アジア鎮魂の旅
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投稿日時 2008/4/11 7:26
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに
この記録は、長崎里志様の下記ブログよりご本人のご了解を得て掲載するものです。
http://alps-satyan.cocolog-nifty.com/blog/
メロウ伝承館 スタッフ
---------------------------------------------------------
現地入隊で一兵卒となる
シンガポールに於ける大日本航空の無線通信所 兼宿泊施設は、5万トンの浮きドックで知られたセレター軍港の海軍司令部の真向いにあり、高床式建物の 周囲には1年中 南国特有の ブーゲンビリアをはじめカンナの花等が咲き乱れ、椰子《やし》やパパイヤが植えられた中庭にはバトミントンのコートまである文字通り恵まれた環境にあった。
我々の仕事としてはアジア各地と 東京、横浜を合わせると凡そ40局以上の無線通信所を有し、本国をはじめアジア各局との基地局間通信と 運行中の航空機に対する全て暗号化した情報の受発信を業務としていた。
戦況が日々緊迫《きんぱく》して来た昭和17年に会社は軍の方針によって第1輸送機隊(陸軍)、第2輸送機隊(海軍)とに分割し私は第2輸送機隊に配属された。
昭和19年に入るとセレター軍港を目指したB-29による爆撃は一層激しさを増し、些か恐怖を感じ 緊張する日々を送って居た所、 想像もしなかった命令が届いた。 その内容は「 内地見納めの休暇を与える 」と云うものであり、全員が欣喜雀躍《きんきじゃくやく》の喜びを隠し得なかったのであった。
期間は10日間、便乗する航空機はエンジン交換の為に羽田に行く便という事で 会社の好意に感謝しつつ其の日を待ち、帰国してからの数日は 親戚縁者や友人に対する今生《こんじょう》の別れの挨拶を交わし、祖先伝来の墓地の参拝も済ませる等多忙を極めた。 愈々帰着する日程が決まり予定表を見ると 羽田発と成っていたが上司に懇願《こんがん》して、未だ経験の無い 東海道線、山陽線の列車で日本最後の旅をしたいという願望を達成する事が出来た。少年時代に父母から聞いていた日蓮上人の銅像に参拝する事も出来 親友と共に 日本最後の夜を語り明かした博多の思い出は今に成っても忘れられない。
雁ノ巣飛行場を離陸したダグラスDC-3機は 那覇、台北、海口(海南島)、サイゴン(現ホーチミン)を経由して5日目にシンガポールに到着する事など現在の人々には想像も付かない事でしょう。
* 雁ノ巣飛行場を出発する朝 サイパン島の玉砕ニュース聞いた。
制空権、制海権を連合国側に掌握されていた昭和20年6月(終戦2ヶ月前) 遂に我々にも軍から入隊命令が来た。 入隊する所は マレー半島北部の町 タイピン第94師団通信隊であった。 愈々《いよいよ》出発の前夜我々の生活について 今迄誠意を以って尽してくれた現地の人々を集め どうせ生きて帰れる見込みの無い自分として、無用な金銭や私物を持つ必要性を感じず 全部を公平に分け与え 心からの感謝の言葉を 日本語、マレー語、中国語を混ぜ合わせて云うと、其の途端に皆 涙を流しながら 「 マスター!・・・テレマカシ! 」 と夫々が礼を言った。 明けて翌日出発の朝はマラッカ出身の運転手 カハール君が安斉局長とシンガポール駅まで送ってくれた。
局長は「 元気でな・・・又会おうぜ・・・・」と硬い握手をしたが カハール君は目に大粒の涙を流しながら 「マスター・・・・・!」と云っただけで声は出なかった。
列車がブキテマロードと並行して走る処で見えなくなった。ジョホール海峡を渡る列車の右手には永く住み慣れたセレター軍港が、また左窓には何時も見慣れたジョホールバルの宮殿が目に入った。
過去1年半 シンガポールをはじめ各国で巡り会った人々の面影を偲《しのび》び、之から遭遇するであろう未知の不安が交錯する中で列車はジョホール海峡を渡りマレー半島を一路北上して行った。
2006年8月 7日 (月) 記
この記録は、長崎里志様の下記ブログよりご本人のご了解を得て掲載するものです。
http://alps-satyan.cocolog-nifty.com/blog/
メロウ伝承館 スタッフ
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現地入隊で一兵卒となる
シンガポールに於ける大日本航空の無線通信所 兼宿泊施設は、5万トンの浮きドックで知られたセレター軍港の海軍司令部の真向いにあり、高床式建物の 周囲には1年中 南国特有の ブーゲンビリアをはじめカンナの花等が咲き乱れ、椰子《やし》やパパイヤが植えられた中庭にはバトミントンのコートまである文字通り恵まれた環境にあった。
我々の仕事としてはアジア各地と 東京、横浜を合わせると凡そ40局以上の無線通信所を有し、本国をはじめアジア各局との基地局間通信と 運行中の航空機に対する全て暗号化した情報の受発信を業務としていた。
戦況が日々緊迫《きんぱく》して来た昭和17年に会社は軍の方針によって第1輸送機隊(陸軍)、第2輸送機隊(海軍)とに分割し私は第2輸送機隊に配属された。
昭和19年に入るとセレター軍港を目指したB-29による爆撃は一層激しさを増し、些か恐怖を感じ 緊張する日々を送って居た所、 想像もしなかった命令が届いた。 その内容は「 内地見納めの休暇を与える 」と云うものであり、全員が欣喜雀躍《きんきじゃくやく》の喜びを隠し得なかったのであった。
期間は10日間、便乗する航空機はエンジン交換の為に羽田に行く便という事で 会社の好意に感謝しつつ其の日を待ち、帰国してからの数日は 親戚縁者や友人に対する今生《こんじょう》の別れの挨拶を交わし、祖先伝来の墓地の参拝も済ませる等多忙を極めた。 愈々帰着する日程が決まり予定表を見ると 羽田発と成っていたが上司に懇願《こんがん》して、未だ経験の無い 東海道線、山陽線の列車で日本最後の旅をしたいという願望を達成する事が出来た。少年時代に父母から聞いていた日蓮上人の銅像に参拝する事も出来 親友と共に 日本最後の夜を語り明かした博多の思い出は今に成っても忘れられない。
雁ノ巣飛行場を離陸したダグラスDC-3機は 那覇、台北、海口(海南島)、サイゴン(現ホーチミン)を経由して5日目にシンガポールに到着する事など現在の人々には想像も付かない事でしょう。
* 雁ノ巣飛行場を出発する朝 サイパン島の玉砕ニュース聞いた。
制空権、制海権を連合国側に掌握されていた昭和20年6月(終戦2ヶ月前) 遂に我々にも軍から入隊命令が来た。 入隊する所は マレー半島北部の町 タイピン第94師団通信隊であった。 愈々《いよいよ》出発の前夜我々の生活について 今迄誠意を以って尽してくれた現地の人々を集め どうせ生きて帰れる見込みの無い自分として、無用な金銭や私物を持つ必要性を感じず 全部を公平に分け与え 心からの感謝の言葉を 日本語、マレー語、中国語を混ぜ合わせて云うと、其の途端に皆 涙を流しながら 「 マスター!・・・テレマカシ! 」 と夫々が礼を言った。 明けて翌日出発の朝はマラッカ出身の運転手 カハール君が安斉局長とシンガポール駅まで送ってくれた。
局長は「 元気でな・・・又会おうぜ・・・・」と硬い握手をしたが カハール君は目に大粒の涙を流しながら 「マスター・・・・・!」と云っただけで声は出なかった。
列車がブキテマロードと並行して走る処で見えなくなった。ジョホール海峡を渡る列車の右手には永く住み慣れたセレター軍港が、また左窓には何時も見慣れたジョホールバルの宮殿が目に入った。
過去1年半 シンガポールをはじめ各国で巡り会った人々の面影を偲《しのび》び、之から遭遇するであろう未知の不安が交錯する中で列車はジョホール海峡を渡りマレー半島を一路北上して行った。
2006年8月 7日 (月) 記
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タイピンから国境を越えタイ国へ
退屈な車中では 右窓に整然と植林された 延々と続く椰子《やし》やゴムの林を、また左窓には波静かに凪いだ マラッカ海の単調な景色を眺めながら、途中幾度か鉄道沿線に停車した列車に 燃料補給の薪を積み込む使役を手伝わせられながらも タイピン駅迄は予想していたより早く到着し 無事に入隊する事が出来た。
タイピンの街については殆ど記憶が薄れてしまったが、戦争中でありながら イスラム風の瀟洒《しょうしゃ=しゃれた》な駅舎と、 古惚《ふるぼ》けた学校を多少 手を加えたとも想像出来る様な 第94師団通信隊の御粗末な兵舎だけは おぼろげ乍ら今でも頭に浮かんでくる。
( 凡そ半世紀余を経た現在 インターネットで検索しても タイピンに関する 詳 細な記 事は殆ど見当たらない )
昭和19年6月、 我々新兵として入隊した者は 19名であり、今後 行動を 共にする 班長の S軍曹と教育係りの H上等兵を合わせて21名が一団となって早くも翌日から軍事訓練が始まった。 軍事訓練と云っても、師団通信隊の主たる任務は各地に分散している部隊に対して師団からの命令や報告事項の電報を発着信する事であり、3号型及び 5号型携帯無線機と其れに使う 手動式発電機等の機材を割り当てられ、更に38式騎兵銃《きへい銃注1》と銃弾5発を携行し、天候の如何に拘わらず、毎日 無線通信実践訓練のほか 先方に「稲藁」で作った人形を置き、その近くまで匍匐前進《ほふくぜんしん注2》して殺戮《さつりく》する訓練までさせられたが、流石ゴム林の中、半袖,半ズボン姿の服装で、 匍匐前進するのはゴムの殻が手足に刺さり血まみれの傷を手当てする間も無い 最も辛い訓練であった。
そんな訓練も3日目になると 急遽《きゅうきょ》移動命令が出た。目的地については知らされなかったが、北部方面と聞いただけで、多くの仲間達は「多分タイ国だな!」と想像出来た。
タイピンから北部に通ずる鉄道線路は 所々爆撃で寸断され、河川という河川も全て爆破されている処を トロッコ3両に無線機、食料などを積み込んで 終日線路上を行軍するのであるが、寸断された場所毎に荷物や、解体したトロッコを背負って 再び積み替える作業は大変な作業である。特に爆破された河川の渡河こそ 尚更苦難な仕事であり、 其の作業中には急遽《きゅうきょ》 敵機カーチスの来襲があり 機銃掃射《注3》を受けて逃げ回る様は 文字通り阿鼻叫喚《あびきょうかん注4》の巷を見る様な光景であった。如何に若者とは言え昼間の過酷な労働に疲労困憊し、露天に設営した携帯天幕の中でゴロッと横になり 即 深い眠りに就いてしまうのが常であったが、夜半に大水害に遭遇した夢を見て、飛び起きると 毎夜来襲するスコールの為に衣類や毛布は びょし濡れと成ってしまう。
思案の結果、以後は線路上の枕木を枕に寝る事にし、防蚊覆面を被り、防蚊手袋を着けて寝た夜も幾晩かあった。 そんな行軍を続ける事 約1週間、6月16日に マレー、 タイの国境を通過して目的地のチュンポンに到着したのは6月22日であったが この 凡そ1週間で 物心両面にわたる[厳しさと恐怖の軍隊生活]を初めて経験する事が出来た。 チュンポンに辿り着いて町の印象は、比較的に大きな町の様でありながら町中を歩く人々が殆ど見えず、ゴーストタウンの様な不気味な街であった事が強く頭に焼き付いている。
我々初年兵は町から程遠い山中に設営されていた中隊に合流し、毎日降り続く雨による高い湿度の中で生息する サソリやムカデ 更にマラリヤ蚊などに悩まされ、加えて 古年兵達の虐めの生活が ぼつぼつ始まるのでは・・・・・・と思い覚悟をしていた夜 前ぶれも無く、又々移動命令が出た。 何の理由も聞かされず、到着後 3日目にして再びマレーに向けての行軍が始まったのである。
大八車に物資を積んだ新兵達は汗に塗れてマレーと タイの国境を通過し 山岳地帯の悪路を辿り乍ら 山の 中腹で比較的平坦な土地を定め 此処に無線通信所を設営する命令を受けた。
記憶を辿れば此処での生活が苦しいながらも初年兵にしては一番楽しい期間であった。
それは 我々初年兵と班長及び教育上等兵だけの生活であった事で、 偶々《たまたま》休養日には班長と一緒に近くの小川に行き、川干しをして、川魚を大量に捕獲した様な些細な事であってさえ 子供の様に歓声を挙げて喜び合ったのが懐かしい思い出である。
この 山中での訓練期間が凡そ1ヶ月ほど続いた日の夕刻である。 考えた事も無かった 一通の電報が届いた。
2006年8月 7日 (月) 記
今も変わらずに在るシンガポール通信所
マレー半島の椰子やゴムの林
注1 騎兵銃=騎兵が背中に懸ける比較的軽い小銃
注2 匍匐前進=敵弾にあたらによう地面を這って前進する
注3 機銃掃射=戦闘機からの機銃の連発
注4 阿鼻叫喚=地獄のような
退屈な車中では 右窓に整然と植林された 延々と続く椰子《やし》やゴムの林を、また左窓には波静かに凪いだ マラッカ海の単調な景色を眺めながら、途中幾度か鉄道沿線に停車した列車に 燃料補給の薪を積み込む使役を手伝わせられながらも タイピン駅迄は予想していたより早く到着し 無事に入隊する事が出来た。
タイピンの街については殆ど記憶が薄れてしまったが、戦争中でありながら イスラム風の瀟洒《しょうしゃ=しゃれた》な駅舎と、 古惚《ふるぼ》けた学校を多少 手を加えたとも想像出来る様な 第94師団通信隊の御粗末な兵舎だけは おぼろげ乍ら今でも頭に浮かんでくる。
( 凡そ半世紀余を経た現在 インターネットで検索しても タイピンに関する 詳 細な記 事は殆ど見当たらない )
昭和19年6月、 我々新兵として入隊した者は 19名であり、今後 行動を 共にする 班長の S軍曹と教育係りの H上等兵を合わせて21名が一団となって早くも翌日から軍事訓練が始まった。 軍事訓練と云っても、師団通信隊の主たる任務は各地に分散している部隊に対して師団からの命令や報告事項の電報を発着信する事であり、3号型及び 5号型携帯無線機と其れに使う 手動式発電機等の機材を割り当てられ、更に38式騎兵銃《きへい銃注1》と銃弾5発を携行し、天候の如何に拘わらず、毎日 無線通信実践訓練のほか 先方に「稲藁」で作った人形を置き、その近くまで匍匐前進《ほふくぜんしん注2》して殺戮《さつりく》する訓練までさせられたが、流石ゴム林の中、半袖,半ズボン姿の服装で、 匍匐前進するのはゴムの殻が手足に刺さり血まみれの傷を手当てする間も無い 最も辛い訓練であった。
そんな訓練も3日目になると 急遽《きゅうきょ》移動命令が出た。目的地については知らされなかったが、北部方面と聞いただけで、多くの仲間達は「多分タイ国だな!」と想像出来た。
タイピンから北部に通ずる鉄道線路は 所々爆撃で寸断され、河川という河川も全て爆破されている処を トロッコ3両に無線機、食料などを積み込んで 終日線路上を行軍するのであるが、寸断された場所毎に荷物や、解体したトロッコを背負って 再び積み替える作業は大変な作業である。特に爆破された河川の渡河こそ 尚更苦難な仕事であり、 其の作業中には急遽《きゅうきょ》 敵機カーチスの来襲があり 機銃掃射《注3》を受けて逃げ回る様は 文字通り阿鼻叫喚《あびきょうかん注4》の巷を見る様な光景であった。如何に若者とは言え昼間の過酷な労働に疲労困憊し、露天に設営した携帯天幕の中でゴロッと横になり 即 深い眠りに就いてしまうのが常であったが、夜半に大水害に遭遇した夢を見て、飛び起きると 毎夜来襲するスコールの為に衣類や毛布は びょし濡れと成ってしまう。
思案の結果、以後は線路上の枕木を枕に寝る事にし、防蚊覆面を被り、防蚊手袋を着けて寝た夜も幾晩かあった。 そんな行軍を続ける事 約1週間、6月16日に マレー、 タイの国境を通過して目的地のチュンポンに到着したのは6月22日であったが この 凡そ1週間で 物心両面にわたる[厳しさと恐怖の軍隊生活]を初めて経験する事が出来た。 チュンポンに辿り着いて町の印象は、比較的に大きな町の様でありながら町中を歩く人々が殆ど見えず、ゴーストタウンの様な不気味な街であった事が強く頭に焼き付いている。
我々初年兵は町から程遠い山中に設営されていた中隊に合流し、毎日降り続く雨による高い湿度の中で生息する サソリやムカデ 更にマラリヤ蚊などに悩まされ、加えて 古年兵達の虐めの生活が ぼつぼつ始まるのでは・・・・・・と思い覚悟をしていた夜 前ぶれも無く、又々移動命令が出た。 何の理由も聞かされず、到着後 3日目にして再びマレーに向けての行軍が始まったのである。
大八車に物資を積んだ新兵達は汗に塗れてマレーと タイの国境を通過し 山岳地帯の悪路を辿り乍ら 山の 中腹で比較的平坦な土地を定め 此処に無線通信所を設営する命令を受けた。
記憶を辿れば此処での生活が苦しいながらも初年兵にしては一番楽しい期間であった。
それは 我々初年兵と班長及び教育上等兵だけの生活であった事で、 偶々《たまたま》休養日には班長と一緒に近くの小川に行き、川干しをして、川魚を大量に捕獲した様な些細な事であってさえ 子供の様に歓声を挙げて喜び合ったのが懐かしい思い出である。
この 山中での訓練期間が凡そ1ヶ月ほど続いた日の夕刻である。 考えた事も無かった 一通の電報が届いた。
2006年8月 7日 (月) 記
今も変わらずに在るシンガポール通信所
マレー半島の椰子やゴムの林
注1 騎兵銃=騎兵が背中に懸ける比較的軽い小銃
注2 匍匐前進=敵弾にあたらによう地面を這って前進する
注3 機銃掃射=戦闘機からの機銃の連発
注4 阿鼻叫喚=地獄のような
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マレー半島で知った敗戦!
昭和20年8月15日。 其の日も酷暑を予測するかのように朝から五月蝿《うるさい》く油蝉の鳴き声で眼を覚まし、簡単な朝食を済ませた後 通常通りの訓練を行なった後 幕舎に戻り 早速 開局したばかりの無線機に着いてタイピンとの連絡を取ったところ、受信した電文はなんと「 ポッダム宣言を受諾した 」との内容であり、改めて班長から内容の説明を聞いた幕舎内の兵隊達は 「 エッ・・・そんな馬鹿な事が有るか・・・・・」 と異口同音に叫び、一度に力が抜けた様に其の場に座り込んでしまった。
暫らく沈黙する内に 全員のすすり上げる様な泣き声が あちら此方から起こった。一人また一人と幕舎前の小高い草叢に出て来て結局全員がその草叢に集まり、茜色に染まりつつ暮れ行く夕焼け空を眺めながら 皆 手放しで無念の涙に咽《むせ》びつつ慟哭《どうこく》した。
戦争は遂に終わったのだ。無条件降伏という惨澹《さんたん》たる形の終戦である。 暑い暑い一日が終わり、赤く染まった積乱雲と、其処に見る 雷光の不気味な光景を皆は 唯々虚《うつ》ろな瞳で見つめ 誰一人として夕食をとる者も無く、横たわっているが、眠りに就く事も無く しかも溜息と寝返りの音ばかりが聞こえて来る。「どうせ成るようにしか成らない!」と腹を決めていると、再び 一人 また一人と幕舎から草叢に出ると 夜空は満天の星が、何事も無かったかの様に輝いている。
其のうちに誰からとも無く 軍歌の「 戦友 」や「 暁に祈る 」の歌が流れ始め、それは次第に全員の大合唱となって湧き上がった。
皆 夫々の思いを込めて 歌い且つ泣いていた。 夜が耽《ふけ》るに従って不思議にも我々の今迄抱いていた感情は一変して「 恐怖 」へと変化して行くのが自覚できた。
「 我々は必ず殺されるか、重労働に処されるだろう、どうせ殺されるとしたら自決したらどうだろうか・・・・」 と真剣に話し合っている所に 班長が入って来た。
何処かで我々の話を聞いていたのであったろう、と推測したが其の言葉は・・・・・
「お前達の純真な気持は分かるし、俺は嬉しい・・・然し 死んで一体どうなるのか?戦争に負けた事は本当に悔しいし悲しい・・・然し我々には之から如何なる困難をも克服して故国日本に帰り、荒廃した国土を建て直す大事な仕事が有るではないか!、絶対死んではいけないぞ・・・・」と 順々と諭《さと》され、其の夜は あれや之や を考えている内に朝を迎えてしまったのである。
班長の言葉で今後の腹を決めた我々は、又其の日から大八車に重い荷物を積んでタイピン への行軍が始まったのである。 途中 中国人やマレー人に「抗日軍大勝利」などと大書した幟旗を打ち振りながらの 嫌がらせや悔しい思いをし、病気の戦友を荷車に乗せての行軍は誠に惨めなもので 夕方になれば野営をしたり、農民の軒下を借りて寝る事もあったが 激しいスコールの為に携帯天幕を被って朝を迎えた事も屡《しばしば》あった。
チュンポンから連れて来た食用牛も疲労の為に殆どが死んでしまい食用にした後の内蔵は農民と穀類やピーナツと交換して栄養補給の足しにした。
敗戦の悔しさや悲しさ、其れに哀れさを味わいながら漸くの事でタイピンに到着したが 此処で武装解除を終わるまで何日間かの生活をしなければならない。したがって その間生活するために携帯天幕を継ぎ合わせた大きな幕舎をはじめ炊事場や厠などを一日で造り 武装解除の行なわれる 其の日を待った。
然し我々94師団通信隊は武装解除といっても無線通信機器と38式騎兵銃それに弾薬 5発のみであり、この場に及んで中隊長は
「畏れ多くも菊の御紋章を付けたまま、この銃剣を引き渡す訳には行かない」と云い銃に彫り込んである菊の紋章を川原の石で削り取る様にと指令を下して来た。
武器の引渡し日当日は 学校の校庭らしき所に集合し、多くの住民達が興味深く見守る中で 一段高い壇上の上に立つ連合国の将校らしき軍人の前に出て、言われるままに武器を置き 一礼して引き下がる・・・形式を守り中隊長から順次行なわれ愈々自分の番に成った。
私は引き渡しながら、 「捕虜となって敵に辱めを受ける位なら 自決せよ」という戦陣訓《=戦場での心構え》を心の中で復唱しながら、日本国が無条件降伏したとは言え、本当に之で良いのか?と自問自答し 悔しさに唇を噛み締め涙を堪えていたがそれは 私だけではなかったと思う。
長い間心配し続けていた武装解除も簡単に終了し、愈々厳しい検問が行なわれるジョホール州の「 クルアン 」に向けて出発であるが今回は 無蓋貨物車《=屋根のない貨車》が用意された。
一歩々々日本に近くなると思えば、無蓋貨車であろうと、途中スコールで濡れようと 又時間がいくら掛かろうと 誰もこれに文句を言う者も無く 「全てに耐え抜こう」 と誓い合い、乗車した列車は翌日未だ日の高い内に検問のまちクルアンに到着した。
2006年8月13日 (日) 記
昭和20年8月15日。 其の日も酷暑を予測するかのように朝から五月蝿《うるさい》く油蝉の鳴き声で眼を覚まし、簡単な朝食を済ませた後 通常通りの訓練を行なった後 幕舎に戻り 早速 開局したばかりの無線機に着いてタイピンとの連絡を取ったところ、受信した電文はなんと「 ポッダム宣言を受諾した 」との内容であり、改めて班長から内容の説明を聞いた幕舎内の兵隊達は 「 エッ・・・そんな馬鹿な事が有るか・・・・・」 と異口同音に叫び、一度に力が抜けた様に其の場に座り込んでしまった。
暫らく沈黙する内に 全員のすすり上げる様な泣き声が あちら此方から起こった。一人また一人と幕舎前の小高い草叢に出て来て結局全員がその草叢に集まり、茜色に染まりつつ暮れ行く夕焼け空を眺めながら 皆 手放しで無念の涙に咽《むせ》びつつ慟哭《どうこく》した。
戦争は遂に終わったのだ。無条件降伏という惨澹《さんたん》たる形の終戦である。 暑い暑い一日が終わり、赤く染まった積乱雲と、其処に見る 雷光の不気味な光景を皆は 唯々虚《うつ》ろな瞳で見つめ 誰一人として夕食をとる者も無く、横たわっているが、眠りに就く事も無く しかも溜息と寝返りの音ばかりが聞こえて来る。「どうせ成るようにしか成らない!」と腹を決めていると、再び 一人 また一人と幕舎から草叢に出ると 夜空は満天の星が、何事も無かったかの様に輝いている。
其のうちに誰からとも無く 軍歌の「 戦友 」や「 暁に祈る 」の歌が流れ始め、それは次第に全員の大合唱となって湧き上がった。
皆 夫々の思いを込めて 歌い且つ泣いていた。 夜が耽《ふけ》るに従って不思議にも我々の今迄抱いていた感情は一変して「 恐怖 」へと変化して行くのが自覚できた。
「 我々は必ず殺されるか、重労働に処されるだろう、どうせ殺されるとしたら自決したらどうだろうか・・・・」 と真剣に話し合っている所に 班長が入って来た。
何処かで我々の話を聞いていたのであったろう、と推測したが其の言葉は・・・・・
「お前達の純真な気持は分かるし、俺は嬉しい・・・然し 死んで一体どうなるのか?戦争に負けた事は本当に悔しいし悲しい・・・然し我々には之から如何なる困難をも克服して故国日本に帰り、荒廃した国土を建て直す大事な仕事が有るではないか!、絶対死んではいけないぞ・・・・」と 順々と諭《さと》され、其の夜は あれや之や を考えている内に朝を迎えてしまったのである。
班長の言葉で今後の腹を決めた我々は、又其の日から大八車に重い荷物を積んでタイピン への行軍が始まったのである。 途中 中国人やマレー人に「抗日軍大勝利」などと大書した幟旗を打ち振りながらの 嫌がらせや悔しい思いをし、病気の戦友を荷車に乗せての行軍は誠に惨めなもので 夕方になれば野営をしたり、農民の軒下を借りて寝る事もあったが 激しいスコールの為に携帯天幕を被って朝を迎えた事も屡《しばしば》あった。
チュンポンから連れて来た食用牛も疲労の為に殆どが死んでしまい食用にした後の内蔵は農民と穀類やピーナツと交換して栄養補給の足しにした。
敗戦の悔しさや悲しさ、其れに哀れさを味わいながら漸くの事でタイピンに到着したが 此処で武装解除を終わるまで何日間かの生活をしなければならない。したがって その間生活するために携帯天幕を継ぎ合わせた大きな幕舎をはじめ炊事場や厠などを一日で造り 武装解除の行なわれる 其の日を待った。
然し我々94師団通信隊は武装解除といっても無線通信機器と38式騎兵銃それに弾薬 5発のみであり、この場に及んで中隊長は
「畏れ多くも菊の御紋章を付けたまま、この銃剣を引き渡す訳には行かない」と云い銃に彫り込んである菊の紋章を川原の石で削り取る様にと指令を下して来た。
武器の引渡し日当日は 学校の校庭らしき所に集合し、多くの住民達が興味深く見守る中で 一段高い壇上の上に立つ連合国の将校らしき軍人の前に出て、言われるままに武器を置き 一礼して引き下がる・・・形式を守り中隊長から順次行なわれ愈々自分の番に成った。
私は引き渡しながら、 「捕虜となって敵に辱めを受ける位なら 自決せよ」という戦陣訓《=戦場での心構え》を心の中で復唱しながら、日本国が無条件降伏したとは言え、本当に之で良いのか?と自問自答し 悔しさに唇を噛み締め涙を堪えていたがそれは 私だけではなかったと思う。
長い間心配し続けていた武装解除も簡単に終了し、愈々厳しい検問が行なわれるジョホール州の「 クルアン 」に向けて出発であるが今回は 無蓋貨物車《=屋根のない貨車》が用意された。
一歩々々日本に近くなると思えば、無蓋貨車であろうと、途中スコールで濡れようと 又時間がいくら掛かろうと 誰もこれに文句を言う者も無く 「全てに耐え抜こう」 と誓い合い、乗車した列車は翌日未だ日の高い内に検問のまちクルアンに到着した。
2006年8月13日 (日) 記
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連合軍による検問
クルアン駅から凡そ1㌔位は有ったであろうか?記憶は定かではないが広大な椰子林の中を徒歩で、凡そ1時間歩いたところが今晩の 幕舎設営地であり、なんと我々が一番恐怖心を抱いていた「 クルアン検問所 」の所在地である。其の敷地の中には 数も分からない程のホワイトキャンプとブラックキャンプが整然と建ち並んでいたが 個人別に行なわれる検問に於いて戦争犯罪人と疑わしき者はブラックキャンプに収容され、問題無しとl認定された者は、この検問が済み次第ホワイトキャンプに一泊し 翌朝の列車でシンガポールに行く事だけは知らされていた。
又 敷地内の一角には駅の改札口を想像するような通用口があり、此処で 個人の持ち物の検査が行われるのであるが、伝え聞くところに依ると貴重品などは殆ど没収されてしまうらしい・・・・との事であり 我々初年兵では そんな貴重品が有る筈も無い。
然し私の場合は シンガポールに赴任して来た時 記念に購入したウオルサムの時計だけが貴重品として持っていので 「どうせ没収されるなら・・・・・・」 と石で叩き潰して小川に投げ捨ててしまった。
意外にも簡単に通過した所持品の検査に続き 次が本番の検問であり、同一敷地内にあるバラックの二階建て建物・・・ 其処が、恐れていた検問の部屋で 外側に取り付けられていた鉄製の階段を呼ばれる順に昇る足取りは如何にも重そうに見えた。
私はこんな時ほど元気いっぱいの言動で対応する覚悟を決めていたので、二階の踊り場前で先ず 官、姓名を名乗り、入室すると同時に椅子を進められ、一寸落ち着いた気持ちで尋問に答える事が出来た。
どうせ初年兵で 職務は無線通信手 更に また5発貰った騎兵銃の弾丸を1発も発射した事さえない我々に一番執拗に聞き質した事は我が国の 連合国側捕虜に関する問題だけであった。
1、捕虜を使った事があるか
2、捕虜を使っている所を見た事があるか
3、何処で見たか
4、其の時捕虜に対して如何なる感情を抱いたか
5、軍隊に入隊前の職業は何であったか
6、今回の戦争についてどんな事を考えているか
等々余り考え込んで返答の出来ない様なものでなく、淡々と答弁でき 此処でも「案ずるより産むは易し」と感じながら、クルアン検問所通過の証としての番号入り紙切れを貰って安堵の胸を撫で下ろした。
* 我々師団通信隊で通過出来なかった者は皆無であった事が尤も幸いであった
我々全員が検問を終了したのは灼熱《しゃくねつ》の太陽が西方の椰子林に沈む頃であったが、全員通過の知らせを聞くまでは 誰一人としてホワイトキャンプに入る者は無く、外で待機していた。 支給された夕食も殆ど手をつけず今日一日を振り返り、各キャンプは談笑する声に沸いていた。 其の時 誰かが厠から帰って来たのであろうか、大声で 「 あの大きな お月様を見ろよ!」と云う声に驚き 我も我もとキャンプから這い出し空を仰いだ。
其の言葉に違わず 日本では 古くから、すすき と団子を飾り祝った中秋の名月であろうか・・・・ 大きな月が椰子林とキャンプを 昼間の様に照らし出していた。
一方ブラックキャンプの方はと見れば 対照的にひっそりと静まりかえり 監視塔の照明ばかりが冷たい光で煌煌《こうこう》と構内全域を照射している。同じ志を持ち 「 国の為 」を合言葉に働き合って来た者同士が今 此処で帰国を認められて喜ぶ者と 懐かしい祖国の光景や家に残る親族の事は勿論 「若しや・・・」と最悪の事々を思って居るであろう人々・・・・、現在黒白の境にいる人生の無常を思う気持が我々の胸にも伝わって来るようで 形容し難い 寂しさを感じざるを得なかった。
暫らく 皆が沈黙していた時何処からのキャンプか分からないが 哀愁を帯びた横笛の音が流れて来た。
曲は 「佐渡おけさ」 「南部牛追い歌」 などの民謡から 「誰か故郷を思わざる」「湖畔の宿」といった歌謡曲へと進み 最後には軍歌となった。「戦友」 「麦と兵隊」になると殆ど全員は涙ぐみ、声を震わしていた・・・・軍人達の士気を鼓舞する為に創った歌詞や曲が之ほど悲しい物である事を改めて知り 夜の耽るのも忘れて歌った。
クルアンの名月の合唱と横笛の音こそ既に60年も前の過ぎ去りし日の事ではあるが、今でも忘れられない。
2006年8月14日 (月) 記
(検問所の情景をを回顧して描いたもの)
クルアン駅から凡そ1㌔位は有ったであろうか?記憶は定かではないが広大な椰子林の中を徒歩で、凡そ1時間歩いたところが今晩の 幕舎設営地であり、なんと我々が一番恐怖心を抱いていた「 クルアン検問所 」の所在地である。其の敷地の中には 数も分からない程のホワイトキャンプとブラックキャンプが整然と建ち並んでいたが 個人別に行なわれる検問に於いて戦争犯罪人と疑わしき者はブラックキャンプに収容され、問題無しとl認定された者は、この検問が済み次第ホワイトキャンプに一泊し 翌朝の列車でシンガポールに行く事だけは知らされていた。
又 敷地内の一角には駅の改札口を想像するような通用口があり、此処で 個人の持ち物の検査が行われるのであるが、伝え聞くところに依ると貴重品などは殆ど没収されてしまうらしい・・・・との事であり 我々初年兵では そんな貴重品が有る筈も無い。
然し私の場合は シンガポールに赴任して来た時 記念に購入したウオルサムの時計だけが貴重品として持っていので 「どうせ没収されるなら・・・・・・」 と石で叩き潰して小川に投げ捨ててしまった。
意外にも簡単に通過した所持品の検査に続き 次が本番の検問であり、同一敷地内にあるバラックの二階建て建物・・・ 其処が、恐れていた検問の部屋で 外側に取り付けられていた鉄製の階段を呼ばれる順に昇る足取りは如何にも重そうに見えた。
私はこんな時ほど元気いっぱいの言動で対応する覚悟を決めていたので、二階の踊り場前で先ず 官、姓名を名乗り、入室すると同時に椅子を進められ、一寸落ち着いた気持ちで尋問に答える事が出来た。
どうせ初年兵で 職務は無線通信手 更に また5発貰った騎兵銃の弾丸を1発も発射した事さえない我々に一番執拗に聞き質した事は我が国の 連合国側捕虜に関する問題だけであった。
1、捕虜を使った事があるか
2、捕虜を使っている所を見た事があるか
3、何処で見たか
4、其の時捕虜に対して如何なる感情を抱いたか
5、軍隊に入隊前の職業は何であったか
6、今回の戦争についてどんな事を考えているか
等々余り考え込んで返答の出来ない様なものでなく、淡々と答弁でき 此処でも「案ずるより産むは易し」と感じながら、クルアン検問所通過の証としての番号入り紙切れを貰って安堵の胸を撫で下ろした。
* 我々師団通信隊で通過出来なかった者は皆無であった事が尤も幸いであった
我々全員が検問を終了したのは灼熱《しゃくねつ》の太陽が西方の椰子林に沈む頃であったが、全員通過の知らせを聞くまでは 誰一人としてホワイトキャンプに入る者は無く、外で待機していた。 支給された夕食も殆ど手をつけず今日一日を振り返り、各キャンプは談笑する声に沸いていた。 其の時 誰かが厠から帰って来たのであろうか、大声で 「 あの大きな お月様を見ろよ!」と云う声に驚き 我も我もとキャンプから這い出し空を仰いだ。
其の言葉に違わず 日本では 古くから、すすき と団子を飾り祝った中秋の名月であろうか・・・・ 大きな月が椰子林とキャンプを 昼間の様に照らし出していた。
一方ブラックキャンプの方はと見れば 対照的にひっそりと静まりかえり 監視塔の照明ばかりが冷たい光で煌煌《こうこう》と構内全域を照射している。同じ志を持ち 「 国の為 」を合言葉に働き合って来た者同士が今 此処で帰国を認められて喜ぶ者と 懐かしい祖国の光景や家に残る親族の事は勿論 「若しや・・・」と最悪の事々を思って居るであろう人々・・・・、現在黒白の境にいる人生の無常を思う気持が我々の胸にも伝わって来るようで 形容し難い 寂しさを感じざるを得なかった。
暫らく 皆が沈黙していた時何処からのキャンプか分からないが 哀愁を帯びた横笛の音が流れて来た。
曲は 「佐渡おけさ」 「南部牛追い歌」 などの民謡から 「誰か故郷を思わざる」「湖畔の宿」といった歌謡曲へと進み 最後には軍歌となった。「戦友」 「麦と兵隊」になると殆ど全員は涙ぐみ、声を震わしていた・・・・軍人達の士気を鼓舞する為に創った歌詞や曲が之ほど悲しい物である事を改めて知り 夜の耽るのも忘れて歌った。
クルアンの名月の合唱と横笛の音こそ既に60年も前の過ぎ去りし日の事ではあるが、今でも忘れられない。
2006年8月14日 (月) 記
(検問所の情景をを回顧して描いたもの)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
レンパン島の抑留生活
南国の夜明けは早い。 私は浅い眠りの内に 油蝉の鳴き声で眼が醒めた。未だ薄くらい朝なのに、中には眠られないのか、がさがさと荷物の整理をしている者もいる。
今日も又 暑くなりそうである。然し 段々日本に近ずくと思えば皆の顔にも笑みが浮かび、今までに無い明るい会話も聞こえるようになった。
各キャンプ毎に朝食をとり、全員が一刻も早く 此処クルアンを離れたいという逸る気持を抑えつつ早々に身支度をして、出発指令を待った。
駅までの道路両側には 興味深かそうに我々敗軍兵士一行を見つめる現地人等の侮蔑<ぶべつ>の眼を背中に感じながら、ただ黙々と歩く姿は、全く惨めであり 現在その光景を想起しただけでも情けなく且つ哀れさを感じる。
やがてクルアン駅に到着すると、我々の乗る貨物列車は既に入線しており、幸いにも小さな有蓋貨車<ゆうがいかしゃ>であったのでスコールに対する心配だけは免れた。
だが一車両に三十人も詰め込まれては、寝る事も出来ず 之から何時間の旅が続くのか全く説明の無いままに、クルアン駅を出発した。 途中の停車駅も知らされず、ただ行き先がシンガポールであることだけは確かである。
本来であればいくら遅くも2~3時間で到着する筈であるが、途中燃料の積み込みや飯盒<はんごう>炊事、それに長い停車時間をしながらの列車は凡そ十余時間を過ぎて漸<ようやく>くジョホール水道に差しかかった。
皆一斉に貨物列車の重い扉を全開して吹き抜ける涼風を吸い込み、愈々シンガポールか! と呟<つぶや>きながら心配していた関門を全員で通過出来た事を喜び合った。
思えば四ヶ月前、この凪<な>いだジョホール海峡に映ったサルタンの宮殿を眺め、また住み慣れたセレター軍港に名残を惜しみつつ マレー半島を北上した時は、戦況が次第に悪化しつつある事は承知していたものの、まさか敗戦の憂き目を見ようとは想像もしていなかった。 楽しかった日航当時の思い出や、一別以来の仲間達の事を懐かしく思い出している内に列車はブキテマを通過した。
右手のフォード工場を見ると、日章旗に替わってユニオンジャックの旗が翻<ひるがえ>っている。このフオード工場こそシンガポール攻撃の決着交渉をした 山下将軍と英国のパーシバル将軍の「イエスか ノーか?」で有名な所で 常に日章旗が翻っていた頃が懐かしい。此処でも皆無言の内に涙を拭っていた。
列車は漸くシンガポール駅に到着した。銃剣を持ったインド兵に取り囲まれながら、駅の裏口から出て、ケッペル波止場までは 又市内行進である。クルアンの其れにも増して 更に身の哀れを感じざるを得ない。 街頭を埋める様な多くの現地人が物珍しそうに この行進を見ている、中には 「 バカヤロウ 」 と怒鳴っている者も居た。然し我々は唯々 俯き黙々として歩いた。
到着したケッペル波止場は以前とは違い、多くの船舶が入港し 港の活気が早くも漲<みなぎ>っていた。 我々は今晩 波止場周辺にある倉庫の軒下で一夜を明かすのである。
明日 乗船する船の行き先は何処であろうか? 、一晩中話題は其ればかりに集中していた。何時の時でも尤もらしい不確実な情報を流す者がおり、今回 彼が出した不確実情報は
1、内地へ直行する
2、インドのカルカッタにて重労働をする
3、太平洋の真ん中で 撃沈される。
の三つが考えられるが、可能性としては「2」であろう。今更どうしようもない事とは言え、心配で眠れない夜も明けて愈々乗船すると云う船を見ると真っ赤に寂びた ボロ船であった。従って 「3」を想像し思い足取りでタラップを登り、乗船したが未だ行き先については発表されないまま船は出港した。
前日ケッペルの波止場に着いた時 同年兵の情報通が 「之からの行き先は多分インドのカルカッタの可能性が高い様だ・・・倉庫の周りに捨てられている麻袋を拾ってパンツを作ろう・・・と云いながら、不審そうに聞く皆に 「之 一ちょう有れば何年も 使える、所謂<いわゆる>万年パンツと云うものだ・・・・」には爆笑したものの、半信半疑で之を拾い殆どの者はこの麻袋を大事に持って乗船していたのだった。
何トンの船で、何人乗船し何処に行くのか知らされず乗船した赤錆びた船内は言語に絶する暑さであり。サウナ風呂の様な船内から全員が甲板に出て、遠く去り行くシンガポールの港と、数多く点在する島々を 見ながら何を頭に浮かべているであろうかか?・・・・・唯 虚<うつ>ろな眼で眺めている。
今生の最後が近づくかの様な寂しさと、二年間に亘るシンガポールとマレー其の他巡り会った人々との思い出を頭に描きながら、また 成る様にしか成らない 之からの生きかたについての考え方を整理すべく 自問自答を繰り返した。然し結果は堂々巡りでケセラセラである。
シンガポールを出港して二時間も経った頃であろうか。突如通達が出た。
「之から行く目的地はインドネシア領でリオウ諸島のレンパン島である。」と。
我々には目的地が「 レンパン島 」と言われても其の位置は勿論 名前すら聞いた事もない島である。通達に依ればシンガポールから約60㌔ほど南下した、北緯0度40分から1度、東経104度から104度40分に位置し、面積は140平方㌔ 。日本の壱岐の島くらいの無人島で、狭い海峡を隔てて北にバタン島、南にガラン島が接しており、海抜200㍍にも満たない南北に山脈が連なっているが、殆ど人跡未踏のジャングル地帯である。
また一方聞くところによると、レンパン島は第一次世界大戦の終了後ドイツ人の捕虜をこの島の開拓に当たらせたが、栄養失調とマラリアで全員死亡したため、別名として
「死の島」とか「悪魔の孤島」と ある事を入島後の会報によって知った。
またオランダや中国もこの島の開拓に手を付けたが、共に失敗して隣のビンタン島にしたという事で、其れを物語るように華僑が住んでいたと思われる廃屋やゴム林を栽培した後が残っており、所々に椰子やマンゴーの樹木も見掛けられた。
シンガポールを出港して五時間ほど経った頃、我々の乗船していた貨物船はレンパン島沖に停泊した。
島は珊瑚礁に囲まれた遠浅である為、沖に停泊している船から 機汎船に乗り移り、仮設の桟橋までピストン輸送をするのである。
2006年8月19日 (土)
リオウ諸島現在の地図
南国の夜明けは早い。 私は浅い眠りの内に 油蝉の鳴き声で眼が醒めた。未だ薄くらい朝なのに、中には眠られないのか、がさがさと荷物の整理をしている者もいる。
今日も又 暑くなりそうである。然し 段々日本に近ずくと思えば皆の顔にも笑みが浮かび、今までに無い明るい会話も聞こえるようになった。
各キャンプ毎に朝食をとり、全員が一刻も早く 此処クルアンを離れたいという逸る気持を抑えつつ早々に身支度をして、出発指令を待った。
駅までの道路両側には 興味深かそうに我々敗軍兵士一行を見つめる現地人等の侮蔑<ぶべつ>の眼を背中に感じながら、ただ黙々と歩く姿は、全く惨めであり 現在その光景を想起しただけでも情けなく且つ哀れさを感じる。
やがてクルアン駅に到着すると、我々の乗る貨物列車は既に入線しており、幸いにも小さな有蓋貨車<ゆうがいかしゃ>であったのでスコールに対する心配だけは免れた。
だが一車両に三十人も詰め込まれては、寝る事も出来ず 之から何時間の旅が続くのか全く説明の無いままに、クルアン駅を出発した。 途中の停車駅も知らされず、ただ行き先がシンガポールであることだけは確かである。
本来であればいくら遅くも2~3時間で到着する筈であるが、途中燃料の積み込みや飯盒<はんごう>炊事、それに長い停車時間をしながらの列車は凡そ十余時間を過ぎて漸<ようやく>くジョホール水道に差しかかった。
皆一斉に貨物列車の重い扉を全開して吹き抜ける涼風を吸い込み、愈々シンガポールか! と呟<つぶや>きながら心配していた関門を全員で通過出来た事を喜び合った。
思えば四ヶ月前、この凪<な>いだジョホール海峡に映ったサルタンの宮殿を眺め、また住み慣れたセレター軍港に名残を惜しみつつ マレー半島を北上した時は、戦況が次第に悪化しつつある事は承知していたものの、まさか敗戦の憂き目を見ようとは想像もしていなかった。 楽しかった日航当時の思い出や、一別以来の仲間達の事を懐かしく思い出している内に列車はブキテマを通過した。
右手のフォード工場を見ると、日章旗に替わってユニオンジャックの旗が翻<ひるがえ>っている。このフオード工場こそシンガポール攻撃の決着交渉をした 山下将軍と英国のパーシバル将軍の「イエスか ノーか?」で有名な所で 常に日章旗が翻っていた頃が懐かしい。此処でも皆無言の内に涙を拭っていた。
列車は漸くシンガポール駅に到着した。銃剣を持ったインド兵に取り囲まれながら、駅の裏口から出て、ケッペル波止場までは 又市内行進である。クルアンの其れにも増して 更に身の哀れを感じざるを得ない。 街頭を埋める様な多くの現地人が物珍しそうに この行進を見ている、中には 「 バカヤロウ 」 と怒鳴っている者も居た。然し我々は唯々 俯き黙々として歩いた。
到着したケッペル波止場は以前とは違い、多くの船舶が入港し 港の活気が早くも漲<みなぎ>っていた。 我々は今晩 波止場周辺にある倉庫の軒下で一夜を明かすのである。
明日 乗船する船の行き先は何処であろうか? 、一晩中話題は其ればかりに集中していた。何時の時でも尤もらしい不確実な情報を流す者がおり、今回 彼が出した不確実情報は
1、内地へ直行する
2、インドのカルカッタにて重労働をする
3、太平洋の真ん中で 撃沈される。
の三つが考えられるが、可能性としては「2」であろう。今更どうしようもない事とは言え、心配で眠れない夜も明けて愈々乗船すると云う船を見ると真っ赤に寂びた ボロ船であった。従って 「3」を想像し思い足取りでタラップを登り、乗船したが未だ行き先については発表されないまま船は出港した。
前日ケッペルの波止場に着いた時 同年兵の情報通が 「之からの行き先は多分インドのカルカッタの可能性が高い様だ・・・倉庫の周りに捨てられている麻袋を拾ってパンツを作ろう・・・と云いながら、不審そうに聞く皆に 「之 一ちょう有れば何年も 使える、所謂<いわゆる>万年パンツと云うものだ・・・・」には爆笑したものの、半信半疑で之を拾い殆どの者はこの麻袋を大事に持って乗船していたのだった。
何トンの船で、何人乗船し何処に行くのか知らされず乗船した赤錆びた船内は言語に絶する暑さであり。サウナ風呂の様な船内から全員が甲板に出て、遠く去り行くシンガポールの港と、数多く点在する島々を 見ながら何を頭に浮かべているであろうかか?・・・・・唯 虚<うつ>ろな眼で眺めている。
今生の最後が近づくかの様な寂しさと、二年間に亘るシンガポールとマレー其の他巡り会った人々との思い出を頭に描きながら、また 成る様にしか成らない 之からの生きかたについての考え方を整理すべく 自問自答を繰り返した。然し結果は堂々巡りでケセラセラである。
シンガポールを出港して二時間も経った頃であろうか。突如通達が出た。
「之から行く目的地はインドネシア領でリオウ諸島のレンパン島である。」と。
我々には目的地が「 レンパン島 」と言われても其の位置は勿論 名前すら聞いた事もない島である。通達に依ればシンガポールから約60㌔ほど南下した、北緯0度40分から1度、東経104度から104度40分に位置し、面積は140平方㌔ 。日本の壱岐の島くらいの無人島で、狭い海峡を隔てて北にバタン島、南にガラン島が接しており、海抜200㍍にも満たない南北に山脈が連なっているが、殆ど人跡未踏のジャングル地帯である。
また一方聞くところによると、レンパン島は第一次世界大戦の終了後ドイツ人の捕虜をこの島の開拓に当たらせたが、栄養失調とマラリアで全員死亡したため、別名として
「死の島」とか「悪魔の孤島」と ある事を入島後の会報によって知った。
またオランダや中国もこの島の開拓に手を付けたが、共に失敗して隣のビンタン島にしたという事で、其れを物語るように華僑が住んでいたと思われる廃屋やゴム林を栽培した後が残っており、所々に椰子やマンゴーの樹木も見掛けられた。
シンガポールを出港して五時間ほど経った頃、我々の乗船していた貨物船はレンパン島沖に停泊した。
島は珊瑚礁に囲まれた遠浅である為、沖に停泊している船から 機汎船に乗り移り、仮設の桟橋までピストン輸送をするのである。
2006年8月19日 (土)
リオウ諸島現在の地図
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
囚われの島「レンパン島」生活
マングロープの木が海中に深く根を張っている
我々は、岸辺に太く根を張ったマングロープを切り開き丸太だけを並べた仮設桟橋から飛び降りまずは無事にレンパン島への第一歩を記した。 昭和20年11月23日の事である。 ケッペル波止場で取り越し苦労したカルカッタ行きは免れ、一同安堵の胸を撫で下ろしたが、この日からロビンソン、クルーソーにも似た極限の苦しい生活が始まったのである。
我々が上陸する以前、既に先遣隊が到着し道路建設や港の構築が始まっており、我々の上陸した港は「 千鳥港 」と名付けられていた。 全員が上陸したところで 先遣隊<せんけんたい>
の係りから、既に決定していた我々の駐留場所や其の他注意事項の指示を受けた。
其の中で一番重要だったのは、「何時まで留まるか分からない島での生活」で、無秩序な集合体になる事を避け、内地に帰国するまでは今迄通り軍隊の組織を保って欲しい と言う事で、皆の理解を求められた。 之は至極当然の事であり、全員が賛成し行動した事が最後まで遵守<そんしゅ>
され虜囚<りょしゅう>
の集団でありながら大きな争い事もなく復員出来た結果であろうと思う。
終戦時に軍の組織を解体した為、烏合<うごう>
の衆と化し、同胞同士が血を流す惨めな状況を呈した所もあったと聞くにつけ、我々の選択は正しかったと思うのであった。
今回の移動が船舶であった為、大した疲労も感じず、千鳥港で暫時<ざんじ>
[休憩をとった後、日の高いうちに定住地として決められた「 多根村 」に向かって出発した。
島の定住地の名称は、部隊名や故郷の地名を付けたものであるが、多根村は、千鳥港から北東13㌔。僅かな道程ではあったが、目的地まで辿り着くのに凡そ2日間を要した。
千鳥港から、「 霧分村 」 「 天王村 」までは先遣隊が切り開いてくれた道路があったが、道路とは名ばかりで両側には潅木か生い茂り、シダや蔦が絡み合い、マレー半島の山中より更に 酷なジャングル地帯である。 急に襲い掛かるスコールで泥濘<でいねい>
と化した中を 霧分村まで辿り着くと前方に 昔、人が住んでいたと思われる小屋が眼にとまった。
小屋の周りはゴム林であり、比較的に平坦地であり水溜まりも無いので、此処に幕舎を張って野営をする事にした。
乾パンだけの食事を済ませ、濡れた土の上に余った天幕を敷いて横になったが、雨水が滲み込んで なかなか寝付かれない島での第一夜であった。
明けて翌日は好天に恵まれたが、之から「 満賀村 」まではジャングルを伐採しながら進まなければ成らない。何れ道路の建設は別途にやるとしても 先ずジャングルを切り開き仮の道を付ける事だけが現在の大きな仕事である。 「 霧分村 」 を過ぎ「 満賀村 」に着く手前で二日目の野営をしたが、この日はスコールに見舞われる事が無かったかわりにマラリヤ蚊の襲撃に遭い、防蚊覆面<ぼうかふくめん>
や防蚊手袋で暑さに苦しめられ、昨夜に引き続き眠れぬ夜を過ごした。
三日目は 「 満賀村 」を過ぎたところから海岸端に出た。海岸には椰子の木が植えられており、道こそ無いが砂浜を歩く事が出来た為 目的地の「 多根村 」には予定よりもだいぶ早い 正午頃到着する事が出来た。
多根の宿泊予定地は海岸に面し、北側には川幅10㍍ほどのレンパン島にしては大河と云える川を控え、椰子林に囲まれた比較的に見晴らしの良い場所であった。此処での抑留生活がいつまで続くかは全く不明である。 其処で、休む間も無く 直ちに必用な宿舎、炊事場、厠 造りに着手した。
建築資材は全て自給自足である。 軍隊には入隊以前 大工、とび職 其の他殆どの仕事に従事していた 其の道の専門家が揃っており、如何なる難問に遭遇しようとも彼等の指導により之を難なく克服出来た事を幾度か経験したものである。
今回の宿舎建築が如何に簡単な造作であろうとも、素人だけではなかなか無理であろうと思われたが、彼等の指導により仕事は手際よく捗った。 順次 、家の形が出来上がって行くのを見て全員が拍手で喜び合った。
ジャングルから伐採して来た素性の良い木を柱にして地中に打ち込み、桁や梁を結束して固定するのが蔓である。 間口30㍍、奥行き3㍍ほどの枠組みが出来ると、次は椰子の葉で屋根を葺き、側面と裏の壁面は雑木を縫い付けた。 蛇やサソリを防ぐ為高床式にし、床面には丸太棒を並べた。 正面の海側には、椰子の葉で編んだ簾を吊り、ちょっと洒落た雰囲気を出す班もあった。また床には枯れ草を敷き詰められ、ケッペル波止場から拾って来た「万年パンツ」の材料たる麻袋は取り敢えず毛布の代用として使用した。
こうして、家畜小屋のような住まいと、大きな鍋を据え付けた炊事場、それに井戸、厠と順次完成して行くのが、我々には大きな楽しみであり喜びであった。 確かに御粗末極まる様な小屋ではあるが、マレー半島での野営や民家の軒下での仮寝に比べれば天と地ほどの違いであり、連合軍の直接監視下から逃れた生活は精神的にも気楽で、別天地に来たような満足感を味わう事が出来た。
然し、大きなスコールの来襲や強い風の日は、簾から雨水や海からの潮が吹き込み、幾度も之には悩まされたものだった。
( 我々が建築した海岸端の住居 )
マングロープの木が海中に深く根を張っている
我々は、岸辺に太く根を張ったマングロープを切り開き丸太だけを並べた仮設桟橋から飛び降りまずは無事にレンパン島への第一歩を記した。 昭和20年11月23日の事である。 ケッペル波止場で取り越し苦労したカルカッタ行きは免れ、一同安堵の胸を撫で下ろしたが、この日からロビンソン、クルーソーにも似た極限の苦しい生活が始まったのである。
我々が上陸する以前、既に先遣隊が到着し道路建設や港の構築が始まっており、我々の上陸した港は「 千鳥港 」と名付けられていた。 全員が上陸したところで 先遣隊<せんけんたい>
の係りから、既に決定していた我々の駐留場所や其の他注意事項の指示を受けた。
其の中で一番重要だったのは、「何時まで留まるか分からない島での生活」で、無秩序な集合体になる事を避け、内地に帰国するまでは今迄通り軍隊の組織を保って欲しい と言う事で、皆の理解を求められた。 之は至極当然の事であり、全員が賛成し行動した事が最後まで遵守<そんしゅ>
され虜囚<りょしゅう>
の集団でありながら大きな争い事もなく復員出来た結果であろうと思う。
終戦時に軍の組織を解体した為、烏合<うごう>
の衆と化し、同胞同士が血を流す惨めな状況を呈した所もあったと聞くにつけ、我々の選択は正しかったと思うのであった。
今回の移動が船舶であった為、大した疲労も感じず、千鳥港で暫時<ざんじ>
[休憩をとった後、日の高いうちに定住地として決められた「 多根村 」に向かって出発した。
島の定住地の名称は、部隊名や故郷の地名を付けたものであるが、多根村は、千鳥港から北東13㌔。僅かな道程ではあったが、目的地まで辿り着くのに凡そ2日間を要した。
千鳥港から、「 霧分村 」 「 天王村 」までは先遣隊が切り開いてくれた道路があったが、道路とは名ばかりで両側には潅木か生い茂り、シダや蔦が絡み合い、マレー半島の山中より更に 酷なジャングル地帯である。 急に襲い掛かるスコールで泥濘<でいねい>
と化した中を 霧分村まで辿り着くと前方に 昔、人が住んでいたと思われる小屋が眼にとまった。
小屋の周りはゴム林であり、比較的に平坦地であり水溜まりも無いので、此処に幕舎を張って野営をする事にした。
乾パンだけの食事を済ませ、濡れた土の上に余った天幕を敷いて横になったが、雨水が滲み込んで なかなか寝付かれない島での第一夜であった。
明けて翌日は好天に恵まれたが、之から「 満賀村 」まではジャングルを伐採しながら進まなければ成らない。何れ道路の建設は別途にやるとしても 先ずジャングルを切り開き仮の道を付ける事だけが現在の大きな仕事である。 「 霧分村 」 を過ぎ「 満賀村 」に着く手前で二日目の野営をしたが、この日はスコールに見舞われる事が無かったかわりにマラリヤ蚊の襲撃に遭い、防蚊覆面<ぼうかふくめん>
や防蚊手袋で暑さに苦しめられ、昨夜に引き続き眠れぬ夜を過ごした。
三日目は 「 満賀村 」を過ぎたところから海岸端に出た。海岸には椰子の木が植えられており、道こそ無いが砂浜を歩く事が出来た為 目的地の「 多根村 」には予定よりもだいぶ早い 正午頃到着する事が出来た。
多根の宿泊予定地は海岸に面し、北側には川幅10㍍ほどのレンパン島にしては大河と云える川を控え、椰子林に囲まれた比較的に見晴らしの良い場所であった。此処での抑留生活がいつまで続くかは全く不明である。 其処で、休む間も無く 直ちに必用な宿舎、炊事場、厠 造りに着手した。
建築資材は全て自給自足である。 軍隊には入隊以前 大工、とび職 其の他殆どの仕事に従事していた 其の道の専門家が揃っており、如何なる難問に遭遇しようとも彼等の指導により之を難なく克服出来た事を幾度か経験したものである。
今回の宿舎建築が如何に簡単な造作であろうとも、素人だけではなかなか無理であろうと思われたが、彼等の指導により仕事は手際よく捗った。 順次 、家の形が出来上がって行くのを見て全員が拍手で喜び合った。
ジャングルから伐採して来た素性の良い木を柱にして地中に打ち込み、桁や梁を結束して固定するのが蔓である。 間口30㍍、奥行き3㍍ほどの枠組みが出来ると、次は椰子の葉で屋根を葺き、側面と裏の壁面は雑木を縫い付けた。 蛇やサソリを防ぐ為高床式にし、床面には丸太棒を並べた。 正面の海側には、椰子の葉で編んだ簾を吊り、ちょっと洒落た雰囲気を出す班もあった。また床には枯れ草を敷き詰められ、ケッペル波止場から拾って来た「万年パンツ」の材料たる麻袋は取り敢えず毛布の代用として使用した。
こうして、家畜小屋のような住まいと、大きな鍋を据え付けた炊事場、それに井戸、厠と順次完成して行くのが、我々には大きな楽しみであり喜びであった。 確かに御粗末極まる様な小屋ではあるが、マレー半島での野営や民家の軒下での仮寝に比べれば天と地ほどの違いであり、連合軍の直接監視下から逃れた生活は精神的にも気楽で、別天地に来たような満足感を味わう事が出来た。
然し、大きなスコールの来襲や強い風の日は、簾から雨水や海からの潮が吹き込み、幾度も之には悩まされたものだった。
( 我々が建築した海岸端の住居 )
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
命の綱 タピオカ
クルアンを出発して以来の主食は日本軍の携帯口糧<けいたいこうりょう>で コンペート入りの乾パンだけだった。また我々がシンガポールから持参した生活用品は 鍬、鎌、鋸、鋤、鉈、スコップ、鶴嘴、等の農耕や土木に使用する物と、携帯天幕、毛布、雨外套、背嚢<はいのう>、水筒、衣類で、それに食糧と云えば 各自の 靴下に一杯ずつの米と大豆だけである。
それも多根村に着いた時点で、これ等の内 米は炊事班に、麦は将来に備えて種子にすると云う名目で返納してしまった。
職務分担としては 農耕班を始めジャングルを伐採して道を造る道路工事班それに漁労班や野草採集班が編成された。然しこの他に、千鳥港や宝港に船が入港した場合には食糧や其の他 物資の荷揚げ作業をする所謂 沖中仕<おきなかし>の使役と、それらの港まで泥濘の道を食糧受領に行く仕事が当番制で決められていた。
島での食糧は一日当たり一人1200キロカロリーと決められていたが、昔 電気磁気学で学んだ電流を流して発生する熱量の事以外に 食料にも関係が有るとは全く自分の無知を恥じたのだったが当時我々は ハコベや三味線蔓草<しゃみせんつるくさ>、それに南方葉ボタン等の野草でも、僅か盃一杯の米に混ぜた重湯にしても、腹一杯の満腹感さえあれば生きて行けると思っていた。
その様な食糧事情が悪い中での道路工事や港の荷揚げ作業は、重労働其のものであって栄養失調から倒れる者も随所<ずいしょ>に現れた。
(飢餓生活の中で命の綱に成ったのがタピオカであった)
司令部からの連絡で、前述の如く多根村からも10名ずつの当番が千鳥港への食糧受領に出向く事が決められていて、第一回の当番一行を送り出したのは、12月初旬である。留守を預かる我々は、どんな食糧を受領して来るか? を想像しながら 皆の帰りを待ち侘びていた。そんな時 外で誰かが
「 帰ってきたらしいぞ! 」と 叫んだので寝ていた一同は 干し草の床から起き上がり一斉に白砂の海岸が続く「満賀村」の方向に眼を向けた。
潅木の茂みから海岸端に出た椰子林の彼方から、薪のようなものを背負い、杖を頼りに歩いて来る一行が見えた。 近ずくと、確かに我々 仲間の当番達である。
皆が口々に、その薪のような物を指差して・・・・「 そりゃあ一体何だ? 」と聞いているが
「 タピオカの木だとよう・・・ 」と云っただけで疲労の為か砂地の上に寝転がってしまった。タピオカが何なのか、誰一人知る者は居なかった。
後での 説明によると、タピオカはブラジル原産の芋であった。日本で見る 桑の木の様な茎で、その茎を20~30センチに切り、畑に差し込んで置けば長さ 約1,5㍍位に成長し、地中には30センチほどの長芋状の根茎が出来る。その芋は多量の澱粉を含んでおり、アメリカインデアン達の主食であったと言う。 今回受領してきたものはタピオカの茎で、之を前述のように約30㌢位に切って畑に差し込みながら 「 はたして半年の間に芋がつき収穫出来るだろうか? 」と皆が疑問を懐いている所に来た農耕班の話によると、 「 この島なら四ヶ月もすれば芋がつき収獲出来る筈だ・・・・」との事であった。
早速云われた様に茎を切断して畑に差込み 日に二回ほど水撒きをし、肥料は人糞尿だけで成長を楽しみにしながら収穫の日を待った。 他にも我々の整地した畑には胡瓜、茄子、かぼちゃ、とうもろこし、さつま芋等が栽培される様になったが、このタピオカこそ、抑留者の命をつないでくれた主食と成ったのである。
第二回目に支給された食糧は「 アタ粉 」であったが このアタ粉も 我々には初めて眼にする物だったが、之はインド産のトウモロコシ粉で水に溶いて炊くと、黄色く膨らんだ内地で云えば薄焼きの様なものに成った。
飯盒の中蓋に一食一杯の、全く味の無い不味い物であったが、タピオカと並んで、レンパン島上陸から三ヶ月間、我々を飢餓から救ってくれた大事な食べ物となった。
2006年8月20日 (日) 記
クルアンを出発して以来の主食は日本軍の携帯口糧<けいたいこうりょう>で コンペート入りの乾パンだけだった。また我々がシンガポールから持参した生活用品は 鍬、鎌、鋸、鋤、鉈、スコップ、鶴嘴、等の農耕や土木に使用する物と、携帯天幕、毛布、雨外套、背嚢<はいのう>、水筒、衣類で、それに食糧と云えば 各自の 靴下に一杯ずつの米と大豆だけである。
それも多根村に着いた時点で、これ等の内 米は炊事班に、麦は将来に備えて種子にすると云う名目で返納してしまった。
職務分担としては 農耕班を始めジャングルを伐採して道を造る道路工事班それに漁労班や野草採集班が編成された。然しこの他に、千鳥港や宝港に船が入港した場合には食糧や其の他 物資の荷揚げ作業をする所謂 沖中仕<おきなかし>の使役と、それらの港まで泥濘の道を食糧受領に行く仕事が当番制で決められていた。
島での食糧は一日当たり一人1200キロカロリーと決められていたが、昔 電気磁気学で学んだ電流を流して発生する熱量の事以外に 食料にも関係が有るとは全く自分の無知を恥じたのだったが当時我々は ハコベや三味線蔓草<しゃみせんつるくさ>、それに南方葉ボタン等の野草でも、僅か盃一杯の米に混ぜた重湯にしても、腹一杯の満腹感さえあれば生きて行けると思っていた。
その様な食糧事情が悪い中での道路工事や港の荷揚げ作業は、重労働其のものであって栄養失調から倒れる者も随所<ずいしょ>に現れた。
(飢餓生活の中で命の綱に成ったのがタピオカであった)
司令部からの連絡で、前述の如く多根村からも10名ずつの当番が千鳥港への食糧受領に出向く事が決められていて、第一回の当番一行を送り出したのは、12月初旬である。留守を預かる我々は、どんな食糧を受領して来るか? を想像しながら 皆の帰りを待ち侘びていた。そんな時 外で誰かが
「 帰ってきたらしいぞ! 」と 叫んだので寝ていた一同は 干し草の床から起き上がり一斉に白砂の海岸が続く「満賀村」の方向に眼を向けた。
潅木の茂みから海岸端に出た椰子林の彼方から、薪のようなものを背負い、杖を頼りに歩いて来る一行が見えた。 近ずくと、確かに我々 仲間の当番達である。
皆が口々に、その薪のような物を指差して・・・・「 そりゃあ一体何だ? 」と聞いているが
「 タピオカの木だとよう・・・ 」と云っただけで疲労の為か砂地の上に寝転がってしまった。タピオカが何なのか、誰一人知る者は居なかった。
後での 説明によると、タピオカはブラジル原産の芋であった。日本で見る 桑の木の様な茎で、その茎を20~30センチに切り、畑に差し込んで置けば長さ 約1,5㍍位に成長し、地中には30センチほどの長芋状の根茎が出来る。その芋は多量の澱粉を含んでおり、アメリカインデアン達の主食であったと言う。 今回受領してきたものはタピオカの茎で、之を前述のように約30㌢位に切って畑に差し込みながら 「 はたして半年の間に芋がつき収穫出来るだろうか? 」と皆が疑問を懐いている所に来た農耕班の話によると、 「 この島なら四ヶ月もすれば芋がつき収獲出来る筈だ・・・・」との事であった。
早速云われた様に茎を切断して畑に差込み 日に二回ほど水撒きをし、肥料は人糞尿だけで成長を楽しみにしながら収穫の日を待った。 他にも我々の整地した畑には胡瓜、茄子、かぼちゃ、とうもろこし、さつま芋等が栽培される様になったが、このタピオカこそ、抑留者の命をつないでくれた主食と成ったのである。
第二回目に支給された食糧は「 アタ粉 」であったが このアタ粉も 我々には初めて眼にする物だったが、之はインド産のトウモロコシ粉で水に溶いて炊くと、黄色く膨らんだ内地で云えば薄焼きの様なものに成った。
飯盒の中蓋に一食一杯の、全く味の無い不味い物であったが、タピオカと並んで、レンパン島上陸から三ヶ月間、我々を飢餓から救ってくれた大事な食べ物となった。
2006年8月20日 (日) 記
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筏を漕いで食糧受領
第三回目の 食糧受領の頃から、少量ながらも米が配給される様になった。当番は夫々2㌔程の米を 背嚢<はいのう>に詰め 之を背負い 潅木<かんぼく>の湿地帯に足を取られながら13㌔の道程を帰るのだが、栄養失調の体には大変な重労働であった。 空腹の為受領した生米をポリポリ噛み、杖に縋って歩く姿は、今にも行き倒れに成りそうな哀れな光景であった。
この様な状況下では、人間の理性を失って本能を剥き出した、悲しい事件も現実に起こった。 ジャングルの街道筋に、同じ日本人の「 追い剥ぎ 」が現れたのである。
元は互いに命を掛け滅私奉公<めっしほうこう>を誓い合った同士でありながら、惨めな姿で食糧を受領して帰る当番一行を、事も有ろうに 丸太棒で威嚇し 「 やい・・・米を置いて行け! 」と言うのである。
仲間達が命の綱とし 首を長くして待っている大事な 大事な米ではあるが、この弱った体に乱暴されて死ぬ様な事が有っては 馬鹿々々しい・・・と已む無く 一人両手に一杯ぐらいを盗られ、無念な思いで帰る事が屡々起こった。
今考えると、両手一杯ずつの米を盗って行った 追い剥ぎ 達も、全部の米を奪う程の悪党ではなかったと思えるが、其の後は追い剥ぎの被害を防ぐ為 ジャングルから伐採した木を集めて「筏」を作り、海上を利用する運搬作業に一部変更した。全長7~8㍍の筏に携帯天幕の帆を張り、潮流の激しいガラン島との海峡「早瀬水道」を櫂だけでなく 、マングロープの根に掴まりながら進むのは、陸上の倍以上の労力を費やした。
追い剥ぎの危険が無いとはいえ、之も命懸けの仕事である。 そんな我々の 喘ぐ様な姿を笑うかのように、筏の周りにはイルカ達が遊んでいたが之も懐かしい思い出である。
島に上陸以来、日を追う毎に、食糧の量的不足とカロリー不足で、衰弱していった。更に非衛生的のため アメーバー赤痢や脚気などの病気に罹る者や、蚊によってマラリヤに罹り 発熱する者が続出して来た。特に全員が罹り、悩まされたのが 南方浮腫<なんぽうふしゅ>である。
之は皮膚病で、別名「飢餓浮腫<きがふしゅ>」とも言い、体中に天然痘のような小豆粒くらいの浮腫が出来て化膿し、 痛い! 痒い!と苦しむのである。 私も之に罹り 大変な思いをした。
皆が 何かしらの病気に罹<かか>ったが、僅かに持参した薬品は其処を尽き 13㌔も離れた司令部の診療所へ行く事も病人としては不可能な事であり、結果的には休養して回復を待つより他は無かった。
この様な栄養失調患者の多い我々多根村にも、使役の割り当ては容赦<ようしゃ>なく回って来た。
使役の内容は千鳥港や宝港の沖合いに停泊した船から、荷物を機汎船に積み替え、さらに其の荷物を揚陸し整理する仕事であり、比較的に丈夫であった若者には頻繁にこの仕事が回って来た。 また この使役に行く時には必ず一名の員数外の者がついて行き、連合国側の監視兵たちが捨てたタバコの吸殻を拾う「モクヒロイ」と袋のキズからこぼれ落ちた「アタ粉」を集めるのが仕事である。 ねぐらに持ち帰ったタバコは、天日で乾燥した「南方葉ぼたん」と混ぜ合せ、古い雑誌の紙に巻き全員で回して吸いながら レンパン製ラッキーストライクのうまさを味わい 又砂の混じった アタ粉は風を使って砂を分離するのだが中々上手く行かない。 多少砂が混じっても、空腹さえ満たされれば満足であったので、使役に出た班の役得として分かち合って腹の足しにした。
2006年8月24日 (木) 記
第三回目の 食糧受領の頃から、少量ながらも米が配給される様になった。当番は夫々2㌔程の米を 背嚢<はいのう>に詰め 之を背負い 潅木<かんぼく>の湿地帯に足を取られながら13㌔の道程を帰るのだが、栄養失調の体には大変な重労働であった。 空腹の為受領した生米をポリポリ噛み、杖に縋って歩く姿は、今にも行き倒れに成りそうな哀れな光景であった。
この様な状況下では、人間の理性を失って本能を剥き出した、悲しい事件も現実に起こった。 ジャングルの街道筋に、同じ日本人の「 追い剥ぎ 」が現れたのである。
元は互いに命を掛け滅私奉公<めっしほうこう>を誓い合った同士でありながら、惨めな姿で食糧を受領して帰る当番一行を、事も有ろうに 丸太棒で威嚇し 「 やい・・・米を置いて行け! 」と言うのである。
仲間達が命の綱とし 首を長くして待っている大事な 大事な米ではあるが、この弱った体に乱暴されて死ぬ様な事が有っては 馬鹿々々しい・・・と已む無く 一人両手に一杯ぐらいを盗られ、無念な思いで帰る事が屡々起こった。
今考えると、両手一杯ずつの米を盗って行った 追い剥ぎ 達も、全部の米を奪う程の悪党ではなかったと思えるが、其の後は追い剥ぎの被害を防ぐ為 ジャングルから伐採した木を集めて「筏」を作り、海上を利用する運搬作業に一部変更した。全長7~8㍍の筏に携帯天幕の帆を張り、潮流の激しいガラン島との海峡「早瀬水道」を櫂だけでなく 、マングロープの根に掴まりながら進むのは、陸上の倍以上の労力を費やした。
追い剥ぎの危険が無いとはいえ、之も命懸けの仕事である。 そんな我々の 喘ぐ様な姿を笑うかのように、筏の周りにはイルカ達が遊んでいたが之も懐かしい思い出である。
島に上陸以来、日を追う毎に、食糧の量的不足とカロリー不足で、衰弱していった。更に非衛生的のため アメーバー赤痢や脚気などの病気に罹る者や、蚊によってマラリヤに罹り 発熱する者が続出して来た。特に全員が罹り、悩まされたのが 南方浮腫<なんぽうふしゅ>である。
之は皮膚病で、別名「飢餓浮腫<きがふしゅ>」とも言い、体中に天然痘のような小豆粒くらいの浮腫が出来て化膿し、 痛い! 痒い!と苦しむのである。 私も之に罹り 大変な思いをした。
皆が 何かしらの病気に罹<かか>ったが、僅かに持参した薬品は其処を尽き 13㌔も離れた司令部の診療所へ行く事も病人としては不可能な事であり、結果的には休養して回復を待つより他は無かった。
この様な栄養失調患者の多い我々多根村にも、使役の割り当ては容赦<ようしゃ>なく回って来た。
使役の内容は千鳥港や宝港の沖合いに停泊した船から、荷物を機汎船に積み替え、さらに其の荷物を揚陸し整理する仕事であり、比較的に丈夫であった若者には頻繁にこの仕事が回って来た。 また この使役に行く時には必ず一名の員数外の者がついて行き、連合国側の監視兵たちが捨てたタバコの吸殻を拾う「モクヒロイ」と袋のキズからこぼれ落ちた「アタ粉」を集めるのが仕事である。 ねぐらに持ち帰ったタバコは、天日で乾燥した「南方葉ぼたん」と混ぜ合せ、古い雑誌の紙に巻き全員で回して吸いながら レンパン製ラッキーストライクのうまさを味わい 又砂の混じった アタ粉は風を使って砂を分離するのだが中々上手く行かない。 多少砂が混じっても、空腹さえ満たされれば満足であったので、使役に出た班の役得として分かち合って腹の足しにした。
2006年8月24日 (木) 記
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恋飯島(レンパン島)と誰かが云った
今日は レーションを支給する。と炊事班の通達を受けたが誰一人としてレーションとは何か・・・を知っている者は居なかった。 聞く所によると、連合国側で言う携帯口糧のことであるらしい。 我々の携帯口糧の認識では、堅い乾パンとコンペートをガーゼの袋に入れた日本製の物しか想像出来なかったが、支給されたレーションは全てアルミニュームかブリキ缶に密閉された物である。 感心しながら空けて見ると、それは朝、昼、晩の三食分が夫々蝋引き紙でブロックされいる。更に興味深く 各々のブロックを剥がして内部に入っている内容を見て又々驚いた。
ビスケット、オートミール、牛肉、塩、砂糖、チョコレート、ビタミンc、それにキャンデーとタバコ(ラッキーストライク、キャメル、チェスターフイールド)等々が入りトータルで一日2500キロカロリーという豪華な内容である。 然しながら我々にはこの一缶を三日間で食べる様に指示された。 即ち彼等の一食分を我々には一日に食べる様にという事であり、到底之では生き延びる事は無理である 。皆 疑心暗鬼で考え込んでいたが、一人また一人と各食に分かれている包み紙を破り始めた。 私は先ずデイナーと書いてある物から開けた。久し振りに旨い物を腹一杯食べて・・「 後は野となれ山となれ!・・・ 」だ、とばかりに殆どの仲間達は、厳しく言われた三日分を一度に平らげてしまった。
そして食後の いっぷくは何時もの「南方葉ぼたん」を巻いた代物とは違う 本物のラッキーストライクをふかして満足感に浸り、談笑は月明りの中で遅くまで続いた。
しかし、無茶をした後の三日間は自分達の責任で海辺に居る魚や雑草其の他で凌がねばならない。 其れ程までに日々食べる事ばかりを考え、飯の夢まで見たこの島を誰が言うとなく 恋飯島 ( レンパン島 )と呼ぶ様になった。
この島には日本の旧軍人、軍属のみが収容され、イギリス及びインドの兵士達が対岸のガラム島に駐留して レンパン、ガラム両島の監視をしていた。 島の海岸には多くの椰子やマンゴー等の果樹の木があったが、これ等を採ることは厳しく禁止されていたので自然に落下するのを待つより仕方なかった。 何故なら これらの果樹を勝手に採った場合は「 全員内地には帰さない 」という何より怖い通達があったからである。
数多い果実を実際に管理する事など不可能である・・・と思いながらも、彼等の言葉を真面目に聞き実行していたのは彼等の心象を良くする事で一日も早く内地に帰還させて貰いたい其の一心で有ったからに他ならない。
前述のように、旧軍隊組織を継続している生活は、起床から就寝まで総て命令系統を明確にしたものであり、人員の点呼や不審番などの交代勤務もある。 空腹で ぐうぐう鳴る腹を抱え、丸太棒を持ち かがり火を焚きながら不寝番に立っていると、ヤドカリが焚き火の明かりに誘われて火中に入り こんがりと焼ける、之が内地の「イナゴ」を思わせる美味さであり、不寝番の苦しさに対する代償の役得でもあった。
(一部海岸端を除き、潅木に覆われたジャングル地帯のレンパン)
「 ムカデすら蒲焼にするレンパン島 」 こんな句を作った仲間が居た島には青蛇、ニシキヘビ、かたつむり、蛙 、サソリ、それに猿や猪が生息していた。そのお陰で 蛇や蛙 更にナメクジまで食べる事を覚えた。しかし一番執念を持って捕獲したかったのは 猪であった。
動物性タンパク質と脂肪が欲しい事も さることながら、猪は我々が折角弱体化した体力に鞭打ちつつ育てたタピオカ畑に入り、未成熟の芋まで掘り起こし食い散らして仕舞うからである。 親子連れで侵入して来る猪に 弓矢をはじめ、落とし穴や罠を仕掛けた事もあるが、何れも失敗であり なお憎い事に猪はタピオカの芋と皮の間に毒物のある事を知っており、皮だけ残して上手に食い逃げするので、幾度か捕獲に挑戦したが遂に其の願 いは果たす事が出来なかった。
そんな食糧不足で飢えに苦しんでいる事を知っていたのか・・・隣のビンタン島から華僑の農民が小舟に さつま芋を積んで売りに来る様になった。 売るとは言え貨幣が有る訳ではないので、物々交換である。 誰が教えたか日本語で 「イモ欲シイカ?」「 交換々々OKよ! 」と舟の上から大きな さつま芋を見せるので 我々の方も之に対 してマレー語で 「 ブラパ?(いくら) 」と聞き返すと。身振り手振りで答え之を判断すると、一寸大きめの芋では有るが一個と軍隊の半袖シャッ一枚を交換する仕草をした。
何でもいいから腹一杯にしたいという欲望から、皆が住家から飛び出して思い思いの持ち物で交渉し芋を手に入れた。 そんな交換のあった夜は、焼き芋に舌鼓みを打つ事が出来たのであったが、そんな事が何時までも続く筈も無く、復員の時に着る服の他 殆どの物が芋に変わってしまい、日常生活では 戦闘帽に越中褌一つ、それに杖を持つのがレンパン島の標準スタイルとなった。
又日本人同士でも、現地のインドネシア人と間違えられる様な区別のつかない風貌に変わって行くのが不思議でならなかった。
2006年8月25日 (金)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
漁労班の活躍で大漁に沸く
相変らずの食糧難と栄養失調状態でも港での重労働の日々は続いた。使役の当番に当たった我々の行く先は、千鳥港か宝港であるが、其の近辺に行くと側溝<そっこう>のついた道路があり又 丸太を組み合わせて建てた二階建ての家までが並び、多根から来た我々は町にでも来た様な錯覚さえ覚えたものである。 支給される以外の食糧と言えばは蕨<わらび>やぜんまい 等 野草類であるが、之とても全員に行き渡る程は無く、毎日が空腹の連続であった。 したがって内地の野草に似ていると言って食べた為に腹痛を起こした、と いった食べ物に関わる苦労と失敗談は枚挙<まいきょ>に暇<いとま>ないほどあり、私自身も大きな失敗をしてしまった。 それは、空腹の腹を鳴らしながら海岸端を歩いていて眼にした物は、海中にタコ足の様に根を張っているマングロープの木に ぶら下っている実が内地で見る藤の実と同じであり、其れを捥ぎ取って皮を剥くと緑色の柔らかく美味そうな豆が出てきた。
「これこれ!」 と一人ほくそ笑みながら 5~6本持ち帰り飯盒で茹でて食べたところ就寝近くなった頃、急激に腹痛をおこし、仲間に話す事も出来ず 痛みを堪えて朝の来るのを待った。 幸いに腹痛は治まったものの便通が止ってしまい腹は ぱんぱん に成ったまま三日過ぎても強度な便秘は回復せず苦しみ、考えた末、皆が眼を覚ます前の暗い中を 敷き草の床からコッソリ外に出て海に直行した、其れは海中に飛び込み塩水で浣腸しつつ取り出すという作業を始めたのです。
然し之は難行苦行の仕事であって、南国でありながらも体温は下がり震えながら時間ばかりが過ぎてゆく、次第に夜は白々明け始めて見ると あっち、こっち で同様の作業をしている者がいるのには驚いた。 辛うじて目的は達成したものの、聞けば皆マングロープの実による災難であり、大笑いの、話の種と成ってしまった。
其の後、 「マングロープの実やゴムの木の新芽等を食べて命を落とした者が居る。」という噂を聞いて身震いする思いであった。
レンパン島の遠浅の海は潮の満干の差が1メートル以上も有ったので、栄養源を確保するために、干満の差を利用した魚柵<ぎょさく>による漁法を考案した。之は四国で漁師の経験があるN君の発案であり、魚網をはじめ漁具とて何一つ無いため、ジャングルから伐採して来た木の枝を縫い合わせそれを海岸から沖に向かって凡そ100メーターくらい 逆V字型に巡らし、満ち潮に乗って岸に向かって来た魚が引き潮になって逃げられずにいるところを捕まえるという甚だ原始的な方法であったが、これによって鯛、さより、いか、熱帯魚などを沢山捕獲する事が出来、時には サメやエイなども捕れ 、魚柵の改良や、増設によって漁獲量が増加してくると、次は魚の保存方法に頭を悩ませた結果 先ずは「潮干魚」にする事を決めたが、その前段として塩の製造を如何するかが検討され始めた。
ドラム缶を二つ切りにした釜を海岸端に石積みした炉の上に固定し、日夜交替で潮を汲み之を煮詰めるという作業を続けたが、其の製品たるや色は黒いうえに苦くて とても食用に成る様な物ではなかった。
大勢の中には物知りの人も多く、千鳥港へ使役に行った時 誰かに この苦くて黒い塩の話をし、塩造りに関する教えをうけた結果の話に依れば、ニガリの為であり、そのニガリを除く方法として、「 沸騰中の釜の中に缶詰の空き缶を吊るして置くことだ 」との説明である。 全く理屈も理解できないまま 説明通りに実行し、結晶した塩に井戸水を加えて更に結晶するまで火を焚き続けた結果、半信半疑ではあったが、成る程純白の塩が出来上がった。 之で多根村における塩干魚作りは軌道に乗ったが、それにしても漁労班の活躍は島を去るまで続けられ栄養失調に悩む我々の体力維持に多大な貢献をしてくれた。
( レンパン島の南海岸 )
2006年8月26日 (土)
相変らずの食糧難と栄養失調状態でも港での重労働の日々は続いた。使役の当番に当たった我々の行く先は、千鳥港か宝港であるが、其の近辺に行くと側溝<そっこう>のついた道路があり又 丸太を組み合わせて建てた二階建ての家までが並び、多根から来た我々は町にでも来た様な錯覚さえ覚えたものである。 支給される以外の食糧と言えばは蕨<わらび>やぜんまい 等 野草類であるが、之とても全員に行き渡る程は無く、毎日が空腹の連続であった。 したがって内地の野草に似ていると言って食べた為に腹痛を起こした、と いった食べ物に関わる苦労と失敗談は枚挙<まいきょ>に暇<いとま>ないほどあり、私自身も大きな失敗をしてしまった。 それは、空腹の腹を鳴らしながら海岸端を歩いていて眼にした物は、海中にタコ足の様に根を張っているマングロープの木に ぶら下っている実が内地で見る藤の実と同じであり、其れを捥ぎ取って皮を剥くと緑色の柔らかく美味そうな豆が出てきた。
「これこれ!」 と一人ほくそ笑みながら 5~6本持ち帰り飯盒で茹でて食べたところ就寝近くなった頃、急激に腹痛をおこし、仲間に話す事も出来ず 痛みを堪えて朝の来るのを待った。 幸いに腹痛は治まったものの便通が止ってしまい腹は ぱんぱん に成ったまま三日過ぎても強度な便秘は回復せず苦しみ、考えた末、皆が眼を覚ます前の暗い中を 敷き草の床からコッソリ外に出て海に直行した、其れは海中に飛び込み塩水で浣腸しつつ取り出すという作業を始めたのです。
然し之は難行苦行の仕事であって、南国でありながらも体温は下がり震えながら時間ばかりが過ぎてゆく、次第に夜は白々明け始めて見ると あっち、こっち で同様の作業をしている者がいるのには驚いた。 辛うじて目的は達成したものの、聞けば皆マングロープの実による災難であり、大笑いの、話の種と成ってしまった。
其の後、 「マングロープの実やゴムの木の新芽等を食べて命を落とした者が居る。」という噂を聞いて身震いする思いであった。
レンパン島の遠浅の海は潮の満干の差が1メートル以上も有ったので、栄養源を確保するために、干満の差を利用した魚柵<ぎょさく>による漁法を考案した。之は四国で漁師の経験があるN君の発案であり、魚網をはじめ漁具とて何一つ無いため、ジャングルから伐採して来た木の枝を縫い合わせそれを海岸から沖に向かって凡そ100メーターくらい 逆V字型に巡らし、満ち潮に乗って岸に向かって来た魚が引き潮になって逃げられずにいるところを捕まえるという甚だ原始的な方法であったが、これによって鯛、さより、いか、熱帯魚などを沢山捕獲する事が出来、時には サメやエイなども捕れ 、魚柵の改良や、増設によって漁獲量が増加してくると、次は魚の保存方法に頭を悩ませた結果 先ずは「潮干魚」にする事を決めたが、その前段として塩の製造を如何するかが検討され始めた。
ドラム缶を二つ切りにした釜を海岸端に石積みした炉の上に固定し、日夜交替で潮を汲み之を煮詰めるという作業を続けたが、其の製品たるや色は黒いうえに苦くて とても食用に成る様な物ではなかった。
大勢の中には物知りの人も多く、千鳥港へ使役に行った時 誰かに この苦くて黒い塩の話をし、塩造りに関する教えをうけた結果の話に依れば、ニガリの為であり、そのニガリを除く方法として、「 沸騰中の釜の中に缶詰の空き缶を吊るして置くことだ 」との説明である。 全く理屈も理解できないまま 説明通りに実行し、結晶した塩に井戸水を加えて更に結晶するまで火を焚き続けた結果、半信半疑ではあったが、成る程純白の塩が出来上がった。 之で多根村における塩干魚作りは軌道に乗ったが、それにしても漁労班の活躍は島を去るまで続けられ栄養失調に悩む我々の体力維持に多大な貢献をしてくれた。
( レンパン島の南海岸 )
2006年8月26日 (土)