アジア鎮魂の旅
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アジア鎮魂の旅 (編集者, 2008/4/11 7:26)
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投稿日時 2008/4/11 7:26
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに
この記録は、長崎里志様の下記ブログよりご本人のご了解を得て掲載するものです。
http://alps-satyan.cocolog-nifty.com/blog/
メロウ伝承館 スタッフ
---------------------------------------------------------
現地入隊で一兵卒となる
シンガポールに於ける大日本航空の無線通信所 兼宿泊施設は、5万トンの浮きドックで知られたセレター軍港の海軍司令部の真向いにあり、高床式建物の 周囲には1年中 南国特有の ブーゲンビリアをはじめカンナの花等が咲き乱れ、椰子《やし》やパパイヤが植えられた中庭にはバトミントンのコートまである文字通り恵まれた環境にあった。
我々の仕事としてはアジア各地と 東京、横浜を合わせると凡そ40局以上の無線通信所を有し、本国をはじめアジア各局との基地局間通信と 運行中の航空機に対する全て暗号化した情報の受発信を業務としていた。
戦況が日々緊迫《きんぱく》して来た昭和17年に会社は軍の方針によって第1輸送機隊(陸軍)、第2輸送機隊(海軍)とに分割し私は第2輸送機隊に配属された。
昭和19年に入るとセレター軍港を目指したB-29による爆撃は一層激しさを増し、些か恐怖を感じ 緊張する日々を送って居た所、 想像もしなかった命令が届いた。 その内容は「 内地見納めの休暇を与える 」と云うものであり、全員が欣喜雀躍《きんきじゃくやく》の喜びを隠し得なかったのであった。
期間は10日間、便乗する航空機はエンジン交換の為に羽田に行く便という事で 会社の好意に感謝しつつ其の日を待ち、帰国してからの数日は 親戚縁者や友人に対する今生《こんじょう》の別れの挨拶を交わし、祖先伝来の墓地の参拝も済ませる等多忙を極めた。 愈々帰着する日程が決まり予定表を見ると 羽田発と成っていたが上司に懇願《こんがん》して、未だ経験の無い 東海道線、山陽線の列車で日本最後の旅をしたいという願望を達成する事が出来た。少年時代に父母から聞いていた日蓮上人の銅像に参拝する事も出来 親友と共に 日本最後の夜を語り明かした博多の思い出は今に成っても忘れられない。
雁ノ巣飛行場を離陸したダグラスDC-3機は 那覇、台北、海口(海南島)、サイゴン(現ホーチミン)を経由して5日目にシンガポールに到着する事など現在の人々には想像も付かない事でしょう。
* 雁ノ巣飛行場を出発する朝 サイパン島の玉砕ニュース聞いた。
制空権、制海権を連合国側に掌握されていた昭和20年6月(終戦2ヶ月前) 遂に我々にも軍から入隊命令が来た。 入隊する所は マレー半島北部の町 タイピン第94師団通信隊であった。 愈々《いよいよ》出発の前夜我々の生活について 今迄誠意を以って尽してくれた現地の人々を集め どうせ生きて帰れる見込みの無い自分として、無用な金銭や私物を持つ必要性を感じず 全部を公平に分け与え 心からの感謝の言葉を 日本語、マレー語、中国語を混ぜ合わせて云うと、其の途端に皆 涙を流しながら 「 マスター!・・・テレマカシ! 」 と夫々が礼を言った。 明けて翌日出発の朝はマラッカ出身の運転手 カハール君が安斉局長とシンガポール駅まで送ってくれた。
局長は「 元気でな・・・又会おうぜ・・・・」と硬い握手をしたが カハール君は目に大粒の涙を流しながら 「マスター・・・・・!」と云っただけで声は出なかった。
列車がブキテマロードと並行して走る処で見えなくなった。ジョホール海峡を渡る列車の右手には永く住み慣れたセレター軍港が、また左窓には何時も見慣れたジョホールバルの宮殿が目に入った。
過去1年半 シンガポールをはじめ各国で巡り会った人々の面影を偲《しのび》び、之から遭遇するであろう未知の不安が交錯する中で列車はジョホール海峡を渡りマレー半島を一路北上して行った。
2006年8月 7日 (月) 記
この記録は、長崎里志様の下記ブログよりご本人のご了解を得て掲載するものです。
http://alps-satyan.cocolog-nifty.com/blog/
メロウ伝承館 スタッフ
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現地入隊で一兵卒となる
シンガポールに於ける大日本航空の無線通信所 兼宿泊施設は、5万トンの浮きドックで知られたセレター軍港の海軍司令部の真向いにあり、高床式建物の 周囲には1年中 南国特有の ブーゲンビリアをはじめカンナの花等が咲き乱れ、椰子《やし》やパパイヤが植えられた中庭にはバトミントンのコートまである文字通り恵まれた環境にあった。
我々の仕事としてはアジア各地と 東京、横浜を合わせると凡そ40局以上の無線通信所を有し、本国をはじめアジア各局との基地局間通信と 運行中の航空機に対する全て暗号化した情報の受発信を業務としていた。
戦況が日々緊迫《きんぱく》して来た昭和17年に会社は軍の方針によって第1輸送機隊(陸軍)、第2輸送機隊(海軍)とに分割し私は第2輸送機隊に配属された。
昭和19年に入るとセレター軍港を目指したB-29による爆撃は一層激しさを増し、些か恐怖を感じ 緊張する日々を送って居た所、 想像もしなかった命令が届いた。 その内容は「 内地見納めの休暇を与える 」と云うものであり、全員が欣喜雀躍《きんきじゃくやく》の喜びを隠し得なかったのであった。
期間は10日間、便乗する航空機はエンジン交換の為に羽田に行く便という事で 会社の好意に感謝しつつ其の日を待ち、帰国してからの数日は 親戚縁者や友人に対する今生《こんじょう》の別れの挨拶を交わし、祖先伝来の墓地の参拝も済ませる等多忙を極めた。 愈々帰着する日程が決まり予定表を見ると 羽田発と成っていたが上司に懇願《こんがん》して、未だ経験の無い 東海道線、山陽線の列車で日本最後の旅をしたいという願望を達成する事が出来た。少年時代に父母から聞いていた日蓮上人の銅像に参拝する事も出来 親友と共に 日本最後の夜を語り明かした博多の思い出は今に成っても忘れられない。
雁ノ巣飛行場を離陸したダグラスDC-3機は 那覇、台北、海口(海南島)、サイゴン(現ホーチミン)を経由して5日目にシンガポールに到着する事など現在の人々には想像も付かない事でしょう。
* 雁ノ巣飛行場を出発する朝 サイパン島の玉砕ニュース聞いた。
制空権、制海権を連合国側に掌握されていた昭和20年6月(終戦2ヶ月前) 遂に我々にも軍から入隊命令が来た。 入隊する所は マレー半島北部の町 タイピン第94師団通信隊であった。 愈々《いよいよ》出発の前夜我々の生活について 今迄誠意を以って尽してくれた現地の人々を集め どうせ生きて帰れる見込みの無い自分として、無用な金銭や私物を持つ必要性を感じず 全部を公平に分け与え 心からの感謝の言葉を 日本語、マレー語、中国語を混ぜ合わせて云うと、其の途端に皆 涙を流しながら 「 マスター!・・・テレマカシ! 」 と夫々が礼を言った。 明けて翌日出発の朝はマラッカ出身の運転手 カハール君が安斉局長とシンガポール駅まで送ってくれた。
局長は「 元気でな・・・又会おうぜ・・・・」と硬い握手をしたが カハール君は目に大粒の涙を流しながら 「マスター・・・・・!」と云っただけで声は出なかった。
列車がブキテマロードと並行して走る処で見えなくなった。ジョホール海峡を渡る列車の右手には永く住み慣れたセレター軍港が、また左窓には何時も見慣れたジョホールバルの宮殿が目に入った。
過去1年半 シンガポールをはじめ各国で巡り会った人々の面影を偲《しのび》び、之から遭遇するであろう未知の不安が交錯する中で列車はジョホール海峡を渡りマレー半島を一路北上して行った。
2006年8月 7日 (月) 記