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『肉声史』 戦争を語る (7)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (7)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/8/9 6:51
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 座談・その1

  「戦争体験から考えること、訴えたいこと」

  鎌倉市  高橋  清良(大正6《1917》年生)
        大久保 安夫(大正14年生)
        羽鳥  光男(昭和2《1927》年生)
        富永 正夫(大正13年生)
        中田 良司(大正10年生)

高橋 
 満州国が建国された昭和7年、私は15歳だった。大和魂《やまとだましい》、滅私奉公《=私利、私欲を捨て》、神州男児《=神の国の男子》、尽忠報国《じんちゅうほうこく=国に忠義をつくす》という言葉が流行っていて、野外の映画会もそんなのばかり。泥沼化していた日中事変は侵略ではなく聖戦だと植えつけていた。
 私は昭和12年に福島県で徴兵検査を受け、同年12月に臨時召集で仙台の工兵2連隊へ。2ヵ月程訓練を受けてハイラルヘ。6月の暑い盛りにノモンハンまで20km程の道を5日間かけて歩いた。そのうち戦車も航空隊も皆南方へ引き上げ、隠れ場所も何もない所で血みどろの戦争。私か生き残れたのは、先輩に教えられた通りにしたから。銃撃があって砂煙が上がったら飛び越えろと教えられた。一旦潜った弾は浮き上がってくるから。
 8万人近い戦死者が出たノモンハン事件《=注1》は事件じゃなくて戦争だ。今考えることは、国があって、企業あっての家庭生活だと思う。戦争は良くないことだが、国防意識を持つことは大切だと思う。

大久保 
 工員養成所の専科を1年済ませて横須賀の航空技術所にいたら、予備補習生として3ヶ月半勉強しろと。
 それが済んで帰れるのかと思ったら、退団即日応集現役編入。その後、横須賀の法律学校へ。昭和18年暮れに転勤になり、横須賀の軍艦輸送船が皆修理中だったので呉から行くことに。輸送空母に乗って出港したが、エンジン故障で戻り、今度は「南海丸」に乗って九州の北で船団を組んで行った。船に真水がなく、スコールで体を洗った。シンガポールからスラバヤを経てマダガスカルヘ行き、転勤先のキンダリィの飛行場へ。そこでP38に爆撃された。毎日爆撃され飛行機が減るので、ドラム缶の上にベニヤ板を飛行機の形に切ってのせておいた。低空を飛ぶ敵には分かったと思うが。
 今考えることは、将来を思うと、日本人がいなくならないように努めて欲しい。そして若い人はボランティア精神を忘れないで欲しい。

富永 
 昭和19年現役入隊。中国山西省の山の中へ。国民党は友好的だったが八路車に滅茶苦茶にやられた。皆3ヶ月の教育て全部終わらせて南方へ転属させる予定が、この頃はもう船が出なくなっていた。では、中国を守ろうと沿岸に配置させた。運の悪い人はソ連国境へ行き、皆シペリアヘ抑留された。内地防衛だと喜んで行ったのに。
 優秀な兵を集めた第43軍の特殊部隊へ私も入り、現地の破壊された線路を直したりして頼られ、終戦時にタバコやお金をもらった。収容所にも入ったが、向こうの軍隊と一緒に警備をした。八路軍にやられるからだ。引き揚げる時は襲われて強盗されるので夜移動した。子供や女性は歩けなくなる。この時にたくさんの人が亡くなった。
 日本軍の兵隊が八路軍に寝返り、なんで日本人同士が殺し合いをしなきゃならないのかと悲しかった。今の政治には不満がある。教育、警察等。人に頼らず、自分で責任持ってやる。家庭教育も親がしっかりとやるべきだと思っている。

注 ノモンハン事件=1939年5月~9月日ソ両軍が国境紛争、日本軍がやぶれた

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編集者 (代理投稿)

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