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『肉声史』 戦争を語る (3)

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編集者

通常 『肉声史』 戦争を語る (3)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/8/9 6:46
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 第2部 それぞれの戦争を語る

 横須賀・三浦ブロック

 その1 「東京大空襲 さながら地獄絵」

 横須賀市 青木久子(昭和2《1927》年生)

 (あらすじ)

 毎日のように空襲警報が鳴って、落ち着いて生活なんてできなかった。毎日脅かされていた。兄弟や母親は那須へ疎開していて、父と私だけ残っていた。私は三菱重工業の川崎工場で挺身隊《注》として仕事していた。事務でマル秘の書類を扱っていた。特殊潜航艇《=日本が製造した小型潜水艇》の書類等もあった。軍需産業の大手だったので従業員は2000人以上いた。1日に2回、昼と夜に空襲警報が鳴ったこともあった。東京大空襲で空が真っ赤だった。
 爆撃の中を夜、父と自転車で土手の方へ逃げた。フェーン現象で炎が竜巻のようになっていた。さながら地獄絵のようだった。焼夷弾が雨あられと降って来て、昼間のように明るかった。低空で機銃掃射《=軍用機から、地上の目標を狙い撃ちにする》もあった。「足元に気を付けろ!」と父親に言われて死体をまたいで逃げた。川上に向かって逃げた。土手を大勢の人が逃げていた。川には上流につないであった船が大の塊になって流れて来た。焼夷弾の中をかいくぐって逃げた。
 随分長い時間たっていたような気がする。家は商売をやっていて、持っていたオ一トバイも軍にただ同然で召し上げられた。戦争中だったから仕方ない。玉音放送は聴いたが、何を言っているのか分からなくて「どうやら戦争が終わったようだ。ああ、これで空襲がない」と思った。
 横須賀に住んでいた人に聞くと敵機は通ったが怖い思いにしなかったと言うが、私は京浜工業地帯にいたからひどい目に遭ったのかもしれない。

 (お話を聞いて)

 横須賀市上町にお往まいの青木さんに戦争体験を語っていただきました。青木さんは東京の蒲田に当時住んでおられ、挺身隊の一員として三菱重工業に勤務されていました。家族は田舎に疎開し、父親と白分け東京に残って働いていたが、東京の大空襲に遭い、焼夷弾による火の海の中を父親とともに六郷《ろくごう=多摩川の下流、東京大田区あたり》土手へ逃げ、焼死体を沢山見たこと等、話していただきました。現代の若者については、悪い人ばかりで無く、あいさつも出来、しっかりした良い人たちも多くいると話され、目本の国はまだ間に合うのではないかと希望を持たせていただきました。
 
 聞き手 岡本基明 昭和10年生

注1 女子挺身隊(じょしていしんたい)は、1943年に創設された14歳以上25歳以下の女性が対象であったが、1945年3月に国民勤労動員令によって吸収されたため挺身隊は国民義勇軍に再編成された 
 
 

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編集者 (代理投稿)

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