『肉声史』 戦争を語る (9)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
「流れ流れて俘虜生活」
逗子市 内山 定男(大正7《1918》年生)
(あらすじ)
大学を3ヶ月繰り上げて卒業し、昭和16年12月に徴兵《人民を徴収して兵士にする》検査。兵隊になるのが嫌だったので、元々痩《や》せていたのに絶食して検査を受けたがダメだった。そして世田谷の近衛野砲隊に入った。近衛は皆、宮兵団としてスマトラ《=現インドネシアの一部》ヘ。夜中に隠密で品川から門司まで行った。
昭和17年9月に軍用船でのメダン《=インドネシア・スマトラ島の北部の都市》ヘ上陸。私はひょろひょろしていたので、第一線では役に立たないだろうと炊事班長に。だから実際に前線に立ったことはない。現地で徴兵したインドネシア人の指揮官をやっていて終戦を迎えた。3年間スマトラにいた。
玉音放送《=天皇が直接国民に対しての放送》も知らず、何で負けたか、内地がどうなっているかの情報も入らなかった。帰っても殺されるだろうと多くの日本兵が逃げた。スマトラはオランダ領で、オランダ兵の捕虜収容所があった。我々もそこへ入れられた。ジャワ・スマトラ・ビルマ・インドの南方軍がシンガポールに集結。昭和21年にはシンガポールの捕虜収容所に入れられ、ひどい生活を送った。
マレー半島は中国人が多く、中国人の町の便所掃除やゴミ拾いをした。町のゴミ箱をあさって、現地人が食べ残した物を随分食べた。吸殻も拾って吸った。同年から順次帰国できた。半分はマラリアにかかったが、私は丈夫でかからなかった。だから後回しにされて最後の帰国になった。昭和22年9月に佐世保に上陸。今思うと、天皇陛下万歳なんて死んだ人はいないと思う。今の日本はアメリカより、中国や韓国を大切にするべきだと思う。
(お話を聞いて)
内山さんのお話を聞いていて今年(平成17年)88才の米寿を迎えられる方のお話とは思え無い程、記憶力が、しっかりなさっている事に驚きました。
最初から戦争に行くのが嫌でいやでたまらなく、出来ることなら丙種で軍隊に入らなくてもよい様にと痩せるために絶食して徴兵検査に行ったのですが、第2種乙種で合格してしまった、と本音を話されました。当時は太平洋戦争が始まったばかりで、連戦連勝の報道で沸き立っていた時代に、そのようなお考えをお持ちだとは少しばかり意外でした。今お話を伺ってみると、多くの青年達が同じように考えていても当然でしょう。 しかし、それを口に出すわけには行かず、国策に従って戦争に赴き死にいたった方が多くいたわけです。
幸いに内山さんは第一線で戦うことなく敗戦を迎えられたのですが、ひとつのご飯が与えられ、それで一日の食事をまかなえということでは、おなかが減ってどうしようもなかった、現地の人たちの掃除使役の途中で残飯をあさって飢えを凌《しの》いだ、と兵隊さん達の苦しみがよくわかりました。それにひきかえ現在の飽食《ほうしょく》の時代と比較し、恵まれ今を、もっと有意義に生きなければと反省させられました。
敗戦によって武器はすべて押収されて、丸裸になるのが当然なのに、現地の人たちと仲良く融和《ゆうわ=うちとけて》していたので短剣などは特ったままで生活をし、帰国の船の上からマラッカ《=マレー半島とスマトラ島との間の》海峡に剣を投げ捨てて帰ってきた、と何か感動的センチメンタリズムを感じたお話でした。
有難うございました。このお話が少しでも後世の方々のお役になったならば幸いです。
(聞き手 近藤トメ子 昭和6年生)
逗子市 内山 定男(大正7《1918》年生)
(あらすじ)
大学を3ヶ月繰り上げて卒業し、昭和16年12月に徴兵《人民を徴収して兵士にする》検査。兵隊になるのが嫌だったので、元々痩《や》せていたのに絶食して検査を受けたがダメだった。そして世田谷の近衛野砲隊に入った。近衛は皆、宮兵団としてスマトラ《=現インドネシアの一部》ヘ。夜中に隠密で品川から門司まで行った。
昭和17年9月に軍用船でのメダン《=インドネシア・スマトラ島の北部の都市》ヘ上陸。私はひょろひょろしていたので、第一線では役に立たないだろうと炊事班長に。だから実際に前線に立ったことはない。現地で徴兵したインドネシア人の指揮官をやっていて終戦を迎えた。3年間スマトラにいた。
玉音放送《=天皇が直接国民に対しての放送》も知らず、何で負けたか、内地がどうなっているかの情報も入らなかった。帰っても殺されるだろうと多くの日本兵が逃げた。スマトラはオランダ領で、オランダ兵の捕虜収容所があった。我々もそこへ入れられた。ジャワ・スマトラ・ビルマ・インドの南方軍がシンガポールに集結。昭和21年にはシンガポールの捕虜収容所に入れられ、ひどい生活を送った。
マレー半島は中国人が多く、中国人の町の便所掃除やゴミ拾いをした。町のゴミ箱をあさって、現地人が食べ残した物を随分食べた。吸殻も拾って吸った。同年から順次帰国できた。半分はマラリアにかかったが、私は丈夫でかからなかった。だから後回しにされて最後の帰国になった。昭和22年9月に佐世保に上陸。今思うと、天皇陛下万歳なんて死んだ人はいないと思う。今の日本はアメリカより、中国や韓国を大切にするべきだと思う。
(お話を聞いて)
内山さんのお話を聞いていて今年(平成17年)88才の米寿を迎えられる方のお話とは思え無い程、記憶力が、しっかりなさっている事に驚きました。
最初から戦争に行くのが嫌でいやでたまらなく、出来ることなら丙種で軍隊に入らなくてもよい様にと痩せるために絶食して徴兵検査に行ったのですが、第2種乙種で合格してしまった、と本音を話されました。当時は太平洋戦争が始まったばかりで、連戦連勝の報道で沸き立っていた時代に、そのようなお考えをお持ちだとは少しばかり意外でした。今お話を伺ってみると、多くの青年達が同じように考えていても当然でしょう。 しかし、それを口に出すわけには行かず、国策に従って戦争に赴き死にいたった方が多くいたわけです。
幸いに内山さんは第一線で戦うことなく敗戦を迎えられたのですが、ひとつのご飯が与えられ、それで一日の食事をまかなえということでは、おなかが減ってどうしようもなかった、現地の人たちの掃除使役の途中で残飯をあさって飢えを凌《しの》いだ、と兵隊さん達の苦しみがよくわかりました。それにひきかえ現在の飽食《ほうしょく》の時代と比較し、恵まれ今を、もっと有意義に生きなければと反省させられました。
敗戦によって武器はすべて押収されて、丸裸になるのが当然なのに、現地の人たちと仲良く融和《ゆうわ=うちとけて》していたので短剣などは特ったままで生活をし、帰国の船の上からマラッカ《=マレー半島とスマトラ島との間の》海峡に剣を投げ捨てて帰ってきた、と何か感動的センチメンタリズムを感じたお話でした。
有難うございました。このお話が少しでも後世の方々のお役になったならば幸いです。
(聞き手 近藤トメ子 昭和6年生)
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編集者 (代理投稿)