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『肉声史』 戦争を語る (5)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (5)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/8/9 6:49
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 その3「田の水すすり猛訓練」

 横須賀市 岩堀 洋之(大正10《1921》年生)

 特戦時は浦賀ドック《=船体の建造・修理・などする》で駆逐艦の設計をしていた。昭和14年に浦賀ドックに入り、初めて設計したのが[福江]だった。 18年に召集され、甲府連隊に1年半いた。その後部隊は南京《=中国の市》へ、一部がビルマヘ行ったが、私は帰国。ドックが軍属《=軍に所属する文官》として申請してくれたようだった。 1300天部隊で戦地へ行かなかったのは15人位だった。 
 ドックは駆逐艦《=船団を潜水艦の攻撃から護衛する小型艦》の修理と設計で大変だったらしい。昭和12年から14年の旧制中学の軍事訓練で甲府の連隊に1週間行ったことかあり、甲府は山ばかりで大変で二度と来たくないと思っていたのに、召集が来たら甲府でがっかりした。大変だったのは連合演習。相模湖から平塚まで往復して11日間野宿で演習した。キツイ訓練で有名だったらしい。甲府は冬寒くて夏暑い。水なしの訓練があった。山ばかり登って、水を飲んではいけない訓練だったが、慣れてきたら水も飲んでしまって、時には、内緒で田んぼの水を水筒に入れて帰ってきた。夜中の訓練もあった。真っ暗で何も見えない。所属部隊は南京で三分の一戦死、ビルマは全滅だったようだ。横須賀は空襲は、あまりなかった。防空壕《注》に2、3回入った程度。避難する時は設計の道具を持っていけと言われた。弁当を持って逃げたら怒られた。玉音放送《=天皇が直接国民に対しての放送》を聴いて、すぐ軍艦の図面を燃やした。燃やすのに1週間以上かかった。終戦の感傷に浸る余裕もなく、自分の仕事に追われた。戦後離職して、米軍ベース《ベースキャンプ=軍事基地》の食堂でボーイをやった。洋食を食べてみて「日本が負ける訳だ」と思った。


 (お話を聞いて)

 横須賀市浦賀にお住まいの岩堀洋之氏から、浦賀造船所で設計技師としで駆逐艦のエンジンの設計にたずさわっていたこと、その間に召集となり甲府の部隊に配属になり、厳しい訓練を受けたこと、その仲間がビルマや南京に出兵し、自分は技術者として、戦地に行かず、浦賀造船所の軍属として戻り、戦地で破損した戦艦の修理にあたった事、また横浜の大空襲の翌日叔父を訪ねて行って見た黒焦げの死体の山のこと等、生々しく細かに語っていただけました。最後の現代の若者についての感想は、あいさつや礼儀に欠けており、戦前の教育では、あいさつが重要視されていたことを思う時、もう少しあいさつ、礼儀作法の意義や、重要性について、理解し、実行出来る人間を教育する必要があると結ばれました。
 
 (聞き手 岡本基明 昭和10年生)

注 防空壕=空襲を退避するだめに穴を掘ってつくったもの
 

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編集者 (代理投稿)

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