戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・8 (林ひろたけ)
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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ) (編集者, 2008/7/5 9:05)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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連隊旗がわが家に泊まった
二年生の夏休みの終わり頃、中国戦線にむかう軍隊が順安を中心に演習をしながら北上していくことになった。兵隊さんは普通学校にとまったが、将校たちは民宿で主として日本人家庭に分宿することになった。連隊長さんは、砂金会社の所長をしている大村さんのところにとまることになり、林家には連隊旗がとまることになった。演習の一週間も前からわが家は緊張していた。
床の間にあった「千代の桜」の酒樽は片付けられ、ハナは家中を入念に拭き掃除を繰り返した。
在郷軍人全会長の父は「こんな名誉なことはない」とさかんに家族に気合をかけていた。
「連隊旗は天皇陛下が直接その連隊に授与するんだ。乃木大将西南の役のとき敵に連隊旗を奪われて自害しようとしたが、明治天皇にそれをとめられた。そのことを終生恩義に感じて明治天皇が崩御 (ほうぎょ)《注1》 されたとき殉死《注2》された。それほど大事なものだ。」
父は夕食の時に家族に説教した。
その日夕方、連隊旗が数人の兵隊さんにまもられてわが家にやってきた。若い少尉さんが連隊旗手で見るからに子どもこどもしていた。「まあ若いのね」 と母が大きな声を出したのでまわりの人がどっと笑った。父は五〇才をこえてやっと少尉になった。しかし、この連隊旗手は二十才前ですでに少尉だった。ハナは 「陸士(陸軍士官学校) か海兵 (海軍兵学校) に行かないと」 と それからもしばしば子ども達に諭していた。
「連隊旗は新任の少尉が旗手をつとめるのだ」 と父が説明をした。連隊旗は床の間に置かれ、由美と洋武はいっしょに拝みに行った。連隊旗の中には歴戦のたたかいでぼろぼろになって端だけ残っているものもあると聞いていたが、わが家にやってきた旗は新品に近かった。家の中なのに、旗の両側には銃剣をつけた兵隊さんが歩哨《ほしょう=注3》に立っていた。わが家の門にも玄関にもそれぞれ歩哨が立ち夜中にも交代で兵隊さんがたっていた。
翌日、兄和雄に連れられて順ちゃんも含めて友達といっしょに演習を見学に行くことになった。
街の東側に、そしていままで行ったこともない街はずれまでつれていかれた。
赤いレンガつくりの二階建てで、芝生からそのまま二階にはいれるような洋風の家が、数軒広い芝生の中にきちんと並んでいた。
「外国にきたような立派な建物だな。誰が住んでいるのかなあ」という問いかけに、兄は「毛唐(西洋人のこと)が住んでいた。耶蘇教(キリスト教)の布教ということを理由に病院までつくっていた。ここには毛唐の医者が住んでいたが支那事変(日中戦争)がはじまるとみんな国に帰ったんだ」。順安にはキリスト教会があった。その付属病院もあり学校もあった。しかし、私がもの心がついた頃は、戦争がはじまる前にそれらはみんな閉鎖になっていた。それらの家の入り口はみな板で釘づけになっていた。
兄は「耶蘇教の布教を理由に朝鮮にはアメリカから毛唐がたくさんきていて、キリストは天皇陛下より偉いなど日本人に反抗させたり、その上スパイをしたりして悪いことばかりするんだ。奴らはアメリカから金を送ってくるので、電気仕掛けで水道を動かしたり金にあかして賛沢をしていたんだ。ひどいのは朝鮮人の子供がリンゴ泥棒をしたら、額に泥棒とヤキをいれて見せしめにしたこともあった。毛唐は黒人を奴隷にしただけでなく黄色人種も馬鹿にしているんだ。そうした連中だからみんな本国に帰らせたのだ」という説明をした。
「リンゴ泥棒をしたら塩酸で額にリンゴ泥棒と書かれる。アメリカ人は黒人を奴隷にする時、直接肌に焼きを入れて人間の売買をした。お前らも戦争に負けたら奴隷にされてしまう」。黄色人種を奴隷にしようとしている証拠のように先生から話を聞いたことがあった。
まだ、林家が朝鮮に来る前の大正十五年(一九二五年) 順安在住のアメリカ人牧師のへイズマーは、リンゴ泥棒をする朝鮮人の子どもらに手をやいて、泥棒をした子供たちを捕まえて塩酸で「リンゴ泥棒」 と額に書いてお仕置きをした。これを平壌の検察庁が 「人種差別」 だと起訴をした。この牧師はお詫びの新聞広告をだして母国に帰っていった事件があった。この事件はキリスト教を敵視していた朝鮮総督府の格好のキリスト教排撃のキャンペーンの材料になっただけでなく、プロテスタントもカソリックも布教に大きな障害になっていた。
昭和十年 (一九三五年)、朝鮮総督府は朝鮮のすべての学校の生徒達に 「神社参拝」 を義務づけた。平壌の崇実学校と安息教系の順安義明学校の校長は 「キリスト教の学校ではそれはしたがえない」 と拒否する態度を表明した。総督府は直ちに 「神社参拝は宗教行事あらず。皇国臣民を教育するために必要不可欠な行事である。神社参拝を行わない学校の閉校も辞せず」 という態度を表明した。順安の義明学校の校長はそれを機にアメリカ本国に戻り、順安の義明学校は閉校になった。
順ちゃんが 「長崎のおばあちゃんの家の側にも大きな教会があったよ」 といったので私はびっくりした。「内地にもキリスト教があるの。天皇陛下とどちらがえらいの」。兄は 「それは天皇陛下にきまっている。天皇陛下は二千六百年もつづいている万世一系の神様だ。大東亜戦争は毛唐を追い出して、天皇陛下がアジアを治める為にはじめた戦争じゃないか」。
陸軍演習の方は遠くでばちばち小銃の音がするだけで戦車を先頭にまわりを兵隊さんが走っていったり、「突撃!」といって進んでいくことを想像していたが、どこにもそんな演習風景はなくさっばりだった。「ぼくウンチがしたい」と土まんじゅうと私たちがよんでいた朝鮮のお墓のかげで洋武はウンチをした。他の子ども達も並んでおしっこをした。その時だった。墓のかげで洋武がお尻を出してウンチをしていたすぐ側から兵隊さん二人ほどぬっと出てきた。頭には木の枝をつけて、背中には草をつけた迷彩をつけた兵隊さんだった。私たちに「しっー」と口に指をつけて声出さないように命じた。それから「斥候なんだ。しづかにしてね」と優しい声をかけて走っていった。私たちは腰が抜けるほどびっくりした。「やっぱり演習していたんだ。どこで敵と味方がわかれているのかな」。
結局演習をみたのはそれだけだった。しかし、洋武にとってそれだけでも大満足だった。とくに西洋風の家が並んでいた教会があるあたりは、いままで行ったことがなかっただけに順安の新しいところを探検した気分になっていた。新聞もラジオも「壁に耳あり、障子に目あり。スパイの動きに気をつけましよう」とさかんに宣伝していただけに、順安にもスパイがきたことがあり気をつけないと行けないのだと気を引き締めていた。
注1:天皇、皇帝、国王、太皇、皇太后、皇后その他君主等の死去を婉曲的に かつ敬意を込めてさす語
注2:王や皇帝、首長、祭司王などの喪や埋葬に際して近親者や従者がそれを追って死ぬ事
二年生の夏休みの終わり頃、中国戦線にむかう軍隊が順安を中心に演習をしながら北上していくことになった。兵隊さんは普通学校にとまったが、将校たちは民宿で主として日本人家庭に分宿することになった。連隊長さんは、砂金会社の所長をしている大村さんのところにとまることになり、林家には連隊旗がとまることになった。演習の一週間も前からわが家は緊張していた。
床の間にあった「千代の桜」の酒樽は片付けられ、ハナは家中を入念に拭き掃除を繰り返した。
在郷軍人全会長の父は「こんな名誉なことはない」とさかんに家族に気合をかけていた。
「連隊旗は天皇陛下が直接その連隊に授与するんだ。乃木大将西南の役のとき敵に連隊旗を奪われて自害しようとしたが、明治天皇にそれをとめられた。そのことを終生恩義に感じて明治天皇が崩御 (ほうぎょ)《注1》 されたとき殉死《注2》された。それほど大事なものだ。」
父は夕食の時に家族に説教した。
その日夕方、連隊旗が数人の兵隊さんにまもられてわが家にやってきた。若い少尉さんが連隊旗手で見るからに子どもこどもしていた。「まあ若いのね」 と母が大きな声を出したのでまわりの人がどっと笑った。父は五〇才をこえてやっと少尉になった。しかし、この連隊旗手は二十才前ですでに少尉だった。ハナは 「陸士(陸軍士官学校) か海兵 (海軍兵学校) に行かないと」 と それからもしばしば子ども達に諭していた。
「連隊旗は新任の少尉が旗手をつとめるのだ」 と父が説明をした。連隊旗は床の間に置かれ、由美と洋武はいっしょに拝みに行った。連隊旗の中には歴戦のたたかいでぼろぼろになって端だけ残っているものもあると聞いていたが、わが家にやってきた旗は新品に近かった。家の中なのに、旗の両側には銃剣をつけた兵隊さんが歩哨《ほしょう=注3》に立っていた。わが家の門にも玄関にもそれぞれ歩哨が立ち夜中にも交代で兵隊さんがたっていた。
翌日、兄和雄に連れられて順ちゃんも含めて友達といっしょに演習を見学に行くことになった。
街の東側に、そしていままで行ったこともない街はずれまでつれていかれた。
赤いレンガつくりの二階建てで、芝生からそのまま二階にはいれるような洋風の家が、数軒広い芝生の中にきちんと並んでいた。
「外国にきたような立派な建物だな。誰が住んでいるのかなあ」という問いかけに、兄は「毛唐(西洋人のこと)が住んでいた。耶蘇教(キリスト教)の布教ということを理由に病院までつくっていた。ここには毛唐の医者が住んでいたが支那事変(日中戦争)がはじまるとみんな国に帰ったんだ」。順安にはキリスト教会があった。その付属病院もあり学校もあった。しかし、私がもの心がついた頃は、戦争がはじまる前にそれらはみんな閉鎖になっていた。それらの家の入り口はみな板で釘づけになっていた。
兄は「耶蘇教の布教を理由に朝鮮にはアメリカから毛唐がたくさんきていて、キリストは天皇陛下より偉いなど日本人に反抗させたり、その上スパイをしたりして悪いことばかりするんだ。奴らはアメリカから金を送ってくるので、電気仕掛けで水道を動かしたり金にあかして賛沢をしていたんだ。ひどいのは朝鮮人の子供がリンゴ泥棒をしたら、額に泥棒とヤキをいれて見せしめにしたこともあった。毛唐は黒人を奴隷にしただけでなく黄色人種も馬鹿にしているんだ。そうした連中だからみんな本国に帰らせたのだ」という説明をした。
「リンゴ泥棒をしたら塩酸で額にリンゴ泥棒と書かれる。アメリカ人は黒人を奴隷にする時、直接肌に焼きを入れて人間の売買をした。お前らも戦争に負けたら奴隷にされてしまう」。黄色人種を奴隷にしようとしている証拠のように先生から話を聞いたことがあった。
まだ、林家が朝鮮に来る前の大正十五年(一九二五年) 順安在住のアメリカ人牧師のへイズマーは、リンゴ泥棒をする朝鮮人の子どもらに手をやいて、泥棒をした子供たちを捕まえて塩酸で「リンゴ泥棒」 と額に書いてお仕置きをした。これを平壌の検察庁が 「人種差別」 だと起訴をした。この牧師はお詫びの新聞広告をだして母国に帰っていった事件があった。この事件はキリスト教を敵視していた朝鮮総督府の格好のキリスト教排撃のキャンペーンの材料になっただけでなく、プロテスタントもカソリックも布教に大きな障害になっていた。
昭和十年 (一九三五年)、朝鮮総督府は朝鮮のすべての学校の生徒達に 「神社参拝」 を義務づけた。平壌の崇実学校と安息教系の順安義明学校の校長は 「キリスト教の学校ではそれはしたがえない」 と拒否する態度を表明した。総督府は直ちに 「神社参拝は宗教行事あらず。皇国臣民を教育するために必要不可欠な行事である。神社参拝を行わない学校の閉校も辞せず」 という態度を表明した。順安の義明学校の校長はそれを機にアメリカ本国に戻り、順安の義明学校は閉校になった。
順ちゃんが 「長崎のおばあちゃんの家の側にも大きな教会があったよ」 といったので私はびっくりした。「内地にもキリスト教があるの。天皇陛下とどちらがえらいの」。兄は 「それは天皇陛下にきまっている。天皇陛下は二千六百年もつづいている万世一系の神様だ。大東亜戦争は毛唐を追い出して、天皇陛下がアジアを治める為にはじめた戦争じゃないか」。
陸軍演習の方は遠くでばちばち小銃の音がするだけで戦車を先頭にまわりを兵隊さんが走っていったり、「突撃!」といって進んでいくことを想像していたが、どこにもそんな演習風景はなくさっばりだった。「ぼくウンチがしたい」と土まんじゅうと私たちがよんでいた朝鮮のお墓のかげで洋武はウンチをした。他の子ども達も並んでおしっこをした。その時だった。墓のかげで洋武がお尻を出してウンチをしていたすぐ側から兵隊さん二人ほどぬっと出てきた。頭には木の枝をつけて、背中には草をつけた迷彩をつけた兵隊さんだった。私たちに「しっー」と口に指をつけて声出さないように命じた。それから「斥候なんだ。しづかにしてね」と優しい声をかけて走っていった。私たちは腰が抜けるほどびっくりした。「やっぱり演習していたんだ。どこで敵と味方がわかれているのかな」。
結局演習をみたのはそれだけだった。しかし、洋武にとってそれだけでも大満足だった。とくに西洋風の家が並んでいた教会があるあたりは、いままで行ったことがなかっただけに順安の新しいところを探検した気分になっていた。新聞もラジオも「壁に耳あり、障子に目あり。スパイの動きに気をつけましよう」とさかんに宣伝していただけに、順安にもスパイがきたことがあり気をつけないと行けないのだと気を引き締めていた。
注1:天皇、皇帝、国王、太皇、皇太后、皇后その他君主等の死去を婉曲的に かつ敬意を込めてさす語
注2:王や皇帝、首長、祭司王などの喪や埋葬に際して近親者や従者がそれを追って死ぬ事