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『肉声史』 戦争を語る (10)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (10)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/8/11 7:28
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 「友のすすり泣き聞く捕虜生活」

 逗子市 稲毛 福造(大正13《1924》年生)

 昭和18年、品川から深夜出発した。孫呉《そんご=地名》で約1年教育を受け、その間塹壕《ざんごう》掘りなどの防戦の訓練に明け暮れた。冬はマイナス32、3度になった。昭和19年になって戦況が悪くなり、私の所属する歩兵の第1師団がレイテヘ《=フィリピン知友部の島》行くことになった。
 ところが、なぜか私は残された。昭和20年8月6日、ソ連が攻めてくると兵舎から退却した。たちまち満州東部、北部から飛行機が飛んできて、機関銃で撃ってくる。私達は蛸穴《たこあな》に逃げた。1週間程して戦争が終わったらしいと情報が入ってきた。上層部の人は言わない。 16日に終わったと聞いた。武装解除してロシアの捕虜になった。常に先が見えなかった。9月に帰国のために出発するが、なぜか北へ向かう。3日間歩き無蓋車《むがいしゃ=屋根の無い貨車》に乗せられ、ロシアとの国境へ。ハバロフスク方面へ行くとだけ聞いた。約1ヶ月船に乗せられ、捕虜収容所へ。約4000人が入れられて、四六時中銃剣で監視。2段の蚕棚《かいこだな=二層になった寝台》で毛布も何もない。着ている物のみ。
 食事も黒パンが毎食出るだけ。 
 トイレもなく、日本人が外に板を渡して作った。作業は山の木の伐採と船の荷降ろし。アムール川が凍って、圧力で船が壊されないように船の周りの氷を掘る作業もあった。 25人単位で作業に出るが、常にロシア兵が監視していた。
 全く希望の無い生活だった。いつ帰れるかいつ食事をもらえるかも分からない。脱走した人もいたが逃げる所もなかった。夜になると年配の兵隊はすすり泣いていた。昭和22年12月復員した。

 (お話を聞いて)

 極寒の地シベリアに2年余りの拘留《こうりゅう=とらわれる》生活を送られた稲毛さんは淡々と話して下さいました。 19歳のとき志願兵として昭和18年に入隊されました。夜半品川を出発し博多を経由して釜山《プサン》に上陸し朝鮮半島を北上して満州の北端の地孫呉《そんご》に到着しました。ここで初年兵教育を受けていつ戦争になってもいいという時に敗戦になってしまったのです。
 多くの兵たちが、これで帰国できるのだと喜んでいました。特に年配の召集兵は胸を躍らせていたことでしょう。が移動が始まり南下するのかと思っていたのが逆に北上したのです。さぞがっかりした事でしょう。
 孫呉から歩いて行軍し、黒河の手前の駅から無蓋の貨車に乗せられ黒沢に着き、黒龍江(=アムール河)を渡りブラゴエチエンスクにつき捕虜生活が始まりました。アムール川を一月もかけて逆行し、狭い船内での生活、足は浮腫《むく》み体もがたがたになったと話しています。
 収容所では春から夏は山に入って伐採作業、冬はアムール川に貨物を運んできた船舶が氷で閉じ込められて破壊されないようにと25人が1グループとなって船の廻りを一米ぐらいの感覚の深さで氷を取り除く作業。大変な仕事だなと考えただけでも体が震えます。それらにはすべてノルマが課せられ、90%から120%に達成できなければ食料も与えられず、休憩もない過酷な方針、そして与えられる食料は一日に小さいコッペパンぐらいの黒パンが三つだけ、副食は殆ど無い状態です。この飢えた生活の中にも知恵が働き、春夏は沢山出来る馬鈴草を缶詰の空き缶に釘で穴を沢山開けておろし金にして、煮え立った湯の中に擦《す》り下ろし入れると澱粉《でんぷん》が固まって丁度食べ易くなりそれを啜《すす》ったといいます。
 しかし来る目も来る目もお先真っ暗なつらい日々の中で、年をとった古参の兵の中には故郷の恋しさ、妻子恋しさに夜毎啜り泣く声を聞くときもあり、これにはやるせない無常を感じたようです。最後に二度と戦争はあってはならないと強く言われました。
                        
 (聞き手 皆木 昭 昭和4年生)

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編集者 (代理投稿)

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