通して会話しました。

 --------あれは結構聞こえるものなのでしょうか?

 前村‥聞こえますよ。

 --------配置から考えて、前方の機銃掃射は前村さんが行ったのでしょうか?

 前村‥はいそうです。本当は前方銃も射手がいるはずなんですが、私がこの飛行機で浜松沖に行ったときは、これが無くて前方銃があったんです。だから私は航法と射撃と両方やらなきやいけない任務だったんです。正直なところ、射撃はやったことなかった(笑)。
 
 射撃の訓練は受けたことないんですよ。1回だけ地上で撃てって言われてやったことあったんだけど……機関砲は難しいですね。腹ばいになって機関砲撃してダダダダ~と弾が出て、銃身が全部目の前に弾がボンボン入るような……で、おっかなくなってね、もうやめましたよ (笑)。射手はやるもんじゃないって (笑)。

 --------簡単なものじゃないんですか?

 前村‥あれは簡単なものじゃないですね。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/5 8:07
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その5

 ◆航法について(2)

 --------測定は何分くらいで行え、という決め事はあったのですか?

 前村‥そういう決め事はなかったですけどね。やっぱり操縦士も疲れないような、依頼するにしても状況を考えて依頼しろと言われていましたね。

 --------前村さんの経験だと、大体10分か20分、天測で今の位置どのくらい、と計算できるものなんでしょうか?

 前村‥10分、20分っていうけれども、ずっと長い間の一連の作業じゃないんですよ。パッと天体を捕まえたところで、それから5分間たってからまた保針をやる、そういう測定の仕方ですからね。さほど労力をかけずに天測できたと思うんです。

 --------推測航法っていうのは、また違うのでしょうか?

 前村‥推測航法っていうのは、爆撃照準眼鏡っていうのがいつも股のところに挟んでありまして、天板を回せばメーターが回るようになっています。
 地図を見たら川の曲がり角がこうなっていて、ここを目標に捉えてスーツと並行して流れるような飛び方をして、針路が何度何分何秒って羅針盤で出るわけですよ。
 それからもう一つ、対地速度測定っていうのがあって、爆撃照準眼機の天板を回すと、前方の目標をつかむことができる。それをつかんでまた前方の目標が流れてくるときに、何秒か遅れて流れて来たと。そうすると何度の方向から何キロの風が吹いているっていうのが計算で出てくるわけですよ。
 大体地球の偏西風っていうのは常時吹いているもんですからね。その辺を考慮に入れて、常識的に偏西風っていうものを覚えていかなきやいかん。飛行機はまっすぐに飛んでいるつもりでも、すぐ風に流されてしまうので、どれだけ流されているのかを推測し針路を修正してゆきます。

 --------やはり洋上航法、太平洋上で、海しか見えないと測定も難しくなるのでしょうか?

 前村‥洋上の場合は、大抵波がザブンとなったときに、白波が、泡が出るんですね。その泡が一杯あるわけですけれど、ある泡をポッとひとつかみ、それから目標物として目を外さないようにして測定する。次の泡を追って、この泡と泡の間を何秒で通った、今何キロ走っているというようなことを計算するんですよ。
 飛行機の羅針盤というのは、実にいい加減な測定器でして、磁石なんですね。だから、カメラでも持って羅針盤の側に行くと、それだけでも針が動いて誤差が出ます。それから速度計っていうのも、これも実にいい加減。これは速度計というより風圧計なんです。風圧だけで計測する。やはり航法的に正確な風向・風速・飛行機の速度・定時定点に持っていくためには、ただ単純に羅針盤と速度計だけでの計測だけは難しい現実がありましたね。

 --------先程、羅針盤の話が出ましたけれど、よく軍刀を持ち込んで飛行機に乗るという映画のシーンがありますが、軍刀なんかでも反応するのでしたら、映画用に撮られた ”やらせ″ なんでしょうか?

 前村‥全然だめ。ただ戦闘機に乗る場合には軍刀でもね、羅針盤が狂ったら狂ったまま行けるんでしょうけれども、重爆の場合には、とても軍刀なんか持ち込んではだめですね。

 --------じゃあ、実際に軍刀を持ち込むこともなかったのですね?

 前村‥なかったですね。少なくとも我々はなかったです。ピストルも持たされなかった。だからね、本当に飛行機っていうのは単純っていうかいい加減。羅針盤と速度計でよく飛んでいるなあと、我々航法士から言ったら、本当に危険だなあと思います。

 --------実際にそれでよく行方不明になったっていうのは、戦記とか戦史ではあるんですが、やっぱり航法ミスもあったのでしょうか?

 前村‥航法ミスっていうのは結構あったんじゃないでしょうか。特に硫黄島から日本に帰ってくるときとか、サイパンからのときは、燃料が切れて墜落するっていうことが、非常に多かった
と思います。

 それから後の昭和19年10月に台湾沖航空戦というのがありまして、あれには海軍の爆撃隊も行ったけれども、陸軍飛行九八戦隊という雷撃隊も行っているんですよ。それで陸軍の場合、海軍は偵察員のような航法の専門家が乗っているから無事に帰って来られるんですが、九八戦隊の場合には、あんまり航法員を乗せてなかったんです。だから行って雷撃はするものの、帰ってくるときには、ちょうど偏西風を逆風に受けて帰ってくる状態でしたからね。あと30分で台湾の航空基地に着くはずが1時間たっても着かない、ということで、燃料切れで海の中に墜落した九八戦隊がずいぶん多かったんです。あれから陸軍が慌てて航法員を乗せようと、積極的にやりだしたのが昭和19年の冬ぐらいかな。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/4 9:19
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その5

 ◆航法について(1)

 --------でも、先ほどもお話があったように、当時陸軍に航法なんていうものはないし、聞いても「?」という感じでしたか?

 前村‥ええ、初めて航法って聞きましたね。だけどね、その前に20人か30人ずつくらい、曹長さんや軍曹・伍長の下士官の教育を受けた人がいたんですよ。その人たちが、我々の内務班長ということでやったけど、この人たちは航法を教えてくれるわけじゃないんです。航法を教えてくれるのは、士官学校の56期くらいの人が、それこそ白城子でみっちり訓練を受けた寺島中尉という主任教官が、非常に熱心に航法を教えてくれましたね。

 --------特幹1期生としての航法士、同期生は何人くらいいらっしゃったのですか?

 前村‥150人です。150人が、ほとんど一緒に訓練を受けましてね。4カ月間……だから8月に宇都宮に入って、昭和19年12月の末には卒業、航法って言うんで……その間には、宇都宮から仙台まで行って出張訓練をやってみたり、太平洋側の金華山のところまで訓練で飛んだりしてましたね。

 --------航法士の勉強っていうのは、最初は教科書開いて座学から始まるのでしょうか?

 前村‥そうですね。航法っていうのは、水測航法っていうのと無線航法と天測航法と、3つか4つ航法があるんですね。そのうちの推測航法と天測航法を、私たちは勉強しています。無線航法は、全然、無線機は扱っていませんね。

 --------例えば天測航法っていうのは、どういうものなのでしょうか?

 前村‥天測っていうのは、このくらいの機械で六分儀とか八分儀っていう望遠鏡みたいなやつがありましてね。昼間は太陽を使いますが、夜間は星を使います。まず星の名前を覚えないといけません。その星の名前とは、1等星、いわゆる恒星です。恒星はほとんど動かない位置にあるから基準になります。よく星の名前を夜中に覚えたものです。今だに15や20の星の名前を覚えています。星にはシリウス、シエダ、ポルックス、カストル、ポラリスなどがありました。
 それらの天体を六分儀で捕まえて何時何分何秒とメモをとってね、もう一つ、これとは対照的にポラリス (北極星)を捕まえて、それと恒星がおちあったところが自分の位置です。それを計算して、ちょっとややこしい…。
 天測の場合には天測図とか天測略歴とかっていう厚い立派な本を両方、重いのを持っていかないとなかなか出ないんですよね。だから、一生懸命飛行機の上で何時何分何秒って書いたり、天測図には、この星は何月何日何時何分には、こういうような経路で移動していると書かれた表がありましてね、それらの本を持って乗ったもんですよ。

 --------そういう星っていうのは飛行機の窓から覗きながら見るのでしょうか?

 前村‥そうですね、飛行機の窓から。

 --------重爆だと、上にも天窓がありますね。

 前村‥ええ。飛行機ってやつは絶えず様々な条件で上下左右に動くから、操縦士が機体をしっかり安定させるために操縦桿を握っています。操縦士に「これから測定開始、保針!」って伝えて……保針っていうのは、針を動かさないように固定してくれと頼むわけです……それに操縦士が「了解」と応えてやっと測定を始めます。そのような連携を取りながらの作業です。だから、保針をいつまでも続けさせると操縦士は疲れてしまいましてね、あまり長時間は駄目らしいです。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/3 8:15
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ◆空中勤務者試験

 --------それは学校に?

 前村‥教育隊にです。ポスターを見てから班長に、これこれこういうわけで空中勤務者になりたいと言ったら、すぐ簡単にOKを出してくれたみたいでね、2人が一緒に試験を受けに行くことになりました。京王線の調布に昔、京王閣っていう遊園地があったんです。その京王閣のあった場所で空中勤務者の試験が行われたんです。人によっちゃ3日間試験を受けたとか言いますが、そんなに長く実際には受けていないと思うんだけどね。一晩泊まりくらいで受験したかもしれません。

 --------京王閣っていうと、今の調布市の競輪場があるところですか?

 前村‥知らないんですけどね。いわゆる京王閣っていう遊園地だけしか覚えていないです。戦後、行ったこともないしね。

 --------そうすると、空中勤務者っていうのは、特別な試験みたいなものはあったんでしょうか?

 前村‥ありましたね。椅子に座ってクルクル回されたりね、紐があって棒が立っていて、これを手で左と右の棒がピッタリ合うように目祝して動かしてやるというような試験があったり。4桁5桁6桁位の窓から数字がパッと落ちるやつを、瞬間的に数字を記憶するというようなテストがありましたね。上から出る数字もあったし……まあ、あれはいわゆる空中勤務者としての、あるいは航法としての特別な試験だったのかなと思います。パッと落ちてくるやつを瞬間的に捕らえるということは、航法には絶対必要なことですから。

 --------空中勤務者の試験ということは、空中勤務者の操縦とか偵察とか、その後に細かく分かれるんでしょうけども、そのときは空中勤務者ということで、具体的な職種とはまだ全然解らなかったんですか?
 
 前村‥解りません。空中勤務者というのは、飛行機に乗るというだけで、飛行機乗りということは、飛行機の操縦ができるというふうに、最初は単純に思っていたんですね。それで合格して……私はちょっと目が悪いんですよ。赤緑(せきりょく)色弱っていう色盲じゃないんだけれども、色弱なんですよ。成績表を見たら全部〝甲〟だっていうのに、目だけが "乙〟と書いてある。これは駄目だなあと思ったら合格。2日目位に宇都宮に行けと。確か東京駅から浜松に戻らないで、真っ直ぐ宇都宮に行った。そして落ちた同期は、浜松に戻ったんですね。こいつはまだ元気です。

 --------それで宇都宮に行って、航法の勉強にすぐ入るんですか?

 前村‥はい。しかも飛行機は双発の高等練習機〝高練″って言われていた一式高練……(写真をご覧になって)我々はここに乗って……10人位乗ったんじゃないですか? 操縦士とか機関係以外に10人くらい乗ったと思いますよ。でもこれがエンジンの後だから、排気ガスが臭くてね、すぐ乗物酔になってしまいましたよ。でもこれは優秀な飛行機だったらしいね。

 --------宇都宮に行けっていう段階には、もう航法士になることは決定していましたか?

 前村‥いえ、それは解りません。僕らは宇都宮に行けって言われたときには、操縦士になれるとばっかり思っていました。ほとんど3日か4日目くらいには、慣熟飛行ということで、すぐ飛行機に乗ったと思いますね。それで10分か15分、宇都宮から飛び立って利根川を渡って富士山が見えてなんていうんでね、20分か30分くらいの飛行をやって着陸。ところがそれくらいの飛行でも慣れないから、皆ゲーゲー吐くんですよ。

 --------それはさっき伺ったように、ガソリンの臭いとか排気ガスの臭いのせいですか?

 前村‥そうだと思いますね。おそらく3回か4回ぐらいまで……だから大体皆乗る際に「靴下持って乗れ」って言われるから。軍隊の靴下を1足持ってね、吐くとき、その靴下の中に吐くのです。あれは嫌だったですね。

 --------前村さんも吐いた口だったのでしょうか?

 前村‥やっぱり私も1回ぐらい吐きました。

 --------慣熟訓練で初めて飛行機に乗られたわけですか?

 前村‥そうです。初めて飛行機に乗りました。

 --------そのとき、乗客のような気持ちで黙って乗っていたのですか?

 前村‥そのときはお客さんみたいなもんで、何もないし……ただ、「お~、あそこに富士山だ! 利根川だー」ってな感じでね。観光旅行みたいなもんですが、もう5分もしないうちに気持ち悪くなってきて…。それも3回か4回の体験飛行で慣れたのかなあ。

 それで、最初のときに慣熟飛行をやって、我々は航法というものを勉強する為に宇都宮に来たんだっていうのが、3日目か4日目に教わって解りましてね。飛行機を正しく定時定点まで誘導するのが航法の仕事だと…。久しぶりに《定時定点》 っていう言葉を今思い出して言ったんですがね、当時から《定時定点=決まった時間に決まった点に運ぶ》が航法の任務だというふうに教わっていました。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/2 7:52
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その3


 --------特幹兵というのは、歩兵さんとか砲兵さんとかを育てるというより、航空兵になるというのは、最初から決まっていたのですか?

 前村‥そうですね。最初から決まっていて、特別幹部候補生としての科目で、操縦と整備と通信と射手も教育したんだろうと思いますね。大体そのような兵科専門の下士官を育てようとしたみたいですね。その中に航法っていうのは当初なかったんです。そのほかには船舶兵をたくさん採用したらしいです。

 航法っていうのは、特別幹部候補生として応募して、その後にですね。特別幹部候補生から航法を育てたほうがいいということになって、満州の白城子にあった航法学校・操縦学校を戦争の情勢があまり芳しくないというので、急きょ昭和19年に宇都宮へ引き上げました。宇都宮で新しく航法学校・操縦学校を開始したときに、我々150人の兵隊が初めて航法学生として入ったわけです。それまでは航法士の養成は年間20~25人とか、その程度の人数の教育しかしていなかったんです。

 --------それまで陸軍航空部隊で航法というのは、特に勉強もせずにいたのですか?

 前村‥それまで陸軍は、山や川や海岸を地上の目印にして飛ぶ地文航法でしたが、敗戦色が濃くなってくると何の目印もない洋上を飛ぶ必要に迫られ、他の航法を勉強せざるを得なくなってきました。それまでは南方で、どうしても洋上での航法が必要になったときは、海軍から偵察員を呼んで派遣してもらって、飛行機は陸軍の飛行機だけど、航法は海軍の入っていうのを結構やっていましたよ。陸軍の雷撃隊だとか爆撃隊なんかそうですね。海軍は〝航法士″って言わないで "偵察員″って称していましたね。

 --------浜松に入営したときの話に戻るんですが、入営して最初の訓練は考えていたことと全然違った印象でしたか?

 前村‥浜松に入隊しましたらね、我々は中学時代に軍人として基本的なオイッチこ、オイッチこの行進だとか銃の持ち方だとか、ひと通り終わっている訳です。だから、どっちかと言ったら飛行機の整備。つなぎの作業服を着ましてね、当時の中国人みたいな作業帽を被って、飛行機のエンジンの教育をだいぶ受けました。

 --------それは後々の職種と関係なく全員が必ずですか?

 前村‥そうです。ただし、我々の中隊は重爆のエンジン、8中隊・9中隊は軽爆のエンジンとか。それから違う中隊は機関銃の整備だとかね、そういうものをやっていましたね。

 --------そうすると、入隊したときにルートは事前に決められていたのでしょうか?

 前村‥決められていますね。入った教育隊でも、中隊ごとに違っているということで、ほぼ決められていましたね。

 --------それはご自身の志願ですか?

 前村‥違います。

 --------前村さんが入隊した時点で、戦闘機の空中勤務者になりたいお気持ちなどありましたか?

 前村‥いや、それはとても予測もできませんでしたけれど、入隊した当時は軍隊の命令の赴くままという感じでした。3カ月の基本訓練が終わってから、後輩の第2期生というのが入ってくるわけですね。

 その際に、私が班長から信用があったのか、皆、南方や中国に持って行かれて転属になってゆくのに、私と松本と大野っていう3人だけが、次の2期生の指導候補生として残されたんですよ。残されてまた一生懸命、初年兵の訓練・指導をやっていましたけれども、ちっとも面白くないんですね(笑)。

 そしたらある日、兵舎の出入口付近に空中勤務者になるための試験の告知ポスターが貼り出されていました。
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