アジア鎮魂の旅・その2
投稿ツリー
-
アジア鎮魂の旅 (編集者, 2008/4/11 7:26)
-
アジア鎮魂の旅・その2 (編集者, 2008/4/13 8:58)
-
アジア鎮魂の旅・その3 (編集者, 2008/4/14 8:18)
-
アジア鎮魂の旅・その4 (編集者, 2008/4/16 7:23)
-
アジア鎮魂の旅・その5 (編集者, 2008/4/18 8:11)
-
アジア鎮魂の旅・その6 (編集者, 2008/4/20 7:59)
-
アジア鎮魂の旅・その7 (編集者, 2008/4/22 7:41)
-
アジア鎮魂の旅・その8 (編集者, 2008/4/24 7:44)
-
アジア鎮魂の旅・その9 (編集者, 2008/4/26 7:31)
-
アジア鎮魂の旅・その10 (編集者, 2008/4/28 7:49)
-
アジア鎮魂の旅・その11 (編集者, 2008/4/30 8:15)
-
アジア鎮魂の旅・その12 (編集者, 2008/5/3 7:59)
-
アジア鎮魂の旅・その13 (編集者, 2008/5/16 9:04)
-
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298

タイピンから国境を越えタイ国へ
退屈な車中では 右窓に整然と植林された 延々と続く椰子《やし》やゴムの林を、また左窓には波静かに凪いだ マラッカ海の単調な景色を眺めながら、途中幾度か鉄道沿線に停車した列車に 燃料補給の薪を積み込む使役を手伝わせられながらも タイピン駅迄は予想していたより早く到着し 無事に入隊する事が出来た。
タイピンの街については殆ど記憶が薄れてしまったが、戦争中でありながら イスラム風の瀟洒《しょうしゃ=しゃれた》な駅舎と、 古惚《ふるぼ》けた学校を多少 手を加えたとも想像出来る様な 第94師団通信隊の御粗末な兵舎だけは おぼろげ乍ら今でも頭に浮かんでくる。
( 凡そ半世紀余を経た現在 インターネットで検索しても タイピンに関する 詳 細な記 事は殆ど見当たらない )
昭和19年6月、 我々新兵として入隊した者は 19名であり、今後 行動を 共にする 班長の S軍曹と教育係りの H上等兵を合わせて21名が一団となって早くも翌日から軍事訓練が始まった。 軍事訓練と云っても、師団通信隊の主たる任務は各地に分散している部隊に対して師団からの命令や報告事項の電報を発着信する事であり、3号型及び 5号型携帯無線機と其れに使う 手動式発電機等の機材を割り当てられ、更に38式騎兵銃《きへい銃注1》と銃弾5発を携行し、天候の如何に拘わらず、毎日 無線通信実践訓練のほか 先方に「稲藁」で作った人形を置き、その近くまで匍匐前進《ほふくぜんしん注2》して殺戮《さつりく》する訓練までさせられたが、流石ゴム林の中、半袖,半ズボン姿の服装で、 匍匐前進するのはゴムの殻が手足に刺さり血まみれの傷を手当てする間も無い 最も辛い訓練であった。
そんな訓練も3日目になると 急遽《きゅうきょ》移動命令が出た。目的地については知らされなかったが、北部方面と聞いただけで、多くの仲間達は「多分タイ国だな!」と想像出来た。
タイピンから北部に通ずる鉄道線路は 所々爆撃で寸断され、河川という河川も全て爆破されている処を トロッコ3両に無線機、食料などを積み込んで 終日線路上を行軍するのであるが、寸断された場所毎に荷物や、解体したトロッコを背負って 再び積み替える作業は大変な作業である。特に爆破された河川の渡河こそ 尚更苦難な仕事であり、 其の作業中には急遽《きゅうきょ》 敵機カーチスの来襲があり 機銃掃射《注3》を受けて逃げ回る様は 文字通り阿鼻叫喚《あびきょうかん注4》の巷を見る様な光景であった。如何に若者とは言え昼間の過酷な労働に疲労困憊し、露天に設営した携帯天幕の中でゴロッと横になり 即 深い眠りに就いてしまうのが常であったが、夜半に大水害に遭遇した夢を見て、飛び起きると 毎夜来襲するスコールの為に衣類や毛布は びょし濡れと成ってしまう。
思案の結果、以後は線路上の枕木を枕に寝る事にし、防蚊覆面を被り、防蚊手袋を着けて寝た夜も幾晩かあった。 そんな行軍を続ける事 約1週間、6月16日に マレー、 タイの国境を通過して目的地のチュンポンに到着したのは6月22日であったが この 凡そ1週間で 物心両面にわたる[厳しさと恐怖の軍隊生活]を初めて経験する事が出来た。 チュンポンに辿り着いて町の印象は、比較的に大きな町の様でありながら町中を歩く人々が殆ど見えず、ゴーストタウンの様な不気味な街であった事が強く頭に焼き付いている。
我々初年兵は町から程遠い山中に設営されていた中隊に合流し、毎日降り続く雨による高い湿度の中で生息する サソリやムカデ 更にマラリヤ蚊などに悩まされ、加えて 古年兵達の虐めの生活が ぼつぼつ始まるのでは・・・・・・と思い覚悟をしていた夜 前ぶれも無く、又々移動命令が出た。 何の理由も聞かされず、到着後 3日目にして再びマレーに向けての行軍が始まったのである。
大八車に物資を積んだ新兵達は汗に塗れてマレーと タイの国境を通過し 山岳地帯の悪路を辿り乍ら 山の 中腹で比較的平坦な土地を定め 此処に無線通信所を設営する命令を受けた。
記憶を辿れば此処での生活が苦しいながらも初年兵にしては一番楽しい期間であった。
それは 我々初年兵と班長及び教育上等兵だけの生活であった事で、 偶々《たまたま》休養日には班長と一緒に近くの小川に行き、川干しをして、川魚を大量に捕獲した様な些細な事であってさえ 子供の様に歓声を挙げて喜び合ったのが懐かしい思い出である。
この 山中での訓練期間が凡そ1ヶ月ほど続いた日の夕刻である。 考えた事も無かった 一通の電報が届いた。
2006年8月 7日 (月) 記

今も変わらずに在るシンガポール通信所

マレー半島の椰子やゴムの林
注1 騎兵銃=騎兵が背中に懸ける比較的軽い小銃
注2 匍匐前進=敵弾にあたらによう地面を這って前進する
注3 機銃掃射=戦闘機からの機銃の連発
注4 阿鼻叫喚=地獄のような
退屈な車中では 右窓に整然と植林された 延々と続く椰子《やし》やゴムの林を、また左窓には波静かに凪いだ マラッカ海の単調な景色を眺めながら、途中幾度か鉄道沿線に停車した列車に 燃料補給の薪を積み込む使役を手伝わせられながらも タイピン駅迄は予想していたより早く到着し 無事に入隊する事が出来た。
タイピンの街については殆ど記憶が薄れてしまったが、戦争中でありながら イスラム風の瀟洒《しょうしゃ=しゃれた》な駅舎と、 古惚《ふるぼ》けた学校を多少 手を加えたとも想像出来る様な 第94師団通信隊の御粗末な兵舎だけは おぼろげ乍ら今でも頭に浮かんでくる。
( 凡そ半世紀余を経た現在 インターネットで検索しても タイピンに関する 詳 細な記 事は殆ど見当たらない )
昭和19年6月、 我々新兵として入隊した者は 19名であり、今後 行動を 共にする 班長の S軍曹と教育係りの H上等兵を合わせて21名が一団となって早くも翌日から軍事訓練が始まった。 軍事訓練と云っても、師団通信隊の主たる任務は各地に分散している部隊に対して師団からの命令や報告事項の電報を発着信する事であり、3号型及び 5号型携帯無線機と其れに使う 手動式発電機等の機材を割り当てられ、更に38式騎兵銃《きへい銃注1》と銃弾5発を携行し、天候の如何に拘わらず、毎日 無線通信実践訓練のほか 先方に「稲藁」で作った人形を置き、その近くまで匍匐前進《ほふくぜんしん注2》して殺戮《さつりく》する訓練までさせられたが、流石ゴム林の中、半袖,半ズボン姿の服装で、 匍匐前進するのはゴムの殻が手足に刺さり血まみれの傷を手当てする間も無い 最も辛い訓練であった。
そんな訓練も3日目になると 急遽《きゅうきょ》移動命令が出た。目的地については知らされなかったが、北部方面と聞いただけで、多くの仲間達は「多分タイ国だな!」と想像出来た。
タイピンから北部に通ずる鉄道線路は 所々爆撃で寸断され、河川という河川も全て爆破されている処を トロッコ3両に無線機、食料などを積み込んで 終日線路上を行軍するのであるが、寸断された場所毎に荷物や、解体したトロッコを背負って 再び積み替える作業は大変な作業である。特に爆破された河川の渡河こそ 尚更苦難な仕事であり、 其の作業中には急遽《きゅうきょ》 敵機カーチスの来襲があり 機銃掃射《注3》を受けて逃げ回る様は 文字通り阿鼻叫喚《あびきょうかん注4》の巷を見る様な光景であった。如何に若者とは言え昼間の過酷な労働に疲労困憊し、露天に設営した携帯天幕の中でゴロッと横になり 即 深い眠りに就いてしまうのが常であったが、夜半に大水害に遭遇した夢を見て、飛び起きると 毎夜来襲するスコールの為に衣類や毛布は びょし濡れと成ってしまう。
思案の結果、以後は線路上の枕木を枕に寝る事にし、防蚊覆面を被り、防蚊手袋を着けて寝た夜も幾晩かあった。 そんな行軍を続ける事 約1週間、6月16日に マレー、 タイの国境を通過して目的地のチュンポンに到着したのは6月22日であったが この 凡そ1週間で 物心両面にわたる[厳しさと恐怖の軍隊生活]を初めて経験する事が出来た。 チュンポンに辿り着いて町の印象は、比較的に大きな町の様でありながら町中を歩く人々が殆ど見えず、ゴーストタウンの様な不気味な街であった事が強く頭に焼き付いている。
我々初年兵は町から程遠い山中に設営されていた中隊に合流し、毎日降り続く雨による高い湿度の中で生息する サソリやムカデ 更にマラリヤ蚊などに悩まされ、加えて 古年兵達の虐めの生活が ぼつぼつ始まるのでは・・・・・・と思い覚悟をしていた夜 前ぶれも無く、又々移動命令が出た。 何の理由も聞かされず、到着後 3日目にして再びマレーに向けての行軍が始まったのである。
大八車に物資を積んだ新兵達は汗に塗れてマレーと タイの国境を通過し 山岳地帯の悪路を辿り乍ら 山の 中腹で比較的平坦な土地を定め 此処に無線通信所を設営する命令を受けた。
記憶を辿れば此処での生活が苦しいながらも初年兵にしては一番楽しい期間であった。
それは 我々初年兵と班長及び教育上等兵だけの生活であった事で、 偶々《たまたま》休養日には班長と一緒に近くの小川に行き、川干しをして、川魚を大量に捕獲した様な些細な事であってさえ 子供の様に歓声を挙げて喜び合ったのが懐かしい思い出である。
この 山中での訓練期間が凡そ1ヶ月ほど続いた日の夕刻である。 考えた事も無かった 一通の電報が届いた。
2006年8月 7日 (月) 記

今も変わらずに在るシンガポール通信所

マレー半島の椰子やゴムの林
注1 騎兵銃=騎兵が背中に懸ける比較的軽い小銃
注2 匍匐前進=敵弾にあたらによう地面を這って前進する
注3 機銃掃射=戦闘機からの機銃の連発
注4 阿鼻叫喚=地獄のような