アジア鎮魂の旅・その6
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アジア鎮魂の旅 (編集者, 2008/4/11 7:26)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
囚われの島「レンパン島」生活
マングロープの木が海中に深く根を張っている
我々は、岸辺に太く根を張ったマングロープを切り開き丸太だけを並べた仮設桟橋から飛び降りまずは無事にレンパン島への第一歩を記した。 昭和20年11月23日の事である。 ケッペル波止場で取り越し苦労したカルカッタ行きは免れ、一同安堵の胸を撫で下ろしたが、この日からロビンソン、クルーソーにも似た極限の苦しい生活が始まったのである。
我々が上陸する以前、既に先遣隊が到着し道路建設や港の構築が始まっており、我々の上陸した港は「 千鳥港 」と名付けられていた。 全員が上陸したところで 先遣隊<せんけんたい>
の係りから、既に決定していた我々の駐留場所や其の他注意事項の指示を受けた。
其の中で一番重要だったのは、「何時まで留まるか分からない島での生活」で、無秩序な集合体になる事を避け、内地に帰国するまでは今迄通り軍隊の組織を保って欲しい と言う事で、皆の理解を求められた。 之は至極当然の事であり、全員が賛成し行動した事が最後まで遵守<そんしゅ>
され虜囚<りょしゅう>
の集団でありながら大きな争い事もなく復員出来た結果であろうと思う。
終戦時に軍の組織を解体した為、烏合<うごう>
の衆と化し、同胞同士が血を流す惨めな状況を呈した所もあったと聞くにつけ、我々の選択は正しかったと思うのであった。
今回の移動が船舶であった為、大した疲労も感じず、千鳥港で暫時<ざんじ>
[休憩をとった後、日の高いうちに定住地として決められた「 多根村 」に向かって出発した。
島の定住地の名称は、部隊名や故郷の地名を付けたものであるが、多根村は、千鳥港から北東13㌔。僅かな道程ではあったが、目的地まで辿り着くのに凡そ2日間を要した。
千鳥港から、「 霧分村 」 「 天王村 」までは先遣隊が切り開いてくれた道路があったが、道路とは名ばかりで両側には潅木か生い茂り、シダや蔦が絡み合い、マレー半島の山中より更に 酷なジャングル地帯である。 急に襲い掛かるスコールで泥濘<でいねい>
と化した中を 霧分村まで辿り着くと前方に 昔、人が住んでいたと思われる小屋が眼にとまった。
小屋の周りはゴム林であり、比較的に平坦地であり水溜まりも無いので、此処に幕舎を張って野営をする事にした。
乾パンだけの食事を済ませ、濡れた土の上に余った天幕を敷いて横になったが、雨水が滲み込んで なかなか寝付かれない島での第一夜であった。
明けて翌日は好天に恵まれたが、之から「 満賀村 」まではジャングルを伐採しながら進まなければ成らない。何れ道路の建設は別途にやるとしても 先ずジャングルを切り開き仮の道を付ける事だけが現在の大きな仕事である。 「 霧分村 」 を過ぎ「 満賀村 」に着く手前で二日目の野営をしたが、この日はスコールに見舞われる事が無かったかわりにマラリヤ蚊の襲撃に遭い、防蚊覆面<ぼうかふくめん>
や防蚊手袋で暑さに苦しめられ、昨夜に引き続き眠れぬ夜を過ごした。
三日目は 「 満賀村 」を過ぎたところから海岸端に出た。海岸には椰子の木が植えられており、道こそ無いが砂浜を歩く事が出来た為 目的地の「 多根村 」には予定よりもだいぶ早い 正午頃到着する事が出来た。
多根の宿泊予定地は海岸に面し、北側には川幅10㍍ほどのレンパン島にしては大河と云える川を控え、椰子林に囲まれた比較的に見晴らしの良い場所であった。此処での抑留生活がいつまで続くかは全く不明である。 其処で、休む間も無く 直ちに必用な宿舎、炊事場、厠 造りに着手した。
建築資材は全て自給自足である。 軍隊には入隊以前 大工、とび職 其の他殆どの仕事に従事していた 其の道の専門家が揃っており、如何なる難問に遭遇しようとも彼等の指導により之を難なく克服出来た事を幾度か経験したものである。
今回の宿舎建築が如何に簡単な造作であろうとも、素人だけではなかなか無理であろうと思われたが、彼等の指導により仕事は手際よく捗った。 順次 、家の形が出来上がって行くのを見て全員が拍手で喜び合った。
ジャングルから伐採して来た素性の良い木を柱にして地中に打ち込み、桁や梁を結束して固定するのが蔓である。 間口30㍍、奥行き3㍍ほどの枠組みが出来ると、次は椰子の葉で屋根を葺き、側面と裏の壁面は雑木を縫い付けた。 蛇やサソリを防ぐ為高床式にし、床面には丸太棒を並べた。 正面の海側には、椰子の葉で編んだ簾を吊り、ちょっと洒落た雰囲気を出す班もあった。また床には枯れ草を敷き詰められ、ケッペル波止場から拾って来た「万年パンツ」の材料たる麻袋は取り敢えず毛布の代用として使用した。
こうして、家畜小屋のような住まいと、大きな鍋を据え付けた炊事場、それに井戸、厠と順次完成して行くのが、我々には大きな楽しみであり喜びであった。 確かに御粗末極まる様な小屋ではあるが、マレー半島での野営や民家の軒下での仮寝に比べれば天と地ほどの違いであり、連合軍の直接監視下から逃れた生活は精神的にも気楽で、別天地に来たような満足感を味わう事が出来た。
然し、大きなスコールの来襲や強い風の日は、簾から雨水や海からの潮が吹き込み、幾度も之には悩まされたものだった。
( 我々が建築した海岸端の住居 )
マングロープの木が海中に深く根を張っている
我々は、岸辺に太く根を張ったマングロープを切り開き丸太だけを並べた仮設桟橋から飛び降りまずは無事にレンパン島への第一歩を記した。 昭和20年11月23日の事である。 ケッペル波止場で取り越し苦労したカルカッタ行きは免れ、一同安堵の胸を撫で下ろしたが、この日からロビンソン、クルーソーにも似た極限の苦しい生活が始まったのである。
我々が上陸する以前、既に先遣隊が到着し道路建設や港の構築が始まっており、我々の上陸した港は「 千鳥港 」と名付けられていた。 全員が上陸したところで 先遣隊<せんけんたい>
の係りから、既に決定していた我々の駐留場所や其の他注意事項の指示を受けた。
其の中で一番重要だったのは、「何時まで留まるか分からない島での生活」で、無秩序な集合体になる事を避け、内地に帰国するまでは今迄通り軍隊の組織を保って欲しい と言う事で、皆の理解を求められた。 之は至極当然の事であり、全員が賛成し行動した事が最後まで遵守<そんしゅ>
され虜囚<りょしゅう>
の集団でありながら大きな争い事もなく復員出来た結果であろうと思う。
終戦時に軍の組織を解体した為、烏合<うごう>
の衆と化し、同胞同士が血を流す惨めな状況を呈した所もあったと聞くにつけ、我々の選択は正しかったと思うのであった。
今回の移動が船舶であった為、大した疲労も感じず、千鳥港で暫時<ざんじ>
[休憩をとった後、日の高いうちに定住地として決められた「 多根村 」に向かって出発した。
島の定住地の名称は、部隊名や故郷の地名を付けたものであるが、多根村は、千鳥港から北東13㌔。僅かな道程ではあったが、目的地まで辿り着くのに凡そ2日間を要した。
千鳥港から、「 霧分村 」 「 天王村 」までは先遣隊が切り開いてくれた道路があったが、道路とは名ばかりで両側には潅木か生い茂り、シダや蔦が絡み合い、マレー半島の山中より更に 酷なジャングル地帯である。 急に襲い掛かるスコールで泥濘<でいねい>
と化した中を 霧分村まで辿り着くと前方に 昔、人が住んでいたと思われる小屋が眼にとまった。
小屋の周りはゴム林であり、比較的に平坦地であり水溜まりも無いので、此処に幕舎を張って野営をする事にした。
乾パンだけの食事を済ませ、濡れた土の上に余った天幕を敷いて横になったが、雨水が滲み込んで なかなか寝付かれない島での第一夜であった。
明けて翌日は好天に恵まれたが、之から「 満賀村 」まではジャングルを伐採しながら進まなければ成らない。何れ道路の建設は別途にやるとしても 先ずジャングルを切り開き仮の道を付ける事だけが現在の大きな仕事である。 「 霧分村 」 を過ぎ「 満賀村 」に着く手前で二日目の野営をしたが、この日はスコールに見舞われる事が無かったかわりにマラリヤ蚊の襲撃に遭い、防蚊覆面<ぼうかふくめん>
や防蚊手袋で暑さに苦しめられ、昨夜に引き続き眠れぬ夜を過ごした。
三日目は 「 満賀村 」を過ぎたところから海岸端に出た。海岸には椰子の木が植えられており、道こそ無いが砂浜を歩く事が出来た為 目的地の「 多根村 」には予定よりもだいぶ早い 正午頃到着する事が出来た。
多根の宿泊予定地は海岸に面し、北側には川幅10㍍ほどのレンパン島にしては大河と云える川を控え、椰子林に囲まれた比較的に見晴らしの良い場所であった。此処での抑留生活がいつまで続くかは全く不明である。 其処で、休む間も無く 直ちに必用な宿舎、炊事場、厠 造りに着手した。
建築資材は全て自給自足である。 軍隊には入隊以前 大工、とび職 其の他殆どの仕事に従事していた 其の道の専門家が揃っており、如何なる難問に遭遇しようとも彼等の指導により之を難なく克服出来た事を幾度か経験したものである。
今回の宿舎建築が如何に簡単な造作であろうとも、素人だけではなかなか無理であろうと思われたが、彼等の指導により仕事は手際よく捗った。 順次 、家の形が出来上がって行くのを見て全員が拍手で喜び合った。
ジャングルから伐採して来た素性の良い木を柱にして地中に打ち込み、桁や梁を結束して固定するのが蔓である。 間口30㍍、奥行き3㍍ほどの枠組みが出来ると、次は椰子の葉で屋根を葺き、側面と裏の壁面は雑木を縫い付けた。 蛇やサソリを防ぐ為高床式にし、床面には丸太棒を並べた。 正面の海側には、椰子の葉で編んだ簾を吊り、ちょっと洒落た雰囲気を出す班もあった。また床には枯れ草を敷き詰められ、ケッペル波止場から拾って来た「万年パンツ」の材料たる麻袋は取り敢えず毛布の代用として使用した。
こうして、家畜小屋のような住まいと、大きな鍋を据え付けた炊事場、それに井戸、厠と順次完成して行くのが、我々には大きな楽しみであり喜びであった。 確かに御粗末極まる様な小屋ではあるが、マレー半島での野営や民家の軒下での仮寝に比べれば天と地ほどの違いであり、連合軍の直接監視下から逃れた生活は精神的にも気楽で、別天地に来たような満足感を味わう事が出来た。
然し、大きなスコールの来襲や強い風の日は、簾から雨水や海からの潮が吹き込み、幾度も之には悩まされたものだった。
( 我々が建築した海岸端の住居 )