『肉声史』 戦争を語る (2)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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(その2)
「極寒シべリアを生き抜く」
重野文吉さん
大正12《1923》年 新潟県生まれ
昭和13《1938》年12月 満州国黒河省
昭和18年10月 満州国柏原儀勇隊開拓団入植
昭和20年5月 満州国奉天省関東軍通信隊入隊
8月 ソ連軍侵攻により捕虜
昭和23《1948》年12月 舞鶴港帰着
〔あらすじ〕
6人兄弟で自分の父親は、戦争が始まったときこんな資源の無い国が大国と戦うことのおろかさを怒っていたことを思い出す。ともあれ、6人兄弟の自分は当時、学校も親も満州へ行けと言われ満款《まんかん》開拓団として中国へ。言うならば手薄となった関東《かんとん》軍の義勇軍と同じこと。匪賊《ひぞく=徒党を組んで出没し殺人略奪をする盗賊》が横行しその守りのためである。与えられる兵器は中国やソ連の中古品。弾は100メートルも飛ばない。暴発して大怪我も。冬は零下40度になったり、狼が襲ってきたり、その中でその地に住み農業をおこなった。終戦の年にロシア軍に捕えられ、捕虜の生活が始まる。
最初の仕事は、ソ連が没収した関東軍などの銃器と食料、衣料などを運ぶ作業で、徒歩で朝から晩まで野宿して奥地へと連れて行かれた。その没収したものを運び終わったら日本に返すとの約束であったが、そうはならず過酷な労働がはじまった。大きな木の伐採《ばっさい》などであるが、食料も十分でなく、また寒<、栄養失調や怪我で死ぬものは毎日いた。昼は黒パン1つ。とにか<腹がペコペコの毎日で、春になり草が萌えだすとやわらかいところを取って食べて、腹を下しながら食べれる草がようやく分かってくるというような状態であった。自分は馬の世話係を命じられていたので馬のえさを少々失敬して食べていたので助かった。捕虜を世話するソ連兵も貧しかった。
自分が捕虜となっているときに女房と子どもは死んでいた。そんな捕虜生活の中ではがきを出せといわれ、つまり手紙を書かせることは帰れることかと希望が生まれた。返事が来たときはうれしかった。とにかく捕虜生活はひどく丸太のベッドにぎゆうぎゆうづめで、トイレから帰れば自分の寝場所も無く、暖房も生木を焼くから油煙がひどく、また南京虫《なんきんむし=人畜から吸血し激しい痒みと痛みを残す》も沢山出て実にかゆい。
朝などお互いに油煙で顔が黒くなり、南京虫で赤<脹れている姿などは、みられたものではなかった。馬の世話係でたまに足を痛めた馬を殺しその処分で焼くのだが、これを食べたがこんなにおいしいものは無かった。実にうまかった。捕虜生活では、教育として共産思想を叩き込まれた。後に日本に帰ってからシべリア帰りの人を共産党が入党を勧めて回ったそうだが自分のところへはこなかった。とにかく大変であった。若い人には、とにかく命の大切さをわかって欲しい。
それを考えると日本は先々どうしようも無いことになると心配する。
(その3)
「子らの力、親の力、命の力」
最上 照子さん
大正10《1921》年 千葉県生まれ
昭和15《1940》年 横須賀市立尋常小学校勤務
昭和21年 7月退職
〔あらすじ〕
内地では、ノモンハンの激戦はあまり知らせられず、その事件が停戦になったことは聞き、安堵した。横須賀でも昭和18年数の飛行機がとんできた。どうも偵察機らしいが、海軍工廠《かいぐんこうしょう=軍に直属し兵器爆弾を製造する工場》に爆弾を落としていった。日本軍は何もしない、これは負け戦だと思った。
そしてまもなく疎開がはじまった。学童疎開《注1》は、横須賀から綾瀬村に疎開をした。お寺が主な宿舎になる。小学校3年生から6年生まで120~30人を3箇所に分けて生活を共にした。生活全般について、食料などは行政がみていたようだ。
炊事、掃除は人を雇っていた。勉強といっても真似事程度。小さい子どもがさびしがるのを慰めるなどが主な仕事であった。とにか<食べさせていくのが精一杯で、付き添いの
先生は農家に買出しに行ったものだ。親は、毎日のようにきた。親が来ると子供はおちつくが、別れるときは、かえって親のほうが悲しがるという風であった。不思議に子どもたちの親の戦死は聞かなかった。幸いなことに子どもたちは病気もせず案外元気であった。終戦となりやれやれといった感じだが、それからの生活が大変であった。
子どもを育てるのにミルクもないので、もらい乳をして育てた。とにかく自分が食べるより子どもに食べさせることが先で、食べ物には本当に苦労した。ひじき入りのご飯を子どもはこじきのご飯など言い近所の人にうまいことを言うと変に感心されたことを思い出す。この戦争は、無謀な戦争であったと思う。
「3人のお話を聞いて」
重野文吉さんは、満州開拓少年義勇兵として満州に行かれました。夢を抱き、日本を出て行った重野さんたちに与えられた武器はとても使い物にならない古いものだったとの話には驚きました。それにその当時から日本軍はどんどん南へ移動し、重野さんのような少年や、現地招集の兵隊が満州の日本人を守っていたのです。そしてロシアの侵攻《しんこう》により、重野さんの長い収容所生活が始まりました。幸い収容所生活で次々と仲間を失くしましたが、重野さん自身は生き残って日本に帰ることが出来ました。しかし、奥さんとお子さんは現地でなくなっていたのです。「仕方ないですよ」とさらりと話すその言葉の裏に隠れた深く悲しい思いを強く感じました。
88歳(平成18年時点)の高橋清良さんは最初の召集ではノモンハン事件に工兵隊《=技術的任務に属する》として従軍。ノモンハンでは溝のような塹壕《ざんごう》を掘るしかできず、、しかも横になって塹壕を掘るしかなく、工兵隊も亡くなった方がずいぶん多かったとか。まさに高橋さんが生きていることは奇跡《きせき》としか私には思えませんでした。ノモンハンで生き残り戻った後、再度召集で妊娠《にんしん》中の奥さんを残し従軍するときは後ろ髪を引かれる思いだったと述べられたときは、軍隊の話と違って声が低く戦争にむかわざるをえない心情に目頭が熱くなりました
終戦後、やっとの思いで復員したら、家は焼け、跡形もなかったのですが、知り合いに偶然あい、家族のことを知ることができた話などはまるでドラマのようです。
軍港があった横須賀市で戦争中、小学校の先生をしていた最上照子さんは、学童の集団疎開《注》の話をなされました。疎開中に面会に来る親たちが別れるときには泣いていたと聞いて、離れて暮らす親の気持ちが良くわかり胸を打ちました。しかし子どもたちは案外元気でけろっとしていたようで、救われる気持ちがしたものです。敗戦でがっかりするより「やれやれ戦争が終わってよかったと思った」というも最上さんの正直な感想を聞いて同じ思いの人も多かったのだろうと思いました。戦後は食べ物が無く、ミルクもなくて、子育てに苦労なさったようで、当時のお母さんたちのすべてが体験した苦労の一端も垣間見ることが出来ました。
植松 紀子さん (昭和22《1942》年うまれ 「雑誌「百歳万歳」社編集長」
注1 学童疎開=第2次世界大戦末期に戦火をまぬかれるために都会の学童を学校ごとに地方の農村山村に移住させた
「極寒シべリアを生き抜く」
重野文吉さん
大正12《1923》年 新潟県生まれ
昭和13《1938》年12月 満州国黒河省
昭和18年10月 満州国柏原儀勇隊開拓団入植
昭和20年5月 満州国奉天省関東軍通信隊入隊
8月 ソ連軍侵攻により捕虜
昭和23《1948》年12月 舞鶴港帰着
〔あらすじ〕
6人兄弟で自分の父親は、戦争が始まったときこんな資源の無い国が大国と戦うことのおろかさを怒っていたことを思い出す。ともあれ、6人兄弟の自分は当時、学校も親も満州へ行けと言われ満款《まんかん》開拓団として中国へ。言うならば手薄となった関東《かんとん》軍の義勇軍と同じこと。匪賊《ひぞく=徒党を組んで出没し殺人略奪をする盗賊》が横行しその守りのためである。与えられる兵器は中国やソ連の中古品。弾は100メートルも飛ばない。暴発して大怪我も。冬は零下40度になったり、狼が襲ってきたり、その中でその地に住み農業をおこなった。終戦の年にロシア軍に捕えられ、捕虜の生活が始まる。
最初の仕事は、ソ連が没収した関東軍などの銃器と食料、衣料などを運ぶ作業で、徒歩で朝から晩まで野宿して奥地へと連れて行かれた。その没収したものを運び終わったら日本に返すとの約束であったが、そうはならず過酷な労働がはじまった。大きな木の伐採《ばっさい》などであるが、食料も十分でなく、また寒<、栄養失調や怪我で死ぬものは毎日いた。昼は黒パン1つ。とにか<腹がペコペコの毎日で、春になり草が萌えだすとやわらかいところを取って食べて、腹を下しながら食べれる草がようやく分かってくるというような状態であった。自分は馬の世話係を命じられていたので馬のえさを少々失敬して食べていたので助かった。捕虜を世話するソ連兵も貧しかった。
自分が捕虜となっているときに女房と子どもは死んでいた。そんな捕虜生活の中ではがきを出せといわれ、つまり手紙を書かせることは帰れることかと希望が生まれた。返事が来たときはうれしかった。とにかく捕虜生活はひどく丸太のベッドにぎゆうぎゆうづめで、トイレから帰れば自分の寝場所も無く、暖房も生木を焼くから油煙がひどく、また南京虫《なんきんむし=人畜から吸血し激しい痒みと痛みを残す》も沢山出て実にかゆい。
朝などお互いに油煙で顔が黒くなり、南京虫で赤<脹れている姿などは、みられたものではなかった。馬の世話係でたまに足を痛めた馬を殺しその処分で焼くのだが、これを食べたがこんなにおいしいものは無かった。実にうまかった。捕虜生活では、教育として共産思想を叩き込まれた。後に日本に帰ってからシべリア帰りの人を共産党が入党を勧めて回ったそうだが自分のところへはこなかった。とにかく大変であった。若い人には、とにかく命の大切さをわかって欲しい。
それを考えると日本は先々どうしようも無いことになると心配する。
(その3)
「子らの力、親の力、命の力」
最上 照子さん
大正10《1921》年 千葉県生まれ
昭和15《1940》年 横須賀市立尋常小学校勤務
昭和21年 7月退職
〔あらすじ〕
内地では、ノモンハンの激戦はあまり知らせられず、その事件が停戦になったことは聞き、安堵した。横須賀でも昭和18年数の飛行機がとんできた。どうも偵察機らしいが、海軍工廠《かいぐんこうしょう=軍に直属し兵器爆弾を製造する工場》に爆弾を落としていった。日本軍は何もしない、これは負け戦だと思った。
そしてまもなく疎開がはじまった。学童疎開《注1》は、横須賀から綾瀬村に疎開をした。お寺が主な宿舎になる。小学校3年生から6年生まで120~30人を3箇所に分けて生活を共にした。生活全般について、食料などは行政がみていたようだ。
炊事、掃除は人を雇っていた。勉強といっても真似事程度。小さい子どもがさびしがるのを慰めるなどが主な仕事であった。とにか<食べさせていくのが精一杯で、付き添いの
先生は農家に買出しに行ったものだ。親は、毎日のようにきた。親が来ると子供はおちつくが、別れるときは、かえって親のほうが悲しがるという風であった。不思議に子どもたちの親の戦死は聞かなかった。幸いなことに子どもたちは病気もせず案外元気であった。終戦となりやれやれといった感じだが、それからの生活が大変であった。
子どもを育てるのにミルクもないので、もらい乳をして育てた。とにかく自分が食べるより子どもに食べさせることが先で、食べ物には本当に苦労した。ひじき入りのご飯を子どもはこじきのご飯など言い近所の人にうまいことを言うと変に感心されたことを思い出す。この戦争は、無謀な戦争であったと思う。
「3人のお話を聞いて」
重野文吉さんは、満州開拓少年義勇兵として満州に行かれました。夢を抱き、日本を出て行った重野さんたちに与えられた武器はとても使い物にならない古いものだったとの話には驚きました。それにその当時から日本軍はどんどん南へ移動し、重野さんのような少年や、現地招集の兵隊が満州の日本人を守っていたのです。そしてロシアの侵攻《しんこう》により、重野さんの長い収容所生活が始まりました。幸い収容所生活で次々と仲間を失くしましたが、重野さん自身は生き残って日本に帰ることが出来ました。しかし、奥さんとお子さんは現地でなくなっていたのです。「仕方ないですよ」とさらりと話すその言葉の裏に隠れた深く悲しい思いを強く感じました。
88歳(平成18年時点)の高橋清良さんは最初の召集ではノモンハン事件に工兵隊《=技術的任務に属する》として従軍。ノモンハンでは溝のような塹壕《ざんごう》を掘るしかできず、、しかも横になって塹壕を掘るしかなく、工兵隊も亡くなった方がずいぶん多かったとか。まさに高橋さんが生きていることは奇跡《きせき》としか私には思えませんでした。ノモンハンで生き残り戻った後、再度召集で妊娠《にんしん》中の奥さんを残し従軍するときは後ろ髪を引かれる思いだったと述べられたときは、軍隊の話と違って声が低く戦争にむかわざるをえない心情に目頭が熱くなりました
終戦後、やっとの思いで復員したら、家は焼け、跡形もなかったのですが、知り合いに偶然あい、家族のことを知ることができた話などはまるでドラマのようです。
軍港があった横須賀市で戦争中、小学校の先生をしていた最上照子さんは、学童の集団疎開《注》の話をなされました。疎開中に面会に来る親たちが別れるときには泣いていたと聞いて、離れて暮らす親の気持ちが良くわかり胸を打ちました。しかし子どもたちは案外元気でけろっとしていたようで、救われる気持ちがしたものです。敗戦でがっかりするより「やれやれ戦争が終わってよかったと思った」というも最上さんの正直な感想を聞いて同じ思いの人も多かったのだろうと思いました。戦後は食べ物が無く、ミルクもなくて、子育てに苦労なさったようで、当時のお母さんたちのすべてが体験した苦労の一端も垣間見ることが出来ました。
植松 紀子さん (昭和22《1942》年うまれ 「雑誌「百歳万歳」社編集長」
注1 学童疎開=第2次世界大戦末期に戦火をまぬかれるために都会の学童を学校ごとに地方の農村山村に移住させた
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編集者 (代理投稿)