アジア鎮魂の旅・その9
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アジア鎮魂の旅 (編集者, 2008/4/11 7:26)
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アジア鎮魂の旅・その13 (編集者, 2008/5/16 9:04)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298

恋飯島(レンパン島)と誰かが云った
今日は レーションを支給する。と炊事班の通達を受けたが誰一人としてレーションとは何か・・・を知っている者は居なかった。 聞く所によると、連合国側で言う携帯口糧のことであるらしい。 我々の携帯口糧の認識では、堅い乾パンとコンペートをガーゼの袋に入れた日本製の物しか想像出来なかったが、支給されたレーションは全てアルミニュームかブリキ缶に密閉された物である。 感心しながら空けて見ると、それは朝、昼、晩の三食分が夫々蝋引き紙でブロックされいる。更に興味深く 各々のブロックを剥がして内部に入っている内容を見て又々驚いた。
ビスケット、オートミール、牛肉、塩、砂糖、チョコレート、ビタミンc、それにキャンデーとタバコ(ラッキーストライク、キャメル、チェスターフイールド)等々が入りトータルで一日2500キロカロリーという豪華な内容である。 然しながら我々にはこの一缶を三日間で食べる様に指示された。 即ち彼等の一食分を我々には一日に食べる様にという事であり、到底之では生き延びる事は無理である 。皆 疑心暗鬼で考え込んでいたが、一人また一人と各食に分かれている包み紙を破り始めた。 私は先ずデイナーと書いてある物から開けた。久し振りに旨い物を腹一杯食べて・・「 後は野となれ山となれ!・・・ 」だ、とばかりに殆どの仲間達は、厳しく言われた三日分を一度に平らげてしまった。
そして食後の いっぷくは何時もの「南方葉ぼたん」を巻いた代物とは違う 本物のラッキーストライクをふかして満足感に浸り、談笑は月明りの中で遅くまで続いた。
しかし、無茶をした後の三日間は自分達の責任で海辺に居る魚や雑草其の他で凌がねばならない。 其れ程までに日々食べる事ばかりを考え、飯の夢まで見たこの島を誰が言うとなく 恋飯島 ( レンパン島 )と呼ぶ様になった。
この島には日本の旧軍人、軍属のみが収容され、イギリス及びインドの兵士達が対岸のガラム島に駐留して レンパン、ガラム両島の監視をしていた。 島の海岸には多くの椰子やマンゴー等の果樹の木があったが、これ等を採ることは厳しく禁止されていたので自然に落下するのを待つより仕方なかった。 何故なら これらの果樹を勝手に採った場合は「 全員内地には帰さない 」という何より怖い通達があったからである。
数多い果実を実際に管理する事など不可能である・・・と思いながらも、彼等の言葉を真面目に聞き実行していたのは彼等の心象を良くする事で一日も早く内地に帰還させて貰いたい其の一心で有ったからに他ならない。
前述のように、旧軍隊組織を継続している生活は、起床から就寝まで総て命令系統を明確にしたものであり、人員の点呼や不審番などの交代勤務もある。 空腹で ぐうぐう鳴る腹を抱え、丸太棒を持ち かがり火を焚きながら不寝番に立っていると、ヤドカリが焚き火の明かりに誘われて火中に入り こんがりと焼ける、之が内地の「イナゴ」を思わせる美味さであり、不寝番の苦しさに対する代償の役得でもあった。

(一部海岸端を除き、潅木に覆われたジャングル地帯のレンパン)
「 ムカデすら蒲焼にするレンパン島 」 こんな句を作った仲間が居た島には青蛇、ニシキヘビ、かたつむり、蛙 、サソリ、それに猿や猪が生息していた。そのお陰で 蛇や蛙 更にナメクジまで食べる事を覚えた。しかし一番執念を持って捕獲したかったのは 猪であった。
動物性タンパク質と脂肪が欲しい事も さることながら、猪は我々が折角弱体化した体力に鞭打ちつつ育てたタピオカ畑に入り、未成熟の芋まで掘り起こし食い散らして仕舞うからである。 親子連れで侵入して来る猪に 弓矢をはじめ、落とし穴や罠を仕掛けた事もあるが、何れも失敗であり なお憎い事に猪はタピオカの芋と皮の間に毒物のある事を知っており、皮だけ残して上手に食い逃げするので、幾度か捕獲に挑戦したが遂に其の願 いは果たす事が出来なかった。
そんな食糧不足で飢えに苦しんでいる事を知っていたのか・・・隣のビンタン島から華僑の農民が小舟に さつま芋を積んで売りに来る様になった。 売るとは言え貨幣が有る訳ではないので、物々交換である。 誰が教えたか日本語で 「イモ欲シイカ?」「 交換々々OKよ! 」と舟の上から大きな さつま芋を見せるので 我々の方も之に対 してマレー語で 「 ブラパ?(いくら) 」と聞き返すと。身振り手振りで答え之を判断すると、一寸大きめの芋では有るが一個と軍隊の半袖シャッ一枚を交換する仕草をした。
何でもいいから腹一杯にしたいという欲望から、皆が住家から飛び出して思い思いの持ち物で交渉し芋を手に入れた。 そんな交換のあった夜は、焼き芋に舌鼓みを打つ事が出来たのであったが、そんな事が何時までも続く筈も無く、復員の時に着る服の他 殆どの物が芋に変わってしまい、日常生活では 戦闘帽に越中褌一つ、それに杖を持つのがレンパン島の標準スタイルとなった。
又日本人同士でも、現地のインドネシア人と間違えられる様な区別のつかない風貌に変わって行くのが不思議でならなかった。
2006年8月25日 (金)