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イレギュラー虜囚記(その3)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/12/16 13:14
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
  スラビヤンカ《ロソア沿海州ハサン地区の町》・ラーゲリ   21・5・30~22・7・16

 五月末ともなれば、ここシベリヤも全くの夏になる。暑い陽を浴びて、一ケ月前クラスキノ《ロシア沿海州最南端の港町》から馬車行軍した道を引き返し、バンプーロボ駅に到着。
ここから東に向かい、丘を三つ越すと眼前に真青な海と小さい街が見える。海は入江になっていて、半島や島の景色が美しい。

街に近付くと、白樺林の中に赤煉瓦の病院があり、白衣の患者が散歩している。街の入口に当たる本道から少し坂を下った地点がラーゲリの予定地。

すぐ子供たちが大勢集まってきた。薪用の丸太が積んであり、半ば傾いた厩の向うに小川が流れ、洗面、洗濯に使える。
その先の小高い場所に石造二階建の大きな下士官教育隊がある。鳩が沢山飛んでいる。

 子供たちは人見知りせず、おじさん(ジャージャ)と寄って来て、何か売ってくれという。兵用の冬上衣はバザールで三百ルーブルもするとか。靴屋の息子という少年が、日本の伝書鳩を飼っていると得意気だ。革があったら靴を作ってやるとすすめる。人情は頗る篤いようだ。

 敷地の北隅のガレージ跡らしい建物に洗濯婦が二人住んでいて、ベッドのスプリングは良いし晩に来ないかと誘われて驚いた。

 厩の壁を利用してトタン板で宿舎を造る。選抜して連れてきた兵隊たちは元気がよい。物干し棒で走り高飛びをやってロープを切ってしまったら何処からか年配の女が現れて「そんなに暴れると“撤兵を要求”(エバクノーロバッチ)しますぞ」と睨まれた。

 夕方、ボクノフ少佐が来て、紅茶を沸かして雑談する。ソ軍歩哨が少佐と親しいの見て不思議そうな顔をしていた。夜十時、輓馬輜重《ばんばしちょう=馬が引く物品輸送の車(軍隊用語)》が第一回糧秣送致に到着。荷卸し後すぐ夜行軍で引き返す。

有馬兵長ら二十人が石灰山(イズペスコーバヤ)への分遣のため同隊に従う。街の方からダンス音楽が聞こえてきて捕虜の心も温かくなる。

 六月一日朝、ボ少佐とクリジャノフスキ大尉が来て、ラーゲリ外柵の位置を指示する。俺たちは結局、動物園の猿かと皮肉ったら少佐は、なに、街のヨタ者(フリガン)除けだよとうまい返事。
事実、この街にいる間、我々は外出自由だったから本音だったかも知れぬ。

 暑気の中、昼過ぎ本隊が徒歩で到着。早速幕舎設営。ガレージ跡は洗濯婦を立退かせて歩哨舎《ほしょうしゃ=警備兵の小屋》とする。
二十分ほどたってクーロフ所長が来て、哨舎を柵内に入れるとは怪しからぬ、捕虜は捕虜だけの柵に入れと怒鳴りつける。少佐の指示だと反対したが聞き入れぬ。

衛兵長《警備兵の長》の曹長(スタルシナー)が言う通りにせよと急がせる。折角植えた木柵を抜き始めたら突然ボグノフ少佐の怒声が響いた。見ると、クーロフが直立の姿勢で背の高いボグノフにガンガン怒鳴りつけられている。結局、柵は元通りに。

暴君クーロフが惨々やられたので我々は手を叩かんばかりに喜んだ。ラーゲリ内は木造ガレージを哨舎、クーロフ宅、炊事場に区分、厩の半分とボロ倉庫を補修して糧株庫とする。

バンプーロポ駅-スラビヤンカ間の糧株輸送は一日二往復であと四、五日かかる。バンプには田中主計と将校当番の高橋兵長が残って糧秣管理記録を作成。

 塗装に五人の要求があったので一緒に行ってみた。ラーゲリの東五十米に本通りがあり、人の往来もある。日本人が珍しいようで、立ち止まって眺めているのもいる。しかし侮蔑の眼差しではなく、皆親しみを込めた笑顔だ。
ヤボン《日本人》と叫んだ子供に「いけません。ジャージャ(小父さん)と言いなさい」とたしなめている母親もいた。

 我々を日本から来た季節労働者のように感じているらしい。作業は海岸通りの縫製所隣の軍人官舎。壁に白い石灰を塗る単純作業。これならだれでもマリヤール(塗装工)で通る。
住人の黒肩章の中尉は日本語が話せるゲペウだ。警戒を要する。

「君はロシヤ語ができるか」と尋ねるので少々やる。哈爾浜学院の学生だったと言うと、彼はニヤリとして「少しじゃないだろう。ヨシムラをよく知っているよ」という。吉村氏は一期上で哈爾浜のミッシャの将校らしい。

このゲペ《ゲペウ=ソ連代表部警視庁》は我々がスラビヤンカにいた間、毎月一回ラーゲリに現れて、我々の前歴を繰返し訊く。前後にアヤフヤなところがあれば疑われるので要注意。
官舎の電灯は日本製で、紐を引いて点滅させるのが珍しいらしい。文明の利器の恩恵には浴していない連中が、思想は世界に冠たるものと自負しているのだから変な話だ。

もう二人増加することになりラーゲリへ行くのに護送兵(カンポイ)を要求したら、彼らは驚いた様子で「君一人でいけばいいじゃないか。カンポイなどいらぬ。

スラビヤンカの街は何処へ行ってもいいぜ。良い娘がいたらよろしくやるさ」という。周りにいたおかみさんや娘たちがどっと笑う。捕虜の身ではスラビヤンカはよい所だ。大いに解放された気分で一人で街を通って帰る。
国情は違っても普通の人たちは人の良いロシヤ人である。
                             (つづく)

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/12/16 13:21
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
 当面我々の仕事は、先に派遣した自動車修理工場(レムバーザ)への日勤、共同浴場(バーニヤ)の揚水ポンプ押し(四人一組)、塗装、薪割りなどの臨時仕事と倉庫整理、ラーゲリ設営の継続などで、将校は何もする事がなく、川上隊は藤八拳ばかりやっている。
宿舎は天幕だからヤットイヤットイの掛声がよく聞える。

糧秣輸送が完了してバンプーロボから全員引き揚げてきた。バンプでチモフエーエフ軍医の情婦になったマルーシャも厩小隊の輜重車に便乗してきた。
彼女は我々将校には誰彼の区別なく抱き付いて頬にキスする。うっかり出来ない。

大井軍医中尉は穏やかな中年紳士で頬被りして逃げ回るのでマルーシャが面白がって追い回す。ラーゲリ中大笑い。
時々朝早く来て幕舎で寝ている連中を庄えつける。一度作業巡回から返って来たら、いきなり抱きすくめられて大相撲になつた。

腕力は強いし、体重はあるし、負けると恰好がつかないので振り切るのに苦労した。日本人が気味悪がって逃げ回るのが余程面白いらしい。
マルーシャは結局チモフエを振って、司令部の中尉にくっついたが、裏切られてソ連版お定事件を起し、十年の懲役刑で姿を消した。

 ラーゲリがそれらしくなってくると、病院の洗濯婦を移さねばならぬ。クリジャノフスキ大尉が交渉を始めたが、猛反撃を喰って手の下しようがない。
結局、司令部へ泣き付いて病院の一室にお移り願った。

ロシヤバーバ《ロシアのおばさん》の強いこと。ラーゲリの北隣に老夫婦が住んでいて、飼っている十羽の鷲鳥がラーゲリを飯場と犬除けにして歩き回っている。夕方になると婆さんが良い声でグーシエエーと叫び集める。

我々はグシュ婆さんと呼んでいたが、何でもウクライナ方面から移って来て、日本軍の進攻があったらその機にアメリカヘ脱出する積りだったらしく、お前さんらが負けて計画が潰れたとこぼしていた。

スラビヤンカの年寄り連中は概してざっくばらんで、日本軍のシベリヤ出兵《注》についても別に文句はなく、逆に、軍医さんに世話になったとか、脚に弾丸が当たったが、禁止区域を横切った自分が悪かったとか言っている。
あの頃の日本軍は皆がっちりしていたのに何故お前らはヒョロヒョロしているのかと訊く。捕虜だと言ったら、へえ、捕虜かと驚いている。

街角にスターリンが手を伸ばして、国債を買おうと呼びかけている大ポスターを婆さん二人が見ていて、我々にほら、スターリンが身ぐるみ差し出せと言ってるよと笑いかける。大丈夫かと心配になる程だ。

縫製所に並んで、小さい大工小屋があり、爺さん一人でコツコツ仕事をしている。棺桶と赤い星をくつつけた卒塔婆を作っていたので、十字架は作らんのかと聞いたらコムニスト《共産主義者》はこんな物しか作らせないよとブツブツ。

コムニストのおかげで病院、大学まで無料になったろと打診したら、グラウンドでボールを蹴っている若者たちを指差して、あれは司令部の高級将校の息子たち。
俺の息子は家族のために働きに出ている。大学が無料でも行かせられぬ。貧乏人はどっちにしても貧乏人だよと諦めている。

コルホーズ《ソ連の集団農場》の年寄り連に言わせると、昔は小作だったが、地主の仕事が済めば自由に自分の牛馬の草刈りが出来た。今草刈りをやろうものなら、エライ人が来て国家のものを勝手に取り込むなとやられるよと肩をすくめる。
ソビエト連邦の底の底が分かってくるようで楽しみが出てきた。

中にはソビエト自慢の爺さんもいるが、何処で手に入れたか、日本製らしいガラス切りを一本持っていて、これがあるだけでガラス屋としてのんびり暮らせると片目をつぶるから本心は分からぬ。

この爺いはソビエトの医者は、指が痛いと言えば指を切り、手が痛けりや手首を切り落し、頭が痛いとすぐさま首をちょん切ると指で首筋を叩いて笑わせる。

 畑にいた爺さんに、スターリンのおかげで暮らしが良くなったかと聞いてみたら、土くれを指差して、これと同じ。大き過ぎる。細かく壊さなきや邪魔になると皮肉ったあとこんな話もあると教えてくれた。
戦時中に飛行機の国防献金に応じた男が、戦後、不正をしない限りそんな大金があるはずはないと引っ捕らえられたとか。

 ソビエト政権が出来た頃のこの辺りの様子は、西の方で何だか騒ぎがあり、或日、ソビエトが出来たと張出しがあって、ああそうかという具合だつたとか。シベリヤの東の果ての更に南のどん詰まりでは、こんな程度だったようだ。
いずれにしても社会階層の場合の端末の端末ではソビエトは人気薄だ。

 スラビヤンカの海岸は何の設備もなく、砂浜だけだが、時々我々も加わって地引網を曳く。網が絞られて小魚が光る頃を見計らって各家からバケツを持って勝手に魚をすくってゆく。
「働かざる者は食うべからずだろう」と言ったら「働いても食えないよ」と笑わせた。

                             (つづく)

注 大正7年 ロシア革命後の混乱期に 治安維持等の為 東部シベリアに米、英、仏の要請により 共同出兵をした

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/12/16 13:25
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
   クーロフ大尉の没落

 六月上旬、司令部からボグノフ少佐と禿げ頭の人の良い主計大尉が来て我々の糧秣の実情調査を始めた。

琿春《こんしゅん=中国東北部吉林省南端の中朝国境の町》から運んできたコーリャン、乾燥野菜、油、塩漬け豚肉(岩塩を大量に入れたのに蛆が元気にうごめいていた。塩汁スープに浮いた蛆は食器の片方へ吹き飛ばした)などを秤にかけて田中少尉の帳簿と照合する。

各食糧は少しずつ余裕を持たせて消費しており問題はない。田中主計の苦心が察せられる。油はドラム缶一本半の余裕が出た。

検査終了後煙草をすっている時、「砂糖について面白い話があるのだが」と切り出したのがキッカケとなって琿春以来のクーロフの悪業非道が暴露されることになった。

最初は我々の言をどの程度信用してくれるのか心配だったが、ボグノフも禿げ大尉も真剣になって聞いてくれ、田中、伊藤、岩松、自分の四人と所長補佐のクニヤーゼフ少尉が連日ボグノフ少佐の官舎へ赴き、クーロフがこんな贅沢な暮らしは生まれて初めてといったほど我々の食糧、被服を売り飛ばした経緯や、毎日飲んでは我々を罵倒した様子など一切をぶちまけた。

以前から少佐はクーロフ夫婦を嫌っていたこともあり、クーロフの形勢は一挙に悪化し、間もなく所長罷免、クニヤーゼフ少尉が所長になつた。

クーロフ夫婦は琿春からのトタン板でラーゲリ外の片隅に掘立て小屋を作って移り住んだ。彼は事の成り行きを心配して、我々に愛想笑いを見せながら今日は何をやったと尋ねる。
砂糖横流しの件の時は心配して少佐に手紙をことずけた。

少佐は一目見るなり、これが赤軍大尉の字か、何と下手くそなと全然問題にしない。クーロフの不正がすっかり露見して、今後の糧秣支給要領や書式も一切ボグノフの手で形が整った。
ミコヤン《注》の弟子で、レニングラード郊外の缶詰企業長だったとか。計算能力といい、書類作成要領といい実に鮮やかだった。

ソ連はこういう飛び抜けた人材が無数の一般人を束ねて支えているらしい。少佐は単身赴任で家族はレニングラードにいる由。細面の美しい娘さんの写真をデスクに飾っていた。
君らもそうだろうが、我々を召集して軍隊に縛り付けておくのは無駄な事だねと嬉しいことを言う。

一度、ボグノフの官舎の前で声を掛けられてマーシャに出会った。赤ん坊を抱いて笑っている。軍隊をやめて、司令部の支那語の語学将校《得意分野の語学で宣撫、尋問、翻訳等を任務とする将校》と結婚したそうだ。
調査が終ったら遊びに行く積りだったが、その後直ぐ転勤したらしい。

 調査の最終日に、吉林駅《吉林駅=中国東北部吉林省の省都の駅》で知り合ったプーシキン大尉(矢張り彼はゲペか)に調書をとられて一件落着。クーロフはラーゲリへの立入り禁止となった。これで俺の軍人生活は終わりだ、一般人となって仕事を探すと淋しそうに笑った。

軍を離れると食糧の支給が打切られるらしく、リユーバが衛兵長(スタルシナー)のところへパンを貰いに来る。
ショックのためか、ある夜、リユーバが子宮から大出血を起し、大井軍医(召集前は産婦人科専門)を中心に我々も恨みを忘れて面倒をみた。

間もなく彼女は姿を消し、三週間ほどしてメッカチの男の児を連れた痩せた女が来た。これがクーロフの正妻らしい。

                           (つづく)

注 ソ連の政治化、革命家で 第一副首相も務めた アルメニヤ人  である

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/12/16 13:28
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
   ラーゲリの編成替え

 六月下旬、川上将校団と二〇九の岩崎大隊長を中心とする兵約二百がレチホフカへ移動。
ラーゲリは二〇九副官の小林中尉を大隊長(コムバート)に、田中、伊藤、広岡、小谷、自分の各少尉と栗沢軍医(歯科)、厩小隊の三浦准尉を幹部に兵約百人余となつた。

 三日三晩大雨の続いた七月初め、広岡、小谷両少尉を中心とする機械技能者が移動することになり、クニヤーゼフ所長と伊藤が引渡しのためクラスキノへ出張した。
出張といっても、貨車に揺られ、貨物ホームの物陰で雨露を凌ぎ自炊するのだから大変だ。

広岡隊はグボズジエボへ行ったという噂だが、その後の消息は一切不明。いったん分離すると何の情報も入らない。
ソ側は団結を恐れて相互の連絡を厳重に警戒し、合併、分割を繰返す。スラビヤンカでは分離が続いて五十六人が残った。

移動が終って一応落着くと、早くから派遺していた修理廠組(レムパーザ)の作業内容が問題となつてきた。
自動車隊出身の技能兵を中心に差出しているのに、所長のコブ大尉(耳の後ろに大きなコブがあり、右手が不自由でいつも左手で握手する)が日曜日でも薪割り、水汲みなど日常の雑役を時間外に使う。

修理廠内の宿舎を取り止め、ラーゲリから通うようクニヤーゼフに申し入れてもコブが応じない。
機会を窺っていたら、横田上等兵が作業中命令違反をしたという理由で下士官に殴られて卒倒するさわぎが起きた。

それっとばかり師団兵站部長のコージン大佐に申し入れてラーゲリに引き取った。しかし朝は一般より早く、作業終了も遅れ勝ちであった。
コージン大佐はスプルネンコ大尉を通じての知り合いで、我々将校を自宅で時々御馳走してくれた懐かしいご仁である。

                           (つづく)        

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/12/16 13:33
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
   四人の脱走兵

 八月九日早朝、左隣りの幕舎からレムバーザ組の山森軍曹以下四人が脱走したらしいと報告がきた。有馬兵長の話では、二、三日前ロシヤ語の地図を拡げて地名を尋ねられたという。

地図はすぐ焼却させた。残った装具を調べると雑嚢と飯食、水筒、それに塩を持って出たらしい。脱走の素振りは全然なかったと幕舎の連中は口を揃えるが、ひっかかりを恐れているらしい。
急ぎクニヤーゼフを起す。

衛兵長も色を失った。彼はすぐ馬で国境守備隊へ飛んだ。クニヤーゼフはコージン大佐宅へ。歩哨の態度がガラリと変る。ソ連領に入ってまで脱走があるとは我々本部の将校もソ側も考えていなかった。

脱走兵があると残された者は大迷惑。警戒が厳重になる、ソ側の当りが強くなるで散々だ。間もなく軍用犬二頭が来た。
それによると、厩の後ろから小川を越え、柵を抜けてバンプーロボ街道に出たらしい。

ゲペ中尉も来た。歩哨の原隊の「英雄勲章」を持つ精悍な美男大尉も来た。「お前らが幾ら逃げても国境守備隊に必ず捕まるよ」と守備隊の優秀性を一席弁ずる。とにかく諷爽として若い豹のようだ。

 「俺は挺身隊指揮官で、もう少し日ソ戦が長引けば鉄橋爆破で関東軍をやっつけてやったのだが」となかなかの自信家。もう少し長引けばお前さんの首は日本刀でコロリだと言い返したくてウズウズした。

食糧も充分支給しているのに何故逃げたのかと不思議そう。人間は充分食えさえすれば文句はないという考え方は、多かれ少なかれソ連人の頭にはあるようだ。

師団糧秣担当のシグレイコ大尉は極端で、食糧支給の度に、日本ではこんなうまい物は食えぬぞ、充分食えるだけでも君らは幸福だとソ連の温情の押しつけだ。

ダモイまでのどのラーゲリでも、検閲官がくると“充分食わせてもらっているか”(ハラショーコールミヤット?)と問うので、最初は犬猫じゃあるまいし良い餌を貰っているかとは何事だ、馬鹿にするなと腹をたてたが、どうもそうではないらしく、上官は兵隊に向って必ず聞くことになっているとか。
帝政ロシヤ時代からのしきたりと思える。腹が減っては戦は出来ぬが軍隊のホンネだ。

 三日後、脱走兵はバンプーロボ駅西方で発見され、即時一人射殺、首謀者の山森軍曹は軍用犬を殺して立ち向い、これも射殺されたというニユースが伝わった。

 その一月半後、司令部に呼び出されて行ってみると、独房に頭髪も髭も蓬々の日本兵がうずくまっている。「福岡少尉殿!」と叫んで頭を下げる。よく見ると脱走した佐藤某であった。
追跡兵から逃れて横田と二人満州領に入ったが朝鮮人に捕まり、クラスキノでソ軍に引き渡されたという。
ラーゲリから食事を届けてやったが、横田も続いて連行されてきた。本人たちを確認したら直ぐ何処かへ移された。

ゲペ中尉は彼ら二人はもう永久に祖国を見ることはないと言うので、一生重労働で終わるのかと一同憤然としたが、それからニケ月後、バンプーロボ駅の石炭下ろしに出た連中がダモイ列車で横田が手を振っているのを見て、逃亡した方が得だとカンカンに怒って帰ってきた。

ソ連のいい加減さに呆れたが、病人と年寄りと問題を起す連中を送り返すのが彼らの理に適っているワケだ。

 脱走兵のおかげで毎夕点呼が始まり、夜間の厠行きは禁止、天幕の入口でジャー。これは何とか交渉して「小便だ(パッサーチ)」と叫んで歩哨のオウとかダワイの返事をもらって厠へ行くことは許された。

 脱走者が出た当日、自分とクニヤーゼフは司令部の少佐にコツテリ絞られた。逃亡兵の家庭の事情や在満者だったかどうかなども掌握していないようでは将校の資格はないというワケ。
元の部隊をバラバラに壊して捕虜部隊を作らせながら何を言うかと思ったが、ボンクラ将校の多いソ軍には珍しい気持の良い男だった。

山森軍曹射殺のニュースが伝わると同時に同じ幕舎だった佐藤カッちゃんと呼ばれていた若い兵隊が、毎晩山森の夢を見てうなされるようになった。逃亡の誘いを断ったのが気になるらしい。

我々は、脱走の原因はレムバーザの扱いの悪さ、横田殴打事件にありと責任を全てコブ大尉になすりつけた。
それ以来、待遇は掌を返す如く好転し、逃亡騒ぎで街の人々の人気もやや落ちたが、間もなく気安く作業ができるようになり、将校の外出も元通り自由になった。

                          (つづく)

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/12/16 13:36
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
   レムバーザの火事

 山森事件後、修理廠には鈴木伍長を長とする五人が通うことになり、各人優秀な自動車兵で、故障の発見、修理、その手早さはロシヤ人の到底及ぶところに非ず、初年兵教育を担当するまでになった。

 ある朝、点呼中にソ軍のジープがラーゲリに現れ、鈴木伍長を連れ去った。二十分くらいで送られて帰ってきたが、師団演習に出発しようとしたら師団長のジープが動かない。

モタモタしていたら師団長がラーゲリのスズキを呼べと命じたとか。故障は配線関係ですぐ直ったので、師団長が将校連を集めてスズキを見習えというように怒鳴りつけたとか。
何故師団長がスズキの名を知っていたのかは不明。多分レムバーザで聞いていたのだろう。

 このレムバーザで九月下旬の真昼間、黒煙を吹き上げた火事が起きた。ラーゲリからも煙がよく見える。小川の向うの下士官教育隊から兵隊が飛び出して行った。
夕方帰ってきたレムバーザ組に聞くと、火が出た途端、ソ連兵は柵を乗り越えて一人残らず山の方へ逃げ出した。

残ったのは五人の日本兵だけ。車輌を押し出すやら水をかけるやら一生懸命。大分落着いてからコプ大尉らが引返して来たそうで、鈴木らの怒ること。
それ以来レムバーザは日本兵に頭が上がらなくなって、作業の往復にも歩哨がお供をし、ラーゲリで我々が帰ってよしと言わない限り歩哨は直立している。

 レムバーザの隣りに街の発電小屋があり、満洲から押収した新潟鉄工のジーゼルエンジンの解体補修をジーゼル専門工の古江兵長がやっていた。発電機は中川電機製。
これは東支鉄道売却の現物供与で、ソ側はその優秀さに驚いていた。日本製なのに何故英語の表示をしているのかと不思議がっている。

 古江は大型ジーゼルの調整、補修の工具が無く、ときどき隣のレムバーザに忍び込んでいたが、今回の火事騒ぎで納得出来るだけの工具を取揃えたと自慢していた。日本人の技能者や職人は自分の仕事となると捕虜の身を忘れるらしい。
この発電設備も翌年一月無事立ち直り、スイッチオンには師団長が来た。
                            (つづく)

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あんみつ姫

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あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
   仕事のいろいろ

 スラビヤンカへ移動した当初は何をするのか何時まで留め置かれるのか分からずにいたが、毎日の作業で見当がついた。
つまり我々は、吉林駐屯師団の謂わば私用雑役集団で、正規?の捕虜部隊ではないらしい。従って、食糧も師団手持ちのものが支給される。

ソ連各地の収容所では、国際赤十字組織を通じて家郷通信が行われており、「日本新聞」の発行も始まっていたらしいが、我々は一切そんな事は知らなかった。我が家では、シベリヤから便りのある家があちこちに出てきたので、随分心配したらしい。

 日常作業は大体三種に分かれる。

 ▽作業場所が一定のもの。レムバーザ、縫工所、発電小屋、公衆浴場(バーニャ)のポンプ突きなど。カンボイなし。

 ▽ケチ (何の略称か忘れたが、住宅営繕部(クバルチールノ・エクスプルアタチオンナヤ・チャスチ)とでも言うのか)への要求人員の差出し。ジュワーキン大尉がラーゲリへ来て受取り、作業割当を行う。
初めての場所や遠方の作業所にはカンボイ《護送兵》同道。主に各官舎の薪作り、ペチカ造り、内外装石灰塗装、大工、左官工事など。

 ▽ラーゲリ営内作業に係るもの。炊事(ポーヴァル)、鍍金工(ジェスチャンニク)(終日バケツ作り)、厩動作と馬糧草刈り、馬六頭、担当五人。不定期の運送業務。

 概して重労働は無いが、不快な便所造り替えと、単調なポンプ突き、親切な家とコキ使う家があり、割当が不公平にならぬよう伊藤が綿密な一覧表を作成して割当てる。ジュワーキンと衝突することもある。

一方、ときどき要求される農場手伝いは、途中に鮭の上る小川があり、全員衣服を頭に、素裸で渡るのでバーバや娘達(ジエープシキ)のヴィーナス像が拝めるので人気があり、この割当ても公平を期さなければならぬ。
カンボイが小銃で射とめた鮭を土産にくれることがある。

 作業は朝八時から夕方五時頃まで八時間労働、ただしスラビヤンカ時代はノルマというものは知らなかった。

 縫製所には工藤、大西の二人。ともに洋服仕立専門職人。バーバばかりの縫製仕事など朝飯前。工藤は女どもがうるさいとラーゲリ内で仕事をするようにっつた。手ミシン、火のし、物差し、鋏などを運び込んだ。
主として将校の軍服仕立。型紙から起こすのだから本式。

大人気で、生地を抱えた将校がラーゲリに引っ切りなしに来る。そのうち師団長官舎へ通ってマダムのスーツまで作り始めた。
工藤が出来上った閣下の金ピカの上衣を腕に掛けて届けに行ったら街の人々が道を開けたと笑っていた。
軍都スラビヤンカでは師団長がお殿様だ。

 バーニヤの揚水ポンプは明治時代の火消しポンプと同じで二人ずつ背を向けて四人でギツコンパッタン。日中はいいが夕方から混み出すと休憩がなくなる。
我々も週一回最終にバーニャに入る。仕舞い風呂でもシャワーだけだから問題なし。洗濯禁止だが、遅れたバーバらと仲良くゴシゴシ。人が良いのか、捕虜を男と思っていないのか。

 ケチ作業で最もスケールの大きかったのがオハチ(将校のクラブで街の集会所も兼ね、野外ダンスホールもある)の内装工事。初めてオハチへ行ったら日ソ戦のニュース映画を見せられた。

日本軍捕虜の行進やソ連戦車の活躍などお決まりだが、塹壕から両手を挙げて出てきた日本将校が胸にベタべタ勲章をぶら下げていたのでソ側要求のお芝居と分り、馬鹿らしくなってホールから飛び出した。

映画は月に一度の割りで全員に見せてくれた。ここで初めてアメリカ映画の「ハリケーン」を見た。
ドイツによるユダヤ人大量虐殺の映画では頭髪山積の倉庫、金歯付顎骨倉庫、人皮のランプシェード、人間の脂から作った石鹸には驚いたが、ニュールンベルク裁判で絞首刑を宣告されたリッペントロップが画面が変わると死体になって転がっているのを見てギョツとした。

                           (つづく)

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/12/18 16:55
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
 ホールの内装は漆喰を削り落し、天井、壁を総て塗り直す。
天井の回り縁、壁の葡萄浮彫り模様、シャンデリヤ吊りの天井円型二重浮彫りなどは竹内、和田両専門職の独壇場。ロシア人は全員下働き。

竹内の梯子の中段で漆喰上げの中継ぎをしていた女に、下で足場を支えていた女が呼びかけたが、返事がないので「ヘーいグルハヤ・ビズダー」とは恐れ入った。顔をみたら、さすがに照れ笑いをしていた。

野外ダンスホールの手摺りのデザインは小林隊長が受持った。

(註=小林中尉は美校出身で化粧品会社のパピリオ(伊東胡蝶園)の宣伝部で花森安治と仕事をしていて絵が上手。ソ連将兵の似顔を措いて煙草を稼いでくれた。
伊藤清久死去の前年葬儀があって伊藤と共に参列したが、その当時既に伊藤は相当苦しそうだった)

 集会所ホールのあと、引続いて海岸寄りの見晴らしの良い場所にある大きな本建築のロシヤ家屋の内装工事があった。
天井剥がしでバサリと大きく落ちてきた下地に大正七年の日本の新聞一部が現れた。アメリカから有名な某女史が来て西洋料理の講習をやったが、集まった上流婦人連がゾロリとした錦紗の着物姿だったので女史にたしなめられたという記事が読みとれた。

横にいたガラス屋の爺さんに訊いたら此処は昔、日本軍の女郎屋だったとか。「唐様で書く三代目」《注》の悲哀が身に染みた。

 官舎の薪作りは毎日あり、二人一組で各家に配給された原木丸太を二人引き鋸でペチカ火床の長さに輪切りする。これは一寸した重労働。鋸の目立てが肝心。斧(タポール)で割り揃えるのは簡単。
何度も通ううちに日露双方親しくなり、親切なマダムは病欠の兵隊さんに砂糖を持って見舞に来てくれる。良い娘を紹介するからソ領に残れと勧める人もいる。

 司令部のニーニン中佐は娘を日本人に娶わせ度いらしく、娘を連れて時々ラーゲリに来る。娘は物静かなはにかみ屋だが、何しろおやじに似て六尺近い大女。日本側の希望者なし、それでもニーニン一家は日本人に親切だった。

  クニヤーゼフ所長の花嫁

 七月末クニヤーゼフ所長に嫁さんが来た。将校を夕食に招待して披露した。
バラバーシ軍団の掃除婦の娘だが、郡には稀なスタイルの良い美人。アメリカの女優ロレッタ・ヤングに似ている。ときどき手料理を作って我々にも振舞ってくれた。

 クニヤーゼフが可愛がり過ぎて二週間ほど経ったら体調不良になった。呼び出されて栗沢軍医と行ってみたらヘッポコ軍医のチモフエーエフが寝ている彼女の左脇腹を押さえて痛いかと訊いている。

アペンディチット(盲腸炎)は右だろと言ったらアアそうだそうだと頼りないこと。これでモスクワ第二陸軍軍医学校出身というのだから恐れ入る。
栗沢軍医の診断で運動過剰の筋肉痛と伝えたが、クニヤーゼフはキョトン。彼女は赤くなって毛布を被ってしまった。

それ以降余り元気ではなかったが、クニヤーゼフが半月ほど出張している間に、人員受取りに来るジュワーキン大尉と親しくなり、歩哨に知られて歩哨全員にも〝愛″を配給した。
我らがロレッタも所詮だらしないロシヤ女に過ぎなかった。

                           (つづく)

注 初代が苦労して築いた財産も三代目ともなれば 没落して つ  いに自分の家も売り出す

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/12/18 17:00
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
  46号官舎の人々

 腹立ち紛れに46号官舎のスプルネンコ大尉にロシヤ人のベゾブラーズィエ(だらしなさ)を嘆いたら、本当にオプラゾーブァンヌイ(教養のある)のインテリ夫婦を紹介してやるとて、同じ建物の二階のポリシチュータ中佐家に案内してくれた。

中佐もアレクサンドラ夫人(サーシャ)もモスクワ大学の工学部出で、共に共産党員。四歳になるアリサという人形のような女の児が一人。
親しくなってみると、物の考え方も感じ方も我々と少しも変らず、違和感がない。

アリサの誕生日は正教通り「名の日」にしており、部屋中人形やリボンで飾っている。ソ連で名の日の祝いはどうかと質問したら、我が国の祭りは血の臭いがする。女の子に向かないという。サーシャ夫人は三十歳半ばの美人だが、言うことがはっきりしている。

二ケ月に一回の師団総合演習に全員出動すると、何をやっていることやらとか、いつか海の向こうで海軍の砲撃演習があったが、標的に全然当たらない。日本海軍なら一発でしょうと手厳しい。軍のだらしなさが腹立たしいようだ。

集会所ホールで米ソ合作のメロドラマ映画があった。ヴァイオリンの名手でオーケストラの指揮者の米国青年と、コルホーズの優秀な働き手で天才ピアニストのロシヤ娘が、モスクワの音楽会で大成功を納めるというわけだが、サーシャ夫人はソ連流の嘘映画だという。
昼間コルホーズでトラクターを運転していた娘が、その夜ピアノの名演奏など出来るはずがない。私もピアノを弾くのでよく分かるとか。成程。

 十月中頃、師団長が自宅で奥さんを射殺した大事件があった。縫製作業に通っていた工藤がニュースニュースと飛んで帰ってきた。
それっと伊藤と手分けして街の噂を集めにかかったが、まず手始めにサーシャ夫人を訪ねたら、戦中、戦後のゴタゴタできちんとした結婚をしなかった人もたくさんいるので、貴方たちはそんな事に興味を持ってはいけませんと睨まれ、怖いお姉さんに叱られたようでしゅんとなつた。

 スプルネンコにも彼女がいた。ある日曜日彼の部屋へ行ったらなかなかの美人がいた。奥さんかとこっそり訊いたら片目をつぶった。彼女の化粧道具で頬と唇、額にごく薄く化粧して、ゆっくり話でもしてゆけと言い残して司令部の昼食会に行ってしまった。
彼女はこちらのおでこに前髪が触れるほど顔を寄せてアルバムの説明をしてくれるのでスプルネンコに悪いような気がして早々に退散した。

 スプルネンコの隣りが司令部のユダヤ人中尉。日本人贔屓で作業に来た兵隊に鍵を預けパンヤ煙草の場所を教えて出勤する。隣の小学校の女先生と夫婦気取り。
一番北の端にミナコーワというユダヤ姉妹が住んでいる。姉は集会所の事務方の主任で人使いが荒い。

妹のニーナは十五歳。二十歳くらいに見える濃艶型美女。作業の兵隊連中には際どいこともやるらしい。スラビヤンカの不良三人娘の一人で若い兵隊は喜んで作業に行く。

彼女と話をしろと盛んに勧めるので立寄ってみた。案外本もよく読んでいてゾーシチュンコの作品のレコードを聞かせてくれたり、オネーギンのタチャーナのような生活も悪くないなどと言う。プリポイの「對馬」は三日で読み上げたとか。

伊藤が何処かでせしめて来たツシマを我々は辞書片手にやっと読んでいたので、この小娘の読書力にいつ追いつけるのかと一寸がっかりした。
結局彼女はいい娘に返り、兵隊の期待には沿えなかった。

もう一人の不良は検事少佐の娘。ニーナに輪をかけたヴアンプ型で、クニヤーゼフの後任所長のアパートに出入りしていた。父親の検事少佐は娘の教育が悪かったとこぼしていた。

                           (つづく)

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/12/18 17:08
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
   ロシヤ人のユダヤ嫌い

 インテリのポリシチユーク夫妻もスプルネンコも酷くユダヤ人を嫌う。ミナコーワ姉妹の話をしたら近づいちゃいけないと真顔でいぅ。
ポリシチユーク中佐が日本じゃユダヤ人をどう扱っていると聞くので、入国したら直ぐアメリカや上海へ送り出し、日本には殆んどいないと答えたら、それがいいと納得している。

ケチのジュワーキン大尉と街でもめていると人々は皆我々につく。彼がユダヤだからだ。

 ある歩哨は、歩いて来た男の子をつかまえて、お前の親父は司令部のユダヤ中佐だ。クゥクゥルーザ(とうもろこし)と言ってみろ、ほら、お前もユダヤだと泣かせてしまった。
ユダヤ人は、「クゥクゥ」の発音が出来ないとか。

この歩哨は、ユダヤ人は頭が良いので主計や軍医で後方におり、第一線で戦死するのはイワンの馬鹿許りと言うが、それにしてもロシヤ人のユダヤ嫌いは我々にはよく分からない。

   所長交替

 十二月初めから所長交替の噂が出た。伊藤が例の調子で、所長は解任が近づくと悪い事をすると口を滑らせてクニヤーゼフをカンカンに怒らせた。

小林隊長と自分、伊藤の三人が所長室に呼び出され「俺は今日まで君らのために出来るだけの事はした。然るに所長交替の日が近づくと、所長としての止むを得ない無理まで取り上げて、クーロフの時と同じように司令部の上級将校に訴えて復讐するつもりか」と顔色を変えている。

伊藤はゼスチュアの大きい男だから涙を流さんばかりに平謝りに謝った。クニヤーゼフには気の毒なことをした。

後任のマチエーヒン少尉は小柄でクニヤーゼフに輪をかけた好人物。翌年七月に別れるまで何の問題もなかつた。もっとも、クニヤーゼフから要警戒の申し継ぎがあったかも知れないが、矢張りマチエーヒンの人柄だと思う。

   ラーゲリ句会

 労働作業もラーゲリ内の生活も定型化して順調に流れ、気になるのはダモイの日だけになってくると、所内で俳句などひねるようになった。

  碩学の咳一咳や菊の花  
  菊の香や老妓住むてう連子窓

などペダンチックなものから    

  野葡萄も交換価値を持つソ連邦
  十五夜をレーニンの子等嘲笑い

と塩の利いたものもあった。

 百人一首をそれぞれが思い出して集めてみたが、六十首余りが限度だった。

 伊藤が何処からかガリ版のワイ歌集を手に入れて二人で迷訳をつけ、伊藤の例の読み易い字で回覧して兵隊連中を喜ばせた。ポケット版赤軍文庫からも回覧を作った。

                           (つづく)

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あんみつ姫

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