戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・6 (林ひろたけ)
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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ) (編集者, 2008/7/5 9:05)
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居住地: メロウ倶楽部
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安田さんがやめていった日
わが家では晋司が除隊し、洋武の世話に手がかからなくなってチーネがいなくなっていた。お米が供出制になって家の農園経営ができなくなり、普通学校にできた青年学校で教練《注1》を教えにいく以外、晋司はそう多忙というほどでなかった。しかし、一方では朝鮮人の青年たちが徴用《注2》で満州に行くなど、戦争がすすんで人手不足が深刻になっていた。洋武が二年生になる春休みに、安田さんもわが家をやめて面事務所に勤めることになった。
わが家を去る時みんなで食事をした。晋司だけお酒を飲んで上機嫌だった。
「安田は普通学校を出るときとても成績優秀だった。父親がいないから学費がなく上の学校にいけなかった。みんななんとかして、上の学校に行けと勧めた。しかし、安田の父親が万歳事件で暴徒で死んだことが分り、だれもすすめるのをやめただけでなく面事務所の小使いの仕事もだめになった。仕事もなかった。みんな手を引いたんだね。おれがその安田をひろいあげたのだ」。
安田さんは昭和五年から十年以上もわが家に尽くしてくれていた。日本語も上手で朝鮮人とは分からないくらいだった。
ハナが「父親がどんな人でも安田さんが立派だったらいいじゃないの。私はそう思って付き合ってきたの」。
安田さんはそれにも不満そうだった。「林さんたちがずっと使ってくれたことには感謝しています。でもぼくは立派な父だと尊敬しています」と一言いったきりだった。
洋武には安田さんのお父さんが、万歳事件で死んだという意味がよくわからなかった。
大正八年(一九一九年)まだわが家が朝鮮に来る前、朝鮮人が独立万歳と叫んで全朝鮮で運動がおこなわれた。毎日のようにどこかで騒動がおきたという。この時の中心的な役割をしたのは朝鮮のキリスト教徒など宗教家たちだった。平安南道には早くから耶蘇教(キリスト教)が入り平壌はその中心だった。順安もその影響があり、早くから教会やミッションスクールの義明学校も出来ていた。
順安で最初に移民してきた日本人は粟野さん一家だった。粟野さんの家は、おじさんは亡くなっていたが、リンゴ園の経営を手広くやって、一方家の裏には精米所を経営していた。「日韓併合」後まもない頃、東洋拓殖株式会社の土地を分けてもらい熊本から移住してきた粟野さん一家は、気位の高い一家だった。床の間には、侍が座っているように鎧甲が飾ってあって、おばさんは口癖のように 「わが家は士族で、先祖は熊本藩士だった」といっていた。晋司は酒を飲みながら「粟野さんところは東拓(東洋拓殖株式会社)から土地をもらって百姓をやってきたんだ。おれは裸一貫、退職金で土地を買い、ここまで来たんだ」と同じ農業経営という点で対抗意識を燃やしたりした。ハナはそのことを「いつまでも平民だの士族だの言うこともないのに」とあまり相手にしなかった。
粟野さんは早くから順安にきていたので順安の昔のことをよく知っていた。
「万歳事件のとき、順安でもたいへんだったのよ。私たちも危ないからといって平壌の連隊に避難したのよ。騒動というより戦争だったの。日本人の兵隊さんも戦死したが、朝鮮人もたくさん死んだのよ。順安警察署の前に広場にいっぱいになるほど朝鮮人が集まってワーワ一言ってたのよ。警察の人たちは赤インクを投げつけて、ヨボ(朝鮮人への蔑称)の服は白いでしょう。赤いのが目立つのよ。後で次々と警察が捕まえたのよ」と説明してくれたことがあった。
万歳事件は最初は平和的な示威行動だった。「独立万歳」を叫びながら韓国旗を振って行進をした。しかし、日本の憲兵の弾圧が激しく次第に暴動化してきた。特に、平壌周辺はキリスト教が朝鮮の中でも早くからはいった地域で方々で暴動化していった。
人口数千の面(村)である順安でも数回にわたって集会がもたれ、千数百人があつまったといわれていた。「日韓併合」前から日本人の手によって土地台帳が作られていた。完成したのは一九一八年頃だったが、その間、土地調査に反対したり、協力しなかった朝鮮人地主の土地は没収になり東洋拓殖株式会社の所有になったという。その土地を日本人移住者に、ただ同然か、特別な割安で分けられて、日本人の農家が朝鮮各地で誕生していった。順安には駅屯土という朝鮮王朝の土地があった。朝鮮の王朝が、全土に役人など使者を出すとき、出先での費用を捻出させるために、各地の農民に一定の土地を耕作させていた。安田さんの家も、わが家の老小作人もその駅屯土を耕作する農民だった。同じ農民でも王朝の使者が来るときだけ出費が求められるだけで実質的には、自作農とおなじだった。駅屯土の農民たちは、気位が高く土地も肥沃な土地だったので生活も恵まれていた。総督府の土地調査はこうした土地も王朝の土地ということで、みんな国有地にして、東洋拓殖会社に渡してしまっていた。万歳事件のときは 「独立万歳」 から 「土地台帳をかえせ」とはげしさをまし、面事務所をおそって土地台帳を焼却するところもでたという。順安でも回を重ねるごとに集会は激しさを増した。順安の日本人は平壌に避難したのだった。
洋武は晋司のアルバムの中にあった支那人 (中国人) が、数人死んでいて晋司が得意そうに軍刀を立てて座っている恐ろしい写真を思い出して、万歳事件もあんな風にやったのだろうかと想像した。
ただ 「朝鮮が独立する」 という意味がよく分からなかった。でも朝鮮人が集団で日本人に反乱をしたことだけはわかった。「そのころは順安にも今の武ちゃんの家のうらの山には、狼がでてウオーとほえたものよ」 と粟野さんのおばさんの話しだった。だから、それが遠い昔の話のようであまり実感はなかった。安田さんがまだ赤ちゃんの時、お父さんがその時反乱で死んでしまっていたという話があって、まだそんなに昔の話でなかったことが不思議だった。そのことを天皇陛下に反対した朝鮮人一家と言うことでいつまでも日本人は警戒していたのだった。
洋武は父晋司より母ハナのほうがずっーと好きだった。しかし、ハナひげを蓄え、軍服を着てサーベルをつって歩く父晋司をたいへん自慢にしていた。わが家にある数少ないレコードのなかに 「僕は軍人大好きよ。勲章下げて剣つって、お馬にのってハイ堂々?」という童謡があって何回も聞いた。晋司が国民学校の祝日の式典に参加するときには、この歌にあるような軍服姿で参加した。「父を尊敬しています」という安田さんを吉田松陰のようだとおもった。吉田松陰の絵本は俊雄兄さんが内地から帰ってきたときにお土産にもらった。その本に吉田松陰は国を思い、徳川幕府から死刑になったけどたいへんな親思いだったという逸話をおもいだしていた。
注1:軍事の基本訓練
注2:国家が国民に対し 徴兵の変りに使役や労務、労働を課する制度
わが家では晋司が除隊し、洋武の世話に手がかからなくなってチーネがいなくなっていた。お米が供出制になって家の農園経営ができなくなり、普通学校にできた青年学校で教練《注1》を教えにいく以外、晋司はそう多忙というほどでなかった。しかし、一方では朝鮮人の青年たちが徴用《注2》で満州に行くなど、戦争がすすんで人手不足が深刻になっていた。洋武が二年生になる春休みに、安田さんもわが家をやめて面事務所に勤めることになった。
わが家を去る時みんなで食事をした。晋司だけお酒を飲んで上機嫌だった。
「安田は普通学校を出るときとても成績優秀だった。父親がいないから学費がなく上の学校にいけなかった。みんななんとかして、上の学校に行けと勧めた。しかし、安田の父親が万歳事件で暴徒で死んだことが分り、だれもすすめるのをやめただけでなく面事務所の小使いの仕事もだめになった。仕事もなかった。みんな手を引いたんだね。おれがその安田をひろいあげたのだ」。
安田さんは昭和五年から十年以上もわが家に尽くしてくれていた。日本語も上手で朝鮮人とは分からないくらいだった。
ハナが「父親がどんな人でも安田さんが立派だったらいいじゃないの。私はそう思って付き合ってきたの」。
安田さんはそれにも不満そうだった。「林さんたちがずっと使ってくれたことには感謝しています。でもぼくは立派な父だと尊敬しています」と一言いったきりだった。
洋武には安田さんのお父さんが、万歳事件で死んだという意味がよくわからなかった。
大正八年(一九一九年)まだわが家が朝鮮に来る前、朝鮮人が独立万歳と叫んで全朝鮮で運動がおこなわれた。毎日のようにどこかで騒動がおきたという。この時の中心的な役割をしたのは朝鮮のキリスト教徒など宗教家たちだった。平安南道には早くから耶蘇教(キリスト教)が入り平壌はその中心だった。順安もその影響があり、早くから教会やミッションスクールの義明学校も出来ていた。
順安で最初に移民してきた日本人は粟野さん一家だった。粟野さんの家は、おじさんは亡くなっていたが、リンゴ園の経営を手広くやって、一方家の裏には精米所を経営していた。「日韓併合」後まもない頃、東洋拓殖株式会社の土地を分けてもらい熊本から移住してきた粟野さん一家は、気位の高い一家だった。床の間には、侍が座っているように鎧甲が飾ってあって、おばさんは口癖のように 「わが家は士族で、先祖は熊本藩士だった」といっていた。晋司は酒を飲みながら「粟野さんところは東拓(東洋拓殖株式会社)から土地をもらって百姓をやってきたんだ。おれは裸一貫、退職金で土地を買い、ここまで来たんだ」と同じ農業経営という点で対抗意識を燃やしたりした。ハナはそのことを「いつまでも平民だの士族だの言うこともないのに」とあまり相手にしなかった。
粟野さんは早くから順安にきていたので順安の昔のことをよく知っていた。
「万歳事件のとき、順安でもたいへんだったのよ。私たちも危ないからといって平壌の連隊に避難したのよ。騒動というより戦争だったの。日本人の兵隊さんも戦死したが、朝鮮人もたくさん死んだのよ。順安警察署の前に広場にいっぱいになるほど朝鮮人が集まってワーワ一言ってたのよ。警察の人たちは赤インクを投げつけて、ヨボ(朝鮮人への蔑称)の服は白いでしょう。赤いのが目立つのよ。後で次々と警察が捕まえたのよ」と説明してくれたことがあった。
万歳事件は最初は平和的な示威行動だった。「独立万歳」を叫びながら韓国旗を振って行進をした。しかし、日本の憲兵の弾圧が激しく次第に暴動化してきた。特に、平壌周辺はキリスト教が朝鮮の中でも早くからはいった地域で方々で暴動化していった。
人口数千の面(村)である順安でも数回にわたって集会がもたれ、千数百人があつまったといわれていた。「日韓併合」前から日本人の手によって土地台帳が作られていた。完成したのは一九一八年頃だったが、その間、土地調査に反対したり、協力しなかった朝鮮人地主の土地は没収になり東洋拓殖株式会社の所有になったという。その土地を日本人移住者に、ただ同然か、特別な割安で分けられて、日本人の農家が朝鮮各地で誕生していった。順安には駅屯土という朝鮮王朝の土地があった。朝鮮の王朝が、全土に役人など使者を出すとき、出先での費用を捻出させるために、各地の農民に一定の土地を耕作させていた。安田さんの家も、わが家の老小作人もその駅屯土を耕作する農民だった。同じ農民でも王朝の使者が来るときだけ出費が求められるだけで実質的には、自作農とおなじだった。駅屯土の農民たちは、気位が高く土地も肥沃な土地だったので生活も恵まれていた。総督府の土地調査はこうした土地も王朝の土地ということで、みんな国有地にして、東洋拓殖会社に渡してしまっていた。万歳事件のときは 「独立万歳」 から 「土地台帳をかえせ」とはげしさをまし、面事務所をおそって土地台帳を焼却するところもでたという。順安でも回を重ねるごとに集会は激しさを増した。順安の日本人は平壌に避難したのだった。
洋武は晋司のアルバムの中にあった支那人 (中国人) が、数人死んでいて晋司が得意そうに軍刀を立てて座っている恐ろしい写真を思い出して、万歳事件もあんな風にやったのだろうかと想像した。
ただ 「朝鮮が独立する」 という意味がよく分からなかった。でも朝鮮人が集団で日本人に反乱をしたことだけはわかった。「そのころは順安にも今の武ちゃんの家のうらの山には、狼がでてウオーとほえたものよ」 と粟野さんのおばさんの話しだった。だから、それが遠い昔の話のようであまり実感はなかった。安田さんがまだ赤ちゃんの時、お父さんがその時反乱で死んでしまっていたという話があって、まだそんなに昔の話でなかったことが不思議だった。そのことを天皇陛下に反対した朝鮮人一家と言うことでいつまでも日本人は警戒していたのだった。
洋武は父晋司より母ハナのほうがずっーと好きだった。しかし、ハナひげを蓄え、軍服を着てサーベルをつって歩く父晋司をたいへん自慢にしていた。わが家にある数少ないレコードのなかに 「僕は軍人大好きよ。勲章下げて剣つって、お馬にのってハイ堂々?」という童謡があって何回も聞いた。晋司が国民学校の祝日の式典に参加するときには、この歌にあるような軍服姿で参加した。「父を尊敬しています」という安田さんを吉田松陰のようだとおもった。吉田松陰の絵本は俊雄兄さんが内地から帰ってきたときにお土産にもらった。その本に吉田松陰は国を思い、徳川幕府から死刑になったけどたいへんな親思いだったという逸話をおもいだしていた。
注1:軍事の基本訓練
注2:国家が国民に対し 徴兵の変りに使役や労務、労働を課する制度