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アジア鎮魂の旅・その5

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通常 アジア鎮魂の旅・その5

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/4/18 8:11
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 レンパン島の抑留生活

 南国の夜明けは早い。 私は浅い眠りの内に 油蝉の鳴き声で眼が醒めた。未だ薄くらい朝なのに、中には眠られないのか、がさがさと荷物の整理をしている者もいる。
 今日も又 暑くなりそうである。然し 段々日本に近ずくと思えば皆の顔にも笑みが浮かび、今までに無い明るい会話も聞こえるようになった。
 各キャンプ毎に朝食をとり、全員が一刻も早く 此処クルアンを離れたいという逸る気持を抑えつつ早々に身支度をして、出発指令を待った。
 駅までの道路両側には 興味深かそうに我々敗軍兵士一行を見つめる現地人等の侮蔑<ぶべつ>の眼を背中に感じながら、ただ黙々と歩く姿は、全く惨めであり 現在その光景を想起しただけでも情けなく且つ哀れさを感じる。
 やがてクルアン駅に到着すると、我々の乗る貨物列車は既に入線しており、幸いにも小さな有蓋貨車<ゆうがいかしゃ>であったのでスコールに対する心配だけは免れた。
 だが一車両に三十人も詰め込まれては、寝る事も出来ず 之から何時間の旅が続くのか全く説明の無いままに、クルアン駅を出発した。 途中の停車駅も知らされず、ただ行き先がシンガポールであることだけは確かである。 
 本来であればいくら遅くも2~3時間で到着する筈であるが、途中燃料の積み込みや飯盒<はんごう>炊事、それに長い停車時間をしながらの列車は凡そ十余時間を過ぎて漸<ようやく>くジョホール水道に差しかかった。
 皆一斉に貨物列車の重い扉を全開して吹き抜ける涼風を吸い込み、愈々シンガポールか! と呟<つぶや>きながら心配していた関門を全員で通過出来た事を喜び合った。
 思えば四ヶ月前、この凪<な>いだジョホール海峡に映ったサルタンの宮殿を眺め、また住み慣れたセレター軍港に名残を惜しみつつ マレー半島を北上した時は、戦況が次第に悪化しつつある事は承知していたものの、まさか敗戦の憂き目を見ようとは想像もしていなかった。 楽しかった日航当時の思い出や、一別以来の仲間達の事を懐かしく思い出している内に列車はブキテマを通過した。
 右手のフォード工場を見ると、日章旗に替わってユニオンジャックの旗が翻<ひるがえ>っている。このフオード工場こそシンガポール攻撃の決着交渉をした 山下将軍と英国のパーシバル将軍の「イエスか ノーか?」で有名な所で 常に日章旗が翻っていた頃が懐かしい。此処でも皆無言の内に涙を拭っていた。
 列車は漸くシンガポール駅に到着した。銃剣を持ったインド兵に取り囲まれながら、駅の裏口から出て、ケッペル波止場までは 又市内行進である。クルアンの其れにも増して 更に身の哀れを感じざるを得ない。 街頭を埋める様な多くの現地人が物珍しそうに この行進を見ている、中には 「 バカヤロウ 」 と怒鳴っている者も居た。然し我々は唯々 俯き黙々として歩いた。
 到着したケッペル波止場は以前とは違い、多くの船舶が入港し 港の活気が早くも漲<みなぎ>っていた。 我々は今晩 波止場周辺にある倉庫の軒下で一夜を明かすのである。
 明日 乗船する船の行き先は何処であろうか? 、一晩中話題は其ればかりに集中していた。何時の時でも尤もらしい不確実な情報を流す者がおり、今回 彼が出した不確実情報は
 1、内地へ直行する 
 2、インドのカルカッタにて重労働をする 
 3、太平洋の真ん中で  撃沈される。
 の三つが考えられるが、可能性としては「2」であろう。今更どうしようもない事とは言え、心配で眠れない夜も明けて愈々乗船すると云う船を見ると真っ赤に寂びた ボロ船であった。従って 「3」を想像し思い足取りでタラップを登り、乗船したが未だ行き先については発表されないまま船は出港した。
 前日ケッペルの波止場に着いた時 同年兵の情報通が 「之からの行き先は多分インドのカルカッタの可能性が高い様だ・・・倉庫の周りに捨てられている麻袋を拾ってパンツを作ろう・・・と云いながら、不審そうに聞く皆に 「之 一ちょう有れば何年も 使える、所謂<いわゆる>万年パンツと云うものだ・・・・」には爆笑したものの、半信半疑で之を拾い殆どの者はこの麻袋を大事に持って乗船していたのだった。
 何トンの船で、何人乗船し何処に行くのか知らされず乗船した赤錆びた船内は言語に絶する暑さであり。サウナ風呂の様な船内から全員が甲板に出て、遠く去り行くシンガポールの港と、数多く点在する島々を 見ながら何を頭に浮かべているであろうかか?・・・・・唯 虚<うつ>ろな眼で眺めている。
 今生の最後が近づくかの様な寂しさと、二年間に亘るシンガポールとマレー其の他巡り会った人々との思い出を頭に描きながら、また 成る様にしか成らない 之からの生きかたについての考え方を整理すべく 自問自答を繰り返した。然し結果は堂々巡りでケセラセラである。
 シンガポールを出港して二時間も経った頃であろうか。突如通達が出た。
 「之から行く目的地はインドネシア領でリオウ諸島のレンパン島である。」と。
 我々には目的地が「 レンパン島 」と言われても其の位置は勿論 名前すら聞いた事もない島である。通達に依ればシンガポールから約60㌔ほど南下した、北緯0度40分から1度、東経104度から104度40分に位置し、面積は140平方㌔ 。日本の壱岐の島くらいの無人島で、狭い海峡を隔てて北にバタン島、南にガラン島が接しており、海抜200㍍にも満たない南北に山脈が連なっているが、殆ど人跡未踏のジャングル地帯である。
 また一方聞くところによると、レンパン島は第一次世界大戦の終了後ドイツ人の捕虜をこの島の開拓に当たらせたが、栄養失調とマラリアで全員死亡したため、別名として
 「死の島」とか「悪魔の孤島」と ある事を入島後の会報によって知った。
 またオランダや中国もこの島の開拓に手を付けたが、共に失敗して隣のビンタン島にしたという事で、其れを物語るように華僑が住んでいたと思われる廃屋やゴム林を栽培した後が残っており、所々に椰子やマンゴーの樹木も見掛けられた。
 シンガポールを出港して五時間ほど経った頃、我々の乗船していた貨物船はレンパン島沖に停泊した。
 島は珊瑚礁に囲まれた遠浅である為、沖に停泊している船から 機汎船に乗り移り、仮設の桟橋までピストン輸送をするのである。

 2006年8月19日 (土)













リオウ諸島現在の地図

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