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『肉声史』 戦争を語る

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/8/9 6:43
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 はじめに

 この資料は

 ゆめ倶楽部神奈川
 財団法人 神奈川県老人クラブ連合会

 による、県下のシニアの戦争中の記録です。
 このプロジェクトは平成17《2005》年より2年間かけて続けられました。
 なお、転載にあたっては、同会の承認をいただいています。

 この資料の特色は、
 ・「肉声」をサウンドデータとして、すべて収録しておられること
 ・この「肉声」を編集した冊子には、「あらすじ」と「聞き手役」の方の感想が記されていることです。


(その1)

「戦い終えて日が暮れて・一一」

 高橋 清良さん

 大正6《1917》年 福島県生まれ
 昭和12年 徴兵《ちょうへい》検査 12月臨時召集。仙台工兵第2連隊
 昭和14年 6月ノモンハン事件《注1》 昭和19年 7月臨時召集 中国中部方面に従軍
 昭和21年 5月復員

〔あらすじ〕

 東京から本籍地の福島県にもどり、兵隊検査を受ける。第1乙種で合格した。甲種合格組みは徴兵検査の後の正月から入営だが、第2乙はなかなかお呼びがなかった。昭和12年日中戦争が始まり仙台工兵第2連隊に所属した。昭和14年にノモンハン事件に従軍。
 工兵隊は橋をかけたり、塹壕《ざんごう=注2》を掘ったり陣地を構築する役目であるが最前線では毎日が「戦い終えて日が暮れて」という状態であった。
 帰れるものなら今すぐにでもここから帰りたいとの気持ちはあるが、敵前逃亡は銃殺であるからそれも出来ぬことであった。撤収《てっしゅう》し帰るときには、結局16人いたものが2人となっていた。ノモンハンからはハイラル《=内モンゴル自治区北東部の市》まで、帰る途中で空中戦も見たが、落ちてくるのはソ連の飛行機ばかりで日本の技術はすばらしいと思った。食事は飯盒炊爨《はんごうすいさん》であったが、ノモンハンの戦のときには、飯盒に鉄砲の弾の穴が開き炊事ができなかった。
 飲まず食わず寝ずの行軍も長くなり補給も十分でないと食料事情も悪くなり乾パン1袋を2人3人で1袋という具合。
 水もなかなか無く、たまにあればガソリン臭い水であった。負傷兵は気の毒で、痛いよー痛いよーと言っていてもこちらは何も出来ず、前線には看護兵もおらず手当ての仕様が無いのである。  
 戦死すれば爪をはがし封筒に入れ名前を書き持ってくるのであるが、それを持つものも戦死するのである。原隊復帰出来ぬ者は、戦死か捕虜のいずれかと考えていた。
 おかしなものでソ連兵はノルマで戦争を行っていた。その日の弾を撃ち尽くせば帰っていったが、日本兵はそうはいかなかった。
 その後上海から南方に転進する予定であったが、終戦となり、蒋介石《しょうかいせき》軍の捕虜となったが、当時共産軍と戦っていたので、優遇され軍隊の指導をすることとなってしまった。中国兵と寝起きをともにするようになってマラリアにかかってしまい、この結果日本に早く帰されたが、帰ってみれば焼け野原。かつての住居跡にしゃがみこみ石を掴《つか》み地面に叩《たた》きつけ「ばかやろー」と叫んだ。するとバラック《=粗造りの仮建築》の小屋から「良ちゃんじゃないの?!」との声。おばさんだ。うれしかった。

注1 ノモンハン事件=中国北東部北西辺、モンゴル国との国境に近いハルハ河畔の地。1939年5月から9月中頃まで日ソ両軍が国境紛争で交戦、日本軍が大敗を喫した。

注2  塹壕=野戦で敵の攻撃から身を隠すため溝を掘りその土を前に積みあげる 

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/8/9 6:45
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
(その2)

 「極寒シべリアを生き抜く」

 重野文吉さん
  大正12《1923》年    新潟県生まれ
  昭和13《1938》年12月 満州国黒河省
  昭和18年10月 満州国柏原儀勇隊開拓団入植
  昭和20年5月 満州国奉天省関東軍通信隊入隊
          8月 ソ連軍侵攻により捕虜
  昭和23《1948》年12月 舞鶴港帰着

〔あらすじ〕

 6人兄弟で自分の父親は、戦争が始まったときこんな資源の無い国が大国と戦うことのおろかさを怒っていたことを思い出す。ともあれ、6人兄弟の自分は当時、学校も親も満州へ行けと言われ満款《まんかん》開拓団として中国へ。言うならば手薄となった関東《かんとん》軍の義勇軍と同じこと。匪賊《ひぞく=徒党を組んで出没し殺人略奪をする盗賊》が横行しその守りのためである。与えられる兵器は中国やソ連の中古品。弾は100メートルも飛ばない。暴発して大怪我も。冬は零下40度になったり、狼が襲ってきたり、その中でその地に住み農業をおこなった。終戦の年にロシア軍に捕えられ、捕虜の生活が始まる。

 最初の仕事は、ソ連が没収した関東軍などの銃器と食料、衣料などを運ぶ作業で、徒歩で朝から晩まで野宿して奥地へと連れて行かれた。その没収したものを運び終わったら日本に返すとの約束であったが、そうはならず過酷な労働がはじまった。大きな木の伐採《ばっさい》などであるが、食料も十分でなく、また寒<、栄養失調や怪我で死ぬものは毎日いた。昼は黒パン1つ。とにか<腹がペコペコの毎日で、春になり草が萌えだすとやわらかいところを取って食べて、腹を下しながら食べれる草がようやく分かってくるというような状態であった。自分は馬の世話係を命じられていたので馬のえさを少々失敬して食べていたので助かった。捕虜を世話するソ連兵も貧しかった。 
 自分が捕虜となっているときに女房と子どもは死んでいた。そんな捕虜生活の中ではがきを出せといわれ、つまり手紙を書かせることは帰れることかと希望が生まれた。返事が来たときはうれしかった。とにかく捕虜生活はひどく丸太のベッドにぎゆうぎゆうづめで、トイレから帰れば自分の寝場所も無く、暖房も生木を焼くから油煙がひどく、また南京虫《なんきんむし=人畜から吸血し激しい痒みと痛みを残す》も沢山出て実にかゆい。 
 朝などお互いに油煙で顔が黒くなり、南京虫で赤<脹れている姿などは、みられたものではなかった。馬の世話係でたまに足を痛めた馬を殺しその処分で焼くのだが、これを食べたがこんなにおいしいものは無かった。実にうまかった。捕虜生活では、教育として共産思想を叩き込まれた。後に日本に帰ってからシべリア帰りの人を共産党が入党を勧めて回ったそうだが自分のところへはこなかった。とにかく大変であった。若い人には、とにかく命の大切さをわかって欲しい。 
 それを考えると日本は先々どうしようも無いことになると心配する。


(その3)

 「子らの力、親の力、命の力」

最上 照子さん
 大正10《1921》年 千葉県生まれ
 昭和15《1940》年 横須賀市立尋常小学校勤務
 昭和21年 7月退職

〔あらすじ〕

 内地では、ノモンハンの激戦はあまり知らせられず、その事件が停戦になったことは聞き、安堵した。横須賀でも昭和18年数の飛行機がとんできた。どうも偵察機らしいが、海軍工廠《かいぐんこうしょう=軍に直属し兵器爆弾を製造する工場》に爆弾を落としていった。日本軍は何もしない、これは負け戦だと思った。
そしてまもなく疎開がはじまった。学童疎開《注1》は、横須賀から綾瀬村に疎開をした。お寺が主な宿舎になる。小学校3年生から6年生まで120~30人を3箇所に分けて生活を共にした。生活全般について、食料などは行政がみていたようだ。
 炊事、掃除は人を雇っていた。勉強といっても真似事程度。小さい子どもがさびしがるのを慰めるなどが主な仕事であった。とにか<食べさせていくのが精一杯で、付き添いの
 先生は農家に買出しに行ったものだ。親は、毎日のようにきた。親が来ると子供はおちつくが、別れるときは、かえって親のほうが悲しがるという風であった。不思議に子どもたちの親の戦死は聞かなかった。幸いなことに子どもたちは病気もせず案外元気であった。終戦となりやれやれといった感じだが、それからの生活が大変であった。
 子どもを育てるのにミルクもないので、もらい乳をして育てた。とにかく自分が食べるより子どもに食べさせることが先で、食べ物には本当に苦労した。ひじき入りのご飯を子どもはこじきのご飯など言い近所の人にうまいことを言うと変に感心されたことを思い出す。この戦争は、無謀な戦争であったと思う。


 「3人のお話を聞いて」

 重野文吉さんは、満州開拓少年義勇兵として満州に行かれました。夢を抱き、日本を出て行った重野さんたちに与えられた武器はとても使い物にならない古いものだったとの話には驚きました。それにその当時から日本軍はどんどん南へ移動し、重野さんのような少年や、現地招集の兵隊が満州の日本人を守っていたのです。そしてロシアの侵攻《しんこう》により、重野さんの長い収容所生活が始まりました。幸い収容所生活で次々と仲間を失くしましたが、重野さん自身は生き残って日本に帰ることが出来ました。しかし、奥さんとお子さんは現地でなくなっていたのです。「仕方ないですよ」とさらりと話すその言葉の裏に隠れた深く悲しい思いを強く感じました。

 88歳(平成18年時点)の高橋清良さんは最初の召集ではノモンハン事件に工兵隊《=技術的任務に属する》として従軍。ノモンハンでは溝のような塹壕《ざんごう》を掘るしかできず、、しかも横になって塹壕を掘るしかなく、工兵隊も亡くなった方がずいぶん多かったとか。まさに高橋さんが生きていることは奇跡《きせき》としか私には思えませんでした。ノモンハンで生き残り戻った後、再度召集で妊娠《にんしん》中の奥さんを残し従軍するときは後ろ髪を引かれる思いだったと述べられたときは、軍隊の話と違って声が低く戦争にむかわざるをえない心情に目頭が熱くなりました
 終戦後、やっとの思いで復員したら、家は焼け、跡形もなかったのですが、知り合いに偶然あい、家族のことを知ることができた話などはまるでドラマのようです。

 軍港があった横須賀市で戦争中、小学校の先生をしていた最上照子さんは、学童の集団疎開《注》の話をなされました。疎開中に面会に来る親たちが別れるときには泣いていたと聞いて、離れて暮らす親の気持ちが良くわかり胸を打ちました。しかし子どもたちは案外元気でけろっとしていたようで、救われる気持ちがしたものです。敗戦でがっかりするより「やれやれ戦争が終わってよかったと思った」というも最上さんの正直な感想を聞いて同じ思いの人も多かったのだろうと思いました。戦後は食べ物が無く、ミルクもなくて、子育てに苦労なさったようで、当時のお母さんたちのすべてが体験した苦労の一端も垣間見ることが出来ました。

    植松 紀子さん (昭和22《1942》年うまれ  「雑誌「百歳万歳」社編集長」


注1 学童疎開=第2次世界大戦末期に戦火をまぬかれるために都会の学童を学校ごとに地方の農村山村に移住させた

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編集者 (代理投稿)

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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 第2部 それぞれの戦争を語る

 横須賀・三浦ブロック

 その1 「東京大空襲 さながら地獄絵」

 横須賀市 青木久子(昭和2《1927》年生)

 (あらすじ)

 毎日のように空襲警報が鳴って、落ち着いて生活なんてできなかった。毎日脅かされていた。兄弟や母親は那須へ疎開していて、父と私だけ残っていた。私は三菱重工業の川崎工場で挺身隊《注》として仕事していた。事務でマル秘の書類を扱っていた。特殊潜航艇《=日本が製造した小型潜水艇》の書類等もあった。軍需産業の大手だったので従業員は2000人以上いた。1日に2回、昼と夜に空襲警報が鳴ったこともあった。東京大空襲で空が真っ赤だった。
 爆撃の中を夜、父と自転車で土手の方へ逃げた。フェーン現象で炎が竜巻のようになっていた。さながら地獄絵のようだった。焼夷弾が雨あられと降って来て、昼間のように明るかった。低空で機銃掃射《=軍用機から、地上の目標を狙い撃ちにする》もあった。「足元に気を付けろ!」と父親に言われて死体をまたいで逃げた。川上に向かって逃げた。土手を大勢の人が逃げていた。川には上流につないであった船が大の塊になって流れて来た。焼夷弾の中をかいくぐって逃げた。
 随分長い時間たっていたような気がする。家は商売をやっていて、持っていたオ一トバイも軍にただ同然で召し上げられた。戦争中だったから仕方ない。玉音放送は聴いたが、何を言っているのか分からなくて「どうやら戦争が終わったようだ。ああ、これで空襲がない」と思った。
 横須賀に住んでいた人に聞くと敵機は通ったが怖い思いにしなかったと言うが、私は京浜工業地帯にいたからひどい目に遭ったのかもしれない。

 (お話を聞いて)

 横須賀市上町にお往まいの青木さんに戦争体験を語っていただきました。青木さんは東京の蒲田に当時住んでおられ、挺身隊の一員として三菱重工業に勤務されていました。家族は田舎に疎開し、父親と白分け東京に残って働いていたが、東京の大空襲に遭い、焼夷弾による火の海の中を父親とともに六郷《ろくごう=多摩川の下流、東京大田区あたり》土手へ逃げ、焼死体を沢山見たこと等、話していただきました。現代の若者については、悪い人ばかりで無く、あいさつも出来、しっかりした良い人たちも多くいると話され、目本の国はまだ間に合うのではないかと希望を持たせていただきました。
 
 聞き手 岡本基明 昭和10年生

注1 女子挺身隊(じょしていしんたい)は、1943年に創設された14歳以上25歳以下の女性が対象であったが、1945年3月に国民勤労動員令によって吸収されたため挺身隊は国民義勇軍に再編成された 
 
 

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編集者 (代理投稿)

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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 その2「怒りと哀しみのみの3年間」

 横須賀市 亀井 巌(大正13《1924》年生)

 (あらすじ)

 昭和20年3月に満州のハイラル第560歩兵部隊に入隊。毎日のように共同責任でピンタを張られ、国の為に尽くすのだと叩き込まれた。
 入隊時から戦車に向かって飛び込む練習をした。 8kgの爆薬を、遺骨を抱くように胸にして、蛸壷《=たてに深く掘った一人ようの塹壕》からソ連の重戦車に体当たりして爆発させる練習ばかりだった。事実何千人と命を落としたが、飛び込む前に機銃掃射されて成功率は低かったようだ。私も死を覚悟していたが、故郷の事を考えると後ろ髪を引かれる思いだった。一方で、帝国軍人として女々《めめ》しいことはいけないと教育受けていたから親兄弟に不名誉を残したくないと思った。
 終戦を知らず、8月16日突然部隊長から大事な報告があると言われ全員集合。その前に「いよいよ日本男児として重要な時が来た。しっかり任務を果たして欲しい」と言われていたので、「自分の番が来た」と思ったが、夜、虫の声を間いて何となく心細かった。同時に「これの為に生きてきた。靖国《=靖国神社》に祀《まつ》られるのだ」という気持ちもあった。戦友同士「靖国で会おう」と言った後に日本が負けたと聞いて、信じられなかった。
 武装解除でソ連兵に何もかも没収され、40両位の貨物列車に2000人以上が乗せられて、8月末頃「これで帰国できる」と思っていたら、バイカル湖が見えてきた。ナチスドイツのようにガス室に居られるという噂《うわさ》も流れた。 11日後に、その後3年間抑留生活を送ることになるクラスノヤルスクに着いた。喜怒哀楽の怒と哀のみの3年間たった。戦争は本当に愚かだ。絶対にすべきではない。

 (お話を聞いて)

 亀井氏は満州に渡って5年後の満20歳に兵役検査を受け、召集令状が来て昭和20年3月に満州の歩兵部隊に配属になったそうです。その後終戦の日までの生活は、爆弾を抱えて敵の戦車に体当たりする訓練をする毎日であったそうです。死んだときには靖国神社で会おうと話し合っていたそうで、現在の平和な日本で生活できている私には、想像もつかない緊張と使命感に充ちた毎日であったのだろうと思わせていただきました。
 昭和20年8月15日の敗戦の翌日に上官から日本が戦争に敗れたと告げられたときには何故神州《しんしゅう=神の国・自国の美称》不滅の日本が敗れたのかと信じられない思いであったそうです。
 武装解除となり、ソビエト兵が来て、何処へ行くかも告げられず、貨車に乗せられ、何日も広野を走り着いたところが極寒の地、シペリアであったそうです。
 当時の満州では、何十万の日本兵が捕虜となり、シベリアヘ強制労働のため送られ、その最悪の生活環境のために何万人もの人々が、故国に帰ることも許されず、極寒の地で亡くなり、冷たいシペリアの地に裸で埋められて、今だに多くの遺体がそのままだそうです。
 亀井氏は生還されたようですが、そのことを感謝し、少しでも社会の役に立ちたいと、老人会や地域の活動に携わってきたそうです。
 私は終戦時には10歳で集団疎開で、長野の地に居りました。そのお蔭で、東京大空襲に会わずに済み、死なずに済みました。広島と長崎の原爆で亡くなった方々、主要都市の大空襲でなくなった方々、外国各地で戦没された方々、厚生省広報では、第二次大戦でなくなった日本人は3 1 0万人に上るとされています。戦争で亡くなった多くの尊い生命の犠牲の上に私たちが生かされている事を思うとき、テロや戦争の無い平和な人類社会の構成のために、何か自分として出来ることは無いかと考えさせられます。微力ではあっても努力をしなければならないと、亀井氏のお話を伺っておもいました。

 (聞き手 岡本基明 昭和l0生)

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編集者 (代理投稿)

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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 その3「田の水すすり猛訓練」

 横須賀市 岩堀 洋之(大正10《1921》年生)

 特戦時は浦賀ドック《=船体の建造・修理・などする》で駆逐艦の設計をしていた。昭和14年に浦賀ドックに入り、初めて設計したのが[福江]だった。 18年に召集され、甲府連隊に1年半いた。その後部隊は南京《=中国の市》へ、一部がビルマヘ行ったが、私は帰国。ドックが軍属《=軍に所属する文官》として申請してくれたようだった。 1300天部隊で戦地へ行かなかったのは15人位だった。 
 ドックは駆逐艦《=船団を潜水艦の攻撃から護衛する小型艦》の修理と設計で大変だったらしい。昭和12年から14年の旧制中学の軍事訓練で甲府の連隊に1週間行ったことかあり、甲府は山ばかりで大変で二度と来たくないと思っていたのに、召集が来たら甲府でがっかりした。大変だったのは連合演習。相模湖から平塚まで往復して11日間野宿で演習した。キツイ訓練で有名だったらしい。甲府は冬寒くて夏暑い。水なしの訓練があった。山ばかり登って、水を飲んではいけない訓練だったが、慣れてきたら水も飲んでしまって、時には、内緒で田んぼの水を水筒に入れて帰ってきた。夜中の訓練もあった。真っ暗で何も見えない。所属部隊は南京で三分の一戦死、ビルマは全滅だったようだ。横須賀は空襲は、あまりなかった。防空壕《注》に2、3回入った程度。避難する時は設計の道具を持っていけと言われた。弁当を持って逃げたら怒られた。玉音放送《=天皇が直接国民に対しての放送》を聴いて、すぐ軍艦の図面を燃やした。燃やすのに1週間以上かかった。終戦の感傷に浸る余裕もなく、自分の仕事に追われた。戦後離職して、米軍ベース《ベースキャンプ=軍事基地》の食堂でボーイをやった。洋食を食べてみて「日本が負ける訳だ」と思った。


 (お話を聞いて)

 横須賀市浦賀にお住まいの岩堀洋之氏から、浦賀造船所で設計技師としで駆逐艦のエンジンの設計にたずさわっていたこと、その間に召集となり甲府の部隊に配属になり、厳しい訓練を受けたこと、その仲間がビルマや南京に出兵し、自分は技術者として、戦地に行かず、浦賀造船所の軍属として戻り、戦地で破損した戦艦の修理にあたった事、また横浜の大空襲の翌日叔父を訪ねて行って見た黒焦げの死体の山のこと等、生々しく細かに語っていただけました。最後の現代の若者についての感想は、あいさつや礼儀に欠けており、戦前の教育では、あいさつが重要視されていたことを思う時、もう少しあいさつ、礼儀作法の意義や、重要性について、理解し、実行出来る人間を教育する必要があると結ばれました。
 
 (聞き手 岡本基明 昭和10年生)

注 防空壕=空襲を退避するだめに穴を掘ってつくったもの
 

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 その4 「マイナス40度 生きて帰れるか?」

 横須賀市 佐藤喜太郎(大正9《1920》年生)

 (あらすじ)

 19歳で志願兵として、昭和14年12月に甲府歩兵49連隊に入隊。 2週間後、北満州のソ連との国境警備隊として、黒龍江の沿岸警備に就いた。マイナス40度の所に昭和15年1月から19年4月までいた。戦友の遺骨を日本へ持って帰る役目を言いつかり、東京の麻布3連隊、近衛歩兵3連隊に持って帰って来た。その後終戦まで1年位麻布3連隊にいた。終戦後解散になり、麻布十番から横浜まで丸1日かけて歩いて帰った。食べ物もなく荷物背負って、焼け跡から出ている水道の水を飲んでやっと横浜に辿《たど》り着いた。苦しかった。

 19年頃は負け戦だった。召集兵が来ても鉄砲も剣もなかった。内地の大空襲より満州での国境警備が恐ろしかった。2月に八路軍《はちろぐん=注》の討伐をやった。マイナス40度で幕舎《=テント張りの兵営舎》を張って、3ヶ月間着の身着のままで寝る。敵に見つからないように火も思うように焚《た》けない。
 じっとしていたら凍傷《=しもやけ》になる。凍傷も白いうちは雪を握って揉《も》んだら治るが、紫になったらダメだ。第1関節が紫になったら第2関節から落とす。そうやって手足を落とした人がたくさんいた。寝ていても隙間風で耳や鼻が凍傷になる。不寝番が時々耳や鼻を擦ってあげた。まず生きて帰りたいと思った。歩兵は早く敵に近づくため3日3晩飲まず食わずで歩く。満州の生水はダメで、飲んで一晩で死んだ人がいた。死体は、山の谷間で白樺の本を積み、ラッパで君が代を吹奏し、夕方火を入れて翌朝まで焼く。臭いで狼が寄ってきた。


 (お話を聞いて)

 私も志願するつもりでおりましたが、年齢が足らず、軍隊に入ることはできませんでしたが、佐藤さんは志願で入隊したとのことでした。あの当時の若者には軍人は憧《あこが》れだったが、話を聞いているうちに、なんて馬鹿な戦争を行ったのだろうか、また、昔の軍隊は、野蛮だったのだろう、古参の兵士はいばりくさって、美味いものは自分たちで食べてしまい、残り物を新兵に食べさせていたのこと、なお、新兵を苛《いじ》めることを楽しみにしていたようである。昔、除隊した人から同じような話を聞いたことはあるが、そのころの私は日本の国はそういうものだろうと思っていた。
 しかし今になって考えると、あの頃の日本人の考え方は間違っていたのだということである。でも、そういうふうこ植えつけられてしまうと、それが一番正しいものと思い込んでしまうということが分かった様に思う。現代の若い人達に昔の話をしても通じないとよく言われるが、戦争を知らない子供たちに戦争の話をしても通じないのは仕方の無いことであろうか。これが時代の流れでもあるのかもしれない。私たちには想像もつかないことではあるが、氷点下40゜C以下なので、ろくな暖房もない所で、お国のためとはいい、頑張った話を間くと頭が下がります。また、人間には運不運、または「つき」と言うものがあるのだと言うことも感じました。佐藤さんが、戦友の遺骨を抱いて帰って来なかったら、一生日本にには帰って来られなかっただろうと言っていましたが、その通りだと思いました。外地に行っても帰ってこられる人達は幸せですが、亡くなられた方々には気の毒でご冥福をお祈りします。

 (聞き手 植竹喜三 昭和6年生)

注 八路軍=中国共産軍 '47年に人民解放軍と改称

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 座談・その1

  「戦争体験から考えること、訴えたいこと」

  鎌倉市  高橋  清良(大正6《1917》年生)
        大久保 安夫(大正14年生)
        羽鳥  光男(昭和2《1927》年生)
        富永 正夫(大正13年生)
        中田 良司(大正10年生)

高橋 
 満州国が建国された昭和7年、私は15歳だった。大和魂《やまとだましい》、滅私奉公《=私利、私欲を捨て》、神州男児《=神の国の男子》、尽忠報国《じんちゅうほうこく=国に忠義をつくす》という言葉が流行っていて、野外の映画会もそんなのばかり。泥沼化していた日中事変は侵略ではなく聖戦だと植えつけていた。
 私は昭和12年に福島県で徴兵検査を受け、同年12月に臨時召集で仙台の工兵2連隊へ。2ヵ月程訓練を受けてハイラルヘ。6月の暑い盛りにノモンハンまで20km程の道を5日間かけて歩いた。そのうち戦車も航空隊も皆南方へ引き上げ、隠れ場所も何もない所で血みどろの戦争。私か生き残れたのは、先輩に教えられた通りにしたから。銃撃があって砂煙が上がったら飛び越えろと教えられた。一旦潜った弾は浮き上がってくるから。
 8万人近い戦死者が出たノモンハン事件《=注1》は事件じゃなくて戦争だ。今考えることは、国があって、企業あっての家庭生活だと思う。戦争は良くないことだが、国防意識を持つことは大切だと思う。

大久保 
 工員養成所の専科を1年済ませて横須賀の航空技術所にいたら、予備補習生として3ヶ月半勉強しろと。
 それが済んで帰れるのかと思ったら、退団即日応集現役編入。その後、横須賀の法律学校へ。昭和18年暮れに転勤になり、横須賀の軍艦輸送船が皆修理中だったので呉から行くことに。輸送空母に乗って出港したが、エンジン故障で戻り、今度は「南海丸」に乗って九州の北で船団を組んで行った。船に真水がなく、スコールで体を洗った。シンガポールからスラバヤを経てマダガスカルヘ行き、転勤先のキンダリィの飛行場へ。そこでP38に爆撃された。毎日爆撃され飛行機が減るので、ドラム缶の上にベニヤ板を飛行機の形に切ってのせておいた。低空を飛ぶ敵には分かったと思うが。
 今考えることは、将来を思うと、日本人がいなくならないように努めて欲しい。そして若い人はボランティア精神を忘れないで欲しい。

富永 
 昭和19年現役入隊。中国山西省の山の中へ。国民党は友好的だったが八路車に滅茶苦茶にやられた。皆3ヶ月の教育て全部終わらせて南方へ転属させる予定が、この頃はもう船が出なくなっていた。では、中国を守ろうと沿岸に配置させた。運の悪い人はソ連国境へ行き、皆シペリアヘ抑留された。内地防衛だと喜んで行ったのに。
 優秀な兵を集めた第43軍の特殊部隊へ私も入り、現地の破壊された線路を直したりして頼られ、終戦時にタバコやお金をもらった。収容所にも入ったが、向こうの軍隊と一緒に警備をした。八路軍にやられるからだ。引き揚げる時は襲われて強盗されるので夜移動した。子供や女性は歩けなくなる。この時にたくさんの人が亡くなった。
 日本軍の兵隊が八路軍に寝返り、なんで日本人同士が殺し合いをしなきゃならないのかと悲しかった。今の政治には不満がある。教育、警察等。人に頼らず、自分で責任持ってやる。家庭教育も親がしっかりとやるべきだと思っている。

注 ノモンハン事件=1939年5月~9月日ソ両軍が国境紛争、日本軍がやぶれた

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編集者 (代理投稿)

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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
座談・その2

羽鳥 
 学徒動員は昭和18年位から。私は中学生で、1年半位郊外の電機工場で溶接機を組み立てる仕事をしていた。中学卒業後は東京の高校へ入学が決まっていたが、4月になっても工場へ行っていた。6月位になって高校から出て来いと連絡があったが、東京大空襲の後だったので、母に「何でここまで育てたのに東京の学校へやらなきやいけないのか」と泣かれた。でもやっぱり勉強がしたかった。
 7月頃に東京へ行った。今、日本人の品格を上げようと思う。一番大きな力持っているのはマスコミ。戦争一色になったら皆、その方向へ行く。一つの流れができた時に、立ち止まってこれは本物だろうかと判断する力は必要。国家の品格を上げる。ごく常識的に。卑怯なことをやってはいけないと思う。

中田 
 昭和17年1月10目に入隊していきなり内蒙古《うちもうこ》へ。その後山西省の戦車第3師団へ移動部隊をもって2ヵ月程応援に行った。この年の12月に戦車第3師団ができた。
 その時、我々の部隊の弾を運ぶ車をトヨタが2000台納入してくれた。なぜトヨタが満州に工場を持っていったかがわかった。内蒙古は黄河を越えればゴビ砂漠。冬には黄河が凍ってトラックも通れるので、外蒙古から馬で盗賊が入って来る。それを我々が警備して阻止する。蒙古連合自治政府を日本が作って、私達はそこに2年いた。 
 日ソ不可侵条約が18[年にできたので、戦車2個旅団を台湾へ。終戦は洛陽《らくよう=中国河南省の都市》の近くで迎えた。洛陽を攻撃の昭和18年5月に、私は左手足を負傷した。洛陽城内には戦車が入れなかった。皆徒歩だった。これからの人たちには、民族意識を持って欲しい。中国から帰る時、仲良くなった現地の子供が泣いて「帰るな」といっていた。11歳のその子は大きな万頭屋の子で、その子の親は「戦争が終わって国交が回復したら、この子を日本に勉強にやりたい。皆さんの態度は鏡だ」と。
 帰国の際、私達の隊に何応欽《かおうきん》大将から感謝状が出た。師団から戦犯は一人も出なかった。日華親善を身を持ってやった。私の隊では、現地で絶対に木を燃やしてはいけないと。柳の木をたくさん植えてきた。 2000本の桜も植えてきた。本当の人間の気持ちは、戦争やりたいというのはなかったのではないか。

(お話を聞いて)

 出席者の戦争体験、海外での戦争の生々しい悲惨な実態を語られ、内地においては学生の勤労奉仕、空襲、疎開の苦しみ、敗戦後の捕虜の生活等々、戦争という狂気の実態も明らかにしていかに戦争というものが空しいものか、いかなる理由があっても戦争を是認できるものではないとの結論になった。若い俄然世代に語り残すごとに多々あり、悲惨な歴史をくりかえしてはならないと一同熱く語り合った次第である。

 (聞き手 佐々木俊文 昭和10年生)

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「流れ流れて俘虜生活」

 逗子市 内山 定男(大正7《1918》年生) 


(あらすじ)

 大学を3ヶ月繰り上げて卒業し、昭和16年12月に徴兵《人民を徴収して兵士にする》検査。兵隊になるのが嫌だったので、元々痩《や》せていたのに絶食して検査を受けたがダメだった。そして世田谷の近衛野砲隊に入った。近衛は皆、宮兵団としてスマトラ《=現インドネシアの一部》ヘ。夜中に隠密で品川から門司まで行った。

 昭和17年9月に軍用船でのメダン《=インドネシア・スマトラ島の北部の都市》ヘ上陸。私はひょろひょろしていたので、第一線では役に立たないだろうと炊事班長に。だから実際に前線に立ったことはない。現地で徴兵したインドネシア人の指揮官をやっていて終戦を迎えた。3年間スマトラにいた。
 玉音放送《=天皇が直接国民に対しての放送》も知らず、何で負けたか、内地がどうなっているかの情報も入らなかった。帰っても殺されるだろうと多くの日本兵が逃げた。スマトラはオランダ領で、オランダ兵の捕虜収容所があった。我々もそこへ入れられた。ジャワ・スマトラ・ビルマ・インドの南方軍がシンガポールに集結。昭和21年にはシンガポールの捕虜収容所に入れられ、ひどい生活を送った。 
 マレー半島は中国人が多く、中国人の町の便所掃除やゴミ拾いをした。町のゴミ箱をあさって、現地人が食べ残した物を随分食べた。吸殻も拾って吸った。同年から順次帰国できた。半分はマラリアにかかったが、私は丈夫でかからなかった。だから後回しにされて最後の帰国になった。昭和22年9月に佐世保に上陸。今思うと、天皇陛下万歳なんて死んだ人はいないと思う。今の日本はアメリカより、中国や韓国を大切にするべきだと思う。

 (お話を聞いて)

 内山さんのお話を聞いていて今年(平成17年)88才の米寿を迎えられる方のお話とは思え無い程、記憶力が、しっかりなさっている事に驚きました。
 最初から戦争に行くのが嫌でいやでたまらなく、出来ることなら丙種で軍隊に入らなくてもよい様にと痩せるために絶食して徴兵検査に行ったのですが、第2種乙種で合格してしまった、と本音を話されました。当時は太平洋戦争が始まったばかりで、連戦連勝の報道で沸き立っていた時代に、そのようなお考えをお持ちだとは少しばかり意外でした。今お話を伺ってみると、多くの青年達が同じように考えていても当然でしょう。 しかし、それを口に出すわけには行かず、国策に従って戦争に赴き死にいたった方が多くいたわけです。

 幸いに内山さんは第一線で戦うことなく敗戦を迎えられたのですが、ひとつのご飯が与えられ、それで一日の食事をまかなえということでは、おなかが減ってどうしようもなかった、現地の人たちの掃除使役の途中で残飯をあさって飢えを凌《しの》いだ、と兵隊さん達の苦しみがよくわかりました。それにひきかえ現在の飽食《ほうしょく》の時代と比較し、恵まれ今を、もっと有意義に生きなければと反省させられました。
 敗戦によって武器はすべて押収されて、丸裸になるのが当然なのに、現地の人たちと仲良く融和《ゆうわ=うちとけて》していたので短剣などは特ったままで生活をし、帰国の船の上からマラッカ《=マレー半島とスマトラ島との間の》海峡に剣を投げ捨てて帰ってきた、と何か感動的センチメンタリズムを感じたお話でした。
 有難うございました。このお話が少しでも後世の方々のお役になったならば幸いです。
                       
 (聞き手 近藤トメ子 昭和6年生)

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 「友のすすり泣き聞く捕虜生活」

 逗子市 稲毛 福造(大正13《1924》年生)

 昭和18年、品川から深夜出発した。孫呉《そんご=地名》で約1年教育を受け、その間塹壕《ざんごう》掘りなどの防戦の訓練に明け暮れた。冬はマイナス32、3度になった。昭和19年になって戦況が悪くなり、私の所属する歩兵の第1師団がレイテヘ《=フィリピン知友部の島》行くことになった。
 ところが、なぜか私は残された。昭和20年8月6日、ソ連が攻めてくると兵舎から退却した。たちまち満州東部、北部から飛行機が飛んできて、機関銃で撃ってくる。私達は蛸穴《たこあな》に逃げた。1週間程して戦争が終わったらしいと情報が入ってきた。上層部の人は言わない。 16日に終わったと聞いた。武装解除してロシアの捕虜になった。常に先が見えなかった。9月に帰国のために出発するが、なぜか北へ向かう。3日間歩き無蓋車《むがいしゃ=屋根の無い貨車》に乗せられ、ロシアとの国境へ。ハバロフスク方面へ行くとだけ聞いた。約1ヶ月船に乗せられ、捕虜収容所へ。約4000人が入れられて、四六時中銃剣で監視。2段の蚕棚《かいこだな=二層になった寝台》で毛布も何もない。着ている物のみ。
 食事も黒パンが毎食出るだけ。 
 トイレもなく、日本人が外に板を渡して作った。作業は山の木の伐採と船の荷降ろし。アムール川が凍って、圧力で船が壊されないように船の周りの氷を掘る作業もあった。 25人単位で作業に出るが、常にロシア兵が監視していた。
 全く希望の無い生活だった。いつ帰れるかいつ食事をもらえるかも分からない。脱走した人もいたが逃げる所もなかった。夜になると年配の兵隊はすすり泣いていた。昭和22年12月復員した。

 (お話を聞いて)

 極寒の地シベリアに2年余りの拘留《こうりゅう=とらわれる》生活を送られた稲毛さんは淡々と話して下さいました。 19歳のとき志願兵として昭和18年に入隊されました。夜半品川を出発し博多を経由して釜山《プサン》に上陸し朝鮮半島を北上して満州の北端の地孫呉《そんご》に到着しました。ここで初年兵教育を受けていつ戦争になってもいいという時に敗戦になってしまったのです。
 多くの兵たちが、これで帰国できるのだと喜んでいました。特に年配の召集兵は胸を躍らせていたことでしょう。が移動が始まり南下するのかと思っていたのが逆に北上したのです。さぞがっかりした事でしょう。
 孫呉から歩いて行軍し、黒河の手前の駅から無蓋の貨車に乗せられ黒沢に着き、黒龍江(=アムール河)を渡りブラゴエチエンスクにつき捕虜生活が始まりました。アムール川を一月もかけて逆行し、狭い船内での生活、足は浮腫《むく》み体もがたがたになったと話しています。
 収容所では春から夏は山に入って伐採作業、冬はアムール川に貨物を運んできた船舶が氷で閉じ込められて破壊されないようにと25人が1グループとなって船の廻りを一米ぐらいの感覚の深さで氷を取り除く作業。大変な仕事だなと考えただけでも体が震えます。それらにはすべてノルマが課せられ、90%から120%に達成できなければ食料も与えられず、休憩もない過酷な方針、そして与えられる食料は一日に小さいコッペパンぐらいの黒パンが三つだけ、副食は殆ど無い状態です。この飢えた生活の中にも知恵が働き、春夏は沢山出来る馬鈴草を缶詰の空き缶に釘で穴を沢山開けておろし金にして、煮え立った湯の中に擦《す》り下ろし入れると澱粉《でんぷん》が固まって丁度食べ易くなりそれを啜《すす》ったといいます。
 しかし来る目も来る目もお先真っ暗なつらい日々の中で、年をとった古参の兵の中には故郷の恋しさ、妻子恋しさに夜毎啜り泣く声を聞くときもあり、これにはやるせない無常を感じたようです。最後に二度と戦争はあってはならないと強く言われました。
                        
 (聞き手 皆木 昭 昭和4年生)

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