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特攻インタビュー(第1回) 後編

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/27 7:41
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 前村弘(陸軍特幹一期生)軍歴


 1942年(昭和17年)12月    

   長崎市立商業学校卒業

 1943年(昭和18年) 1月    

   東京都芝区三田住友通信工業無線工場入社
   (現在港区三田日本電気株式会社)

 1944年(昭和19年)4月20日

   陸軍特別幹部候補生第1期生として合格
   浜松第七航空教育隊三中隊入営
   約3ケ月軍隊訓練と共に重爆撃機の整備について教育を受ける。

  7月末頃  

   第二期生入隊に対し、1期生として3人が指導候補生として初年兵指導を担当。
   指導教育は私に合わないと東京調布飛行場にて空中勤務者の試験を受け合格。

  8月初旬  

   宇都宮飛行部隊航法学生として4ケ月教育を受ける。
   一式双練で実地訓練・洋上訓練・天測航法などを学ぶ。

  12月下旬  

   宇都宮飛行部隊航法学生としての教育修了。
   西筑波基地にて陸軍飛行第六二戦隊へ転属。
   戦隊の大部分は未着で1名の将校と下士官1名がいたのみで、約2ケ月近くやることもなく、ぶらぶらしていたこともあった。

 1945年(昭和20年)2月末

   飛行第六二戦隊の主力が南方から帰着するとともにキー67(飛竜)が2機3機と配属され、ほとんど操縦訓練主体であった。
   ただし航法者も大半は搭乗していたが、航法訓練はあまり実施できなかった。

   3月12日頃

   主力約10機で大分海軍航空隊の基地へ移動。
   艦船攻撃の目標での跳飛弾爆撃訓練がほぼ終日あり、実に猛訓練であった。

  3月18日  

   早朝6時頃、米艦隊が接近して来て戦闘機により基地は猛爆を受け被害甚大。
   我が戦隊でも半数ほどの機が犠牲になった。
   約60~70名の飛行第六二戦隊の空中勤務者たちは一様に私物を空襲で焼失、丸一日食事も取れなかった。

  3月19日  

   早朝、大分基地を出発、西筑波基地へ帰着。
   昼頃、突然の集合命令で飛行場に行ったが、浜松南方沖の米機動部隊に対し出
   撃命令あり、「攻撃ハ特攻トス」と黒板に記載されてあった。
   攻撃機3機、戦果確認機1機(戦隊長・新海希典少佐自ら搭乗する)の誘導を
   航法で行った。残念ながら4機中2機末帰還、2機は浜松基地と各務原基地に不時着した。

  4月12日  

   沖縄戦に対して飛行第六二戦隊は特攻部隊に指定され出発、大刀洗飛行場に集結。

  4月17日  

   飛行第六二戦隊から第一陣として特攻3機が出撃するも与論島付近で敵と遭遇し特攻失敗。
   2機末帰還。搭乗していた機のみが燃料ギリギリで鹿屋基地に帰着。
   被弾20~30発でよく飛べたものと降りてから冷やっとする。

  5月25日  

   4機出撃(うち2機が<さくら弾>、2機が<と号機>)するが搭乗せず待機。
      
   以上で飛行第六二戦隊の特攻攻撃は終了した。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/26 9:04
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その15

 ◆若い人たちに伝えたいこと

 --------戦友会の集まりとか、戦友の方たちと頻繁に会うようになったのは、戦後になって早い時期からでしょうか?

 前村‥浜松の初年兵に入隊した頃のは、昭和37~38年くらいから始まりました。飛行第六二戦隊の戦友会は、昭和47年からです。主な戦友会は、これら浜松の初年兵に入隊した頃の戦友会と飛行第六二戦隊の戦友会がメインです。あとは戦友から誘われて航空碑奉賛会の世話役をやれということになり、理事をやりました。

 --------当協会(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会)でも熱心な活動をされていますね?

 前村‥ええ。やがて特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会でも、世話役をやってくれと誘われまして、それからずっとお手伝いをさせて頂いています。多くの仲間が特攻で死んでいるだけに、慰霊祭だけは何はさておいても行くように心がけています。

 --------やはり鹿屋や知覧の基地から特攻出撃した方々に対しても、現地の慰霊祭には頻繁に行かれているのでしょうか?

 前村‥いや、私はほんの少々お布施を出しただけで、慰霊祭には行かなかったんです。鹿屋は海軍の基地で、鹿屋市が立派な慰霊碑と正式な案内板を作ってくれました。戦友が一人で鹿屋へ見に行ったんです。そしたら、碑に彫られた「近藤知康」という文字が、間違って”近藤和康″と彫られていることが分かり、修正するのに随分大変だったらしいです。

 知覧は陸軍の基地ですが、飛行第六二戦隊はほとんど関係がありません。知覧から重爆は出撃していませんからね。だけど、飛行第六二戦隊の特攻で戦死した人の写真も、知覧特攻平和会館にいっぱい飾ってあると聞いていたので、一度それを見に行きましたところ、胸が一杯になって、しばらくその場から動けなかったことがありました。その後、知覧特攻平和会館の世話役の方と親しくなりました。今でもお世話になっている方がおられます。

 --------最後にこれからの若い人たちへ向けて、これだけはみなさんに伝えたいということがありましたら、ぜひお願い致します。

 前村‥今の人たちは、命を軽率に考えているのではないでしょうか。人の命は大事にしなければいけません。せっかく生まれたからには、明るく楽しく、他人の命も自分の命も同じように大切に生きる、それが一番幸せなことだと思います。人間独りじゃ生きられない、周囲の大勢の人のお陰で楽しく生かされて生きているんです。それを忘れてはなりません。

 お互いに助け合って生きていることを、今の人たちは理解していないのではないでしょうか。自分の命を本当に生かしたいのなら、他人の命を生かす努力をすることです。自分を支える周囲の人々への感謝の気持ちを、どうか忘れないでいて欲しいですね。

 --------今日は貴重なお話をありがとうございました。

 (……了……)

 「編注・当協会では、特攻に関連する史実とその精神を後世に伝承するため、特攻関係者の体験談等を取材し、記録することを企画し、有志会員による「特攻ライブラリー」を立ち上げました。特攻出撃の如何を問わず、特攻体験をされて九死に一生を得た方や、特攻出撃を待機された経験のある方で、映像と写真によるインタビュー取材を引き受けて下さる方を常時探しております。もしそんな貴重な体験をされた方がおられましたら、自薦他薦を問わず、協会事務局の大澤(03-5730-1016)までご連絡下さい。お持ちしております。」
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/25 8:54
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その14

 ◆玉音放送を聞いて(2)

 --------そうしているうちに、終戦が訪れたのでしょうか?

 前村‥そうです。

 --------玉音放送はラジオか何かで聞かれたのですか?

 前村‥ええ、半地下の兵舎がポッンポッンとある松林の中で、松の木にラジオを3つか4つ乗っけて、いくらか広いところが作ってありました。「集合」と号令をかけて、そこへみんな集まって、それで中隊長の命令でラジオを聞きました。ピーピーガーガー鳴るだけで、何を言っているのだかよく解らなかったです。勝った負けたなんていうことまで判断はできなかったですね。

 --------それが終戦の放送だということは、その後に誰かが説明してくれて解かったのでしょうか?

 前村‥中隊長だとか偉い人が私たちに説明する場面もなく、何となく終戦になったみたいだよっていうことだったんじゃないですかね。それで、あまりご飯も美味しいものが出ていなかったのが急に美味しいものが出るようになりました(笑)。ストックがあったんですね。

 --------そこから前村さんが復員するまは、結構早かったのですか?

 前村‥そうです。8月29日か30日にはもう復員しました。

 --------長崎の方に?

 前村‥はい。でも長崎は恐らく全滅だと……。きっと家もないし、親父もお袋もいないだろうと絶望していました。だからとにかくまず、熊本のお袋のじいさんばあさんがいる家に帰ろうと思いまして、真っ直ぐ熊本へ帰りました。熊本に帰ったら、ちょうど私の誕生日の9月2日に復員していたんです。しかも、そこに長崎から疎開していたお袋がいました。お袋も姉も妹2人も生きていたし、やっと家に帰ったぞ!という実感がしました。

 --------お母様たちは疎開していたので、原爆の被害を受けなかったということですね?

 前村‥そうなんです。一人だけ……私のすぐ下の妹が女学校に行っていまして、挺身隊で働いていたので被爆していました。熊本で1週間くらい経ったら、家に下宿している人が、長崎から熊本のじいさんばあさんの家まで連れてきてくれたんです。幸い近くの小学校が陸軍の病院になっていて、そこの軍医さんたちが、しょっちゅう往診して来てくれて、死ぬ間際のリンゲル注射とか、よくやってくれたらしいから……まあ、よかったんじゃないですかね。下の妹は1週間か10日経って熊本で死んでいるんです。

 --------長崎に原爆が落とされたというのは、既に新聞か何かで知っていたのでしょうか?

 前村‥はい。詳細は全然解りませんでしたけど、長崎には特殊爆弾が落ちたと。特殊爆弾というような表現でしたよ。

 --------人によっては、例えば広島と長崎が出身地の人は、取りあえず直ぐに帰れということで、2~3日で復員させてもらったという人もいるようなのですが、前村さんの場合は、そのようなことはなかったのでしょうか?

 前村‥それはなかったですね。

 --------特攻隊で2回も出撃されて、戦争が終わり復員されて、社会もどんどん変わって行きましたが、気持ちの変化や揺れはありましたでしょうか?

 前村‥1週間から10日経つと、やっぱり戦死しないで熊本に帰れてホッとはしたものの、男手が家族に誰もおらず、私1人だけ。さあ、どうやってこの妹やお袋を食わしていこうかなと、そういうことを一生懸命考えていたようですね。どこか心に空しい気持ちがありましたもので、今日はあそこのお寺で話があると耳に入ると、お坊さんの話を聞きに自転車で通いました。……何の話を聞いたのかはよく覚えていませんが(笑)。それから、荒れた畑をお袋と2人で開墾しサツマイモを植えたりしていました。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/24 9:04
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その13

 ◆玉音放送を聞いて

 --------ご自分の搭乗機が失われて、しばらくは……。

 前村‥4月25日から、私はあまり乗る機会がなかったです。

 --------特攻隊に渡す稼働可能な飛行機もなくなっていたのでしょうか?

 前村‥ええ、ただね、4月末から5月になって、たしかパラチフスがはじまって、1カ月間隔離されていたから、それこそ訓練も何もないですよね。それで7月になって初めて訓練が始まったですね。

 --------その頃には、筑波の方に戻られていたのですか?

 前村‥ええ、その時は戻っていました。5月末か6月末に筑波に戻ったんです。

 --------そしたら伝染病になったってことで、伝染病棟に入れられてしまったのでしょうか?

 前村‥はい。
    
 --------7月くらいに退院してまた復帰して、飛行機がなくてそのまま、ということだったのでしょうか?

 前村‥そういうことですね。

 --------そうすると、7~8月になると間に合わなかったんでしょうか?

 前村‥もう7~8月は飛べる飛行機も少ないしね。7月半ば~7月末くらいから軍隊のご飯まで乏しくなってきたんですよ。それこそ、ご飯の米粒よりもジャガイモが多いというご飯を食わされてね、そういう状態が続いていましたね。

 --------そうなってくると、空中勤務者も陣地構築や食料増産を始められたのでしょうか?

 前村‥そういうことはやらなかったですね。ただ、飛行機があれば、3~4機ある飛行機を順々にまわして、鹿島灘の敵軍上陸に向けての飛行訓練は、やっていたみたいですね。私はあまり乗らなかった。航法はもういらなかったのでしょう、あの頃は……。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/23 8:48
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その12

 ◆再び墜落事故に…(3)

 --------機体のバランスをとるのが難しかった?

 前村‥多分、そうです。バランスだと思います。何しろ爆弾が全部で2、900kgですからね。通常こういう(と号機)でも800kg爆弾2発で1、600kgですから、通常の標準機は800kg爆弾1発しか積めませんでした。重心が上にある状態で、爆弾を2、900kgも積んでるんですから、さぞかし操縦は難しかったろうと思いますよ。

 --------もともと設計上から考えても、無理があったのでしょうか?

 前村‥ええ、無理があったと思いますよ。それで、ここは (写真を見て)ベニヤ板でしょ、これもベニヤ板、これもベニヤ板……それで、操縦席に座ると、後方から覆い被さるような爆弾の置き方。直径が2mくらいの……しかも赤く塗ってあるような飛行機用の爆弾ですけれど。もちろんその爆弾を置くためには、燃料タンクを外さなきゃ置けないんですよ。だから、燃料タンクも満タンじゃなく、通常の飛行機の半分しか燃料積んでないわけですからね、普通の飛行機よりバランスが悪いんだと思います。そういう面では酷い飛行機でしたよ。もちろん機関砲も積んでないし武装無しですよ、全然。

 --------(さくら弾)は、こういう爆弾だという説明は、事前にあったのでしょうか?

 前村‥いえ、もう噂だけですよ。正式な説明は受けたことないですね。とにかく、これが軍艦に体当たりしたら前方3km、後方2km火の海になるというぐらいの噂や説明しか聞いたことありませんでしたね。だけど聞いてみると、ヒトラーから貰ったテルミット爆弾だとか液体爆薬だとかいう噂程度しか耳に入ってなかったですね。ヒトラーが日本にくれたことになっているみたいです。

 --------この忌まわしい事故について、どう思われましたでしょうか?

 前村‥思い出す度に考えるのは、岡田さんは機長として特攻出撃したものの、戦果を上げられなかったことに責任を感じ、悩んでいたんじゃないかということです。事故の予感もあって、試験飛行に直接関係のない航法や通信だった私たちを、とっさに降ろしたんじゃないかとね。もしそうなら、私と田中伍長は岡田機長に救われたことになります。今でもそう信じて疑いません。そう考えると、あの沖縄特攻のときにグラマンに体当たりしようと岡田機長が言ったとき、私は反対しなければ良かったのではと、今でも後悔することがあるんです。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/22 8:09
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その11

 ◆再び墜落事故に…(2)

 --------(さくら弾機)は、間もなく飛び立って行ったわけですね?

 前村‥飛び立って15~20分くらいは飛行場の周辺を飛んでいまして、30~40分も経った頃でしょうか、トラックや自動車がサイレンを鳴らしてけたたましく走って行くので、あれ?何ごとかと思いまして格納庫から飛び出したら、ふと滑走路方面に眼をやって驚きました。濃灰色の機体が傾いて横たわっているんです。「しまったっ、墜落だっ!」と思ったとたん、全身の血の気が引きましたよ。
 70~80m先の滑走路には、オレンジ色をした腕状の爆弾がゴロンゴロン転がっていました。これが転がって、どっかで破裂したら大変だなんて思いながら、そのうちドッシリと停まりました。
 簡単に破裂はしないものらしいですが。

 すぐ走って来た自動車に私は飛び乗り、現場へ向かったのですが、すでに淀川曹長がかけつけていて、三沢伍長を引っ張り出していました。岡田曹長は下半身がほとんどエンジンの下になっていて、上体を出したままグツタリとしていました。顔は土色、生気がなく、軍刀が側に見えたので私は取り上げ、曹長を引っ張り出すべく上体に手をかけましたが、口唇がわずかに動いたように見えたものの、そのときは既に亡くなっておられたようでした。
 三沢伍長は顔面や上体に激しい重傷を負っていました。幸い呼吸があったので救急車で近くの軍病院に運んだものの、その夜に息を引き取ってしまいました。同乗していた航空廠の整備員1人は即死し、1人は頭に軽傷を負ったのみで奇跡的に助かったと聞いています。

 翌日は2人の遺体を火葬にして遺骨を抱え、旅館に安置しておいたんですが、我々は悪夢の様な出来事にマンジリともせず、とうとう一睡も出来ませんでした。
 その翌日、淀川曹長は私たち2人を加えた6人と機材類を、1機しかない(と号機)で大刀洗まで空輸しなければならず、さすがベテラン操縦士淀川曹長も慎重で、我々一人ひとりの体重までも調べた上、計算を何度も繰り返しては離陸、飛行計画に余念がなかったようで、その姿は印象深く今でも心に残っています。

 --------(着陸の失敗というより、液体燃料ということもあったので、ちょっとした接触で爆発したのでしょうか?

 前村‥そうじゃないですね、爆発はしなかった。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/21 8:14
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その10

 ◆再び墜落事故に…(1)

  --------キー67(四式重爆撃機飛龍)、(さくら弾機)と(と号機)の話なんですけども、4月17日の出撃は、この(さくら弾機)と(と号機)で、前村さんが乗られたのは(と号機)の方なのでしょうか?

 前村‥(と号機)です。
   
 --------(と号機)も通常機に比べて爆弾は多めに担いでいるわけですが、乗られる場所の目の前に、ごっつい6個の電信管が取り付けられています。配置場所はいつもと同じだったのでしょうか?

 前村‥同じです。これは標準機とちっとも変わらなくて、本来は爆弾槽に800kg爆弾1発を積めるのですが、1発しか積めないのにもう1発はどこにあったのかと言いますと、胴体の中に800kg爆弾を入れて、離着陸のときに緩まないようワイヤーで縛り付けてあるんです。それで、破裂したら連動するような電気的な繋がりがあります。あとは機関砲などの武装が全然ないというくらいが標準機との違いです。燃料タンクも一つくらいは外してあったかもしれないですね。

 --------前村さんは機のどのあたりに乗られたのでしょうか?

 前村‥操縦席のちょっと前方下の、下に風防ガラスがあるだけの前もどこも見えない真っ暗な場所です。小さな窓があるのですが、いつも独りなものですから淋しいですよ (笑)。

 --------各務ヶ原で、今度(さくら弾機)に乗るということで、受領に行かれたと…。

 前村‥4月24~25日に、各務ヶ原へ(さくら弾機)を受領に行ったんですよ。沖縄から帰ってから1週間後に。それで、何かの都合で長野県の松本飛行場に行ってるんですよ。あそこに三菱重工の工場がありましたからね。松本の飛行場で何か部品を受け取ってから、その晩は信濃屋に泊まり、翌日電車か何かで各務ヶ原へ行った。そのときから岡田さんが無口になった。いつもより余計に寡黙な状態だったですね。

 --------そのときは試験飛行ということで?

 前村‥そうです。そのときに岡田さんも(さくら弾機)を操縦するのは受領して初めてでしょ……おそらく格納庫から受領して、エンジンでプロペラを回して地上を滑走するときに、飛行機の振動とか、重いから相当プロペラの回転を上げなければ進まないとか、操縦桿に伝わってくるものが異常で、通常の飛行機とは違うというのを感じ取ったんじゃないかと思うんですよ。

 ふつう日本の軍用飛行機の場合、滑走路まで来ますと、一回停まって脚のブレーキをかけて、双発だから両方グアーつて一回ふかして、正常にまた戻してからスタートつていうのが出発の仕方だったんです。今の民間航空は、滑走路に来たらいきなり離陸します。
 昔の軍隊の飛行機は、必ずここで1回止まって、それでブレーキかけてエンジンをふかすというのが通例だったんです。

 地上滑走して滑走路の出発点まで来たときに、操縦桿を押さえ込むようにして俯いていた岡田機長が、急に顔を上げて「前村候補生、田中伍長は降りろ!」と命令調で言うもんだから、「試験飛行は初めてですから一緒に行きます」と答えました。そのときには我々の身体はもう完全に機内に乗っていたんです。でも「どうしても降りろ!」と厳しい口調が岡田機長から返って来ました。「はい、それでは爆弾照準眼鏡の点検、受領がありますから格納庫へ行きます」と答えて、私と田中伍長は機体から降りて格納庫へと向かいました。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/20 7:31
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その9

 ◆再び特攻へ(4)

 --------この4月12日以来、17日に鹿屋に戻られて、その後一回太刀洗にまた戻られるんでしょうか? それともそのままずっと鹿屋にいらっしゃったのですか?

 前村‥いえ、鹿屋に帰ったらね、もうその飛行機は被弾が激しくて飛べなかったんですよ。「飛べない」 っていう判定を受けて、その晩に太刀洗から迎えに来てくれました。迎えに来てくれた人が、岩本大尉という整備班長と大熊中尉という操縦士でした。17日に帰還したら17日に、そのまま鹿屋に泊まらないで太刀洗に帰りました。

 --------特攻隊に出撃し、いろいろな理由で戻られて来た方の中で、「何で帰ってきたんだ」とか言われたという話を聞くのですが、前村さんの場合はそんなことはありませんでしたか?

 前村‥私の場合は全然そういう場面はなかったです。だけど、岡田さんが機長として、私が知らない間にあの辺に来ていた参謀から怒られたのかなあ?という想像はするんですよ。おとなしい岡田さんは、あまりもの言わなかったですから。

 --------岡田機長さんは、少年飛行兵出身とか?

 前村‥いや、これが単なる下士官あがりの曹長なんですよ。

 --------普通の兵隊さんで入隊して、下士官操縦として合格して転科されたのでしょうか?

 前村‥そうです。おとなしい人だったけど、誰かに何か怒られたのかなあという想像はします。…というのは、その17日に帰って来て、1週間後には私なんかも一緒に各務ヶ原へ (さくら弾機)を受領に行っていますからね。もともと寡黙な人で、各務ヶ原で飛行機を受領してからも、あまりお喋りしなかったように思います。

 --------ちょっと落ち込んでるっていう感じでしょうか?

 前村‥それが参謀から怒られてなのか、それとも何か予感がしたのか……その辺は私にはよく分からないんです。私は自分が死なないで済んだなあっていうような単純な気持ちだったからかもしれません。あるいは岡田さんほどの責任感はなかったからかもしれない。

 --------もうその頃になると、宇都宮から一緒にいらした10人くらいの同期生は、一人欠け、二人欠けという状況だったのでしょうか?

 前村一そうです。新海さんが3月19日に亡くなったときに、小見忠三郎が帰って来なかった。新海機に乗っていましたからね。4月17日のときには近藤知康が(さくら弾機)で死んでるし、4月17日までは同期の連中ではそんなもんでしょう。

 --------すると同期の方も何人かいらっしゃったので、そういう人たちと一緒に憂さを晴らすということもできたんですね?

 前村‥そうです。そして5月25日になったら、出撃して永野が亡くなっとるんですが、でも花道は帰ってきたし、大内も帰って来たし……彼らは行くときに階級が上がって行ってるからね (笑)。私たちは兵長のままなのに、彼らは伍長になって下士官室にいるでしょ(笑)。

 --------前村さんは兵隊と一緒なのに?

 前村‥兵隊さんと一緒です(笑)。

 --------一応立場上は、上官と部下ですね。

 前村‥そうなんですよ。「おい、お茶持って来いー」なんて威張りやがって(笑)。その話を戦後「お前らあのとき威張ってたなあ」なんて言うと「俺、そんなに威張ってなかったよ」なんて言って…(笑)。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その8

 ◆再び特攻へ(3)

 --------グラマンを振り切った後はどうされたのでしょうか?

 前村‥やがて岡田さんは与論島まで行き、それから日本海方面に抜けて、特攻を断行すべく沖縄方面へ向かったのですが、燃料がなくなって片方のエンジンが止まってしまいました。それじゃどうするかというので、「とにかくいったん帰れるだけ帰って、途中の島かなんかで砂浜にでも不時着して、もう一回燃料を積み直して出撃しましょう」と、偉そうに機長に意見を言いました。岡田さんは話を聞いてくれて、鹿屋に帰ることにしました。鹿屋に着いたら機体に2cmか3cmくらいの穴が30個ほど空いていました。戦闘機に撃たれた跡です。どこであんなに弾が当たったのかなあと不思議でしょうがない。よく帰って来れたなと思いました。もちろん、その飛行機は再び飛べる状態ではありませんでした。

 それっきり私は出撃していないんです。5月25日の4機での特攻出撃の際も待機でした。もう飛べる飛行機も無かったですけれどね。出撃前に(さくら弾(キー67を改造し重さ2・5トンの対艦用大型爆弾を機体上部に内装搭載した特攻機で前方3km、後方2kmは火の海になると言われていた))という重爆機を取りに行ったんですが、(さくら弾機)は試験飛行中に事故で墜落していました。もし(さくら弾機)が墜落事故を起こしていなかったら、5月25日の溝滝機・福島機・工藤機・古田機の中に入って、私も特攻に行っているはずなんです。

 --------機内で銃弾を受けて亡くなったとか傷ついた方はおられましたでしょうか?

 前村‥誰もいませんでした。怪我した者もいませんでした。

 --------800kg爆弾に誘爆もしなかったのでしょうか?

 前村‥ええ、それで鹿屋に戻っても無事に着陸できて、よく爆弾を2発抱えたまま着陸したものだなと肝を冷やしましたけれどね。

 --------当時、鹿屋は海軍の飛行場ですが、陸海軍共同で使っていたのでしょうか?

 前村‥いえ、原則的には使っていません。なにしろ緊急着陸でしたからね。うちの陸軍飛行第六二戦隊の飛行機が海軍の基地を利用させて貰ったのは、緊急とはいえ我々くらいじゃないでしょうか。

 --------大体陸軍機の特攻は、万世や知覧から飛んでいましたね?

 前村‥知覧とか万世は飛行場が小さく滑走路が短いから、戦闘機の特攻はそれでも良いのですが、重爆撃機の特攻では使えませんでした。戦隊でも重爆撃機戦隊で特攻命令を受けたのは飛行第六二戦隊だけで、他は受けてないんですよ。飛行第六一戦隊なんか雷撃隊で活躍してたけど。飛行第六二戦隊だけなんですよ、特攻部隊として出撃指定されたのは。運が悪いっていえば運が悪いんでしょうが、誰かが悪いわけじゃないけどね。

 --------それでへさくら弾機)や(と号機)は飛行第六二戦隊に配属されたのですか?

 前村‥そうなんです。飛行第六二戦隊以外には、(と号機)も(さくら弾機)も特攻では行っていません。

 --------(さくら弾機)を実際に見た人は、飛行第六二戦隊の方しかいないのでしょうか?

 前村‥いないです。普通の飛行機よりもちょっと色が濃い気持ちの悪い灰色をしていて、不気味な格好の双発飛行機でしたよ。

 --------(さくら弾機)は太刀洗で受領されたのでしょうか? それとも各務ヶ原ですか?

 前村‥各務ヶ原でした。

 --------前村さんがご覧になったのは、各務ヶ原でしょうか?

 前村‥そうです。その前に近藤が乗ってた金子機(さくら弾機)は、それは太刀洗で見ました。






















前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/18 9:27
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その7

 ◆再び特攻へ(2)

 --------そこで敵機の襲撃を受けたのでしょうか?

 前村‥はい。たぶん沖永良部島か与論島か、その辺ですよ。

 --------いきなりバーツとやられて初めて敵機の襲撃と分かるといった感じだったのでしょうか?

 前村‥そうなんですよ。加藤機が白煙を吹いてから初めて「やられたな」と思いました。岡田さんも実戦は初めてだったと思うんです。それで旋回した途端に敵のグラマン戦闘機が、既にここまで(手振りを交えて)来ていたんですよ。こんな近くに来てちゃ重爆でなくて戦闘機でも撃てません。

 加藤機は、左のエンジンからバーツと煙を出し始めました。それから上昇反転し、そのまま海に向かって真っ逆さまになりました。一部始終を確認してはいませんが、恐らく最後は海の中に落ちたと思います。やがて煙を出した加藤機を見ているうちに岡田曹長がとっさにバーツと180度旋回し始めたんです。そして水平飛行に移って洋上すれすれに滑空したときには、いつの間にかグラマンがバリバリと攻撃しながら執拗に食いついて来ていたのです。敵の操縦士の顔まで見えるくらいの至近距離でした。そして、瞬間的に振り切りました。

 そこで岡田さんが、「(あの戦闘機に)体当たりやるかあ!」と鋭い悲痛な声で言い出したんです。私は重爆撃機が戦闘機の前で旋回をして体当たりなんてできっこないと思い、「もったいない、グラマン1機では! こちらは重爆ですよ」と反対しました。岡田さんはそれに対して何も言わない。死ぬつもりでいたんだろうと思います。奄美大島が見えた頃にはグラマンも諦めたのか、それ以上は迫って来ませんでした。ほっとした途端に何か空しい思いが残ってやり切れなくなりました。加藤機が撃墜されたときの光景が生々しく脳裏に焼き付いていたからです。
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