戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・9 (林ひろたけ)
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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ) (編集者, 2008/7/5 9:05)
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編集者
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朝鮮人が日本人学校に転校してきた・その1
国民学校三年生になったとき校長先生がかわった。中村剛三先生は平安南道の視学に栄転された。視学というのは先生を監督する先生の中の先生だとおしえられた。新しい小島庄治先生は、平壌の若松国民学校からきた先生だった。中村先生は怖い先生だったが、よくわが家にも遊びにきてどことなし子供のこころに響くものがあった。
しかし、小島校長先生はすこし神経質だった。戦況が不利になるたびに、「わが国は神の国だから負けるわけにはいかない。負けるはずがない。必ず神風が吹いて日本を助けてくれる」とくり返し朝礼で話した。そして、八百年前蒙古に興った元という国が博多湾に攻め込んだとき、日本中の人が蒙古との戦争に勝つように祈ったら大風が吹いて蒙古の船にのった軍勢が難破し日本が戦争に勝った。しかもそれは一度ならず二回もあった。
同時に対馬や壱岐の日本人達は元の軍勢に襲われて、手のひらに穴をあけられそこに鎖をとおされ数珠繋ぎにされて海に投げ入れられたくさんの人達が殺された話しもあった。日本は国が出来てから二千六百年、外国の軍靴に踏みにじられたことのない神の国だ。日本中の人が必勝の信念で戦えば、神の国はいざとなったら神風が吹いて敵を必ずやっつける。そうした元寇の役の話をくり返ししてくれた。
父晋司は満州で戦争の経験があった。「戦争で負けると女や子どもは惨めだ。支那人(中国人)は可愛そうだった」。夕食の時そんな話をした。しかし、私たちはどんなに戦争の様子が不利になっても負けることなど露ほども考えていなかった。
サイパン島の日本軍が玉砕し、東条内閣が総辞職した。後任には朝鮮総督の小磯国昭が首相になった。ハナは東条英機首相の崇拝者だった。「東条さんがやめられて小磯さんでやっていけるのかしら」など心配した。小島校長先生は「朝鮮総督の小磯閣下が総理大臣になられた。朝鮮の皇国臣民は一億国民の先頭に立って勝利の日までがんばりましょう」と訓辞した。その頃、先生の朝礼での訓示はだんだん長くなっていた。同時に、いっそう熱がこもってきた。
「日本は神の国だ。必ず神風が吹いて神様が助けてくれる」と同じことを子供に言い聞かせるというより自分に言い聞かせるように話をした。また、「アメリカというのは黒人や有色人種を隷にする国だ。もし日本がアメリカに負けたらお前たちもアメリカ人に売り飛ばされてしまう。だからアメリカには絶対に負けられない」と繰り返し話をした。普通の授業でも外国やアメリカの話はほとんどなかったが、アメリカの奴隷売買の話はくりかえされた。「鬼畜米英」ということばも、人間を家畜のように売り飛ばす国だということで子供たちにはよくわかった。そして、順安にいた宣教師のように、子どもの額に「泥棒」と焼きをいれるのがアメリカ人にちがいない。と思うようになっていた。
新聞には、顔をバンソウ膏をはったアメリカの大統領のルーズベルトや、腕を包帯でつったイギリス首相のチャーチルや、松葉杖をついた中国の蒋介石総統が敗残兵のように相談している漫画が書かれていた。ラジオでは「出て来いミニッツ、マッカーサー。出てくりや地獄に逆落し」という歌がさかんに流されていた。マッカーサーは米陸軍の総司令官。ミニッツというのは米海軍の太平洋軍の司令官だった。
ハナは毎月八日になると朝早く白いエプロンに大日本国防婦人会というたすきをかけて、姉と私を連れて順安神社に必勝祈願に出かけた。雨が降っても、雪の寒い日も八日にはかならず順安神社にいった。たいていの場合、朝鮮人の集団が「武運長久」とか「必勝の信念」とか書いた峨やら旗などをもって参拝していたが、朝鮮人たちは日本人の参拝より時間は早く日本人が行くころには解散していた。
「寒いから」などぐずぐずいうとハナは「戦地の兵隊さんのこと考えなさい。このくらいの寒さはなんでもないよ」と厳しくしかった。そこには十数人の日本人の女性たちが母と同じかっこうをして集まってきた。順安神社はわが家から数百メートルはど東にあってチョ卜した広場があり鳥居をくぐつて、丸太を横にして埋め込んだかなり急な階段を百段ほど上りきったところに、また鳥居があり小さな新しい白木造りの両があった。まだまわりの木々も決して大きくはないが、ハナは日本人がみんなで作ったのだと自慢げに話してくれた。簡単な掃除をして「大日本帝国の勝利と兵隊さんの武運長久とをお祈りしなさい」といって柏手をボンボンたたいてお祈りをした順ちゃんのお母さんはこのお参りにほとんど参加しなかった。 「子供も多いし遠いからね」 とハナは子供たちに説明したが、明らかに不満の様子だった。
戦争がすすむとお父さんが招集されて内地に帰っていく家庭も増えてきた。また砂金会社が規
模を縮小し、いつのまにか普通江の向こう側に浮いていたドレッジャーもなくなっていた。日本人国民学校のこどもたちも急速に減少していた。
日本人の子供が少なくなったせいか、内鮮一体のせいかよくわからなかったが、三年生になたとき、私たちの学年だけに椙山厚行君と新井親善君という二人の朝鮮人の友達が普通学校から転校してきた。二人とも母親につれられてきた。
椙山君の家は面長 (村長) さんだった。椙山君のお母さんは朝鮮人の民族衣装のチマとチョゴリをきていた。新井君の家は金融組合の専務理事さんだった。そしてお母さんはスカートとスーツ姿だった。ハナもそうだったが、日本人の女性は着物にもんぺをはいてエプロンする姿が普通のおばさん達の服装だった。そうしたなかで新井君のお母さんのスーツとスカート姿は女学生のお姉さんのようで新鮮にうつった。二人は教壇でまず母親たちが簡単なあいさつした。椙山君のお母さんは日本語がまだ朝鮮風だったが、新井君のお母さんはまったく日本人と変わらない達者な日本語であいさつをした。
二人の同級生たちはそれぞれあいさつをしたが、私たちにはショックをうけるほど立派なあいさつだった。二人とも 「日本が危急存亡のおり日本人学校で学ぶことができるのは皇国臣民として誇りであります。イッシドゥジンの皇恩に報いるためにいっそう勉強します」 などの内容だった。「皇恩に報いる」 ということは 「天皇陛下の恩に報いる」 ということはわかった。 「イッシドゥジン」 という言葉がわからなかった。その日の帰り道、順ちゃんと私は 「すげえなー。イッシドゥジンというのはどんな意味かな。内鮮一体という意味らしいな。あの人たちと太刀打ちできないよ」 と私たちは早くも気後れがした。
国民学校三年生になったとき校長先生がかわった。中村剛三先生は平安南道の視学に栄転された。視学というのは先生を監督する先生の中の先生だとおしえられた。新しい小島庄治先生は、平壌の若松国民学校からきた先生だった。中村先生は怖い先生だったが、よくわが家にも遊びにきてどことなし子供のこころに響くものがあった。
しかし、小島校長先生はすこし神経質だった。戦況が不利になるたびに、「わが国は神の国だから負けるわけにはいかない。負けるはずがない。必ず神風が吹いて日本を助けてくれる」とくり返し朝礼で話した。そして、八百年前蒙古に興った元という国が博多湾に攻め込んだとき、日本中の人が蒙古との戦争に勝つように祈ったら大風が吹いて蒙古の船にのった軍勢が難破し日本が戦争に勝った。しかもそれは一度ならず二回もあった。
同時に対馬や壱岐の日本人達は元の軍勢に襲われて、手のひらに穴をあけられそこに鎖をとおされ数珠繋ぎにされて海に投げ入れられたくさんの人達が殺された話しもあった。日本は国が出来てから二千六百年、外国の軍靴に踏みにじられたことのない神の国だ。日本中の人が必勝の信念で戦えば、神の国はいざとなったら神風が吹いて敵を必ずやっつける。そうした元寇の役の話をくり返ししてくれた。
父晋司は満州で戦争の経験があった。「戦争で負けると女や子どもは惨めだ。支那人(中国人)は可愛そうだった」。夕食の時そんな話をした。しかし、私たちはどんなに戦争の様子が不利になっても負けることなど露ほども考えていなかった。
サイパン島の日本軍が玉砕し、東条内閣が総辞職した。後任には朝鮮総督の小磯国昭が首相になった。ハナは東条英機首相の崇拝者だった。「東条さんがやめられて小磯さんでやっていけるのかしら」など心配した。小島校長先生は「朝鮮総督の小磯閣下が総理大臣になられた。朝鮮の皇国臣民は一億国民の先頭に立って勝利の日までがんばりましょう」と訓辞した。その頃、先生の朝礼での訓示はだんだん長くなっていた。同時に、いっそう熱がこもってきた。
「日本は神の国だ。必ず神風が吹いて神様が助けてくれる」と同じことを子供に言い聞かせるというより自分に言い聞かせるように話をした。また、「アメリカというのは黒人や有色人種を隷にする国だ。もし日本がアメリカに負けたらお前たちもアメリカ人に売り飛ばされてしまう。だからアメリカには絶対に負けられない」と繰り返し話をした。普通の授業でも外国やアメリカの話はほとんどなかったが、アメリカの奴隷売買の話はくりかえされた。「鬼畜米英」ということばも、人間を家畜のように売り飛ばす国だということで子供たちにはよくわかった。そして、順安にいた宣教師のように、子どもの額に「泥棒」と焼きをいれるのがアメリカ人にちがいない。と思うようになっていた。
新聞には、顔をバンソウ膏をはったアメリカの大統領のルーズベルトや、腕を包帯でつったイギリス首相のチャーチルや、松葉杖をついた中国の蒋介石総統が敗残兵のように相談している漫画が書かれていた。ラジオでは「出て来いミニッツ、マッカーサー。出てくりや地獄に逆落し」という歌がさかんに流されていた。マッカーサーは米陸軍の総司令官。ミニッツというのは米海軍の太平洋軍の司令官だった。
ハナは毎月八日になると朝早く白いエプロンに大日本国防婦人会というたすきをかけて、姉と私を連れて順安神社に必勝祈願に出かけた。雨が降っても、雪の寒い日も八日にはかならず順安神社にいった。たいていの場合、朝鮮人の集団が「武運長久」とか「必勝の信念」とか書いた峨やら旗などをもって参拝していたが、朝鮮人たちは日本人の参拝より時間は早く日本人が行くころには解散していた。
「寒いから」などぐずぐずいうとハナは「戦地の兵隊さんのこと考えなさい。このくらいの寒さはなんでもないよ」と厳しくしかった。そこには十数人の日本人の女性たちが母と同じかっこうをして集まってきた。順安神社はわが家から数百メートルはど東にあってチョ卜した広場があり鳥居をくぐつて、丸太を横にして埋め込んだかなり急な階段を百段ほど上りきったところに、また鳥居があり小さな新しい白木造りの両があった。まだまわりの木々も決して大きくはないが、ハナは日本人がみんなで作ったのだと自慢げに話してくれた。簡単な掃除をして「大日本帝国の勝利と兵隊さんの武運長久とをお祈りしなさい」といって柏手をボンボンたたいてお祈りをした順ちゃんのお母さんはこのお参りにほとんど参加しなかった。 「子供も多いし遠いからね」 とハナは子供たちに説明したが、明らかに不満の様子だった。
戦争がすすむとお父さんが招集されて内地に帰っていく家庭も増えてきた。また砂金会社が規
模を縮小し、いつのまにか普通江の向こう側に浮いていたドレッジャーもなくなっていた。日本人国民学校のこどもたちも急速に減少していた。
日本人の子供が少なくなったせいか、内鮮一体のせいかよくわからなかったが、三年生になたとき、私たちの学年だけに椙山厚行君と新井親善君という二人の朝鮮人の友達が普通学校から転校してきた。二人とも母親につれられてきた。
椙山君の家は面長 (村長) さんだった。椙山君のお母さんは朝鮮人の民族衣装のチマとチョゴリをきていた。新井君の家は金融組合の専務理事さんだった。そしてお母さんはスカートとスーツ姿だった。ハナもそうだったが、日本人の女性は着物にもんぺをはいてエプロンする姿が普通のおばさん達の服装だった。そうしたなかで新井君のお母さんのスーツとスカート姿は女学生のお姉さんのようで新鮮にうつった。二人は教壇でまず母親たちが簡単なあいさつした。椙山君のお母さんは日本語がまだ朝鮮風だったが、新井君のお母さんはまったく日本人と変わらない達者な日本語であいさつをした。
二人の同級生たちはそれぞれあいさつをしたが、私たちにはショックをうけるほど立派なあいさつだった。二人とも 「日本が危急存亡のおり日本人学校で学ぶことができるのは皇国臣民として誇りであります。イッシドゥジンの皇恩に報いるためにいっそう勉強します」 などの内容だった。「皇恩に報いる」 ということは 「天皇陛下の恩に報いる」 ということはわかった。 「イッシドゥジン」 という言葉がわからなかった。その日の帰り道、順ちゃんと私は 「すげえなー。イッシドゥジンというのはどんな意味かな。内鮮一体という意味らしいな。あの人たちと太刀打ちできないよ」 と私たちは早くも気後れがした。