『肉声史』 戦争を語る (8)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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座談・その2
羽鳥
学徒動員は昭和18年位から。私は中学生で、1年半位郊外の電機工場で溶接機を組み立てる仕事をしていた。中学卒業後は東京の高校へ入学が決まっていたが、4月になっても工場へ行っていた。6月位になって高校から出て来いと連絡があったが、東京大空襲の後だったので、母に「何でここまで育てたのに東京の学校へやらなきやいけないのか」と泣かれた。でもやっぱり勉強がしたかった。
7月頃に東京へ行った。今、日本人の品格を上げようと思う。一番大きな力持っているのはマスコミ。戦争一色になったら皆、その方向へ行く。一つの流れができた時に、立ち止まってこれは本物だろうかと判断する力は必要。国家の品格を上げる。ごく常識的に。卑怯なことをやってはいけないと思う。
中田
昭和17年1月10目に入隊していきなり内蒙古《うちもうこ》へ。その後山西省の戦車第3師団へ移動部隊をもって2ヵ月程応援に行った。この年の12月に戦車第3師団ができた。
その時、我々の部隊の弾を運ぶ車をトヨタが2000台納入してくれた。なぜトヨタが満州に工場を持っていったかがわかった。内蒙古は黄河を越えればゴビ砂漠。冬には黄河が凍ってトラックも通れるので、外蒙古から馬で盗賊が入って来る。それを我々が警備して阻止する。蒙古連合自治政府を日本が作って、私達はそこに2年いた。
日ソ不可侵条約が18[年にできたので、戦車2個旅団を台湾へ。終戦は洛陽《らくよう=中国河南省の都市》の近くで迎えた。洛陽を攻撃の昭和18年5月に、私は左手足を負傷した。洛陽城内には戦車が入れなかった。皆徒歩だった。これからの人たちには、民族意識を持って欲しい。中国から帰る時、仲良くなった現地の子供が泣いて「帰るな」といっていた。11歳のその子は大きな万頭屋の子で、その子の親は「戦争が終わって国交が回復したら、この子を日本に勉強にやりたい。皆さんの態度は鏡だ」と。
帰国の際、私達の隊に何応欽《かおうきん》大将から感謝状が出た。師団から戦犯は一人も出なかった。日華親善を身を持ってやった。私の隊では、現地で絶対に木を燃やしてはいけないと。柳の木をたくさん植えてきた。 2000本の桜も植えてきた。本当の人間の気持ちは、戦争やりたいというのはなかったのではないか。
(お話を聞いて)
出席者の戦争体験、海外での戦争の生々しい悲惨な実態を語られ、内地においては学生の勤労奉仕、空襲、疎開の苦しみ、敗戦後の捕虜の生活等々、戦争という狂気の実態も明らかにしていかに戦争というものが空しいものか、いかなる理由があっても戦争を是認できるものではないとの結論になった。若い俄然世代に語り残すごとに多々あり、悲惨な歴史をくりかえしてはならないと一同熱く語り合った次第である。
(聞き手 佐々木俊文 昭和10年生)
羽鳥
学徒動員は昭和18年位から。私は中学生で、1年半位郊外の電機工場で溶接機を組み立てる仕事をしていた。中学卒業後は東京の高校へ入学が決まっていたが、4月になっても工場へ行っていた。6月位になって高校から出て来いと連絡があったが、東京大空襲の後だったので、母に「何でここまで育てたのに東京の学校へやらなきやいけないのか」と泣かれた。でもやっぱり勉強がしたかった。
7月頃に東京へ行った。今、日本人の品格を上げようと思う。一番大きな力持っているのはマスコミ。戦争一色になったら皆、その方向へ行く。一つの流れができた時に、立ち止まってこれは本物だろうかと判断する力は必要。国家の品格を上げる。ごく常識的に。卑怯なことをやってはいけないと思う。
中田
昭和17年1月10目に入隊していきなり内蒙古《うちもうこ》へ。その後山西省の戦車第3師団へ移動部隊をもって2ヵ月程応援に行った。この年の12月に戦車第3師団ができた。
その時、我々の部隊の弾を運ぶ車をトヨタが2000台納入してくれた。なぜトヨタが満州に工場を持っていったかがわかった。内蒙古は黄河を越えればゴビ砂漠。冬には黄河が凍ってトラックも通れるので、外蒙古から馬で盗賊が入って来る。それを我々が警備して阻止する。蒙古連合自治政府を日本が作って、私達はそこに2年いた。
日ソ不可侵条約が18[年にできたので、戦車2個旅団を台湾へ。終戦は洛陽《らくよう=中国河南省の都市》の近くで迎えた。洛陽を攻撃の昭和18年5月に、私は左手足を負傷した。洛陽城内には戦車が入れなかった。皆徒歩だった。これからの人たちには、民族意識を持って欲しい。中国から帰る時、仲良くなった現地の子供が泣いて「帰るな」といっていた。11歳のその子は大きな万頭屋の子で、その子の親は「戦争が終わって国交が回復したら、この子を日本に勉強にやりたい。皆さんの態度は鏡だ」と。
帰国の際、私達の隊に何応欽《かおうきん》大将から感謝状が出た。師団から戦犯は一人も出なかった。日華親善を身を持ってやった。私の隊では、現地で絶対に木を燃やしてはいけないと。柳の木をたくさん植えてきた。 2000本の桜も植えてきた。本当の人間の気持ちは、戦争やりたいというのはなかったのではないか。
(お話を聞いて)
出席者の戦争体験、海外での戦争の生々しい悲惨な実態を語られ、内地においては学生の勤労奉仕、空襲、疎開の苦しみ、敗戦後の捕虜の生活等々、戦争という狂気の実態も明らかにしていかに戦争というものが空しいものか、いかなる理由があっても戦争を是認できるものではないとの結論になった。若い俄然世代に語り残すごとに多々あり、悲惨な歴史をくりかえしてはならないと一同熱く語り合った次第である。
(聞き手 佐々木俊文 昭和10年生)
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編集者 (代理投稿)