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『肉声史』 戦争を語る (6)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (6)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/8/9 6:50
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 その4 「マイナス40度 生きて帰れるか?」

 横須賀市 佐藤喜太郎(大正9《1920》年生)

 (あらすじ)

 19歳で志願兵として、昭和14年12月に甲府歩兵49連隊に入隊。 2週間後、北満州のソ連との国境警備隊として、黒龍江の沿岸警備に就いた。マイナス40度の所に昭和15年1月から19年4月までいた。戦友の遺骨を日本へ持って帰る役目を言いつかり、東京の麻布3連隊、近衛歩兵3連隊に持って帰って来た。その後終戦まで1年位麻布3連隊にいた。終戦後解散になり、麻布十番から横浜まで丸1日かけて歩いて帰った。食べ物もなく荷物背負って、焼け跡から出ている水道の水を飲んでやっと横浜に辿《たど》り着いた。苦しかった。

 19年頃は負け戦だった。召集兵が来ても鉄砲も剣もなかった。内地の大空襲より満州での国境警備が恐ろしかった。2月に八路軍《はちろぐん=注》の討伐をやった。マイナス40度で幕舎《=テント張りの兵営舎》を張って、3ヶ月間着の身着のままで寝る。敵に見つからないように火も思うように焚《た》けない。
 じっとしていたら凍傷《=しもやけ》になる。凍傷も白いうちは雪を握って揉《も》んだら治るが、紫になったらダメだ。第1関節が紫になったら第2関節から落とす。そうやって手足を落とした人がたくさんいた。寝ていても隙間風で耳や鼻が凍傷になる。不寝番が時々耳や鼻を擦ってあげた。まず生きて帰りたいと思った。歩兵は早く敵に近づくため3日3晩飲まず食わずで歩く。満州の生水はダメで、飲んで一晩で死んだ人がいた。死体は、山の谷間で白樺の本を積み、ラッパで君が代を吹奏し、夕方火を入れて翌朝まで焼く。臭いで狼が寄ってきた。


 (お話を聞いて)

 私も志願するつもりでおりましたが、年齢が足らず、軍隊に入ることはできませんでしたが、佐藤さんは志願で入隊したとのことでした。あの当時の若者には軍人は憧《あこが》れだったが、話を聞いているうちに、なんて馬鹿な戦争を行ったのだろうか、また、昔の軍隊は、野蛮だったのだろう、古参の兵士はいばりくさって、美味いものは自分たちで食べてしまい、残り物を新兵に食べさせていたのこと、なお、新兵を苛《いじ》めることを楽しみにしていたようである。昔、除隊した人から同じような話を聞いたことはあるが、そのころの私は日本の国はそういうものだろうと思っていた。
 しかし今になって考えると、あの頃の日本人の考え方は間違っていたのだということである。でも、そういうふうこ植えつけられてしまうと、それが一番正しいものと思い込んでしまうということが分かった様に思う。現代の若い人達に昔の話をしても通じないとよく言われるが、戦争を知らない子供たちに戦争の話をしても通じないのは仕方の無いことであろうか。これが時代の流れでもあるのかもしれない。私たちには想像もつかないことではあるが、氷点下40゜C以下なので、ろくな暖房もない所で、お国のためとはいい、頑張った話を間くと頭が下がります。また、人間には運不運、または「つき」と言うものがあるのだと言うことも感じました。佐藤さんが、戦友の遺骨を抱いて帰って来なかったら、一生日本にには帰って来られなかっただろうと言っていましたが、その通りだと思いました。外地に行っても帰ってこられる人達は幸せですが、亡くなられた方々には気の毒でご冥福をお祈りします。

 (聞き手 植竹喜三 昭和6年生)

注 八路軍=中国共産軍 '47年に人民解放軍と改称

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編集者 (代理投稿)

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