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『肉声史』 戦争を語る (4)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (4)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/8/9 6:47
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 その2「怒りと哀しみのみの3年間」

 横須賀市 亀井 巌(大正13《1924》年生)

 (あらすじ)

 昭和20年3月に満州のハイラル第560歩兵部隊に入隊。毎日のように共同責任でピンタを張られ、国の為に尽くすのだと叩き込まれた。
 入隊時から戦車に向かって飛び込む練習をした。 8kgの爆薬を、遺骨を抱くように胸にして、蛸壷《=たてに深く掘った一人ようの塹壕》からソ連の重戦車に体当たりして爆発させる練習ばかりだった。事実何千人と命を落としたが、飛び込む前に機銃掃射されて成功率は低かったようだ。私も死を覚悟していたが、故郷の事を考えると後ろ髪を引かれる思いだった。一方で、帝国軍人として女々《めめ》しいことはいけないと教育受けていたから親兄弟に不名誉を残したくないと思った。
 終戦を知らず、8月16日突然部隊長から大事な報告があると言われ全員集合。その前に「いよいよ日本男児として重要な時が来た。しっかり任務を果たして欲しい」と言われていたので、「自分の番が来た」と思ったが、夜、虫の声を間いて何となく心細かった。同時に「これの為に生きてきた。靖国《=靖国神社》に祀《まつ》られるのだ」という気持ちもあった。戦友同士「靖国で会おう」と言った後に日本が負けたと聞いて、信じられなかった。
 武装解除でソ連兵に何もかも没収され、40両位の貨物列車に2000人以上が乗せられて、8月末頃「これで帰国できる」と思っていたら、バイカル湖が見えてきた。ナチスドイツのようにガス室に居られるという噂《うわさ》も流れた。 11日後に、その後3年間抑留生活を送ることになるクラスノヤルスクに着いた。喜怒哀楽の怒と哀のみの3年間たった。戦争は本当に愚かだ。絶対にすべきではない。

 (お話を聞いて)

 亀井氏は満州に渡って5年後の満20歳に兵役検査を受け、召集令状が来て昭和20年3月に満州の歩兵部隊に配属になったそうです。その後終戦の日までの生活は、爆弾を抱えて敵の戦車に体当たりする訓練をする毎日であったそうです。死んだときには靖国神社で会おうと話し合っていたそうで、現在の平和な日本で生活できている私には、想像もつかない緊張と使命感に充ちた毎日であったのだろうと思わせていただきました。
 昭和20年8月15日の敗戦の翌日に上官から日本が戦争に敗れたと告げられたときには何故神州《しんしゅう=神の国・自国の美称》不滅の日本が敗れたのかと信じられない思いであったそうです。
 武装解除となり、ソビエト兵が来て、何処へ行くかも告げられず、貨車に乗せられ、何日も広野を走り着いたところが極寒の地、シペリアであったそうです。
 当時の満州では、何十万の日本兵が捕虜となり、シベリアヘ強制労働のため送られ、その最悪の生活環境のために何万人もの人々が、故国に帰ることも許されず、極寒の地で亡くなり、冷たいシペリアの地に裸で埋められて、今だに多くの遺体がそのままだそうです。
 亀井氏は生還されたようですが、そのことを感謝し、少しでも社会の役に立ちたいと、老人会や地域の活動に携わってきたそうです。
 私は終戦時には10歳で集団疎開で、長野の地に居りました。そのお蔭で、東京大空襲に会わずに済み、死なずに済みました。広島と長崎の原爆で亡くなった方々、主要都市の大空襲でなくなった方々、外国各地で戦没された方々、厚生省広報では、第二次大戦でなくなった日本人は3 1 0万人に上るとされています。戦争で亡くなった多くの尊い生命の犠牲の上に私たちが生かされている事を思うとき、テロや戦争の無い平和な人類社会の構成のために、何か自分として出来ることは無いかと考えさせられます。微力ではあっても努力をしなければならないと、亀井氏のお話を伺っておもいました。

 (聞き手 岡本基明 昭和l0生)

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編集者 (代理投稿)

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