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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2008/7/5 9:05
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 スタッフより

 この記録は、ぱらむさんよりお送りいただき、またメロウ伝承館への転載に関する著者のご了解も得てくださったものです。

 なお、この仮名付け及び注記(オレンジ色の文字)は、原文にはないもので、メロウ伝承館のスタッフにより付記させていただきました

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 はじめに

1 この小説は昭和一六年 (一九四一年) 十二月八日の太平洋戦争《注1》開始から昭和二五年六月二五日の朝鮮戦争《注2》開始までの九年間の私の少年時代の体験にもとづいてかかれている。小説における林家は、ほぼ実在の林家と私の等身大のものであるが、その他はモデルはあってもそのままではない。とくに小説で重要な役割をはたす菊村家は順安面《注3》にいた数家族をモデルにしていてそのままの事実ではない。ただ、菊村順一君にはモデルがいて、コレラ船VO一八号で日本上陸を目前にして、博多湾上でコレラで死亡した私より二才下の聡明で敏捷な友人がモデルである。八才にして戦争犠牲者となったこの友人の御霊にこの小説を捧げたい。

2 全体として歴史的な事実に基づくように努力した。そのために、「朝鮮終戦の記録」 (森田芳夫著南巌堂刊) 「戦後引揚げの記録」 (若槻泰雄著時事通信社刊) 「邦人引揚げの記録」(毎日新聞社刊) をはじめ朝鮮の各種の歴史書など百数十冊の書籍を参考にした。

3 順安面市街地地図はじめ終戦当時十八歳だった兄林典夫から多くの教示を受けた。

 自伝的小説なので最初に筆者の略歴を記しておきたい。

 一、一九三六年 (昭和十一年一月二十七日) 北朝鮮平安南道平原郡順安面で生まれる。 現平壌市
 二、一九四一年(昭和一七年四月)順安日本人国民学校に入学
 三、一九四五年(昭和二〇年八月一五日)終戦。国民学校四年生
 四、一九四六年(昭和二一年十一月六日)朝鮮より長野県北佐久郡春日村(現佐久市)に引き揚げ。村立春日国民学校の四年生に転入
 五、一九五二年 (昭和二七年) 三月村立春日中学校を卒業
 六、同年四月 東京都立小山台高等学校に入学
 七、一九五五年 (昭和三〇年) 三月 同校を卒業と同時に肺結核を発病。二年間の療養生活。
 八、一九五七年  (昭和三二年) 四月 東京大学に入学。東大川崎セツルメント活動に参加。日本共産党に入党。
 九、一九六一年(昭和三六年) 三月 東大経済学部卒業
 十、同年四月 山口県徳山曹達(現トクヤマ) に就職。労働組合活動に参加
 十一、一九六六年(昭和四一年) 四月 徳山曹達を退職。日本共産党の専従活動家
 二〇〇〇年(平成二一年)一二月 日本共産党の専従活動家を退職
 十二、現在 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟山口県本部会長、日朝協会山口県支部長 社会保険労務士


 目   次

  第一章 砂金の里・普通江のほとりで
  第二章 日本人強制収容所
  第三章 必死の逃避行
  第四章 コレラ船に乗せられて
  第五章 戦争はもういやだよ


 第一章 砂金の里・普通江のはとりで
 
  その日の朝

 その日の朝、林家は異状な興奮に包まれていた。ラジオからはくりかえし軍艦マーチがながれていた。
 「大本営発表 帝国陸海軍は本日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」 「帝国海軍は本八日未明ハワイ方面の米国艦隊ならびに航空兵力にたいして決死的大空襲を敢行せり」。
 和服姿の二番目の兄和雄は大東亜共栄圏《注4》の地図を壁にはりだし、そこにハワイやマレー半島の入り口に日の丸の旗を書いた。
 「やった。また戦艦を撃破した」。和雄はそのたびに踊りあがるばかりに叫んでいた。「大日本帝国もやっと米英国と戦争をはじめたのか。ABCD包囲網《注5》をいつ打ち破るのか、日本中でこの日を待っていたんだ」。
 父晋司はにこにこ顔で饒舌だった。
 来年が学校に上がる五才十ケ月の私洋武は、朝の食卓が用意されていた卓袱台のまわりを 「こうやって突撃するのだね」。両手をひろげて 「ブーン、バーン、バチバチ」 など叫び飛行機のまねをしてまわった。朝ご飯どころではなかった。いつもならチーネ(朝鮮人のお手伝さん=小娘の意)にすぐ食卓に座らされるのに、この時ばかりは母のハナもやさしかった。
 「洋武も山本五十六のように海軍大将になればいいね」
 「海軍大将にはどうすればなれるの」
 「海軍兵学校にはいって、それから手柄をたてるの」
 「ぼくも海軍兵学校にいくよ」
 「兄さんたちは陸軍でおれのあとを継がそうと思って、雄という字をつけたがお前は太平洋の武士になれと洋武とつけたんだ。海軍にいってお国の役にたってくれないとなあ」
 父晋司も嬉しそうだった。
 食事が終わった時、晋司が音頭をとって万歳をした。
 「天皇陛下万歳。大日本帝国万歳。帝国陸海軍の大勝利万歳」
 晋司も、ハナも、和雄も、洋武も、チーネも、できるだけ大きな声で「ばあんざい」を繰り返した。二つ年上の姉由美は学校に出かけ、一番上の兄俊雄は内地の予備校に、三番目の兄典雄は平壌の第一中学校の寄宿舎に留学中だった。
 「そうだ。今日は戦勝祝いをやろう。チーネお使いを頼む」。
 晋司は便箋に「本日戦勝祝いを行う。こぞって参加を乞う」と記した紙を何枚か作った。
 「ぼくも行く。」洋武も元気に応じた。とかく家でじっとしていないで家事の邪魔ばかりしている洋武を家から追い出せるとハナはすぐ賛成した。毛絲の帽子と襟巻き、手袋それにコートを着せられて洋武は、チーネといっしょに門を出た。京義国道では切り通しのある北方から乾いた北風がビューと吹くとチーネのチマ(スカート)に囲われるように抱きついた。外は氷点下の寒さだった。雪はないが朝鮮人の共同井戸から流れ出たりこぼれたりする水が凍り付いて道はカチカチに凍りついていた。北朝鮮の冬は土気色だった。朝鮮家屋の屋根は藁屋根、壁は土壁、見える限り緑もない黄土色に覆われていた。
 順安面事務所(村の役場のこと)、郵便局。それから少し急な坂道はもう氷でかちんかちんに凍っていたが、その坂道を登って国民学校の職員室に晋司の手紙を届けようとした。職員室には誰もいなかった。授業が行われていた。洋武は教室に顔を出し、「お姉ちゃん!戦争がはじまったよ。日本軍大勝利だよ」と叫んだ。
 教室からは笑い声がひろがった。姉の由美は国民学校二年生だった。
 「洋武恥ずかしい。すぐ帰りなさい」と叱ったが先生も含めて教室中は大笑いだった。順安日本人国民学校には教室は二つしかなかった。一年生から三年生までと、四年生と六年生までがいっしょに勉強していた。
 「武ちゃんも来年からおいでなさいね。今日はまたね」。女の先生にやさしく追いかえされた。
 それから順安駅にむかった。駅のまわりには水利組合や砂金会社の事務所があった。砂金会社の事務所には二〇人ほどの人がいたが、みんな笑い声がたえなかった。
 「林在郷軍人会長の家で、今夜戦勝会をやるそうです。ひまの人は家族づれでいってください。」と小父さんが大きな声で紹介をした。
 「あのね。武ちゃん。お母さんにいってマヨネーズを作ってといっておいて。お母さんのマヨネーズは特別においしいんだ。」
 その小父さんがつけくわえた。事務所の中はさらに大きな笑い声に包まれた。
 順安駅前の周りには日本人の家が数軒固まっていた。林家と親しくしていた粟野さん、羽野さん、小森さんの家にもチーネが「今夜お祝いをします」と口頭で伝えた。晴れた午後だった。それだけに寒さも厳しい一日だったが、どこでも「やっとアメリカと戦争がはじまった。しかも大勝利だ」という笑い声が広がっていた。
 林家では、ハナがすり鉢に卵を十数個をわり黄身だけ取り出し、油と酢をゆっくりまぜながら注文のマヨネーズをつくった。
 「急なお祝いだからなにもありません」と独り言をいいながら、ありたっけの鮭缶や蟹缶や雲丹の瓶詰がだされた。自家製のリンゴがお盆に山のように積まれた。座敷の床の間には「千代の桜」という酒樽がおかれた。
 その夜、順安面の十数名の日本人たちがなかには家族連れでかけつけて戦争勃発と勝利の祝宴が開かれた。順安面は田舎町だった。面事務所前に平壌冷麺の店が一軒あるだけで食べ物屋や飲み屋はなかった。順安の日本人達は、なにかあるとそれぞれの家に集まっては食事をすることを楽しみにしていた。
 八畳二間続きの座敷には、石炭ストーブが真っ赤になるほど焚かれ、ストーブの上には鉄瓶の湯がチンチン煮えたぎっていた。その日もお客達はかってに樽から酒を汲み、爛をつけて飲み出していた。座敷からあふれた人達は、いつもは林家の居間にしているオンドルの部屋にも徳利と盃をもって、ラジオのニュースを聞いていた。
 その日の夕方からの放送は、真珠湾での大勝利をさらに加速されるように報じていた。ラジオがニュースを流すたびに和雄がお客に報告して歓声があがった。
 林家はその日一日、「戦争の勃発」 で興奮の坩堝 (るつぼ)であった。
 晋司はその年の夏、二度目の召集が解除され陸軍少尉で除隊されてきたばかりだった。そして順安面の在郷軍人会の会長だった。日中戦争 (当時は支那事変と呼んだ) がはじまった昭和十二年 (一九三七年)、四五才になった晋司に召集令状がきたとき、さすがに 「この年でお役に立てるのか」 そういいながら出征していったという。しかし、晋司は戦地にはいかず平壌府 (市) にある陸軍兵器廠に配属されて、四年の軍隊生活のうえ陸軍少尉になって除隊していたところだった。
 昭和十六年(一九四一年)十二月八日、北朝鮮平安南道平原郡順安面(面とは村のこと)のわが家の一日だった。

注1:元々我が国では 当初大東亜戦争と呼称していたのを 米軍の占領時に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から検閲後に強制的に書き換えさせられた
注2:1950~1953年大韓民国と北朝鮮との間で 朝鮮半島の主権を巡って勃発した国際戦争
注3:平壌直轄市北部郊外にある行政区域
注4:東アジアや東南アジアで欧米諸国から植民地化されていた国々を日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を建設しようとする 日本の大東亜戦争の大義名分である
注5:東アジアに権益を持つ アメリカ、イギリス、オランダ、シナ諸国が日本に行なった貿易制限の呼称


 
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
  金の採れる里、順安面

 順安面は平壌の北二〇数キロにあった。現在は平壌市に合併され、平壌順安国際空港の存在地
である。
 北朝鮮の片田舎の順安面は国際空港ができるまで無名の村だった。しかし、日本に紹介された文献にはいくつかの記述がある。
 豊臣秀吉の朝鮮出兵(朝鮮では壬申倭乱という) のとき、小西行長は平壌まで占領した。このとき五〇日の休戦協定が結ばれたが、朝鮮とそれを支援していた明国の陣営が順安に置かれたと記録がある。一五九二年のことである。
 一九一九年の三・一独立万歳事件では、順安で一五八〇余名が六回にわたって集会を行い暴動になり、逮捕者一五七名をだし数十名が死傷した。
 三・一万歳事件とは、一九一〇年に「日韓併合」 (日本の朝鮮の軍事占領が全面化した年と韓国の教科書には書かれている)してから九年後、日本の植民地支配に反対した朝鮮人民が「朝鮮独立万歳」をとなえて各地で示威運動を行い、これに対して日本の官憲は激しい弾圧をおこない多数の民衆を虐殺した。朝鮮全土では当時の人口二千四百万人、参加者は二百二万人にのぼり、逮捕者四万七千人、死者七千五百人、負傷者一万六千人と記録されている。(「朝鮮独立運動の血史」 朴殿植著)。
 一九二五年順安にあるキリスト教系病院の経営者が、リンゴ泥棒に手をやいて朝鮮人少年の額に塩酸で「リンゴ泥棒」と書いた事件があった。当時、西洋人の 「有色人種蔑視事件」として、耶蘇教の人種差別事件として大々的な西洋人排斥運動に利用されたという。
 一九三五年、朝鮮総督府はすべての学校で神社参拝を行うことを通達した。これに対して、平壌崇実専門学校校長とともに順安義明中学校校長が「キリスト教を校是にしているわが校では生徒に神社参拝を強要することはできない」 と拒否をした。
 平安南道知事は 「わが国の教育方針に逆らう学校については廃校することもありうる」と強硬な態度に出たため、廃校問題がおこった。アメリカ人校長は帰国して順安義明学校は廃校になった。(以上の二項は 「日本の朝鮮支配と宗教政策」 韓哲義著)
一九五〇年朝鮮戦争初期に北朝鮮の捕虜になったアメリカ陸軍のディーン准将が順安捕虜収容所に収監された。(「朝鮮戦争」 児島襄著)
 一九五〇年の十月、朝鮮戦争で米軍の支援を得た韓国軍は平壌の占領をめざすとともに金日成を首班とする北朝鮮政府の退路を断とうと順川、粛川、永柔(平原郡部庁所在地)などに大量の空挺部隊を降下させた。このときすでに金日成ら政府首脳は中国国境に退避していた。(「朝鮮戦争」 児島襄著)

 父晋司の家は江戸時代の末期、長野県の山間地の大地主であった。晋司の祖祖父が、一里先の妾宅で死んだ時、他人の土地を踏まずに自宅に帰ってきたという逸話がある大地主であり、同時に名門でもあった。しかし、明治になって没落がはじまり祖父の代のとき、破産して、林家は一挙に落ちぶれほとんどの土地を失い小地主に転落した。父は次男であった。村の高等小学校を卒業すると横浜に糸相場商の丁稚になった。
 大正元年、徴兵検査とともに松本連隊に入るとすぐに満州(中国東北部)に派遣された。第一次大戦とシベリア出兵《注1》の戦争に参加し、十三年間の軍隊生活を経て曹長になっていた。
 大正十年、第一次大戦が終わった年、父は長野県の家のあとを継いだ兄嫁の妹であったハナを嫁にした。その四年後、軍縮で現地除隊することになった。長野県の山間地で育ち次男でもあった晋司は、「猫の額はど」の土地しかなかった長野の故郷に帰らず、大陸に土地を求めた。満州《注2》では日本人は土地をもてないからという理由で、晋司は退職金で朝鮮に土地を買って農業をはじめた。大正十四年(一九二四年) のことだった。
 十三年間、軍隊にいた晋司にとって自分の土地をもつことは生涯の夢だった。ちょうど順安の北方二里ほどのところに貯水池ができて灌漑がはじまろうとしていた。
 朝鮮では水田のことを沓 (とう) といった。当時の朝鮮総督府は朝鮮に水田を広めるために開沓事業にとりくんでいた。日本全土を揺り動かした一九一九年の米騒動《注3》以後、増大する日本の人口の米の不足を朝鮮で補うことを念頭に朝鮮全土で 「産米増殖運動」を大々的にすすめていた。
 たしかにそれまで粟を主食としていた北朝鮮の農民は米を手じかに手に入れることが可能になった。しかし、開沓事業は日本の米事情によって開始されたものであった。開沓事業によって強制的に水利組合に引き込まれ、土地取り上げが行われた。水利組合にくみこまれた土地には新たに多額な水利税がかけられたため、その負担に耐えきれない農民が続出した。開沓事業が始まると各地で旧来の朝鮮の地主達も自作農達も土地をつぎつぎに手放し始めていた。とくに北朝鮮はそれまで水田の発達がおくれていたため、開沓事業は大掛かりに進められた。それだけ農民の没落と階級分化は激しくすすんだ。朝鮮の植民地経営会社=東洋拓殖株式会社は日本人には金を貸したが、朝鮮人には担保なしに金を貸さなかった。そのため朝鮮人地主は新たな土地を手に入れることが出来ず、むしろ土地を手放すものが多かった。一方、日本人地主達は、日本人というだけで、次々に土地を拡大することができた。晋司はこうした気運のなか、畑地や荒地を購入し、畑地を水田に変えて開沓事業の先頭に立った。
 幸運にもめぐまれた。最初に購入した二町歩ほどの土地から砂金が出るということになった。
 その土地は大幅な値上がりをした。その土地を売っては新しい土地をつぎつぎに買い求め、砂金がでない土地は畑から水田にかえ十年足らずのうちに、二十数町歩の水田を所有する大地主、大農園を経営する大地主になっていた。
 朝鮮人の地主のことを両班 (ヤンバン) といった。ヤンバンとは正確には朝鮮の旧貴族のことを指しているのだが、総じて朝鮮人の金持ちのことをヤンバンといった。朝鮮の地主ヤンバンたちは、儒教の影響もあって自ら畑や田んぼにはいって働くことはしなかった。晋司は日本人の小地主出身らしくに自ら田んぼにも畑にもはいった。畑を平坦にして田んぼにするために自らチゲ(背負い子) を背負い、トロッコをおしたり土を運んだりして朝鮮人といっしょに働いた。満州から移ったばかりの時には、人夫集めにも苦労した。夕方にその日働いた賃金をその日のうちに人夫に支払った。働いても月末にならないと支払いをしない朝鮮流のやり方を変えた。また、新しく地主になったために小作人になる朝鮮人の確保にも工夫が必要だった。そのため小作人の扱いも日本流にした。朝鮮では小作人は土地を借りると収穫の五割を地主に取られた上、税金や水利税やさまざまな肥料代などの経費のすべての負担が小作人にかかった。しかし、晋司は日本流に小作料を五割にして、土地税や水利税などすべてを折半にした。小作料が他の朝鮮人地主に比較して割安になっていた。水田にした田の畔に日本流に畔豆を植えることを教え、それも日本と同じように小作人のとり分にした。そうした小作地経営は、そのかぎりでは朝鮮人の小作人に評判がよかった。晋司は、地元の朝鮮人地主との小作人獲得競争に勝つことができた。
 順安には警察署長や郵便局長、それに日本人学校と普通学校(朝鮮人の国民学校)に勤めている先生などと、リンゴ園など農園を経営している二・三世帯の日本人とそれに「請負師」とよばれる小土建業をしている数世帯の家族がいた。昭和五年ごろ砂金会社ができると順安砂金会社に勤めている従業員など加わり、八〇世帯ほどの日本人がいた。そして、日本人の多くは順安駅のまわりに日本人だけかたまって住むか、やはり順安駅のまわりにあった砂金会社の社宅に住むかそれぞれ日本人でかたまっていた。
 林家だけは順安駅から北に一キロはどの朝鮮人の部落、館北里のなかにあった。館北里は総じて貧しい集落だった。朝鮮人のヤンバンは住んでおらず、朝鮮人の家屋はほとんどが土間と部屋が一つあるだけの土塀で藁屋根の小さな家屋だった。オンドル《注4》一つの家は夏になるとほとんどの家族は、外で生活をした。夜は縁台を外に出しその上で寝ていた。赤ちゃんは道ばたでお尻をみんなに向けてウンチをした。すると、母親は「チョウ、チョウ」といって犬を呼んだ。野良犬がやってきて赤ちゃんのウンチをぺろりと食べてきれいに掃除をした。冬になると火事が多かった。オンドルの家は竃で炊いた火の煙を床下をとおして暖をとるが、その先の煙突のところが藁の屋根になっていて少し油断をするとすぐ火事になった。集落には共同井戸があった。井戸は深く、つるべを手でたぐつて汲み上げるため水くみには時間がかかった。共同井戸には近所のオマニ (お母さんの意) たちが集まって井戸端会議が繰り返されていた。
 そんな貧しい部落の中にあった林家はとりわけ目立つ家だった。丘の中腹に赤い屋根の大きな家と屋敷は周辺を威圧するようだった。居間にしていたオンドル、中の間、奥と表の座敷それぞれ一二畳はあり、オンドルの炊口にもなる大きな土間のある炊事場など大雑把な間取りだったが近辺の朝鮮人の家に比してもちろん、順安の日本人の家は多くは社宅や官舎だったので一きわ大きかった。また道路沿いの庭にはかなり大きな地下室が作られていた。林家にはポンプ式の井戸がありポンプで炊事場にも風呂場にも水が行くような水道管が設置してあった。
 順安面に住んでいる日本人の家には普通オンドルはなかった。その点、林家は朝鮮風と日本風を折衷した間取りだった。
 林家の東側は、京城と新義州をむすぶ京義国道に面しており国道側には長い板塀と門があった。国道は北にむかって上り坂になっていて、日に数回はとおるトラックは、わが家のまえでエンジンをふかし一段と大きな音をだして砂利道を砂挨をあげてのぼっていった。ときどき、日本人のトラック運転手が 「トラックの水をください」 といって立ち寄ることがあった。わが家をぬけると、すぐそこは大きな切りとおしになっていてそれを下りですぎると平らな畑と水田が続いていた。そして、家の西側の裏は、百メートルもいくとやはり京城と新義州をむすぶ京義本線 (鉄道)が走り、踏切があった。わが家は国道と鉄道にはさまれていた。踏切を渡るとすぐ普通江が流れていた。普通江はいつも黄河のように黄色に濁っていた。その濁った河べりでオマ二たちが砧をもって洗濯をしていた。夏には子供らは素っ裸で水浴びをし、冬には一面かちかちに凍った河の上でそり遊びやスケートに興じた。
 林家は四十本ほどのりんご畑に囲まれていた。リンゴ畑を丘の上までのぼると北側と西側が見渡すことができた。順安の集落がきれ北方に向けて京城と新義州を結ぶ京義本線と京義国道と大同江の支流になる普通江が、三本の縄をなうようにずっとつづいていて見渡すことができた。その平原に戦後平壌の国際空港にもなる順安飛行場の滑走路が出来たという。西側も普通江をはさんで、平原がつづいていた。
 普通江の向こうには、砂金をほりだすドレッジャーという砂金採取船(浚渫船)《しゅんせつせん》が三隻、四隻と年中地面をほりあげながら池を作り、膨大の砂利を後に残してすこしづつ進んでいた。ドレッジャーというのは小さなビルぐらいの大きさで、地をほりあげるバケットが連続していて砂をほりあげていた。砂の中から砂金をゆり分け水銀と結合させて採集する浚渫船だった。順安の砂金はとりわけ良質といわれた。通常は粟粒ほどの砂金を膨大の砂の中から、水銀アマルガムと結合させて採集していた。順安の砂金の中には、卵ほどの大きさの金塊が含まれていて、天覧に供された(天皇がごらんになること)と話題になった。ドレッジャーの中は、工場のようになってものすごい騒音と振動のなか、十数人の労働者が働いていた。
 林家から南側に三〇メートルほど下ると林家の農業倉庫があった。間口は二十間、奥行七間の高さは四間もある大きな農業倉庫だった。取り入れの秋ともなれば朝鮮人の小作人たちが牛車で米のつまった俵やら麻袋を運びこみ、高い天井にいっぱいにうめられていった。ときどきめずらしかったトラックが数台やってきてこの米俵を積み出していった。
 この農業倉庫は、晋司が農園を経営するなかで日本の米の相場にあわせて米の出荷を調節するために作られたものだった。集められた米は朝鮮人の口には届かず、直接日本に送られた。晋司が召集されていたとき、この倉庫の出し入れの采配は、すべて安田さんという朝鮮人の青年とチーネ (お手伝いさん=小娘という意) を使ってハナがやっていた。
 その農業倉庫の前には、藁屋根のオンドル一間と炊事場の土間がある小さな朝鮮家屋があった。その朝鮮家屋は、林家が満州から移住してきた時、三年ほど居住したものだった。秋になるとオンドルの部屋には取り入れられた綿が実の付いたまま天井まで積み込まれ、二~三人のオモニたちが終日、綿から実をはずす仕事をしていた。土間の方には、農業倉庫を管理する簡易事務所になっていて、安田さんの小さな机が置かれていた。机の上には安田さんの早稲田講義録がのっていた。安田さんは勉強家だった。土間には小作人に貸し出す脱穀機など農具の置き場所にもなっていた。
 晋司もハナも安田さんをたいへん気に入っていた。安田さんは順安の普通学校(朝鮮人の国民学校)をたいへん優秀な成績で卒業した。父親がいなかったので上の学校にはいかないで、普通学校を卒業したあと、林家で働くこととなった。とくに晋司が召集されている時は、ハナを助けてくれた。洋武が国民学校二年生になるまで安田さんはわが家で働いていた。洋武は近所の朝鮮人の子供とよく喧嘩をした。そのときもしばしば「それは武ちゃんが悪い」と叱かって、決して無条件に洋武の肩を持つようなことをしなかった。そのことを両親は洋武の教育のためにもよいことだと考えていたようだった。
 順安では五日ごとに定期市がたった。市の日には、林家から五百メートルぐらい南方のところから道の両側に露店がずっーと並んだ。
 市には何でもあった。魚や肉や野菜など山のようにつみあげられてオモこの売り子が掛け声を掛け合ってにぎわっていた。魚は太刀魚・たら・ほっけが多かった。五里(二十キロ)ほど西に行くとそこは黄海だった。黄海でとれた新鮮な魚が大量に市には並んでいた。バカチが山盛りにっみあげられていて、さかんに声をかけあって売っていた。バカチというのはひょうたんの一種で、日本のように徳利型にならずにスイカをまっ二つに切ってその中をくりぬいたかんじのもので、朝鮮では水汲みにもまたドンブリにも使っていたものだった。秋にはキムチの材料になる白菜や大根や唐辛子などが大きな山を作って売り出されていた。季節を通してチジミが売られていた。チジミは即席の竃が築かれて、鉄板の上に油を敷いて焼くやわらかなせんべいで、お好み焼きのような食べ物だった。チジミ売り場は定期市でもとりわけにぎやかだった。朝鮮の料理にはなんでも唐辛子がはいって辛いがそのお好み焼きも辛かったがおいしいものだった。
 ハナはチジミは子ども達に買って与えたが、朝鮮飴は絶対に買い与えなかった。真っ白い一口で食べられるような朝鮮飴を買ってくれと、洋武はしばしば座り込んではねだったが買わなかった。廃品回収をするくずやさんは、ビール瓶を持っていくと朝鮮飴を一つくれた。ハナは、ビール瓶を逆にして埋めて花壇のしきりにしていた。洋武はそのビール瓶を二本ほど抜いて飴と交換した。そのことを知ったハナは、子ども達を朝鮮飴を作るところに連れて行った。真っ黒い飴が柱のところに縛り付けられアポジ(お父さん)がその飴をひっぱったりのばしたりしていた。そのうちにアポジは手のひらにツバキをバッバッとつけてもむように引っ張ると真っ黒い飴は見る見るうちに白くなっていった。「あれをたべるのよ。おじさんのツバキがないと白くならないのよ」。ハナは実物教育をした。朝鮮飴を白くするのは当時から別の製法が使われていたが、市場に出てくる朝鮮飴やくず屋さんが交換する朝鮮飴はまだ非衛生的な製法から抜け出ていなかった。
 この市場に集まってくるオモ二たちは、買いこんだ荷物を頭に何重にも重ね、荷物が落ちないように腰をふりふり釣り合いを取って帰っていった。順安にはまとまったお店もなく、在留する日本人達もほとんどこの市場で買物をしていた。

 順安には幼稚園も保育園もなかった。しかも、近所には日本人の家庭はなかった。洋武にとって近所の朝鮮人の子どもと遊ぶ以外なかった。そのなかで、この市に行きチジミを買ってもらうことが洋武にとって最大の楽しみだった。安田さんはそんな時、朝鮮人の売り子との通訳の役割を果たしていた。
 家には朝鮮人の小作人たちがたえず出入りしていた。日本語のできる小作人もいたが、たいていの小作人は安田さんの通訳が必要だった。たいへんやさしいおじいさんの小作人がいた。その老小作人は昔はヤンバンで土地もちだったが、日本人に騙されて土地を人手に渡してしまい小作人になってしまった。という話しを安田さんがしていたことがあった。小作人たちがわが家に入ってくると、たいてい家に上がることを遠慮した。
 ハナは「うちでは居間はオンドルしかないんだから遠慮なくあがりなさいね」とオンドルでたいていのことはすんでいた。おじいさんはオンドルに胡坐《あぐら》をかいてすわると長いキセルを取り出しておいしそうにタバコを吸った。
 ハナは、「オンドルにあぐらをかいてすわるとそのあぐらのなかにちょこんと洋武は座るのが
おかしくて」とはなしていた。私もこのおじいさんだけはなぜか気が許せるように感じた。
 ハナは小柄で家族にはやさしかったが、朝鮮人の小作人たちにはきびしかった。
 まだ晋司が出征していたとき、その老いた小作人が小作料として牛車で運びこんだ俵の数が三俵たりなかった。
 「三俵というと一人が一年分食べる量よ。家を出るときあったからといって倉庫に入れるときなければどこかでくすねたのでしょう」
 ハナと激しい言い争いのなか決着がつかず警察を呼んだ。出征兵士の家庭を守ることと日本人の告発を鵜呑みにして、その老小作人は「アイゴー」と泣きながら警察にひかれていった。しかし、京義国道のわが家にくる上り坂の事前に米俵が三俵落ちていたことが伝えられてこの小作人はすぐ釈放された。ハナはもどってきた老小作人にあやまらなかった。そればかりか「牛車にのって居眠りでもしていたのでしょう。もっと気をつけてくれないと」と叱り付けていた。
 幼い記憶だったが、小作人にたいする厳しさは通常のやさしいハナとはちがっていた。
 父晋司が除隊される頃には直接供出がはじまり倉庫に米俵が天井までたまることは少なくなっていた。それでも、農業倉庫には絶えず朝鮮人が出入りして米や雑穀が積みこまれていった。そして安田さんがやはりそうした人たちの采配をしていた。

注1:1918~1925年に連合国(アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本等がロシア革命軍に囚われたチェコ軍団を救うという大義名分でシベリアに出兵したロシア革命軍に対する干渉戦争
注2:中国東北部に位置する地域
注3;ロシア革命を恐れた日本はシベリア出兵を開始したが それを見越した商人たちが米の買占めをした為 米価が高騰したので 米の安売りを求めて富山県の漁村の主婦達が米屋等を襲ったのがきっかけで全国に広がった騒動
注4:床下に石を用いて煙のトンネルを造り部屋の暖房とした
注5:松、杉、檜等の切り株を適当な厚さに切って洗濯に使用し
布を打ってもすり減ったり痛んだりは少なかった
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 順安日本人国民学校

 洋武が、昭和一七年国民学校に入ったとき、順安日本人国民学校は、一年生から六年生まで総勢十数名だった。新入生は、菊村順一と渋井義子と洋武の三人だった。国民学校は複式学級で六年生と五年生と三年生が一クラスで校長先生が担当して、四年生と二年生と一年生は女先生が担当した。今までは、四年生から六年生を校長先生、三年から一年生は女先生が受け持つことになっていた。しかし、洋武には姉由美が三年生に、順一には姉美代子が三年生にいて、姉弟が同じクラスになってしまうので少し変則的なクラス編成になったらしかった。
 順安国民学校は順安の街の南の小高い丘の上にあった。順安の街の真中で独立した標高差五十メートルぐらいの小山の頂上を平らにして運動場と校舎と校長先生の官舎をたてたような小さな学校だった。運動場の隅をぐるりとまわると東・西・南の三方の順安の町が見渡すことが出来た。北だけが台地の続きになっていてゆるい傾斜の先には閉校した義明学校のあとがあった。だから北側から、坂道を登って登校した。
 校舎は赤レンガで作られ、上級生の教室と下級生の教室が二つあうて、真中に職員室があった。
 校舎の前には桜の木と二セアカシヤの木が左右に二本づつ植えてあり、校舎に並んで小さな雨天体操場もあった。運動場には鉄棒やろくぼくやブランコなどが狭い運動場のまわりに備えてあった。
 入学式は全校生徒とそれよりも多い日本人の父母が集まって校庭で行われた。面長さんも警察署長さんもそれに晋司も在郷軍人会長として前に並んでいた。中村剛三校長先生が、白い手袋をして恭しく黒い箱を頭の上にかかげて教壇にたった。その箱から壊れ物でも扱うようにして大きな紙を取り出した。末永美子先生が「気を付け、敬礼」といった。洋武は敬礼までしたがすぐ頭をあげると洋武と順一の間に立っていた末永先生が両手で二人の頭をおさえて 「敬礼のままでいなさい」 といわれた。
 校長先生は「朕思?うに皇祖皇宗徳をはじめること」と教育勅語を読み出した。洋武にはこの勅語がたいへん長い時間のように思えた。それからご真影に敬礼をすることになった。校舎の壁にあらかじめ移してあった神棚のカーテンを開くと軍服姿の天皇陛下と皇后陛下がならんだ写真があって、それにもう一度頭をさげた。校長先生と面長さんのあいさつがあった。面長さんは朝鮮人だった。そのあと宮城遥拝といって東の方を向いて天皇陛下のおられる宮城に向かって頭を下げた。
 新入生を受け持つことになった末永美子先生は、平壌の高等女学校を卒業したばかりで先生になってほやほやだった。複式学級だから一年生にそうかまってはおれないが、一年生三人が仲良くあそんでいることに安心して四年生や二年生の方ばかりいって一年生の勉強はあまり教えてはくれなかった。順一は順ちゃん、渋井さんは義ちゃん、洋武は武ちゃんと学校でも呼ばれることになった。
 順ちゃんも洋武もなかなかなやんちゃな子どもだった。私が国民学校に入学したばかりの時、六年生が一年生になにかいたずらしたらしい。私はこの六年生にしゃにむにかぶりつき校庭中わんわん泣きながら順ちゃんと二人で追い回して、最後には六年生の方がたまらなくなって職員室に逃げ込んだ。末永先生は、私たちの腕白ぶりにあきれたりたのもしがったりした。また全校の生徒も「あいつらは気をつけろ」ということでそれからあまりいじめられることもなかった。
 中村剛三校長先生はまだ三〇才代前半の若さだった。先生はときどきわが家に遊びにきて父と酒を飲んでいた。総じて順安の日本人同士は、よく家庭的に行き来をしては、男たちは酒を飲みに、女たちはお客に料理を作りおしゃべりをしていた。わが家の床の間には、いつも「千代の桜」という朝鮮でできる日本酒の酒樽が置いてあって、わが家にきた人は断りもなくそこから酒をくみ上げて飲んでいた。母もいつもなにかおかずを用意していて急なお客にも応じることが出きるようにしていた。映画館もなく、娯楽施設らしいものもなく、食べ物屋も平壌冷麺のお店が面事務所の前にあるだけの田舎町だった。中村先生は、私が六年生と喧嘩した日もわが家にやってきた。てっきり叱られると思っていたが、先生は「今日は六年生とけんかしたそうだな。六年生とけんかするのは元気はよくていいが、わあわあ泣いて走り回るのは男らしくない」といいながら、中村先生が京城師範学校の学生時代にスポーツ大会でとったメダルを勲章のように胸につけてくれた。
 学校になれたころ、順ちゃんと私が朝、桜の木の下で帽子を上に高く投げあいっこをしていた。
 末永先生は、突然二人に「ろくぼくのところに立っていなさい」としかりつけた。私たちは理由もわからずにろくぼくの前にたっていたが、お許しはでないまま一時間も立たされていた。私は立ったままおしっこをもらしていた。順ちゃんと二人で泣きながら、職員室にいって 「ぼくたちどうしてたたされているの」 と聞きにいった。
 「よく考えてみなさい」 といわれたが理由は思いつかなかった。
 先生は 「あれほどサクランボをとって食べてはいけません。アカシヤの花をたべてはいけません。と言ってたのに君たちは帽子を投げてサクランボを落としていたんでしょう」といった。
 私たちは口々に 「ぼくたち帽子をとばしっこしていたんだよ」と言い訳をした。しばらくすると今度は先生がすっかり困って泣き出した。
 「ごめんね。先生が勘違いしていた」とあやまった。裏にある校長先生の官舎の風呂場にいって、今度は中村校長先生の奥さんが「まあ、それはかわいそうに。でも武ちゃん、だれでもまちがうことあるのよ」と笑いながら体を拭いてくれた。子どもたちの名前も正式なときは別にしてみんな「ちゃん」づけで呼び合い、校長先生のことを男先生、末永先生のことを女先生と呼んだ。校長先生の奥さんもときには産まれたばかりの赤ちゃんを負ぶって教壇に立つこともあり、学校そのものはたいへん家庭的な雰囲気だった。
 学校に入ると 「アカシヤの花は食べてはいけません。それから校庭の桜の実がなっても食べて行けません。そんないやしい子は日本人ではありませんので普通学校(朝鮮人の国民学校)に行ってもらいます」 とくりかえし注意された。
 北朝鮮では、春になるとレンギョウの黄色い小さな花がまず咲き、そのあと朝鮮つつじが咲く頃には桜も杏もりんごもアカシヤの花も、ほぼ同時にいっせい咲き土気色の冬景色から一転して野山が明るくなっていった。わが家では農業倉庫への下り坂にレンギョウの潅木が植えられていた。レンギョウはハナが野山にある潅木を切って挿し木にした。ハナは「レンギョウはいくらでも挿し木でつくし、真っ先に春先に咲くから」と林家の隅々に植えてあった。たしかに順安では、空に黄砂が舞いそしてレンギョウが真っ先に黄色い小さな花をつけて春を知らせていた。わが家には、桜も杏もスモモの木もあたりかまわず何本かが植えられていた。
 実のなる時期が来ると近所の朝鮮人の子供達がかわりばんこに採りにきた。私は朝鮮人の子供のまねをしてさくらんぼやまだよく熟れていない杏などよく食べた。同時にわが家にある木々を朝鮮人の子供達が、自分のもののように採りに来ることに自分の物がとられるような気持ちで意地悪をしたりした。近所の朝鮮人の子ども達は普通学校に行っている子ども達は少なかった。普通学校は朝鮮人の国民学校だったが、貧しい家の子どもたちは学校には行かず、私たちが学校に行っている間にわが家のスモモや杏の実を採りに来ていた。

 ハナは「リンゴは大切だからやたら採られたら困るが、そのほかはみんなにあげましょう」といっておおらかに解放していた。校庭にあったさくらんぼはもちろん、真っ白いアカシヤの花は甘い味がしてとてもおいしかった。日本人学校では 「衛生上よくない」 ということで季節が来ると厳しく禁止されていた。
 学校生活は楽しかったが、困ったことに家がよくなかった。夕食のたびに両親に姉の由美は学校であったことを告げ口するようになった。「洋武は今日は宿題があるのよ」 などはまだよい方だった。
 「洋武は今日も女の子を泣かしたんだよ。義子ちゃんだけでなく、美代子ちゃんや恵子ちゃんまで泣かしたんだよ」。
 美代子ちゃんは順ちゃんの姉さんで久美と同じ三年生だった。恵子ちゃんはやはり順ちゃんの姉さんで五年生だった。その日、私は学校で蛇を捕まえた。蛇は頭の後ろから押さえ込むと容易に捕まえることができた。大きな蛇を生きたままにつるし上げ、自慢げにみんなに見せたのがいけなかった。女の子は 「こわい」 といっせいに泣き出したのだった。
 由美はハナににて端整な顔立ちの美少女だった。学校でもみんなから大切に扱われているようだった。その由美も弟のガキ大将が学校に来るようになって、すっかり様子が狂ってしまったようだった。
 「洋武は悪いんだから。悪いことするのはいつも洋武。恥ずかしくて」。

 父は、夕食中にいきなり拳骨で殴ってきた。殴られつけているので私は頭を下げると父の拳骨は空振りになることがあったが、その日はみごとに頭に命中した。私は大きな声で泣くと 「女の子を泣かせるのは卑怯者のすることだ」 父はさらに殴りつけてきた。
 洋武には理屈があった。「南洋で戦っている兵隊さんは蛇や蛙やトカゲを食べて飢えをしのいでいる」 ということをなにかで聞いていた。だから今のうちに蛇やトカゲをしっかり捕まえる練習をしたつもりだったし、その成果を示したのだった。しかも学校に上がるまで朝鮮人の子供達と遊んでいた。朝鮮人の子供達は蛇も蛙もよくとって遊んでいた。蛙も蛇もトカゲも特別に怖い存在ではなかった。日本人の子供たちは、そんな乱暴なこととは無縁だった。それだけに洋武のいたずらはとりわけ目だっていた。
 ハナは 「洋武は元気はいいが女の子を泣かしてはいけないわ。ここにはマムシはいないのでしょうね。」 と晋司にたずねた。「順安には毒蛇はいないはずだ。」 晋司は答えた。おかげで蛇の話しはこれでおわった。
 日本人国民学校の運動会も学芸会も日本人社会の交流の場だった。洋武は順ちゃんに勉強やお行儀では負けていたが、運動会ではいつも負けなかった。そればかりか三年生までふくむ駆けっこでも一等になった。相撲では四年生まで負かした。「武ちゃんは、やんちゃで餓鬼大将」 ということがどこにいっても定着していた。その反面、なにか悪いことがおきるとすぐ 「武ちゃんじゃないか」 と疑われる原因にもなった。
 学芸会は、国民学校の雨天体操場はせまいのでいつも順安駅前にある砂金会社のクラブを借りておこなわれた。
 運動会もそうだったが、学芸会も一人が何回も出ることになった。そしてお父さんもお母さんも負けずに出演した。
 郵便局長の奥さんは、子供はいなかったのにいつも学芸会にきてアリランとトラジという朝鮮の歌を朝鮮語で歌い、自分の歌にあわせて踊りを踊った。順ちゃんのおばさんは、オルガンを弾きながら小学唱歌をうたった。その時代、オルガンがある家は少なかったし、学校にも小さなオルガンが一つあるだけだった。順ちゃんのおばさんが、先生と同じようにオルガンをひいて見せることは子供達にとって憧れの一つだった。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/7/8 8:00
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 順ちゃんの家庭

 父晋司が召集されているときも、除隊されて農園の経営にかかわっているときも、田植時期の水争いはたえなかった。わが家の小作地の水田の多くは、新しくできた貯水池の灌漑に頼っていた。北朝鮮の気候は激しかった。日照りと大雨とが交互にきた。しかも、少し日照りがつづくと貯水池からの水をめぐつて、水争いがおこり、わが家ではそれがたいへんな年中行事でもあった。
 洋武が学校にあがった昭和一七年(一九四二年)は日照りの年だった。田植えの時期、わが家の小作人が三名ほど突如として警察に逮捕された。水争いが昂じて、朝鮮人の地主が三名を警察にっきだしたためだった。晋司はこれらの小作人を警察からうけとり、わが家につれて帰ってきた。相手側の地主もよびつけて激しく言い争っていた。
 「水利組合にいって、菊村のおじさんにすぐきてくれるように」。洋武はお使いにだされた。晋司と菊村のおじさんは長いこと話し合っていた。菊村さんは、林家の小作人が決められた水を勝手に自分の田に引いて川下の田が困っていることを説明していた。しかもその小作人達は「うちは日本人の地主だから先にとる権利があるのだ」と無理を言っていることを晋司に説明していた。
 昭和十四年(一九三九年)にも深刻な旱魃があった。南朝鮮では餓死者がでて社会不安がひろがっていた。北朝鮮の順安でも南ほどでないにしても旱魃があり、小作人同士での水争いは深刻だった。晋司は招集中で兵隊にでており、水争いはハナが対応しなければならなかった。平原郡の郡庁のあった永柔邑(邑は日本の町)にハナは、何度も呼ばれて水争いの調停におうじた。そのさい、主人が兵隊にいっている留守家族でしかも日本人だという点から、かなり有利な水配分が決められていた。それはその年だけの調停だったが、朝鮮人の小作人達は、今年の旱魃にも日本人の土地では先に水を取る権利があると主張していたらしかった。
 「水がなければ田植えができない。供出の米もだせない」と脅すように晋司が菊村さんと相手側の朝鮮人の地主にいっていた。子供の私にも菊村の小父さんのいい方はよくわかった。
 「菊村さんはどうして朝鮮人の味方をするの」。ときどきハナは嘆くことがあったが、その時もやはり日本人の地主でも思うようにならなかったらしい。
 菊村のおじさんはまだ四〇才前の水利組合の専務理事だった。林家と菊村家は仕事のことでよく行き来したが、同時にハナにとって菊村のおじさんは、兄和雄の病気をめぐつての相談相手でもあった。和雄は平壌第一中学校の二年生のとき、父の厳命で陸軍幼年学校を受験した。身体検査で肺結核ということがわかり、ただちに平壌の道立病院に入院することになった。父晋司はちょうど召集され大農園の経営をひとりで切り盛りをしていただけに和雄の病気は、母ハナにとってたいへんな衝撃だった。和雄は一年ほどの長い入院生活のあと、自宅で療養して中学校卒業の資格をとるために専門学校入学検定試験 (専検) の勉強をしていた。洋武が国民学校にあがるころも病気はかなり良くなっていたが、和雄は外に出ることはめったになく和服姿で家で勉強をしていることが多かった。菊村さんは、内地にある長崎高等商業学校に在学中に結核になり、結局学校を中退してこの順安の水利組合の専務理事となっていた。ハナは菊村さんにいろいろ和雄の病気のことも相談する間柄になった。
 ハナには二人の弟がいた。上の弟は長野師範から広島高等師範という中等学校の教員養成をする学校に進んだが、卒業することなく結核で亡くなった。もう一人の末の弟も長野師範をでて教師になったが、彼も子供を一人残して結核で死んでしまった。ハナの家系は結核にのろわれた家系だった。当時の日本人には、結核は国民病といわれるほど死ぬ人が多かった。それだけに和雄の結核は母には衝撃的だったが、結核の病気の先輩でもあった菊村さんにはなにかと相談する相手でもあった。
 菊村さんがどこかに出張することになると留守中には家中して林家にとまりにきた。菊村さんの家は、国民学校の五年生の恵子姉さんと由美姉さんと同じ年の美代子さんと洋武と同じ年の順一君と弟の安夫君と、それにわたしたちが国民学校にあがって生まれた光夫君の五人姉弟家族だった。みんなでわが家の奥座敷とおもて座敷に菊村さんの一家の布団が敷かれ、枕を投げたり布団をつみあげて、そのうえから飛び降りたり大騒ぎだった。
 晋司は菊村さんのことをよくほめていた。晋司にとって階級が絶対的だった軍隊生活の中で、二十歳前後で少尉になって父たちに命令を下す士官学校出の若い将校を相手にしてきただけに学校出にたいして無条件に信頼するところがあった。
 「学校出はちがう。朝鮮人がいろいろ言うときにあっさり『そうか。それはおれのまちがいだった』とみとめる。ああした度量の大きな人間になれ」など兄たちに説教していた。
 晋司は、菊村さんと激しく言い争っていたが、その時にもやはり菊村さんの言うとおりになったようだった。
 洋武はよく菊村順ちゃんの家に遊びいった。家は水利組合の官舎だった。官舎は、警察署長や面長の官舎よりも大きな官舎だった。大きな家にオンドルはなかったが、ロシア式のペチカがあった。居間や応接間以外に、二つほどの子ども部屋もあった。順ちゃんの家には子供向けの本が一杯あった。きれいな絵本や子供向けの物語の本が部屋の本棚にあふれるようにならべてあった。
 お父さんやお母さんの本棚もあった。私は順ちゃんに本を借りては帰るのを忘れて読んでいた。
 わが家には子供向けの本も買ってもらったが、そうたくさんあるわけではなかった。とくに洋武の本というのは、兄俊雄が内地から朝鮮にかえってきた時、お土産にくれた 「吉田松陰」 とか「加藤清正の朝鮮征伐」 などという絵本があるだけだった。
 和雄は座敷の表にある幅の広い廊下に椅子式の勉強机をだして勉強していたが、そこには和雄の難しそうな参考書や教科書が並べてあった。しかし、子どもが入ることは 「お兄さんの勉強のじゃまになる」 と禁じられていた。
 わが家の両親の書棚には順ちゃんの家のように難しそうな本はなかった。キングとか婦人クラブとかの雑誌とその古い付録などの何冊かの本があるだけだった。
 同時に、そこには晋司の軍隊時代の古いアルバムが何冊かあった。「公主嶺独立守備隊」 と金文字で表紙に書いてある写真集の一冊に、満州の匪賊《ひぞく(注1)》退治の写真があった。父だけが軍刀を立ててもち椅子に座り、数人の兵隊さんが銃剣つきの鉄砲を持って立っていた。父は隊長であった。  
 そして、その前にはいろいろな中国服を着た数人の死んだ匪賊が転がっていた。丁度、猟師たちが獲物をとってその前に誇らしげに写っているように死人を前にした恐ろしい写真だった。次のページには、十数人の匪賊の首だけが物干し竿のようなところにつるされている写真もあった。
 洋武は一度それを見てから父の写真集は恐ろしくて近寄ることはなかった。戦争に負けるとああして敵に殺されるのかと思うとそれだけで身震いがした。
 菊村さんの家はハナに言わせるとハイカラさんだった。いつか戦争がはじまったころだと思うが、おばさんがオルガンをひいて、おじさんと二人で気持ちよさそうに外国語の歌をうたっていた。それは聞いたことのない歌だった。
 歌いおわると「武ちゃんところも歌をうたうことある」とおじさんがきいた。
 「うーんお父さんが関の五本松を歌うよ」
 「あっそうだな。お父さんは酔うとあれ歌うね」と笑った。
 父は酔うと鼻の穴に煙草二本つっこみ「関の五本松、一本きりや四本」と歌いながら、おかしな手つきで踊りをおどった。母も小学唱歌を.口すさむことはあったが、わが家には蓄音機はあったがオルガンもなく、歌も歌うことは少なかった。
 「あのね。この歌はドイツ語の歌だよ。英語でないからね。英語は敵性語だけどドイツは味方だからね」 とつけくわえた。
 大きくなってあの時の歌は 「冬の旅」 の一節ではなかったかとおもう。
 恵子さんも美代子さんも色が白くて可愛かった。「腺病質《注2》の質《た》ちだから。よく病気をする」 とおばさんがときどき嘆いていた。特に恵子さんは優しくておとなしかった。学校でも先生から特別大事にされているようでうらやましかった。
 当時、どこの家も便所の落とし紙は新聞紙を使っていた。わが家では、ハナがもの差しで新聞を切ってそれを便所にいれていた。だから紙のはしはギザギザがいっぱいで大きさもふぞろいだった。しかし、順ちゃんの家では、鉄で切ってあって、ちょうど本の角のようにきちんとそろえて落とし紙が便所においてあった。便所もいつもきれいだった。ただ一度びっくりすることがあった。それは天皇陛下と皇后陛下の写真が胸の辺りから切られたままで、落とし紙にされていた。
 毎月八日は大東亜戦争《注3》の開始日の十二月八日を記念して 「大詔奉戴日」《注4》 といった。この日には、大戦の詔勅と天皇陛下、皇后陛下の写真が新聞に載せられていた。わが家では 「もったいないことがあっては」 とハナはすぐ切り取りオンドルの焚き口で燃やしていた。順ちゃんちではその天皇、皇后の写真が落とし紙にされていた。私はそっとその紙をはずしポケットにいれて用をたした。

注1:土匪は政治的色彩の濃いもの 軍隊官憲の圧迫から逃れて匪賊に身をとうじたもの 生来土匪を家業するもの等に分けら   れる官憲や軍閥への反発心が強く 有産階級にも敵意を抱い   ていた そのスローガンは 梁山泊から 一貫して「富民を削いで貧民に分かつ」で あったようである
注2:体が弱く 神経質な体質
注3:太平洋戦争の呼称の一つで 大日本帝国時代の日本政府によって定められた呼称
注4:大東亜戦争(太平洋戦争)完遂のための大政翼賛の一環として1941年1月から終戦まで実施された国民運動

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/7/9 7:52
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
遠足

 五月がちかづくと、背の低い潅木のレンギョウが小さな黄色な花を付けた。それが合図のようにつつじもアカシヤの花も桜の花もいっせいに咲き出し最もよい季節だった。北朝鮮には七月と九月にはまとまった雨が降ったが、梅雨はなかった。旱魃と大雨が交互に襲う激しい気候だが、全体として雨が少なく、乾燥した季節が続いた。とくに五月はさわやかな季節だった。
 五月の終わりには全校で春の遠足に行った。一年生から六年生まで一緒に遠足に出かけた。それとは別に五年生、六年生は京城(今のソウル)まで修学旅行にいった。
 最初の春には見竜湖だった。見竜湖は順安駅から北にむかって次ぎの駅、石巌駅をおりるとすぐそこにあった。石巌駅につくと順ちゃんのお父さんが待っていた。平原郡水利組合の専務さんとしてわざわざ案内にかけつけ、その湖の説明をした。
 「この見竜湖は、普通江をせき止めて出来た貯水池です。この貯水池ができて、平壌までの間、八里下流まで水が供給されるようになりました。この貯水池で潅漑された面積は五千町歩になります。そのために畑だったところが水田になりました。いままで朝鮮人は粟を常食にしていましたが、ここに貯水池ができたおかげでお米を食べれるようになったのです。朝鮮では旱魃があたりまえでしたが、旱魃の時にもこの貯水池のおかげで被害を少なく押さえることができました」。
 やっと百まで数えられるようになったばかりの私にとって五千町歩がどれほど広いかわからなかった。ただ、平原郡水利組合が、平安南道では一番広く朝鮮全体でも屈指の水利組合だということだけは理解できた。順安にもため池があって、ときどき砂金会社のおじさんたちにつれられて釣りに行ったことがあった。しかし、その貯水池はため池などとは比較にならないほど大きかった。周囲が六里 (二十四キロ) もある真っ青な水をたたえ湖のような大きな貯水池だった。小船が浮き、岸辺から釣りをしている人があちこちにいて、周辺には青々とした森や林が続いていた。
 順ちゃんのお父さんの案内で貯水池の事務所にはいりその庭でお弁当をたべた。貯水池の事務所で働いている朝鮮人が男も女も総出で先生と子供達の接待をしていた。ここでは朝鮮人同士が朝鮮服を着て朝鮮語で話していたことがたいへん珍しかった。順安でもほとんどの役所や砂金会社でも朝鮮人もみんな官服を着て日本語を使っていた。
 「朝鮮語を使っている」 と上級生が驚いたように聞いた。順ちゃんのお父さんは 「貯水池を作る時は、みんなでお金をだして朝鮮人も土地をたくさん出してできました。だから平安水利組合では、朝鮮人が働きやすいように朝鮮語をつかってもよいのです」 と説明した。由美が家でこの話しを両親にした時、両親はすこしいやな顔をした。そして 「菊村さんは朝鮮人にやさしいから」と言葉を継いだ。晋司もハナも朝鮮語が使われていることに不機嫌だった。

 二年生の遠足は平壌だった。
 平壌は南にむかって一時間近く汽車の乗った。西平壌駅という平壌駅の一つ前で降りた。
 洋武は平壌には何度もハナに連れられていったことがあった。和雄が結核になったので、他の子供達に移らないように早く病気が見つかるように年に一度は、由美と洋武をつれて平壌にある道立病院で健康診断を受けに行った。洋武は検査のために血を採られるのが嫌いだった。病院ではいつも泣き叫んでいたが、ハナは「欲しいものは何でも買ってやるから我慢しなさい」と洋武をなだめていた。そのさいハナも子ども達を連れて、三越百貨店によって買物をしたり、エレベータにのって八階にある食堂で昼食をたべて一日を楽しんでいた。
 しかし、遠足では平壌駅ではなくて西平壌駅でおりた。西平壌駅前には動物園があったが、もう戦時下で動物はほとんどいなかった。やぎとか朝鮮の山中に生息するかもしかやノロなど小動物がいるだけだった。動物園をそこそこにして私たちは玄武門にむかった。
 玄武門は石垣で谷間をふさぐように出来ていた。真中に円形のくぐりがあったがその上にはいかめしい建て屋があった。その両側には石垣が積んであり門くぐりを抜けないかぎり難攻不落のように見えた。
 中村剛三校長先生はみんなの足を止めさせて「ここが玄武門だ。今から五〇年前、清国軍四万と日本軍一万五千が日清戦争最大の戦争を行い、支那兵(清国兵・中国兵)を木っ端にやっつけたところだ。日本軍は清国軍・支那兵を平壌城で包囲したがなかなか苦戦をした。この玄武門でも激しい戦いが行われ、どうしてもこの門を突破できなかった。その時、原田重吉一等兵が鉄砲を肩に担いではしごを上り、一人で敵陣に切りこんだんだ。それを見た味方の日本軍は『原田一等兵を見殺しにするな』と一挙に攻めたて、さすがの玄武門も陥落した。これが『原田一等兵の一番乗り』というんだ。原田一等兵はこの手柄で金鶉勲章という一番えらい勲章をもらい上等兵に昇進した」。
 「おまえたちは木口小平を知っているね」。
 木口小平は、修身の教科書に 「木口小平は死んでもラッパを放しませんでした」 と教えられよく知っていた。「木口小平が名誉の戦死をしたのも日清戦争でこれは朝鮮の成歓の戦いの時だった。成歓というのは京城の南のところにあるんだよ」。
 玄武門の石垣に弾丸の跡がいっぱいあった。
 「ここにもここにも」。子供達は日清戦争の古戦場で昔の兵隊さんのことを思い浮かべていた。
 順安日本人国民学校の一行が坂道を登って乙密台に到着した時、そこには普通学校の朝鮮人の子供達が食事をしていた。校長先生が 「待っていいから」とことわりをいったが、日本人学校の子供達に遠慮したのか、普通学校の先生達がその子供たちを追い立てるように退いていった。
 乙密台は広くはなかった。五メートル四方を一メートル程度の高さの石垣で囲み、あづまやのように柱があり屋根があった。北のほうの尾根伝いには、松に囲まれて牡丹台のやはりあづまやがみえた。先生が 「牡丹台は今日は行かないが、ここが平壌城の一帯だ」 と説明した。乙密台のはるか下のほうに大同江が真っ青の水をたたえてゆっくりと流れていた。順安にある普通江は泥水でいつも黄色く濁っていたが、大同江は真っ青でそこには帆かけ船や小船が二、三隻行き来をしていた。そして大同江の向こう側には飛行場があって日の丸をつけた飛行機が数機並んでいた。
 乙密台で昼食をたべるとまた平壌の街に下りた。ちんちん電車(市電)に乗ったがすぐ電車の中で「起立-・」と車掌さんがいった。平壌神宮の前だった。電車が平壌神宮の前を通るたびに電車の中から神宮の方を向いて敬礼をすることになっていた。電車に乗っていた人達は、いっせいに立ちあがって神宮の方を向いて頭を下げた。
 次の次の停留場でおりて、活動写真館(映画館)にはいることになった。洋武にとって幻灯は見たことがあった。それは京城師範にすすんだ羽野さんのお兄さんがわが家に幻灯器を持ちこんで家中で感心しながら見たことがあった。しかし、活動写真ははじめてだった。それだけでもわくわくするようなおもいだった。
 映画は「真珠湾攻撃とマレー沖海海戦」だった。飛行機が航空母艦からいっせいにとびあがり、翼をならべて大空をとび、飛行服と飛行帽をかぶった飛行兵がお互いに手を上げて挨拶をしながら急降下して魚雷を打ち出す。そのたびに海柱がたち敵の軍艦が沈没する。飛行場に並んだ敵の飛行機が次々に火を吹いて格納庫ももえていく。飛行機が急降下していく様子は無敵の日本軍そのものだった。映画の観客から、しばしば歓声と拍手が起こつた。この遠足は玄武門での古戦場と活動写真で、洋武の軍国少年にますます磨きがかかることになった。
 洋武はその日から「原田重吉の一番のり」というのをなんでもすることになった。学校も一番乗りをするために朝食をすばやく食べて走って学校にいった。いたずらをするのも 「原田重吉一番のり」だった。軍国美談が肌に染み付いたようだった。和雄は「洋武のやつ。いつのまにか海軍から陸軍に乗りかえたらしい」 と冷やかし気分に苦笑していた。
 日本が明治になって最初の大掛かりの戦争であった日清戦争は一九九四年(明治二七年) から二年間、朝鮮を舞台に日本と中国との間でたたかわれた。日本が清国に勝ってそれ以来、朝鮮は日本の覇権《はけん=(注)》のもとにあった。一九一〇年(明治四三年) 日本は 「日韓併合」を強行して韓国を全面的に軍事占領して植民地にしてしまった。とくに平壌での戦争は日清戦争の勝敗を決める戦争だった。千年の歴史をもつ平壌城の玄武門も牡丹台も乙密台もその古戦場だった。「木口小平は死んでもラッパを放しませんでした」という修身の教科書に載っていた忠君愛国、そして死ぬまで天皇陛下に尽くす教訓も、原田重吉の一番のりの軍国美談も日清戦争での話だった。そして、大東亜戦争でも戦意高揚に大きな役割を果たした。

注:特定の人物又は集団が長期にわたって ほとんど不動と思われる地位或は権力を掌握する事 
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 安田さんがやめていった日

 わが家では晋司が除隊し、洋武の世話に手がかからなくなってチーネがいなくなっていた。お米が供出制になって家の農園経営ができなくなり、普通学校にできた青年学校で教練《注1》を教えにいく以外、晋司はそう多忙というほどでなかった。しかし、一方では朝鮮人の青年たちが徴用《注2》で満州に行くなど、戦争がすすんで人手不足が深刻になっていた。洋武が二年生になる春休みに、安田さんもわが家をやめて面事務所に勤めることになった。
 わが家を去る時みんなで食事をした。晋司だけお酒を飲んで上機嫌だった。
 「安田は普通学校を出るときとても成績優秀だった。父親がいないから学費がなく上の学校にいけなかった。みんななんとかして、上の学校に行けと勧めた。しかし、安田の父親が万歳事件で暴徒で死んだことが分り、だれもすすめるのをやめただけでなく面事務所の小使いの仕事もだめになった。仕事もなかった。みんな手を引いたんだね。おれがその安田をひろいあげたのだ」。
 安田さんは昭和五年から十年以上もわが家に尽くしてくれていた。日本語も上手で朝鮮人とは分からないくらいだった。
 ハナが「父親がどんな人でも安田さんが立派だったらいいじゃないの。私はそう思って付き合ってきたの」。
 安田さんはそれにも不満そうだった。「林さんたちがずっと使ってくれたことには感謝しています。でもぼくは立派な父だと尊敬しています」と一言いったきりだった。
 洋武には安田さんのお父さんが、万歳事件で死んだという意味がよくわからなかった。
 大正八年(一九一九年)まだわが家が朝鮮に来る前、朝鮮人が独立万歳と叫んで全朝鮮で運動がおこなわれた。毎日のようにどこかで騒動がおきたという。この時の中心的な役割をしたのは朝鮮のキリスト教徒など宗教家たちだった。平安南道には早くから耶蘇教(キリスト教)が入り平壌はその中心だった。順安もその影響があり、早くから教会やミッションスクールの義明学校も出来ていた。
 順安で最初に移民してきた日本人は粟野さん一家だった。粟野さんの家は、おじさんは亡くなっていたが、リンゴ園の経営を手広くやって、一方家の裏には精米所を経営していた。「日韓併合」後まもない頃、東洋拓殖株式会社の土地を分けてもらい熊本から移住してきた粟野さん一家は、気位の高い一家だった。床の間には、侍が座っているように鎧甲が飾ってあって、おばさんは口癖のように  「わが家は士族で、先祖は熊本藩士だった」といっていた。晋司は酒を飲みながら「粟野さんところは東拓(東洋拓殖株式会社)から土地をもらって百姓をやってきたんだ。おれは裸一貫、退職金で土地を買い、ここまで来たんだ」と同じ農業経営という点で対抗意識を燃やしたりした。ハナはそのことを「いつまでも平民だの士族だの言うこともないのに」とあまり相手にしなかった。
 粟野さんは早くから順安にきていたので順安の昔のことをよく知っていた。
 「万歳事件のとき、順安でもたいへんだったのよ。私たちも危ないからといって平壌の連隊に避難したのよ。騒動というより戦争だったの。日本人の兵隊さんも戦死したが、朝鮮人もたくさん死んだのよ。順安警察署の前に広場にいっぱいになるほど朝鮮人が集まってワーワ一言ってたのよ。警察の人たちは赤インクを投げつけて、ヨボ(朝鮮人への蔑称)の服は白いでしょう。赤いのが目立つのよ。後で次々と警察が捕まえたのよ」と説明してくれたことがあった。
 万歳事件は最初は平和的な示威行動だった。「独立万歳」を叫びながら韓国旗を振って行進をした。しかし、日本の憲兵の弾圧が激しく次第に暴動化してきた。特に、平壌周辺はキリスト教が朝鮮の中でも早くからはいった地域で方々で暴動化していった。
 人口数千の面(村)である順安でも数回にわたって集会がもたれ、千数百人があつまったといわれていた。「日韓併合」前から日本人の手によって土地台帳が作られていた。完成したのは一九一八年頃だったが、その間、土地調査に反対したり、協力しなかった朝鮮人地主の土地は没収になり東洋拓殖株式会社の所有になったという。その土地を日本人移住者に、ただ同然か、特別な割安で分けられて、日本人の農家が朝鮮各地で誕生していった。順安には駅屯土という朝鮮王朝の土地があった。朝鮮の王朝が、全土に役人など使者を出すとき、出先での費用を捻出させるために、各地の農民に一定の土地を耕作させていた。安田さんの家も、わが家の老小作人もその駅屯土を耕作する農民だった。同じ農民でも王朝の使者が来るときだけ出費が求められるだけで実質的には、自作農とおなじだった。駅屯土の農民たちは、気位が高く土地も肥沃な土地だったので生活も恵まれていた。総督府の土地調査はこうした土地も王朝の土地ということで、みんな国有地にして、東洋拓殖会社に渡してしまっていた。万歳事件のときは 「独立万歳」 から 「土地台帳をかえせ」とはげしさをまし、面事務所をおそって土地台帳を焼却するところもでたという。順安でも回を重ねるごとに集会は激しさを増した。順安の日本人は平壌に避難したのだった。
 洋武は晋司のアルバムの中にあった支那人 (中国人) が、数人死んでいて晋司が得意そうに軍刀を立てて座っている恐ろしい写真を思い出して、万歳事件もあんな風にやったのだろうかと想像した。
 ただ 「朝鮮が独立する」 という意味がよく分からなかった。でも朝鮮人が集団で日本人に反乱をしたことだけはわかった。「そのころは順安にも今の武ちゃんの家のうらの山には、狼がでてウオーとほえたものよ」 と粟野さんのおばさんの話しだった。だから、それが遠い昔の話のようであまり実感はなかった。安田さんがまだ赤ちゃんの時、お父さんがその時反乱で死んでしまっていたという話があって、まだそんなに昔の話でなかったことが不思議だった。そのことを天皇陛下に反対した朝鮮人一家と言うことでいつまでも日本人は警戒していたのだった。
 洋武は父晋司より母ハナのほうがずっーと好きだった。しかし、ハナひげを蓄え、軍服を着てサーベルをつって歩く父晋司をたいへん自慢にしていた。わが家にある数少ないレコードのなかに 「僕は軍人大好きよ。勲章下げて剣つって、お馬にのってハイ堂々?」という童謡があって何回も聞いた。晋司が国民学校の祝日の式典に参加するときには、この歌にあるような軍服姿で参加した。「父を尊敬しています」という安田さんを吉田松陰のようだとおもった。吉田松陰の絵本は俊雄兄さんが内地から帰ってきたときにお土産にもらった。その本に吉田松陰は国を思い、徳川幕府から死刑になったけどたいへんな親思いだったという逸話をおもいだしていた。

注1:軍事の基本訓練
注2:国家が国民に対し 徴兵の変りに使役や労務、労働を課する制度
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 太平洋戦争と林家

 戦争のはじまりは勝利、勝利で、ラジオはいつも軍艦マーチがなっていて、南洋にもどんどん日本は進出していった。洋武が国民学校に入ると、日本がシンガポールを占領した記念にゴム鞠が国民学校生に全員にくばられた。海軍の山本五十六大将と陸軍の山下奉文大将は国民的英雄だった。山下大将はシンガポールを占領するときの司令官だった。英軍の司令官のパーシバル少将に無条件降伏を「イエスかノーか」と問いつめたことが何度も報道された。先生からもお話をきいた。シンガポール陥落の絵画も配られた。兄和雄も痛快そうに夕食の時その話をした。
 ハナは「乃木将軍は旅順をおとされた時、『昨日の敵は今日の友』といって、敵の将軍ステステルを大切にされたのに、山下将軍は『今日の友』として英軍を扱わないのね」と不満をもらした。ハナは小学校唱歌の「旅順陥落」の歌をよく口ずさんでいた。「時代がちがうんだよ」と和雄は説明していたが、山下将軍の怒涛の進軍は国民学校の子供たちをますます熱狂的にさせていた。続いてスマトラ島のバレンバンという油田地帯に落下傘部隊がおりて一気にスマトラ島を占領してしまっていた。
 どこかを日本軍が占領するたびに、兄和雄がオンドルのある部屋の壁にはりだしてある大東亜共栄圏地図に日の丸を記入していった。国民学校の低学年にしては、たいへん広い地理的な知識を身につけていった。南は豪州の北のラバウルから西はビルマ (ミヤンマー) まで日の丸は広がっていった。
 しかし、四月には太平洋のアメリカの空母から発進した爆撃機が東京はじめ日本の各都市に爆弾を落としていった。ラジオは 「わが方の被害は軽微」 と報じたが、東京に空襲があったと事態が深刻だった。続いて六月、ミッドウェイ沖海戦の時、軍艦マーチが流れ大勝利と報道されたが、晋司と和雄は 「どうも負けたらしい。アメリカの物量作戦にやられたらしい」 などと話していた。
 ラジオの大本営発表はいつも 「勝った勝った」 と報道していたが、昭和一八年になると勝ちいくさばかりではなく、子どもの目にも日本軍が負けることがあるのだと思うようになってきた。
昭和十八年二月にはガダガナル島から日本軍が 「転進」 したと発表されたが、和雄から 「あれは撤退だ」 と初めて日本が負けたことを教えられた。
 連合艦隊司令長官で真珠湾の英雄であった山本五十六大将が戦死した。ラジオは 「海ゆかば」を繰り返しながし、山本大将が元帥に昇進して国葬が行われることになった。
 「山本大将のようになる」ことを願っていた洋武は、山本大将の死にはたいへんなショックだった。大人達も山本大将の死が報じられると次々にわが家に集まってきて、戦況が深刻になっていることを心配そうに話していた。
 大人達は「日本にはまだ隠されている秘密兵器があり、いよいよになったらこの新兵器を使えばアメリカなどいっぺんにふきとんでしまう」という噂など口にしていた。戦争が初めほど「勝った勝った」でなかったが、無敵の日本軍が負けるはずはないと信じていた。新兵器の話も具体的ではなかったがきっと日本軍が勝つに決まっていると信じていた。ラジオでは大本営発表があるとき勝ち戦の時は「軍艦マーチ」だったが、山本大将の戦死や負け戦の報道の時には「海ゆかば」 だった。
 昭和一八年には「海ゆかば」が多くなった。山本元帥が戦死してまもなく、今度はアツツ島で「玉砕」が伝えられた。「玉砕」ということばを初めて耳にした。太平洋の最北にありアメリカ領のアリューシャン列島のアッツ島で二千人の守備隊が最後の突撃を行い全滅した。ラジオから「ああ山崎大佐指揮をとる」という歌が繰り返し流されてきた。山崎大佐はアッツ島の守備隊長だった。
 アッツ島の玉砕が伝えられてから一ケ月たったころ、ラジオから軍艦マーチが流れてきた。私はわくわくしながらどんな勝利のニュースかと思ってラジオを聞いた。しかし、それはアッツ島と同じアリユウシャン列島にあるキスカ島から、霧を利用して全員が無血で撤退できたというものだった。
 「なんだ。敵をやっつけたのじゃないのか。がっかりだな」と洋武がいって晋司からひどく怒られた。わが家の居間にかかげられた大東亜戦争の地図もあちこちに日の丸がたてられていたが、それが逆に黒く塗り潰されるようになっていった。
 そのころハナと晋司はよくけんかをしていた。夜おしっこにおきるとハナが泣きながら晋司とやり合っていた。それはハナが「内地に一度返して欲しい」と言うことだった。
 「母さんが死んだ時にも父さんが死んだ時にも帰してくれなかった。満州に嫁に来てから一度も内地に帰してもらえない人などいない。そのたびに余裕が出来たらといいながら、余裕が出来たころには、あなたが召集されてしまうし、やっとお金も時間も余裕ができたのだから一度内地に帰って、母や父の墓参りもすませたい」 とハナはくりかえし訴えていた。
 順安にいる日本人は夏休みや春休みには家族そろって内地に帰っていた。内地に帰るには、朝鮮の最南端の港町釜山港まで一日がかりで汽車で行き、関釜連絡船にのり、下関に出るまで二泊しなければならなかった。長野県のふるさとに帰ってくるのはどんなに急いでも十日間の日程が必要だった。
 それもあって晋司は 「会社勤めとはちがうんだから。それにこんな非常時に内地など帰っていられるか」と絶対に許さなかった。 洋武も友達がみんな内地の話をするたびに一度内地に帰ってみたかった。順ちゃんの家は春休みや夏休みのたびに長崎のおばちゃんの家に帰っていて、長崎弁を交えて、内地の話を自慢げにしてくれた。それがうらやましかった。また、俊雄兄さんがいる内地はどんなところか知りたかった。お母さんがけんかに勝って、一度内地にかえれればよいとひそかに願った。晋司は酒乱の傾向があった。夕方から酒をのみ、そして夜中のハナとの喧嘩はたいてい晋司の暴力になっていた。由美も洋武もその喧嘩で目を覚ましていたがじっとこらえていた。その時には父をうらみ母に同情した。
 昭和十八年の十月、下関と釜山を結ぶ関釜連絡船の崑崙丸(こんろん丸)が、アメリカの潜水艦によって沈没させられ、六〇〇名の民間人が犠牲になったという報道が伝えられたとき、朝の日本人社会に大きな不安がひろがった。内地と朝鮮を結ぶ動脈がアメリカの潜水艦で断ち切られることは、朝鮮にいる日本人にとって祖国がたち切られることを意味していた。そして、ハナは戦争が終わるまで内地には帰れないとあきらめていた。両親の夫婦げんかもなくなった。両親のけんかはなくなったが、ハナは晋司の悪口を時々子ども達にいうようになった。
 「小作人にあんなに居丈高になってどなることはないのに。応召中(軍隊にいっていた期間)、私を助けてくれた小作人を頭ごなしに怒鳴って。」などいっていた。そして、両手でこぶしをつくり二つを鼻の上に重ねて「少し小金がたまったからといって、こうなっているのよ」と晋司の悪口を子どもらにして聞かせた。そんなことは今までになかったことだった。
 晋司は鼻高々の得意の絶頂にあったことは確かだった。昭和になって朝鮮にきて十年後には二十数町歩の地主になっていた。順安の郵便局でも金融組合でも最高額の貯金を個人としては持っていた。両方で三十万円ぐらいはあったのではないか。ハナが思い出話に語ったことがあった。戦時国債の割り当てがあると積極的に買いつづけた。「戦争に勝つまではわが家の贅沢は国債を買うことだ」 など晋司は子供たちに自慢した。
 そして、順安の日本人社会の要職にもついていた。在郷軍人会長や水利組合の理事や警防団の副団長にもなっていた。
 ある夜、金融組合が火事になった。晋司は酒を飲んでいたが、警防団の服をきて出動して行った。父は夜遅く興奮気味に帰ってきたが、翌朝珍しく安田さんがわが家にやってきた。安田さんは面事務所に勤めていた。「林さん、大丈夫だったですか」 と心配していた。火事の現場に出かけて酒の勢いで「勇ましく」はあったが、危なくて同僚の消防手たちの邪魔になっていたようだった。
 「林さんは大分お酒が回っていたようですね」。この非常時に酒など飲んでいてという非難の気持ちがにじんでいた。安田さんをはじめ、順安の朝鮮人達は酒を飲まない人が多かった。それは禁酒運動をしていたキリスト教の影響だった。
 ハナは「私は耶蘇教はきらいだが、禁酒運動は大賛成よ」と晋司に皮肉を言うようになった。
 お酒も配給制になっていたが、どういうわけかわが家にはいつも酒があった。
 「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」という標語が街中に張り出されていた。
 「内地では一日二合五勺の配給だそうよ」と母がいっていたが、朝鮮の日本人社会ではまだ食糧の不安は切実のものではなかった。順安の日本人家庭では、まだどこの家でも白いご飯を食べて、大詔奉戴日の八日には麦のはいったご飯が出て「戦地の兵隊さんのことを思ってがんばりましよぅね。ほしがりません勝つまではよ」などハナはいっていたが食事が足りないということはなかった。
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 連隊旗がわが家に泊まった

 二年生の夏休みの終わり頃、中国戦線にむかう軍隊が順安を中心に演習をしながら北上していくことになった。兵隊さんは普通学校にとまったが、将校たちは民宿で主として日本人家庭に分宿することになった。連隊長さんは、砂金会社の所長をしている大村さんのところにとまることになり、林家には連隊旗がとまることになった。演習の一週間も前からわが家は緊張していた。
 床の間にあった「千代の桜」の酒樽は片付けられ、ハナは家中を入念に拭き掃除を繰り返した。
 在郷軍人全会長の父は「こんな名誉なことはない」とさかんに家族に気合をかけていた。
 「連隊旗は天皇陛下が直接その連隊に授与するんだ。乃木大将西南の役のとき敵に連隊旗を奪われて自害しようとしたが、明治天皇にそれをとめられた。そのことを終生恩義に感じて明治天皇が崩御 (ほうぎょ)《注1》 されたとき殉死《注2》された。それほど大事なものだ。」
 父は夕食の時に家族に説教した。
 その日夕方、連隊旗が数人の兵隊さんにまもられてわが家にやってきた。若い少尉さんが連隊旗手で見るからに子どもこどもしていた。「まあ若いのね」 と母が大きな声を出したのでまわりの人がどっと笑った。父は五〇才をこえてやっと少尉になった。しかし、この連隊旗手は二十才前ですでに少尉だった。ハナは 「陸士(陸軍士官学校) か海兵 (海軍兵学校) に行かないと」 と それからもしばしば子ども達に諭していた。
 「連隊旗は新任の少尉が旗手をつとめるのだ」 と父が説明をした。連隊旗は床の間に置かれ、由美と洋武はいっしょに拝みに行った。連隊旗の中には歴戦のたたかいでぼろぼろになって端だけ残っているものもあると聞いていたが、わが家にやってきた旗は新品に近かった。家の中なのに、旗の両側には銃剣をつけた兵隊さんが歩哨《ほしょう=注3》に立っていた。わが家の門にも玄関にもそれぞれ歩哨が立ち夜中にも交代で兵隊さんがたっていた。
 翌日、兄和雄に連れられて順ちゃんも含めて友達といっしょに演習を見学に行くことになった。
 街の東側に、そしていままで行ったこともない街はずれまでつれていかれた。
 赤いレンガつくりの二階建てで、芝生からそのまま二階にはいれるような洋風の家が、数軒広い芝生の中にきちんと並んでいた。
 「外国にきたような立派な建物だな。誰が住んでいるのかなあ」という問いかけに、兄は「毛唐(西洋人のこと)が住んでいた。耶蘇教(キリスト教)の布教ということを理由に病院までつくっていた。ここには毛唐の医者が住んでいたが支那事変(日中戦争)がはじまるとみんな国に帰ったんだ」。順安にはキリスト教会があった。その付属病院もあり学校もあった。しかし、私がもの心がついた頃は、戦争がはじまる前にそれらはみんな閉鎖になっていた。それらの家の入り口はみな板で釘づけになっていた。
 兄は「耶蘇教の布教を理由に朝鮮にはアメリカから毛唐がたくさんきていて、キリストは天皇陛下より偉いなど日本人に反抗させたり、その上スパイをしたりして悪いことばかりするんだ。奴らはアメリカから金を送ってくるので、電気仕掛けで水道を動かしたり金にあかして賛沢をしていたんだ。ひどいのは朝鮮人の子供がリンゴ泥棒をしたら、額に泥棒とヤキをいれて見せしめにしたこともあった。毛唐は黒人を奴隷にしただけでなく黄色人種も馬鹿にしているんだ。そうした連中だからみんな本国に帰らせたのだ」という説明をした。
 「リンゴ泥棒をしたら塩酸で額にリンゴ泥棒と書かれる。アメリカ人は黒人を奴隷にする時、直接肌に焼きを入れて人間の売買をした。お前らも戦争に負けたら奴隷にされてしまう」。黄色人種を奴隷にしようとしている証拠のように先生から話を聞いたことがあった。
 まだ、林家が朝鮮に来る前の大正十五年(一九二五年) 順安在住のアメリカ人牧師のへイズマーは、リンゴ泥棒をする朝鮮人の子どもらに手をやいて、泥棒をした子供たちを捕まえて塩酸で「リンゴ泥棒」 と額に書いてお仕置きをした。これを平壌の検察庁が  「人種差別」 だと起訴をした。この牧師はお詫びの新聞広告をだして母国に帰っていった事件があった。この事件はキリスト教を敵視していた朝鮮総督府の格好のキリスト教排撃のキャンペーンの材料になっただけでなく、プロテスタントもカソリックも布教に大きな障害になっていた。
 昭和十年 (一九三五年)、朝鮮総督府は朝鮮のすべての学校の生徒達に 「神社参拝」 を義務づけた。平壌の崇実学校と安息教系の順安義明学校の校長は 「キリスト教の学校ではそれはしたがえない」 と拒否する態度を表明した。総督府は直ちに 「神社参拝は宗教行事あらず。皇国臣民を教育するために必要不可欠な行事である。神社参拝を行わない学校の閉校も辞せず」 という態度を表明した。順安の義明学校の校長はそれを機にアメリカ本国に戻り、順安の義明学校は閉校になった。
 順ちゃんが 「長崎のおばあちゃんの家の側にも大きな教会があったよ」 といったので私はびっくりした。「内地にもキリスト教があるの。天皇陛下とどちらがえらいの」。兄は 「それは天皇陛下にきまっている。天皇陛下は二千六百年もつづいている万世一系の神様だ。大東亜戦争は毛唐を追い出して、天皇陛下がアジアを治める為にはじめた戦争じゃないか」。
 陸軍演習の方は遠くでばちばち小銃の音がするだけで戦車を先頭にまわりを兵隊さんが走っていったり、「突撃!」といって進んでいくことを想像していたが、どこにもそんな演習風景はなくさっばりだった。「ぼくウンチがしたい」と土まんじゅうと私たちがよんでいた朝鮮のお墓のかげで洋武はウンチをした。他の子ども達も並んでおしっこをした。その時だった。墓のかげで洋武がお尻を出してウンチをしていたすぐ側から兵隊さん二人ほどぬっと出てきた。頭には木の枝をつけて、背中には草をつけた迷彩をつけた兵隊さんだった。私たちに「しっー」と口に指をつけて声出さないように命じた。それから「斥候なんだ。しづかにしてね」と優しい声をかけて走っていった。私たちは腰が抜けるほどびっくりした。「やっぱり演習していたんだ。どこで敵と味方がわかれているのかな」。
 結局演習をみたのはそれだけだった。しかし、洋武にとってそれだけでも大満足だった。とくに西洋風の家が並んでいた教会があるあたりは、いままで行ったことがなかっただけに順安の新しいところを探検した気分になっていた。新聞もラジオも「壁に耳あり、障子に目あり。スパイの動きに気をつけましよう」とさかんに宣伝していただけに、順安にもスパイがきたことがあり気をつけないと行けないのだと気を引き締めていた。

注1:天皇、皇帝、国王、太皇、皇太后、皇后その他君主等の死去を婉曲的に かつ敬意を込めてさす語
注2:王や皇帝、首長、祭司王などの喪や埋葬に際して近親者や従者がそれを追って死ぬ事
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 朝鮮人が日本人学校に転校してきた・その1

 国民学校三年生になったとき校長先生がかわった。中村剛三先生は平安南道の視学に栄転された。視学というのは先生を監督する先生の中の先生だとおしえられた。新しい小島庄治先生は、平壌の若松国民学校からきた先生だった。中村先生は怖い先生だったが、よくわが家にも遊びにきてどことなし子供のこころに響くものがあった。
 しかし、小島校長先生はすこし神経質だった。戦況が不利になるたびに、「わが国は神の国だから負けるわけにはいかない。負けるはずがない。必ず神風が吹いて日本を助けてくれる」とくり返し朝礼で話した。そして、八百年前蒙古に興った元という国が博多湾に攻め込んだとき、日本中の人が蒙古との戦争に勝つように祈ったら大風が吹いて蒙古の船にのった軍勢が難破し日本が戦争に勝った。しかもそれは一度ならず二回もあった。
 同時に対馬や壱岐の日本人達は元の軍勢に襲われて、手のひらに穴をあけられそこに鎖をとおされ数珠繋ぎにされて海に投げ入れられたくさんの人達が殺された話しもあった。日本は国が出来てから二千六百年、外国の軍靴に踏みにじられたことのない神の国だ。日本中の人が必勝の信念で戦えば、神の国はいざとなったら神風が吹いて敵を必ずやっつける。そうした元寇の役の話をくり返ししてくれた。
 父晋司は満州で戦争の経験があった。「戦争で負けると女や子どもは惨めだ。支那人(中国人)は可愛そうだった」。夕食の時そんな話をした。しかし、私たちはどんなに戦争の様子が不利になっても負けることなど露ほども考えていなかった。
 サイパン島の日本軍が玉砕し、東条内閣が総辞職した。後任には朝鮮総督の小磯国昭が首相になった。ハナは東条英機首相の崇拝者だった。「東条さんがやめられて小磯さんでやっていけるのかしら」など心配した。小島校長先生は「朝鮮総督の小磯閣下が総理大臣になられた。朝鮮の皇国臣民は一億国民の先頭に立って勝利の日までがんばりましょう」と訓辞した。その頃、先生の朝礼での訓示はだんだん長くなっていた。同時に、いっそう熱がこもってきた。
 「日本は神の国だ。必ず神風が吹いて神様が助けてくれる」と同じことを子供に言い聞かせるというより自分に言い聞かせるように話をした。また、「アメリカというのは黒人や有色人種を隷にする国だ。もし日本がアメリカに負けたらお前たちもアメリカ人に売り飛ばされてしまう。だからアメリカには絶対に負けられない」と繰り返し話をした。普通の授業でも外国やアメリカの話はほとんどなかったが、アメリカの奴隷売買の話はくりかえされた。「鬼畜米英」ということばも、人間を家畜のように売り飛ばす国だということで子供たちにはよくわかった。そして、順安にいた宣教師のように、子どもの額に「泥棒」と焼きをいれるのがアメリカ人にちがいない。と思うようになっていた。
 新聞には、顔をバンソウ膏をはったアメリカの大統領のルーズベルトや、腕を包帯でつったイギリス首相のチャーチルや、松葉杖をついた中国の蒋介石総統が敗残兵のように相談している漫画が書かれていた。ラジオでは「出て来いミニッツ、マッカーサー。出てくりや地獄に逆落し」という歌がさかんに流されていた。マッカーサーは米陸軍の総司令官。ミニッツというのは米海軍の太平洋軍の司令官だった。
 ハナは毎月八日になると朝早く白いエプロンに大日本国防婦人会というたすきをかけて、姉と私を連れて順安神社に必勝祈願に出かけた。雨が降っても、雪の寒い日も八日にはかならず順安神社にいった。たいていの場合、朝鮮人の集団が「武運長久」とか「必勝の信念」とか書いた峨やら旗などをもって参拝していたが、朝鮮人たちは日本人の参拝より時間は早く日本人が行くころには解散していた。
 「寒いから」などぐずぐずいうとハナは「戦地の兵隊さんのこと考えなさい。このくらいの寒さはなんでもないよ」と厳しくしかった。そこには十数人の日本人の女性たちが母と同じかっこうをして集まってきた。順安神社はわが家から数百メートルはど東にあってチョ卜した広場があり鳥居をくぐつて、丸太を横にして埋め込んだかなり急な階段を百段ほど上りきったところに、また鳥居があり小さな新しい白木造りの両があった。まだまわりの木々も決して大きくはないが、ハナは日本人がみんなで作ったのだと自慢げに話してくれた。簡単な掃除をして「大日本帝国の勝利と兵隊さんの武運長久とをお祈りしなさい」といって柏手をボンボンたたいてお祈りをした順ちゃんのお母さんはこのお参りにほとんど参加しなかった。 「子供も多いし遠いからね」 とハナは子供たちに説明したが、明らかに不満の様子だった。
戦争がすすむとお父さんが招集されて内地に帰っていく家庭も増えてきた。また砂金会社が規
模を縮小し、いつのまにか普通江の向こう側に浮いていたドレッジャーもなくなっていた。日本人国民学校のこどもたちも急速に減少していた。
 日本人の子供が少なくなったせいか、内鮮一体のせいかよくわからなかったが、三年生になたとき、私たちの学年だけに椙山厚行君と新井親善君という二人の朝鮮人の友達が普通学校から転校してきた。二人とも母親につれられてきた。
 椙山君の家は面長 (村長) さんだった。椙山君のお母さんは朝鮮人の民族衣装のチマとチョゴリをきていた。新井君の家は金融組合の専務理事さんだった。そしてお母さんはスカートとスーツ姿だった。ハナもそうだったが、日本人の女性は着物にもんぺをはいてエプロンする姿が普通のおばさん達の服装だった。そうしたなかで新井君のお母さんのスーツとスカート姿は女学生のお姉さんのようで新鮮にうつった。二人は教壇でまず母親たちが簡単なあいさつした。椙山君のお母さんは日本語がまだ朝鮮風だったが、新井君のお母さんはまったく日本人と変わらない達者な日本語であいさつをした。
 二人の同級生たちはそれぞれあいさつをしたが、私たちにはショックをうけるほど立派なあいさつだった。二人とも 「日本が危急存亡のおり日本人学校で学ぶことができるのは皇国臣民として誇りであります。イッシドゥジンの皇恩に報いるためにいっそう勉強します」 などの内容だった。「皇恩に報いる」 ということは 「天皇陛下の恩に報いる」 ということはわかった。   「イッシドゥジン」 という言葉がわからなかった。その日の帰り道、順ちゃんと私は 「すげえなー。イッシドゥジンというのはどんな意味かな。内鮮一体という意味らしいな。あの人たちと太刀打ちできないよ」 と私たちは早くも気後れがした。
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 朝鮮人が日本人学校に転校してきた・2

 そのころ朝鮮も日本も一体となって戦争を遂行しようと内鮮一体と言うことがくり返し強調されていた。内地と朝鮮は一体だという意味だった。朝鮮のことを鮮と略することが多かった。北朝鮮とか南朝鮮とかはみな北鮮とか南鮮とかいった。そして朝鮮人のことを鮮人といった。朝鮮鉄道は鮮鉄といった。朝鮮のことを 「朝」 と略していうと日本の 「朝廷」 になるので 「鮮」 と略して言うことになっていた。一種の差別用語だったが当時の私たちには、そんなこと知る由もなかった。
 イッシドゥジンとは 「一視同仁」 で天皇陛下が朝鮮人も日本人と同じに扱うという意味だった。そのころ朝鮮人とか鮮人とか使わないように学校でいわれ始めていた。とくに 「ヨボなどいってはいけません。内地人も半島人も同じ日本人です」 と強調されるようになった。朝鮮人のことを半島人と呼ぶようになっていた。それは、内地人と朝鮮人との区別をなくすためだと説明された。
 朝鮮人にも徴兵が実施されることになっていた。
 朝鮮人の子供が日本人学校に入ってきたせいで、「皇国臣民の誓詞 (ちかい)」 というのを朝礼のとき斉唱することになった。普通学校 (朝鮮人だけの国民学校のこと) では、ずっと前から斉唱は行われていたが、それまで日本人国民学校では斉唱はされていなかった。洋武はあまりよく覚えていなかったのでこの 「皇国臣民の誓詞」 は苦手だった。
 毎月一日と八日には朝礼があった。また祝日は休みだったが朝だけ学校にでかけて式があった。
 朝礼は雨でなければ運動場でおこなわれた。どんな寒い日でも 「戦地の兵隊さんのことを思えばこのくらいの寒さはなんでもない」 と先生はくりかえした。八日の朝礼のときは入学式の時とちがって、教育勅語でなく 「開戦の大詔」 を読んだ。意味はわからなかった。しかし、天皇陛下が戦争をはじめるにあたっての詔勅はくり返しくり返し朝礼でよまれた。五年生以上の子供はみんな暗記をしていた。
 朝礼が終ると 「宮城遥拝」 と先生がいうとみんな東の方をむいて天皇陛下のおられる宮城に頭をさげた。
 それから引きつづいて皇国臣民の誓いを斉唱した。
 「一つ 私どもは大日本帝国の臣民であります。二つ 私どもは心をあわせて天皇陛下に忠義を尽くします。三つ 私どもは忍苦鍛錬して立派な強い国民となります。」
 (皇国臣民の誓詞は大人向けにもあった。
 一、ワレラハ皇国臣民ナリ。忠誠ヲモッテ君国二報ゼン。
 一、ワレラ皇国臣民ハ互イニ信愛協力シ、モッテ団結ヲ固クセン。
 一、ワレラ皇国臣民ハ忍苦鍛錬カヲ養ヒ、モツテ皇道ヲ宣揚セン。)
  転校してきた朝鮮人のこどもたちは大きな声で立派に斉唱した。
 「林君ひとりでいってごらんなさい」。末永先生が洋武を指名した。よく覚えていなかった適当に声をあわせていたので見破られた。「林君だめね。しつかり覚えておいで」。洋武はたいへんな宿題をもらった。
 朝鮮人の友達が転入してきたとき、それまで名前で呼びあっていた学校も武ちゃんというのでなく、林君というように姓に君やさんをつけて呼びあうようになった。
 「皇国臣民の誓詞」 を朝鮮人が転校してきたばっかりに、覚えさせられて、「暗記していないから」 と怒られて、洋武はこの誓い斉唱をすっかり嫌いになった。
 ハナにそのことをいうと 「四等国民が一等国民になるためのおまじないみたいなものよ。椙山君や新井君がはいってきたのでみんなで付き合ってやるのでしょうね。短いからしっかり覚えなさい」といわれた。足がしびれたりするとハナは「しびれしびれどこかに飛んでいけ」と洋武の額におまじないをしてくれた。あのおまじないで椙山君たちも一等国民になれるのだろうかと不思議に思った。
 晋司は 「いままで朝鮮人は特別の人を除いて兵隊さんにはなれなかった。四等国民だったからだ。でもいま朝鮮人も皇国臣民になって日本人と同じになって兵隊さんになれるようになった」 と説明した。
 そういえば安田さんは体格もよく健康そのものだったが、戦争がはじまっても兵隊さんにはいかなかった。
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