アジア鎮魂の旅・その7
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アジア鎮魂の旅 (編集者, 2008/4/11 7:26)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
命の綱 タピオカ
クルアンを出発して以来の主食は日本軍の携帯口糧<けいたいこうりょう>で コンペート入りの乾パンだけだった。また我々がシンガポールから持参した生活用品は 鍬、鎌、鋸、鋤、鉈、スコップ、鶴嘴、等の農耕や土木に使用する物と、携帯天幕、毛布、雨外套、背嚢<はいのう>、水筒、衣類で、それに食糧と云えば 各自の 靴下に一杯ずつの米と大豆だけである。
それも多根村に着いた時点で、これ等の内 米は炊事班に、麦は将来に備えて種子にすると云う名目で返納してしまった。
職務分担としては 農耕班を始めジャングルを伐採して道を造る道路工事班それに漁労班や野草採集班が編成された。然しこの他に、千鳥港や宝港に船が入港した場合には食糧や其の他 物資の荷揚げ作業をする所謂 沖中仕<おきなかし>の使役と、それらの港まで泥濘の道を食糧受領に行く仕事が当番制で決められていた。
島での食糧は一日当たり一人1200キロカロリーと決められていたが、昔 電気磁気学で学んだ電流を流して発生する熱量の事以外に 食料にも関係が有るとは全く自分の無知を恥じたのだったが当時我々は ハコベや三味線蔓草<しゃみせんつるくさ>、それに南方葉ボタン等の野草でも、僅か盃一杯の米に混ぜた重湯にしても、腹一杯の満腹感さえあれば生きて行けると思っていた。
その様な食糧事情が悪い中での道路工事や港の荷揚げ作業は、重労働其のものであって栄養失調から倒れる者も随所<ずいしょ>に現れた。
(飢餓生活の中で命の綱に成ったのがタピオカであった)
司令部からの連絡で、前述の如く多根村からも10名ずつの当番が千鳥港への食糧受領に出向く事が決められていて、第一回の当番一行を送り出したのは、12月初旬である。留守を預かる我々は、どんな食糧を受領して来るか? を想像しながら 皆の帰りを待ち侘びていた。そんな時 外で誰かが
「 帰ってきたらしいぞ! 」と 叫んだので寝ていた一同は 干し草の床から起き上がり一斉に白砂の海岸が続く「満賀村」の方向に眼を向けた。
潅木の茂みから海岸端に出た椰子林の彼方から、薪のようなものを背負い、杖を頼りに歩いて来る一行が見えた。 近ずくと、確かに我々 仲間の当番達である。
皆が口々に、その薪のような物を指差して・・・・「 そりゃあ一体何だ? 」と聞いているが
「 タピオカの木だとよう・・・ 」と云っただけで疲労の為か砂地の上に寝転がってしまった。タピオカが何なのか、誰一人知る者は居なかった。
後での 説明によると、タピオカはブラジル原産の芋であった。日本で見る 桑の木の様な茎で、その茎を20~30センチに切り、畑に差し込んで置けば長さ 約1,5㍍位に成長し、地中には30センチほどの長芋状の根茎が出来る。その芋は多量の澱粉を含んでおり、アメリカインデアン達の主食であったと言う。 今回受領してきたものはタピオカの茎で、之を前述のように約30㌢位に切って畑に差し込みながら 「 はたして半年の間に芋がつき収穫出来るだろうか? 」と皆が疑問を懐いている所に来た農耕班の話によると、 「 この島なら四ヶ月もすれば芋がつき収獲出来る筈だ・・・・」との事であった。
早速云われた様に茎を切断して畑に差込み 日に二回ほど水撒きをし、肥料は人糞尿だけで成長を楽しみにしながら収穫の日を待った。 他にも我々の整地した畑には胡瓜、茄子、かぼちゃ、とうもろこし、さつま芋等が栽培される様になったが、このタピオカこそ、抑留者の命をつないでくれた主食と成ったのである。
第二回目に支給された食糧は「 アタ粉 」であったが このアタ粉も 我々には初めて眼にする物だったが、之はインド産のトウモロコシ粉で水に溶いて炊くと、黄色く膨らんだ内地で云えば薄焼きの様なものに成った。
飯盒の中蓋に一食一杯の、全く味の無い不味い物であったが、タピオカと並んで、レンパン島上陸から三ヶ月間、我々を飢餓から救ってくれた大事な食べ物となった。
2006年8月20日 (日) 記
クルアンを出発して以来の主食は日本軍の携帯口糧<けいたいこうりょう>で コンペート入りの乾パンだけだった。また我々がシンガポールから持参した生活用品は 鍬、鎌、鋸、鋤、鉈、スコップ、鶴嘴、等の農耕や土木に使用する物と、携帯天幕、毛布、雨外套、背嚢<はいのう>、水筒、衣類で、それに食糧と云えば 各自の 靴下に一杯ずつの米と大豆だけである。
それも多根村に着いた時点で、これ等の内 米は炊事班に、麦は将来に備えて種子にすると云う名目で返納してしまった。
職務分担としては 農耕班を始めジャングルを伐採して道を造る道路工事班それに漁労班や野草採集班が編成された。然しこの他に、千鳥港や宝港に船が入港した場合には食糧や其の他 物資の荷揚げ作業をする所謂 沖中仕<おきなかし>の使役と、それらの港まで泥濘の道を食糧受領に行く仕事が当番制で決められていた。
島での食糧は一日当たり一人1200キロカロリーと決められていたが、昔 電気磁気学で学んだ電流を流して発生する熱量の事以外に 食料にも関係が有るとは全く自分の無知を恥じたのだったが当時我々は ハコベや三味線蔓草<しゃみせんつるくさ>、それに南方葉ボタン等の野草でも、僅か盃一杯の米に混ぜた重湯にしても、腹一杯の満腹感さえあれば生きて行けると思っていた。
その様な食糧事情が悪い中での道路工事や港の荷揚げ作業は、重労働其のものであって栄養失調から倒れる者も随所<ずいしょ>に現れた。
(飢餓生活の中で命の綱に成ったのがタピオカであった)
司令部からの連絡で、前述の如く多根村からも10名ずつの当番が千鳥港への食糧受領に出向く事が決められていて、第一回の当番一行を送り出したのは、12月初旬である。留守を預かる我々は、どんな食糧を受領して来るか? を想像しながら 皆の帰りを待ち侘びていた。そんな時 外で誰かが
「 帰ってきたらしいぞ! 」と 叫んだので寝ていた一同は 干し草の床から起き上がり一斉に白砂の海岸が続く「満賀村」の方向に眼を向けた。
潅木の茂みから海岸端に出た椰子林の彼方から、薪のようなものを背負い、杖を頼りに歩いて来る一行が見えた。 近ずくと、確かに我々 仲間の当番達である。
皆が口々に、その薪のような物を指差して・・・・「 そりゃあ一体何だ? 」と聞いているが
「 タピオカの木だとよう・・・ 」と云っただけで疲労の為か砂地の上に寝転がってしまった。タピオカが何なのか、誰一人知る者は居なかった。
後での 説明によると、タピオカはブラジル原産の芋であった。日本で見る 桑の木の様な茎で、その茎を20~30センチに切り、畑に差し込んで置けば長さ 約1,5㍍位に成長し、地中には30センチほどの長芋状の根茎が出来る。その芋は多量の澱粉を含んでおり、アメリカインデアン達の主食であったと言う。 今回受領してきたものはタピオカの茎で、之を前述のように約30㌢位に切って畑に差し込みながら 「 はたして半年の間に芋がつき収穫出来るだろうか? 」と皆が疑問を懐いている所に来た農耕班の話によると、 「 この島なら四ヶ月もすれば芋がつき収獲出来る筈だ・・・・」との事であった。
早速云われた様に茎を切断して畑に差込み 日に二回ほど水撒きをし、肥料は人糞尿だけで成長を楽しみにしながら収穫の日を待った。 他にも我々の整地した畑には胡瓜、茄子、かぼちゃ、とうもろこし、さつま芋等が栽培される様になったが、このタピオカこそ、抑留者の命をつないでくれた主食と成ったのである。
第二回目に支給された食糧は「 アタ粉 」であったが このアタ粉も 我々には初めて眼にする物だったが、之はインド産のトウモロコシ粉で水に溶いて炊くと、黄色く膨らんだ内地で云えば薄焼きの様なものに成った。
飯盒の中蓋に一食一杯の、全く味の無い不味い物であったが、タピオカと並んで、レンパン島上陸から三ヶ月間、我々を飢餓から救ってくれた大事な食べ物となった。
2006年8月20日 (日) 記