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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・7 (林ひろたけ)

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通常 戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・7 (林ひろたけ)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/7/11 7:32
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 太平洋戦争と林家

 戦争のはじまりは勝利、勝利で、ラジオはいつも軍艦マーチがなっていて、南洋にもどんどん日本は進出していった。洋武が国民学校に入ると、日本がシンガポールを占領した記念にゴム鞠が国民学校生に全員にくばられた。海軍の山本五十六大将と陸軍の山下奉文大将は国民的英雄だった。山下大将はシンガポールを占領するときの司令官だった。英軍の司令官のパーシバル少将に無条件降伏を「イエスかノーか」と問いつめたことが何度も報道された。先生からもお話をきいた。シンガポール陥落の絵画も配られた。兄和雄も痛快そうに夕食の時その話をした。
 ハナは「乃木将軍は旅順をおとされた時、『昨日の敵は今日の友』といって、敵の将軍ステステルを大切にされたのに、山下将軍は『今日の友』として英軍を扱わないのね」と不満をもらした。ハナは小学校唱歌の「旅順陥落」の歌をよく口ずさんでいた。「時代がちがうんだよ」と和雄は説明していたが、山下将軍の怒涛の進軍は国民学校の子供たちをますます熱狂的にさせていた。続いてスマトラ島のバレンバンという油田地帯に落下傘部隊がおりて一気にスマトラ島を占領してしまっていた。
 どこかを日本軍が占領するたびに、兄和雄がオンドルのある部屋の壁にはりだしてある大東亜共栄圏地図に日の丸を記入していった。国民学校の低学年にしては、たいへん広い地理的な知識を身につけていった。南は豪州の北のラバウルから西はビルマ (ミヤンマー) まで日の丸は広がっていった。
 しかし、四月には太平洋のアメリカの空母から発進した爆撃機が東京はじめ日本の各都市に爆弾を落としていった。ラジオは 「わが方の被害は軽微」 と報じたが、東京に空襲があったと事態が深刻だった。続いて六月、ミッドウェイ沖海戦の時、軍艦マーチが流れ大勝利と報道されたが、晋司と和雄は 「どうも負けたらしい。アメリカの物量作戦にやられたらしい」 などと話していた。
 ラジオの大本営発表はいつも 「勝った勝った」 と報道していたが、昭和一八年になると勝ちいくさばかりではなく、子どもの目にも日本軍が負けることがあるのだと思うようになってきた。
昭和十八年二月にはガダガナル島から日本軍が 「転進」 したと発表されたが、和雄から 「あれは撤退だ」 と初めて日本が負けたことを教えられた。
 連合艦隊司令長官で真珠湾の英雄であった山本五十六大将が戦死した。ラジオは 「海ゆかば」を繰り返しながし、山本大将が元帥に昇進して国葬が行われることになった。
 「山本大将のようになる」ことを願っていた洋武は、山本大将の死にはたいへんなショックだった。大人達も山本大将の死が報じられると次々にわが家に集まってきて、戦況が深刻になっていることを心配そうに話していた。
 大人達は「日本にはまだ隠されている秘密兵器があり、いよいよになったらこの新兵器を使えばアメリカなどいっぺんにふきとんでしまう」という噂など口にしていた。戦争が初めほど「勝った勝った」でなかったが、無敵の日本軍が負けるはずはないと信じていた。新兵器の話も具体的ではなかったがきっと日本軍が勝つに決まっていると信じていた。ラジオでは大本営発表があるとき勝ち戦の時は「軍艦マーチ」だったが、山本大将の戦死や負け戦の報道の時には「海ゆかば」 だった。
 昭和一八年には「海ゆかば」が多くなった。山本元帥が戦死してまもなく、今度はアツツ島で「玉砕」が伝えられた。「玉砕」ということばを初めて耳にした。太平洋の最北にありアメリカ領のアリューシャン列島のアッツ島で二千人の守備隊が最後の突撃を行い全滅した。ラジオから「ああ山崎大佐指揮をとる」という歌が繰り返し流されてきた。山崎大佐はアッツ島の守備隊長だった。
 アッツ島の玉砕が伝えられてから一ケ月たったころ、ラジオから軍艦マーチが流れてきた。私はわくわくしながらどんな勝利のニュースかと思ってラジオを聞いた。しかし、それはアッツ島と同じアリユウシャン列島にあるキスカ島から、霧を利用して全員が無血で撤退できたというものだった。
 「なんだ。敵をやっつけたのじゃないのか。がっかりだな」と洋武がいって晋司からひどく怒られた。わが家の居間にかかげられた大東亜戦争の地図もあちこちに日の丸がたてられていたが、それが逆に黒く塗り潰されるようになっていった。
 そのころハナと晋司はよくけんかをしていた。夜おしっこにおきるとハナが泣きながら晋司とやり合っていた。それはハナが「内地に一度返して欲しい」と言うことだった。
 「母さんが死んだ時にも父さんが死んだ時にも帰してくれなかった。満州に嫁に来てから一度も内地に帰してもらえない人などいない。そのたびに余裕が出来たらといいながら、余裕が出来たころには、あなたが召集されてしまうし、やっとお金も時間も余裕ができたのだから一度内地に帰って、母や父の墓参りもすませたい」 とハナはくりかえし訴えていた。
 順安にいる日本人は夏休みや春休みには家族そろって内地に帰っていた。内地に帰るには、朝鮮の最南端の港町釜山港まで一日がかりで汽車で行き、関釜連絡船にのり、下関に出るまで二泊しなければならなかった。長野県のふるさとに帰ってくるのはどんなに急いでも十日間の日程が必要だった。
 それもあって晋司は 「会社勤めとはちがうんだから。それにこんな非常時に内地など帰っていられるか」と絶対に許さなかった。 洋武も友達がみんな内地の話をするたびに一度内地に帰ってみたかった。順ちゃんの家は春休みや夏休みのたびに長崎のおばちゃんの家に帰っていて、長崎弁を交えて、内地の話を自慢げにしてくれた。それがうらやましかった。また、俊雄兄さんがいる内地はどんなところか知りたかった。お母さんがけんかに勝って、一度内地にかえれればよいとひそかに願った。晋司は酒乱の傾向があった。夕方から酒をのみ、そして夜中のハナとの喧嘩はたいてい晋司の暴力になっていた。由美も洋武もその喧嘩で目を覚ましていたがじっとこらえていた。その時には父をうらみ母に同情した。
 昭和十八年の十月、下関と釜山を結ぶ関釜連絡船の崑崙丸(こんろん丸)が、アメリカの潜水艦によって沈没させられ、六〇〇名の民間人が犠牲になったという報道が伝えられたとき、朝の日本人社会に大きな不安がひろがった。内地と朝鮮を結ぶ動脈がアメリカの潜水艦で断ち切られることは、朝鮮にいる日本人にとって祖国がたち切られることを意味していた。そして、ハナは戦争が終わるまで内地には帰れないとあきらめていた。両親の夫婦げんかもなくなった。両親のけんかはなくなったが、ハナは晋司の悪口を時々子ども達にいうようになった。
 「小作人にあんなに居丈高になってどなることはないのに。応召中(軍隊にいっていた期間)、私を助けてくれた小作人を頭ごなしに怒鳴って。」などいっていた。そして、両手でこぶしをつくり二つを鼻の上に重ねて「少し小金がたまったからといって、こうなっているのよ」と晋司の悪口を子どもらにして聞かせた。そんなことは今までになかったことだった。
 晋司は鼻高々の得意の絶頂にあったことは確かだった。昭和になって朝鮮にきて十年後には二十数町歩の地主になっていた。順安の郵便局でも金融組合でも最高額の貯金を個人としては持っていた。両方で三十万円ぐらいはあったのではないか。ハナが思い出話に語ったことがあった。戦時国債の割り当てがあると積極的に買いつづけた。「戦争に勝つまではわが家の贅沢は国債を買うことだ」 など晋司は子供たちに自慢した。
 そして、順安の日本人社会の要職にもついていた。在郷軍人会長や水利組合の理事や警防団の副団長にもなっていた。
 ある夜、金融組合が火事になった。晋司は酒を飲んでいたが、警防団の服をきて出動して行った。父は夜遅く興奮気味に帰ってきたが、翌朝珍しく安田さんがわが家にやってきた。安田さんは面事務所に勤めていた。「林さん、大丈夫だったですか」 と心配していた。火事の現場に出かけて酒の勢いで「勇ましく」はあったが、危なくて同僚の消防手たちの邪魔になっていたようだった。
 「林さんは大分お酒が回っていたようですね」。この非常時に酒など飲んでいてという非難の気持ちがにじんでいた。安田さんをはじめ、順安の朝鮮人達は酒を飲まない人が多かった。それは禁酒運動をしていたキリスト教の影響だった。
 ハナは「私は耶蘇教はきらいだが、禁酒運動は大賛成よ」と晋司に皮肉を言うようになった。
 お酒も配給制になっていたが、どういうわけかわが家にはいつも酒があった。
 「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」という標語が街中に張り出されていた。
 「内地では一日二合五勺の配給だそうよ」と母がいっていたが、朝鮮の日本人社会ではまだ食糧の不安は切実のものではなかった。順安の日本人家庭では、まだどこの家でも白いご飯を食べて、大詔奉戴日の八日には麦のはいったご飯が出て「戦地の兵隊さんのことを思ってがんばりましよぅね。ほしがりません勝つまではよ」などハナはいっていたが食事が足りないということはなかった。

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