戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・5 (林ひろたけ)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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遠足
五月がちかづくと、背の低い潅木のレンギョウが小さな黄色な花を付けた。それが合図のようにつつじもアカシヤの花も桜の花もいっせいに咲き出し最もよい季節だった。北朝鮮には七月と九月にはまとまった雨が降ったが、梅雨はなかった。旱魃と大雨が交互に襲う激しい気候だが、全体として雨が少なく、乾燥した季節が続いた。とくに五月はさわやかな季節だった。
五月の終わりには全校で春の遠足に行った。一年生から六年生まで一緒に遠足に出かけた。それとは別に五年生、六年生は京城(今のソウル)まで修学旅行にいった。
最初の春には見竜湖だった。見竜湖は順安駅から北にむかって次ぎの駅、石巌駅をおりるとすぐそこにあった。石巌駅につくと順ちゃんのお父さんが待っていた。平原郡水利組合の専務さんとしてわざわざ案内にかけつけ、その湖の説明をした。
「この見竜湖は、普通江をせき止めて出来た貯水池です。この貯水池ができて、平壌までの間、八里下流まで水が供給されるようになりました。この貯水池で潅漑された面積は五千町歩になります。そのために畑だったところが水田になりました。いままで朝鮮人は粟を常食にしていましたが、ここに貯水池ができたおかげでお米を食べれるようになったのです。朝鮮では旱魃があたりまえでしたが、旱魃の時にもこの貯水池のおかげで被害を少なく押さえることができました」。
やっと百まで数えられるようになったばかりの私にとって五千町歩がどれほど広いかわからなかった。ただ、平原郡水利組合が、平安南道では一番広く朝鮮全体でも屈指の水利組合だということだけは理解できた。順安にもため池があって、ときどき砂金会社のおじさんたちにつれられて釣りに行ったことがあった。しかし、その貯水池はため池などとは比較にならないほど大きかった。周囲が六里 (二十四キロ) もある真っ青な水をたたえ湖のような大きな貯水池だった。小船が浮き、岸辺から釣りをしている人があちこちにいて、周辺には青々とした森や林が続いていた。
順ちゃんのお父さんの案内で貯水池の事務所にはいりその庭でお弁当をたべた。貯水池の事務所で働いている朝鮮人が男も女も総出で先生と子供達の接待をしていた。ここでは朝鮮人同士が朝鮮服を着て朝鮮語で話していたことがたいへん珍しかった。順安でもほとんどの役所や砂金会社でも朝鮮人もみんな官服を着て日本語を使っていた。
「朝鮮語を使っている」 と上級生が驚いたように聞いた。順ちゃんのお父さんは 「貯水池を作る時は、みんなでお金をだして朝鮮人も土地をたくさん出してできました。だから平安水利組合では、朝鮮人が働きやすいように朝鮮語をつかってもよいのです」 と説明した。由美が家でこの話しを両親にした時、両親はすこしいやな顔をした。そして 「菊村さんは朝鮮人にやさしいから」と言葉を継いだ。晋司もハナも朝鮮語が使われていることに不機嫌だった。
二年生の遠足は平壌だった。
平壌は南にむかって一時間近く汽車の乗った。西平壌駅という平壌駅の一つ前で降りた。
洋武は平壌には何度もハナに連れられていったことがあった。和雄が結核になったので、他の子供達に移らないように早く病気が見つかるように年に一度は、由美と洋武をつれて平壌にある道立病院で健康診断を受けに行った。洋武は検査のために血を採られるのが嫌いだった。病院ではいつも泣き叫んでいたが、ハナは「欲しいものは何でも買ってやるから我慢しなさい」と洋武をなだめていた。そのさいハナも子ども達を連れて、三越百貨店によって買物をしたり、エレベータにのって八階にある食堂で昼食をたべて一日を楽しんでいた。
しかし、遠足では平壌駅ではなくて西平壌駅でおりた。西平壌駅前には動物園があったが、もう戦時下で動物はほとんどいなかった。やぎとか朝鮮の山中に生息するかもしかやノロなど小動物がいるだけだった。動物園をそこそこにして私たちは玄武門にむかった。
玄武門は石垣で谷間をふさぐように出来ていた。真中に円形のくぐりがあったがその上にはいかめしい建て屋があった。その両側には石垣が積んであり門くぐりを抜けないかぎり難攻不落のように見えた。
中村剛三校長先生はみんなの足を止めさせて「ここが玄武門だ。今から五〇年前、清国軍四万と日本軍一万五千が日清戦争最大の戦争を行い、支那兵(清国兵・中国兵)を木っ端にやっつけたところだ。日本軍は清国軍・支那兵を平壌城で包囲したがなかなか苦戦をした。この玄武門でも激しい戦いが行われ、どうしてもこの門を突破できなかった。その時、原田重吉一等兵が鉄砲を肩に担いではしごを上り、一人で敵陣に切りこんだんだ。それを見た味方の日本軍は『原田一等兵を見殺しにするな』と一挙に攻めたて、さすがの玄武門も陥落した。これが『原田一等兵の一番乗り』というんだ。原田一等兵はこの手柄で金鶉勲章という一番えらい勲章をもらい上等兵に昇進した」。
「おまえたちは木口小平を知っているね」。
木口小平は、修身の教科書に 「木口小平は死んでもラッパを放しませんでした」 と教えられよく知っていた。「木口小平が名誉の戦死をしたのも日清戦争でこれは朝鮮の成歓の戦いの時だった。成歓というのは京城の南のところにあるんだよ」。
玄武門の石垣に弾丸の跡がいっぱいあった。
「ここにもここにも」。子供達は日清戦争の古戦場で昔の兵隊さんのことを思い浮かべていた。
順安日本人国民学校の一行が坂道を登って乙密台に到着した時、そこには普通学校の朝鮮人の子供達が食事をしていた。校長先生が 「待っていいから」とことわりをいったが、日本人学校の子供達に遠慮したのか、普通学校の先生達がその子供たちを追い立てるように退いていった。
乙密台は広くはなかった。五メートル四方を一メートル程度の高さの石垣で囲み、あづまやのように柱があり屋根があった。北のほうの尾根伝いには、松に囲まれて牡丹台のやはりあづまやがみえた。先生が 「牡丹台は今日は行かないが、ここが平壌城の一帯だ」 と説明した。乙密台のはるか下のほうに大同江が真っ青の水をたたえてゆっくりと流れていた。順安にある普通江は泥水でいつも黄色く濁っていたが、大同江は真っ青でそこには帆かけ船や小船が二、三隻行き来をしていた。そして大同江の向こう側には飛行場があって日の丸をつけた飛行機が数機並んでいた。
乙密台で昼食をたべるとまた平壌の街に下りた。ちんちん電車(市電)に乗ったがすぐ電車の中で「起立-・」と車掌さんがいった。平壌神宮の前だった。電車が平壌神宮の前を通るたびに電車の中から神宮の方を向いて敬礼をすることになっていた。電車に乗っていた人達は、いっせいに立ちあがって神宮の方を向いて頭を下げた。
次の次の停留場でおりて、活動写真館(映画館)にはいることになった。洋武にとって幻灯は見たことがあった。それは京城師範にすすんだ羽野さんのお兄さんがわが家に幻灯器を持ちこんで家中で感心しながら見たことがあった。しかし、活動写真ははじめてだった。それだけでもわくわくするようなおもいだった。
映画は「真珠湾攻撃とマレー沖海海戦」だった。飛行機が航空母艦からいっせいにとびあがり、翼をならべて大空をとび、飛行服と飛行帽をかぶった飛行兵がお互いに手を上げて挨拶をしながら急降下して魚雷を打ち出す。そのたびに海柱がたち敵の軍艦が沈没する。飛行場に並んだ敵の飛行機が次々に火を吹いて格納庫ももえていく。飛行機が急降下していく様子は無敵の日本軍そのものだった。映画の観客から、しばしば歓声と拍手が起こつた。この遠足は玄武門での古戦場と活動写真で、洋武の軍国少年にますます磨きがかかることになった。
洋武はその日から「原田重吉の一番のり」というのをなんでもすることになった。学校も一番乗りをするために朝食をすばやく食べて走って学校にいった。いたずらをするのも 「原田重吉一番のり」だった。軍国美談が肌に染み付いたようだった。和雄は「洋武のやつ。いつのまにか海軍から陸軍に乗りかえたらしい」 と冷やかし気分に苦笑していた。
日本が明治になって最初の大掛かりの戦争であった日清戦争は一九九四年(明治二七年) から二年間、朝鮮を舞台に日本と中国との間でたたかわれた。日本が清国に勝ってそれ以来、朝鮮は日本の覇権《はけん=(注)》のもとにあった。一九一〇年(明治四三年) 日本は 「日韓併合」を強行して韓国を全面的に軍事占領して植民地にしてしまった。とくに平壌での戦争は日清戦争の勝敗を決める戦争だった。千年の歴史をもつ平壌城の玄武門も牡丹台も乙密台もその古戦場だった。「木口小平は死んでもラッパを放しませんでした」という修身の教科書に載っていた忠君愛国、そして死ぬまで天皇陛下に尽くす教訓も、原田重吉の一番のりの軍国美談も日清戦争での話だった。そして、大東亜戦争でも戦意高揚に大きな役割を果たした。
注:特定の人物又は集団が長期にわたって ほとんど不動と思われる地位或は権力を掌握する事
五月がちかづくと、背の低い潅木のレンギョウが小さな黄色な花を付けた。それが合図のようにつつじもアカシヤの花も桜の花もいっせいに咲き出し最もよい季節だった。北朝鮮には七月と九月にはまとまった雨が降ったが、梅雨はなかった。旱魃と大雨が交互に襲う激しい気候だが、全体として雨が少なく、乾燥した季節が続いた。とくに五月はさわやかな季節だった。
五月の終わりには全校で春の遠足に行った。一年生から六年生まで一緒に遠足に出かけた。それとは別に五年生、六年生は京城(今のソウル)まで修学旅行にいった。
最初の春には見竜湖だった。見竜湖は順安駅から北にむかって次ぎの駅、石巌駅をおりるとすぐそこにあった。石巌駅につくと順ちゃんのお父さんが待っていた。平原郡水利組合の専務さんとしてわざわざ案内にかけつけ、その湖の説明をした。
「この見竜湖は、普通江をせき止めて出来た貯水池です。この貯水池ができて、平壌までの間、八里下流まで水が供給されるようになりました。この貯水池で潅漑された面積は五千町歩になります。そのために畑だったところが水田になりました。いままで朝鮮人は粟を常食にしていましたが、ここに貯水池ができたおかげでお米を食べれるようになったのです。朝鮮では旱魃があたりまえでしたが、旱魃の時にもこの貯水池のおかげで被害を少なく押さえることができました」。
やっと百まで数えられるようになったばかりの私にとって五千町歩がどれほど広いかわからなかった。ただ、平原郡水利組合が、平安南道では一番広く朝鮮全体でも屈指の水利組合だということだけは理解できた。順安にもため池があって、ときどき砂金会社のおじさんたちにつれられて釣りに行ったことがあった。しかし、その貯水池はため池などとは比較にならないほど大きかった。周囲が六里 (二十四キロ) もある真っ青な水をたたえ湖のような大きな貯水池だった。小船が浮き、岸辺から釣りをしている人があちこちにいて、周辺には青々とした森や林が続いていた。
順ちゃんのお父さんの案内で貯水池の事務所にはいりその庭でお弁当をたべた。貯水池の事務所で働いている朝鮮人が男も女も総出で先生と子供達の接待をしていた。ここでは朝鮮人同士が朝鮮服を着て朝鮮語で話していたことがたいへん珍しかった。順安でもほとんどの役所や砂金会社でも朝鮮人もみんな官服を着て日本語を使っていた。
「朝鮮語を使っている」 と上級生が驚いたように聞いた。順ちゃんのお父さんは 「貯水池を作る時は、みんなでお金をだして朝鮮人も土地をたくさん出してできました。だから平安水利組合では、朝鮮人が働きやすいように朝鮮語をつかってもよいのです」 と説明した。由美が家でこの話しを両親にした時、両親はすこしいやな顔をした。そして 「菊村さんは朝鮮人にやさしいから」と言葉を継いだ。晋司もハナも朝鮮語が使われていることに不機嫌だった。
二年生の遠足は平壌だった。
平壌は南にむかって一時間近く汽車の乗った。西平壌駅という平壌駅の一つ前で降りた。
洋武は平壌には何度もハナに連れられていったことがあった。和雄が結核になったので、他の子供達に移らないように早く病気が見つかるように年に一度は、由美と洋武をつれて平壌にある道立病院で健康診断を受けに行った。洋武は検査のために血を採られるのが嫌いだった。病院ではいつも泣き叫んでいたが、ハナは「欲しいものは何でも買ってやるから我慢しなさい」と洋武をなだめていた。そのさいハナも子ども達を連れて、三越百貨店によって買物をしたり、エレベータにのって八階にある食堂で昼食をたべて一日を楽しんでいた。
しかし、遠足では平壌駅ではなくて西平壌駅でおりた。西平壌駅前には動物園があったが、もう戦時下で動物はほとんどいなかった。やぎとか朝鮮の山中に生息するかもしかやノロなど小動物がいるだけだった。動物園をそこそこにして私たちは玄武門にむかった。
玄武門は石垣で谷間をふさぐように出来ていた。真中に円形のくぐりがあったがその上にはいかめしい建て屋があった。その両側には石垣が積んであり門くぐりを抜けないかぎり難攻不落のように見えた。
中村剛三校長先生はみんなの足を止めさせて「ここが玄武門だ。今から五〇年前、清国軍四万と日本軍一万五千が日清戦争最大の戦争を行い、支那兵(清国兵・中国兵)を木っ端にやっつけたところだ。日本軍は清国軍・支那兵を平壌城で包囲したがなかなか苦戦をした。この玄武門でも激しい戦いが行われ、どうしてもこの門を突破できなかった。その時、原田重吉一等兵が鉄砲を肩に担いではしごを上り、一人で敵陣に切りこんだんだ。それを見た味方の日本軍は『原田一等兵を見殺しにするな』と一挙に攻めたて、さすがの玄武門も陥落した。これが『原田一等兵の一番乗り』というんだ。原田一等兵はこの手柄で金鶉勲章という一番えらい勲章をもらい上等兵に昇進した」。
「おまえたちは木口小平を知っているね」。
木口小平は、修身の教科書に 「木口小平は死んでもラッパを放しませんでした」 と教えられよく知っていた。「木口小平が名誉の戦死をしたのも日清戦争でこれは朝鮮の成歓の戦いの時だった。成歓というのは京城の南のところにあるんだよ」。
玄武門の石垣に弾丸の跡がいっぱいあった。
「ここにもここにも」。子供達は日清戦争の古戦場で昔の兵隊さんのことを思い浮かべていた。
順安日本人国民学校の一行が坂道を登って乙密台に到着した時、そこには普通学校の朝鮮人の子供達が食事をしていた。校長先生が 「待っていいから」とことわりをいったが、日本人学校の子供達に遠慮したのか、普通学校の先生達がその子供たちを追い立てるように退いていった。
乙密台は広くはなかった。五メートル四方を一メートル程度の高さの石垣で囲み、あづまやのように柱があり屋根があった。北のほうの尾根伝いには、松に囲まれて牡丹台のやはりあづまやがみえた。先生が 「牡丹台は今日は行かないが、ここが平壌城の一帯だ」 と説明した。乙密台のはるか下のほうに大同江が真っ青の水をたたえてゆっくりと流れていた。順安にある普通江は泥水でいつも黄色く濁っていたが、大同江は真っ青でそこには帆かけ船や小船が二、三隻行き来をしていた。そして大同江の向こう側には飛行場があって日の丸をつけた飛行機が数機並んでいた。
乙密台で昼食をたべるとまた平壌の街に下りた。ちんちん電車(市電)に乗ったがすぐ電車の中で「起立-・」と車掌さんがいった。平壌神宮の前だった。電車が平壌神宮の前を通るたびに電車の中から神宮の方を向いて敬礼をすることになっていた。電車に乗っていた人達は、いっせいに立ちあがって神宮の方を向いて頭を下げた。
次の次の停留場でおりて、活動写真館(映画館)にはいることになった。洋武にとって幻灯は見たことがあった。それは京城師範にすすんだ羽野さんのお兄さんがわが家に幻灯器を持ちこんで家中で感心しながら見たことがあった。しかし、活動写真ははじめてだった。それだけでもわくわくするようなおもいだった。
映画は「真珠湾攻撃とマレー沖海海戦」だった。飛行機が航空母艦からいっせいにとびあがり、翼をならべて大空をとび、飛行服と飛行帽をかぶった飛行兵がお互いに手を上げて挨拶をしながら急降下して魚雷を打ち出す。そのたびに海柱がたち敵の軍艦が沈没する。飛行場に並んだ敵の飛行機が次々に火を吹いて格納庫ももえていく。飛行機が急降下していく様子は無敵の日本軍そのものだった。映画の観客から、しばしば歓声と拍手が起こつた。この遠足は玄武門での古戦場と活動写真で、洋武の軍国少年にますます磨きがかかることになった。
洋武はその日から「原田重吉の一番のり」というのをなんでもすることになった。学校も一番乗りをするために朝食をすばやく食べて走って学校にいった。いたずらをするのも 「原田重吉一番のり」だった。軍国美談が肌に染み付いたようだった。和雄は「洋武のやつ。いつのまにか海軍から陸軍に乗りかえたらしい」 と冷やかし気分に苦笑していた。
日本が明治になって最初の大掛かりの戦争であった日清戦争は一九九四年(明治二七年) から二年間、朝鮮を舞台に日本と中国との間でたたかわれた。日本が清国に勝ってそれ以来、朝鮮は日本の覇権《はけん=(注)》のもとにあった。一九一〇年(明治四三年) 日本は 「日韓併合」を強行して韓国を全面的に軍事占領して植民地にしてしまった。とくに平壌での戦争は日清戦争の勝敗を決める戦争だった。千年の歴史をもつ平壌城の玄武門も牡丹台も乙密台もその古戦場だった。「木口小平は死んでもラッパを放しませんでした」という修身の教科書に載っていた忠君愛国、そして死ぬまで天皇陛下に尽くす教訓も、原田重吉の一番のりの軍国美談も日清戦争での話だった。そして、大東亜戦争でも戦意高揚に大きな役割を果たした。
注:特定の人物又は集団が長期にわたって ほとんど不動と思われる地位或は権力を掌握する事