アジア鎮魂の旅・その3
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アジア鎮魂の旅 (編集者, 2008/4/11 7:26)
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アジア鎮魂の旅・その2 (編集者, 2008/4/13 8:58)
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アジア鎮魂の旅・その3 (編集者, 2008/4/14 8:18)
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アジア鎮魂の旅・その4 (編集者, 2008/4/16 7:23)
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アジア鎮魂の旅・その7 (編集者, 2008/4/22 7:41)
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アジア鎮魂の旅・その8 (編集者, 2008/4/24 7:44)
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アジア鎮魂の旅・その9 (編集者, 2008/4/26 7:31)
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アジア鎮魂の旅・その10 (編集者, 2008/4/28 7:49)
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アジア鎮魂の旅・その11 (編集者, 2008/4/30 8:15)
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アジア鎮魂の旅・その12 (編集者, 2008/5/3 7:59)
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アジア鎮魂の旅・その13 (編集者, 2008/5/16 9:04)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298

マレー半島で知った敗戦!
昭和20年8月15日。 其の日も酷暑を予測するかのように朝から五月蝿《うるさい》く油蝉の鳴き声で眼を覚まし、簡単な朝食を済ませた後 通常通りの訓練を行なった後 幕舎に戻り 早速 開局したばかりの無線機に着いてタイピンとの連絡を取ったところ、受信した電文はなんと「 ポッダム宣言を受諾した 」との内容であり、改めて班長から内容の説明を聞いた幕舎内の兵隊達は 「 エッ・・・そんな馬鹿な事が有るか・・・・・」 と異口同音に叫び、一度に力が抜けた様に其の場に座り込んでしまった。
暫らく沈黙する内に 全員のすすり上げる様な泣き声が あちら此方から起こった。一人また一人と幕舎前の小高い草叢に出て来て結局全員がその草叢に集まり、茜色に染まりつつ暮れ行く夕焼け空を眺めながら 皆 手放しで無念の涙に咽《むせ》びつつ慟哭《どうこく》した。
戦争は遂に終わったのだ。無条件降伏という惨澹《さんたん》たる形の終戦である。 暑い暑い一日が終わり、赤く染まった積乱雲と、其処に見る 雷光の不気味な光景を皆は 唯々虚《うつ》ろな瞳で見つめ 誰一人として夕食をとる者も無く、横たわっているが、眠りに就く事も無く しかも溜息と寝返りの音ばかりが聞こえて来る。「どうせ成るようにしか成らない!」と腹を決めていると、再び 一人 また一人と幕舎から草叢に出ると 夜空は満天の星が、何事も無かったかの様に輝いている。
其のうちに誰からとも無く 軍歌の「 戦友 」や「 暁に祈る 」の歌が流れ始め、それは次第に全員の大合唱となって湧き上がった。
皆 夫々の思いを込めて 歌い且つ泣いていた。 夜が耽《ふけ》るに従って不思議にも我々の今迄抱いていた感情は一変して「 恐怖 」へと変化して行くのが自覚できた。
「 我々は必ず殺されるか、重労働に処されるだろう、どうせ殺されるとしたら自決したらどうだろうか・・・・」 と真剣に話し合っている所に 班長が入って来た。
何処かで我々の話を聞いていたのであったろう、と推測したが其の言葉は・・・・・
「お前達の純真な気持は分かるし、俺は嬉しい・・・然し 死んで一体どうなるのか?戦争に負けた事は本当に悔しいし悲しい・・・然し我々には之から如何なる困難をも克服して故国日本に帰り、荒廃した国土を建て直す大事な仕事が有るではないか!、絶対死んではいけないぞ・・・・」と 順々と諭《さと》され、其の夜は あれや之や を考えている内に朝を迎えてしまったのである。
班長の言葉で今後の腹を決めた我々は、又其の日から大八車に重い荷物を積んでタイピン への行軍が始まったのである。 途中 中国人やマレー人に「抗日軍大勝利」などと大書した幟旗を打ち振りながらの 嫌がらせや悔しい思いをし、病気の戦友を荷車に乗せての行軍は誠に惨めなもので 夕方になれば野営をしたり、農民の軒下を借りて寝る事もあったが 激しいスコールの為に携帯天幕を被って朝を迎えた事も屡《しばしば》あった。
チュンポンから連れて来た食用牛も疲労の為に殆どが死んでしまい食用にした後の内蔵は農民と穀類やピーナツと交換して栄養補給の足しにした。
敗戦の悔しさや悲しさ、其れに哀れさを味わいながら漸くの事でタイピンに到着したが 此処で武装解除を終わるまで何日間かの生活をしなければならない。したがって その間生活するために携帯天幕を継ぎ合わせた大きな幕舎をはじめ炊事場や厠などを一日で造り 武装解除の行なわれる 其の日を待った。
然し我々94師団通信隊は武装解除といっても無線通信機器と38式騎兵銃それに弾薬 5発のみであり、この場に及んで中隊長は
「畏れ多くも菊の御紋章を付けたまま、この銃剣を引き渡す訳には行かない」と云い銃に彫り込んである菊の紋章を川原の石で削り取る様にと指令を下して来た。
武器の引渡し日当日は 学校の校庭らしき所に集合し、多くの住民達が興味深く見守る中で 一段高い壇上の上に立つ連合国の将校らしき軍人の前に出て、言われるままに武器を置き 一礼して引き下がる・・・形式を守り中隊長から順次行なわれ愈々自分の番に成った。
私は引き渡しながら、 「捕虜となって敵に辱めを受ける位なら 自決せよ」という戦陣訓《=戦場での心構え》を心の中で復唱しながら、日本国が無条件降伏したとは言え、本当に之で良いのか?と自問自答し 悔しさに唇を噛み締め涙を堪えていたがそれは 私だけではなかったと思う。
長い間心配し続けていた武装解除も簡単に終了し、愈々厳しい検問が行なわれるジョホール州の「 クルアン 」に向けて出発であるが今回は 無蓋貨物車《=屋根のない貨車》が用意された。
一歩々々日本に近くなると思えば、無蓋貨車であろうと、途中スコールで濡れようと 又時間がいくら掛かろうと 誰もこれに文句を言う者も無く 「全てに耐え抜こう」 と誓い合い、乗車した列車は翌日未だ日の高い内に検問のまちクルアンに到着した。
2006年8月13日 (日) 記
昭和20年8月15日。 其の日も酷暑を予測するかのように朝から五月蝿《うるさい》く油蝉の鳴き声で眼を覚まし、簡単な朝食を済ませた後 通常通りの訓練を行なった後 幕舎に戻り 早速 開局したばかりの無線機に着いてタイピンとの連絡を取ったところ、受信した電文はなんと「 ポッダム宣言を受諾した 」との内容であり、改めて班長から内容の説明を聞いた幕舎内の兵隊達は 「 エッ・・・そんな馬鹿な事が有るか・・・・・」 と異口同音に叫び、一度に力が抜けた様に其の場に座り込んでしまった。
暫らく沈黙する内に 全員のすすり上げる様な泣き声が あちら此方から起こった。一人また一人と幕舎前の小高い草叢に出て来て結局全員がその草叢に集まり、茜色に染まりつつ暮れ行く夕焼け空を眺めながら 皆 手放しで無念の涙に咽《むせ》びつつ慟哭《どうこく》した。
戦争は遂に終わったのだ。無条件降伏という惨澹《さんたん》たる形の終戦である。 暑い暑い一日が終わり、赤く染まった積乱雲と、其処に見る 雷光の不気味な光景を皆は 唯々虚《うつ》ろな瞳で見つめ 誰一人として夕食をとる者も無く、横たわっているが、眠りに就く事も無く しかも溜息と寝返りの音ばかりが聞こえて来る。「どうせ成るようにしか成らない!」と腹を決めていると、再び 一人 また一人と幕舎から草叢に出ると 夜空は満天の星が、何事も無かったかの様に輝いている。
其のうちに誰からとも無く 軍歌の「 戦友 」や「 暁に祈る 」の歌が流れ始め、それは次第に全員の大合唱となって湧き上がった。
皆 夫々の思いを込めて 歌い且つ泣いていた。 夜が耽《ふけ》るに従って不思議にも我々の今迄抱いていた感情は一変して「 恐怖 」へと変化して行くのが自覚できた。
「 我々は必ず殺されるか、重労働に処されるだろう、どうせ殺されるとしたら自決したらどうだろうか・・・・」 と真剣に話し合っている所に 班長が入って来た。
何処かで我々の話を聞いていたのであったろう、と推測したが其の言葉は・・・・・
「お前達の純真な気持は分かるし、俺は嬉しい・・・然し 死んで一体どうなるのか?戦争に負けた事は本当に悔しいし悲しい・・・然し我々には之から如何なる困難をも克服して故国日本に帰り、荒廃した国土を建て直す大事な仕事が有るではないか!、絶対死んではいけないぞ・・・・」と 順々と諭《さと》され、其の夜は あれや之や を考えている内に朝を迎えてしまったのである。
班長の言葉で今後の腹を決めた我々は、又其の日から大八車に重い荷物を積んでタイピン への行軍が始まったのである。 途中 中国人やマレー人に「抗日軍大勝利」などと大書した幟旗を打ち振りながらの 嫌がらせや悔しい思いをし、病気の戦友を荷車に乗せての行軍は誠に惨めなもので 夕方になれば野営をしたり、農民の軒下を借りて寝る事もあったが 激しいスコールの為に携帯天幕を被って朝を迎えた事も屡《しばしば》あった。
チュンポンから連れて来た食用牛も疲労の為に殆どが死んでしまい食用にした後の内蔵は農民と穀類やピーナツと交換して栄養補給の足しにした。
敗戦の悔しさや悲しさ、其れに哀れさを味わいながら漸くの事でタイピンに到着したが 此処で武装解除を終わるまで何日間かの生活をしなければならない。したがって その間生活するために携帯天幕を継ぎ合わせた大きな幕舎をはじめ炊事場や厠などを一日で造り 武装解除の行なわれる 其の日を待った。
然し我々94師団通信隊は武装解除といっても無線通信機器と38式騎兵銃それに弾薬 5発のみであり、この場に及んで中隊長は
「畏れ多くも菊の御紋章を付けたまま、この銃剣を引き渡す訳には行かない」と云い銃に彫り込んである菊の紋章を川原の石で削り取る様にと指令を下して来た。
武器の引渡し日当日は 学校の校庭らしき所に集合し、多くの住民達が興味深く見守る中で 一段高い壇上の上に立つ連合国の将校らしき軍人の前に出て、言われるままに武器を置き 一礼して引き下がる・・・形式を守り中隊長から順次行なわれ愈々自分の番に成った。
私は引き渡しながら、 「捕虜となって敵に辱めを受ける位なら 自決せよ」という戦陣訓《=戦場での心構え》を心の中で復唱しながら、日本国が無条件降伏したとは言え、本当に之で良いのか?と自問自答し 悔しさに唇を噛み締め涙を堪えていたがそれは 私だけではなかったと思う。
長い間心配し続けていた武装解除も簡単に終了し、愈々厳しい検問が行なわれるジョホール州の「 クルアン 」に向けて出発であるが今回は 無蓋貨物車《=屋根のない貨車》が用意された。
一歩々々日本に近くなると思えば、無蓋貨車であろうと、途中スコールで濡れようと 又時間がいくら掛かろうと 誰もこれに文句を言う者も無く 「全てに耐え抜こう」 と誓い合い、乗車した列車は翌日未だ日の高い内に検問のまちクルアンに到着した。
2006年8月13日 (日) 記