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『肉声史』 戦争を語る

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編集者

通常 『肉声史』 戦争を語る

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/8/9 6:43
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 はじめに

 この資料は

 ゆめ倶楽部神奈川
 財団法人 神奈川県老人クラブ連合会

 による、県下のシニアの戦争中の記録です。
 このプロジェクトは平成17《2005》年より2年間かけて続けられました。
 なお、転載にあたっては、同会の承認をいただいています。

 この資料の特色は、
 ・「肉声」をサウンドデータとして、すべて収録しておられること
 ・この「肉声」を編集した冊子には、「あらすじ」と「聞き手役」の方の感想が記されていることです。


(その1)

「戦い終えて日が暮れて・一一」

 高橋 清良さん

 大正6《1917》年 福島県生まれ
 昭和12年 徴兵《ちょうへい》検査 12月臨時召集。仙台工兵第2連隊
 昭和14年 6月ノモンハン事件《注1》 昭和19年 7月臨時召集 中国中部方面に従軍
 昭和21年 5月復員

〔あらすじ〕

 東京から本籍地の福島県にもどり、兵隊検査を受ける。第1乙種で合格した。甲種合格組みは徴兵検査の後の正月から入営だが、第2乙はなかなかお呼びがなかった。昭和12年日中戦争が始まり仙台工兵第2連隊に所属した。昭和14年にノモンハン事件に従軍。
 工兵隊は橋をかけたり、塹壕《ざんごう=注2》を掘ったり陣地を構築する役目であるが最前線では毎日が「戦い終えて日が暮れて」という状態であった。
 帰れるものなら今すぐにでもここから帰りたいとの気持ちはあるが、敵前逃亡は銃殺であるからそれも出来ぬことであった。撤収《てっしゅう》し帰るときには、結局16人いたものが2人となっていた。ノモンハンからはハイラル《=内モンゴル自治区北東部の市》まで、帰る途中で空中戦も見たが、落ちてくるのはソ連の飛行機ばかりで日本の技術はすばらしいと思った。食事は飯盒炊爨《はんごうすいさん》であったが、ノモンハンの戦のときには、飯盒に鉄砲の弾の穴が開き炊事ができなかった。
 飲まず食わず寝ずの行軍も長くなり補給も十分でないと食料事情も悪くなり乾パン1袋を2人3人で1袋という具合。
 水もなかなか無く、たまにあればガソリン臭い水であった。負傷兵は気の毒で、痛いよー痛いよーと言っていてもこちらは何も出来ず、前線には看護兵もおらず手当ての仕様が無いのである。  
 戦死すれば爪をはがし封筒に入れ名前を書き持ってくるのであるが、それを持つものも戦死するのである。原隊復帰出来ぬ者は、戦死か捕虜のいずれかと考えていた。
 おかしなものでソ連兵はノルマで戦争を行っていた。その日の弾を撃ち尽くせば帰っていったが、日本兵はそうはいかなかった。
 その後上海から南方に転進する予定であったが、終戦となり、蒋介石《しょうかいせき》軍の捕虜となったが、当時共産軍と戦っていたので、優遇され軍隊の指導をすることとなってしまった。中国兵と寝起きをともにするようになってマラリアにかかってしまい、この結果日本に早く帰されたが、帰ってみれば焼け野原。かつての住居跡にしゃがみこみ石を掴《つか》み地面に叩《たた》きつけ「ばかやろー」と叫んだ。するとバラック《=粗造りの仮建築》の小屋から「良ちゃんじゃないの?!」との声。おばさんだ。うれしかった。

注1 ノモンハン事件=中国北東部北西辺、モンゴル国との国境に近いハルハ河畔の地。1939年5月から9月中頃まで日ソ両軍が国境紛争で交戦、日本軍が大敗を喫した。

注2  塹壕=野戦で敵の攻撃から身を隠すため溝を掘りその土を前に積みあげる 

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編集者 (代理投稿)

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