戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・4 (林ひろたけ)
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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ) (編集者, 2008/7/5 9:05)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
順ちゃんの家庭
父晋司が召集されているときも、除隊されて農園の経営にかかわっているときも、田植時期の水争いはたえなかった。わが家の小作地の水田の多くは、新しくできた貯水池の灌漑に頼っていた。北朝鮮の気候は激しかった。日照りと大雨とが交互にきた。しかも、少し日照りがつづくと貯水池からの水をめぐつて、水争いがおこり、わが家ではそれがたいへんな年中行事でもあった。
洋武が学校にあがった昭和一七年(一九四二年)は日照りの年だった。田植えの時期、わが家の小作人が三名ほど突如として警察に逮捕された。水争いが昂じて、朝鮮人の地主が三名を警察にっきだしたためだった。晋司はこれらの小作人を警察からうけとり、わが家につれて帰ってきた。相手側の地主もよびつけて激しく言い争っていた。
「水利組合にいって、菊村のおじさんにすぐきてくれるように」。洋武はお使いにだされた。晋司と菊村のおじさんは長いこと話し合っていた。菊村さんは、林家の小作人が決められた水を勝手に自分の田に引いて川下の田が困っていることを説明していた。しかもその小作人達は「うちは日本人の地主だから先にとる権利があるのだ」と無理を言っていることを晋司に説明していた。
昭和十四年(一九三九年)にも深刻な旱魃があった。南朝鮮では餓死者がでて社会不安がひろがっていた。北朝鮮の順安でも南ほどでないにしても旱魃があり、小作人同士での水争いは深刻だった。晋司は招集中で兵隊にでており、水争いはハナが対応しなければならなかった。平原郡の郡庁のあった永柔邑(邑は日本の町)にハナは、何度も呼ばれて水争いの調停におうじた。そのさい、主人が兵隊にいっている留守家族でしかも日本人だという点から、かなり有利な水配分が決められていた。それはその年だけの調停だったが、朝鮮人の小作人達は、今年の旱魃にも日本人の土地では先に水を取る権利があると主張していたらしかった。
「水がなければ田植えができない。供出の米もだせない」と脅すように晋司が菊村さんと相手側の朝鮮人の地主にいっていた。子供の私にも菊村の小父さんのいい方はよくわかった。
「菊村さんはどうして朝鮮人の味方をするの」。ときどきハナは嘆くことがあったが、その時もやはり日本人の地主でも思うようにならなかったらしい。
菊村のおじさんはまだ四〇才前の水利組合の専務理事だった。林家と菊村家は仕事のことでよく行き来したが、同時にハナにとって菊村のおじさんは、兄和雄の病気をめぐつての相談相手でもあった。和雄は平壌第一中学校の二年生のとき、父の厳命で陸軍幼年学校を受験した。身体検査で肺結核ということがわかり、ただちに平壌の道立病院に入院することになった。父晋司はちょうど召集され大農園の経営をひとりで切り盛りをしていただけに和雄の病気は、母ハナにとってたいへんな衝撃だった。和雄は一年ほどの長い入院生活のあと、自宅で療養して中学校卒業の資格をとるために専門学校入学検定試験 (専検) の勉強をしていた。洋武が国民学校にあがるころも病気はかなり良くなっていたが、和雄は外に出ることはめったになく和服姿で家で勉強をしていることが多かった。菊村さんは、内地にある長崎高等商業学校に在学中に結核になり、結局学校を中退してこの順安の水利組合の専務理事となっていた。ハナは菊村さんにいろいろ和雄の病気のことも相談する間柄になった。
ハナには二人の弟がいた。上の弟は長野師範から広島高等師範という中等学校の教員養成をする学校に進んだが、卒業することなく結核で亡くなった。もう一人の末の弟も長野師範をでて教師になったが、彼も子供を一人残して結核で死んでしまった。ハナの家系は結核にのろわれた家系だった。当時の日本人には、結核は国民病といわれるほど死ぬ人が多かった。それだけに和雄の結核は母には衝撃的だったが、結核の病気の先輩でもあった菊村さんにはなにかと相談する相手でもあった。
菊村さんがどこかに出張することになると留守中には家中して林家にとまりにきた。菊村さんの家は、国民学校の五年生の恵子姉さんと由美姉さんと同じ年の美代子さんと洋武と同じ年の順一君と弟の安夫君と、それにわたしたちが国民学校にあがって生まれた光夫君の五人姉弟家族だった。みんなでわが家の奥座敷とおもて座敷に菊村さんの一家の布団が敷かれ、枕を投げたり布団をつみあげて、そのうえから飛び降りたり大騒ぎだった。
晋司は菊村さんのことをよくほめていた。晋司にとって階級が絶対的だった軍隊生活の中で、二十歳前後で少尉になって父たちに命令を下す士官学校出の若い将校を相手にしてきただけに学校出にたいして無条件に信頼するところがあった。
「学校出はちがう。朝鮮人がいろいろ言うときにあっさり『そうか。それはおれのまちがいだった』とみとめる。ああした度量の大きな人間になれ」など兄たちに説教していた。
晋司は、菊村さんと激しく言い争っていたが、その時にもやはり菊村さんの言うとおりになったようだった。
洋武はよく菊村順ちゃんの家に遊びいった。家は水利組合の官舎だった。官舎は、警察署長や面長の官舎よりも大きな官舎だった。大きな家にオンドルはなかったが、ロシア式のペチカがあった。居間や応接間以外に、二つほどの子ども部屋もあった。順ちゃんの家には子供向けの本が一杯あった。きれいな絵本や子供向けの物語の本が部屋の本棚にあふれるようにならべてあった。
お父さんやお母さんの本棚もあった。私は順ちゃんに本を借りては帰るのを忘れて読んでいた。
わが家には子供向けの本も買ってもらったが、そうたくさんあるわけではなかった。とくに洋武の本というのは、兄俊雄が内地から朝鮮にかえってきた時、お土産にくれた 「吉田松陰」 とか「加藤清正の朝鮮征伐」 などという絵本があるだけだった。
和雄は座敷の表にある幅の広い廊下に椅子式の勉強机をだして勉強していたが、そこには和雄の難しそうな参考書や教科書が並べてあった。しかし、子どもが入ることは 「お兄さんの勉強のじゃまになる」 と禁じられていた。
わが家の両親の書棚には順ちゃんの家のように難しそうな本はなかった。キングとか婦人クラブとかの雑誌とその古い付録などの何冊かの本があるだけだった。
同時に、そこには晋司の軍隊時代の古いアルバムが何冊かあった。「公主嶺独立守備隊」 と金文字で表紙に書いてある写真集の一冊に、満州の匪賊《ひぞく(注1)》退治の写真があった。父だけが軍刀を立ててもち椅子に座り、数人の兵隊さんが銃剣つきの鉄砲を持って立っていた。父は隊長であった。
そして、その前にはいろいろな中国服を着た数人の死んだ匪賊が転がっていた。丁度、猟師たちが獲物をとってその前に誇らしげに写っているように死人を前にした恐ろしい写真だった。次のページには、十数人の匪賊の首だけが物干し竿のようなところにつるされている写真もあった。
洋武は一度それを見てから父の写真集は恐ろしくて近寄ることはなかった。戦争に負けるとああして敵に殺されるのかと思うとそれだけで身震いがした。
菊村さんの家はハナに言わせるとハイカラさんだった。いつか戦争がはじまったころだと思うが、おばさんがオルガンをひいて、おじさんと二人で気持ちよさそうに外国語の歌をうたっていた。それは聞いたことのない歌だった。
歌いおわると「武ちゃんところも歌をうたうことある」とおじさんがきいた。
「うーんお父さんが関の五本松を歌うよ」
「あっそうだな。お父さんは酔うとあれ歌うね」と笑った。
父は酔うと鼻の穴に煙草二本つっこみ「関の五本松、一本きりや四本」と歌いながら、おかしな手つきで踊りをおどった。母も小学唱歌を.口すさむことはあったが、わが家には蓄音機はあったがオルガンもなく、歌も歌うことは少なかった。
「あのね。この歌はドイツ語の歌だよ。英語でないからね。英語は敵性語だけどドイツは味方だからね」 とつけくわえた。
大きくなってあの時の歌は 「冬の旅」 の一節ではなかったかとおもう。
恵子さんも美代子さんも色が白くて可愛かった。「腺病質《注2》の質《た》ちだから。よく病気をする」 とおばさんがときどき嘆いていた。特に恵子さんは優しくておとなしかった。学校でも先生から特別大事にされているようでうらやましかった。
当時、どこの家も便所の落とし紙は新聞紙を使っていた。わが家では、ハナがもの差しで新聞を切ってそれを便所にいれていた。だから紙のはしはギザギザがいっぱいで大きさもふぞろいだった。しかし、順ちゃんの家では、鉄で切ってあって、ちょうど本の角のようにきちんとそろえて落とし紙が便所においてあった。便所もいつもきれいだった。ただ一度びっくりすることがあった。それは天皇陛下と皇后陛下の写真が胸の辺りから切られたままで、落とし紙にされていた。
毎月八日は大東亜戦争《注3》の開始日の十二月八日を記念して 「大詔奉戴日」《注4》 といった。この日には、大戦の詔勅と天皇陛下、皇后陛下の写真が新聞に載せられていた。わが家では 「もったいないことがあっては」 とハナはすぐ切り取りオンドルの焚き口で燃やしていた。順ちゃんちではその天皇、皇后の写真が落とし紙にされていた。私はそっとその紙をはずしポケットにいれて用をたした。
注1:土匪は政治的色彩の濃いもの 軍隊官憲の圧迫から逃れて匪賊に身をとうじたもの 生来土匪を家業するもの等に分けら れる官憲や軍閥への反発心が強く 有産階級にも敵意を抱い ていた そのスローガンは 梁山泊から 一貫して「富民を削いで貧民に分かつ」で あったようである
注2:体が弱く 神経質な体質
注3:太平洋戦争の呼称の一つで 大日本帝国時代の日本政府によって定められた呼称
注4:大東亜戦争(太平洋戦争)完遂のための大政翼賛の一環として1941年1月から終戦まで実施された国民運動
父晋司が召集されているときも、除隊されて農園の経営にかかわっているときも、田植時期の水争いはたえなかった。わが家の小作地の水田の多くは、新しくできた貯水池の灌漑に頼っていた。北朝鮮の気候は激しかった。日照りと大雨とが交互にきた。しかも、少し日照りがつづくと貯水池からの水をめぐつて、水争いがおこり、わが家ではそれがたいへんな年中行事でもあった。
洋武が学校にあがった昭和一七年(一九四二年)は日照りの年だった。田植えの時期、わが家の小作人が三名ほど突如として警察に逮捕された。水争いが昂じて、朝鮮人の地主が三名を警察にっきだしたためだった。晋司はこれらの小作人を警察からうけとり、わが家につれて帰ってきた。相手側の地主もよびつけて激しく言い争っていた。
「水利組合にいって、菊村のおじさんにすぐきてくれるように」。洋武はお使いにだされた。晋司と菊村のおじさんは長いこと話し合っていた。菊村さんは、林家の小作人が決められた水を勝手に自分の田に引いて川下の田が困っていることを説明していた。しかもその小作人達は「うちは日本人の地主だから先にとる権利があるのだ」と無理を言っていることを晋司に説明していた。
昭和十四年(一九三九年)にも深刻な旱魃があった。南朝鮮では餓死者がでて社会不安がひろがっていた。北朝鮮の順安でも南ほどでないにしても旱魃があり、小作人同士での水争いは深刻だった。晋司は招集中で兵隊にでており、水争いはハナが対応しなければならなかった。平原郡の郡庁のあった永柔邑(邑は日本の町)にハナは、何度も呼ばれて水争いの調停におうじた。そのさい、主人が兵隊にいっている留守家族でしかも日本人だという点から、かなり有利な水配分が決められていた。それはその年だけの調停だったが、朝鮮人の小作人達は、今年の旱魃にも日本人の土地では先に水を取る権利があると主張していたらしかった。
「水がなければ田植えができない。供出の米もだせない」と脅すように晋司が菊村さんと相手側の朝鮮人の地主にいっていた。子供の私にも菊村の小父さんのいい方はよくわかった。
「菊村さんはどうして朝鮮人の味方をするの」。ときどきハナは嘆くことがあったが、その時もやはり日本人の地主でも思うようにならなかったらしい。
菊村のおじさんはまだ四〇才前の水利組合の専務理事だった。林家と菊村家は仕事のことでよく行き来したが、同時にハナにとって菊村のおじさんは、兄和雄の病気をめぐつての相談相手でもあった。和雄は平壌第一中学校の二年生のとき、父の厳命で陸軍幼年学校を受験した。身体検査で肺結核ということがわかり、ただちに平壌の道立病院に入院することになった。父晋司はちょうど召集され大農園の経営をひとりで切り盛りをしていただけに和雄の病気は、母ハナにとってたいへんな衝撃だった。和雄は一年ほどの長い入院生活のあと、自宅で療養して中学校卒業の資格をとるために専門学校入学検定試験 (専検) の勉強をしていた。洋武が国民学校にあがるころも病気はかなり良くなっていたが、和雄は外に出ることはめったになく和服姿で家で勉強をしていることが多かった。菊村さんは、内地にある長崎高等商業学校に在学中に結核になり、結局学校を中退してこの順安の水利組合の専務理事となっていた。ハナは菊村さんにいろいろ和雄の病気のことも相談する間柄になった。
ハナには二人の弟がいた。上の弟は長野師範から広島高等師範という中等学校の教員養成をする学校に進んだが、卒業することなく結核で亡くなった。もう一人の末の弟も長野師範をでて教師になったが、彼も子供を一人残して結核で死んでしまった。ハナの家系は結核にのろわれた家系だった。当時の日本人には、結核は国民病といわれるほど死ぬ人が多かった。それだけに和雄の結核は母には衝撃的だったが、結核の病気の先輩でもあった菊村さんにはなにかと相談する相手でもあった。
菊村さんがどこかに出張することになると留守中には家中して林家にとまりにきた。菊村さんの家は、国民学校の五年生の恵子姉さんと由美姉さんと同じ年の美代子さんと洋武と同じ年の順一君と弟の安夫君と、それにわたしたちが国民学校にあがって生まれた光夫君の五人姉弟家族だった。みんなでわが家の奥座敷とおもて座敷に菊村さんの一家の布団が敷かれ、枕を投げたり布団をつみあげて、そのうえから飛び降りたり大騒ぎだった。
晋司は菊村さんのことをよくほめていた。晋司にとって階級が絶対的だった軍隊生活の中で、二十歳前後で少尉になって父たちに命令を下す士官学校出の若い将校を相手にしてきただけに学校出にたいして無条件に信頼するところがあった。
「学校出はちがう。朝鮮人がいろいろ言うときにあっさり『そうか。それはおれのまちがいだった』とみとめる。ああした度量の大きな人間になれ」など兄たちに説教していた。
晋司は、菊村さんと激しく言い争っていたが、その時にもやはり菊村さんの言うとおりになったようだった。
洋武はよく菊村順ちゃんの家に遊びいった。家は水利組合の官舎だった。官舎は、警察署長や面長の官舎よりも大きな官舎だった。大きな家にオンドルはなかったが、ロシア式のペチカがあった。居間や応接間以外に、二つほどの子ども部屋もあった。順ちゃんの家には子供向けの本が一杯あった。きれいな絵本や子供向けの物語の本が部屋の本棚にあふれるようにならべてあった。
お父さんやお母さんの本棚もあった。私は順ちゃんに本を借りては帰るのを忘れて読んでいた。
わが家には子供向けの本も買ってもらったが、そうたくさんあるわけではなかった。とくに洋武の本というのは、兄俊雄が内地から朝鮮にかえってきた時、お土産にくれた 「吉田松陰」 とか「加藤清正の朝鮮征伐」 などという絵本があるだけだった。
和雄は座敷の表にある幅の広い廊下に椅子式の勉強机をだして勉強していたが、そこには和雄の難しそうな参考書や教科書が並べてあった。しかし、子どもが入ることは 「お兄さんの勉強のじゃまになる」 と禁じられていた。
わが家の両親の書棚には順ちゃんの家のように難しそうな本はなかった。キングとか婦人クラブとかの雑誌とその古い付録などの何冊かの本があるだけだった。
同時に、そこには晋司の軍隊時代の古いアルバムが何冊かあった。「公主嶺独立守備隊」 と金文字で表紙に書いてある写真集の一冊に、満州の匪賊《ひぞく(注1)》退治の写真があった。父だけが軍刀を立ててもち椅子に座り、数人の兵隊さんが銃剣つきの鉄砲を持って立っていた。父は隊長であった。
そして、その前にはいろいろな中国服を着た数人の死んだ匪賊が転がっていた。丁度、猟師たちが獲物をとってその前に誇らしげに写っているように死人を前にした恐ろしい写真だった。次のページには、十数人の匪賊の首だけが物干し竿のようなところにつるされている写真もあった。
洋武は一度それを見てから父の写真集は恐ろしくて近寄ることはなかった。戦争に負けるとああして敵に殺されるのかと思うとそれだけで身震いがした。
菊村さんの家はハナに言わせるとハイカラさんだった。いつか戦争がはじまったころだと思うが、おばさんがオルガンをひいて、おじさんと二人で気持ちよさそうに外国語の歌をうたっていた。それは聞いたことのない歌だった。
歌いおわると「武ちゃんところも歌をうたうことある」とおじさんがきいた。
「うーんお父さんが関の五本松を歌うよ」
「あっそうだな。お父さんは酔うとあれ歌うね」と笑った。
父は酔うと鼻の穴に煙草二本つっこみ「関の五本松、一本きりや四本」と歌いながら、おかしな手つきで踊りをおどった。母も小学唱歌を.口すさむことはあったが、わが家には蓄音機はあったがオルガンもなく、歌も歌うことは少なかった。
「あのね。この歌はドイツ語の歌だよ。英語でないからね。英語は敵性語だけどドイツは味方だからね」 とつけくわえた。
大きくなってあの時の歌は 「冬の旅」 の一節ではなかったかとおもう。
恵子さんも美代子さんも色が白くて可愛かった。「腺病質《注2》の質《た》ちだから。よく病気をする」 とおばさんがときどき嘆いていた。特に恵子さんは優しくておとなしかった。学校でも先生から特別大事にされているようでうらやましかった。
当時、どこの家も便所の落とし紙は新聞紙を使っていた。わが家では、ハナがもの差しで新聞を切ってそれを便所にいれていた。だから紙のはしはギザギザがいっぱいで大きさもふぞろいだった。しかし、順ちゃんの家では、鉄で切ってあって、ちょうど本の角のようにきちんとそろえて落とし紙が便所においてあった。便所もいつもきれいだった。ただ一度びっくりすることがあった。それは天皇陛下と皇后陛下の写真が胸の辺りから切られたままで、落とし紙にされていた。
毎月八日は大東亜戦争《注3》の開始日の十二月八日を記念して 「大詔奉戴日」《注4》 といった。この日には、大戦の詔勅と天皇陛下、皇后陛下の写真が新聞に載せられていた。わが家では 「もったいないことがあっては」 とハナはすぐ切り取りオンドルの焚き口で燃やしていた。順ちゃんちではその天皇、皇后の写真が落とし紙にされていた。私はそっとその紙をはずしポケットにいれて用をたした。
注1:土匪は政治的色彩の濃いもの 軍隊官憲の圧迫から逃れて匪賊に身をとうじたもの 生来土匪を家業するもの等に分けら れる官憲や軍閥への反発心が強く 有産階級にも敵意を抱い ていた そのスローガンは 梁山泊から 一貫して「富民を削いで貧民に分かつ」で あったようである
注2:体が弱く 神経質な体質
注3:太平洋戦争の呼称の一つで 大日本帝国時代の日本政府によって定められた呼称
注4:大東亜戦争(太平洋戦争)完遂のための大政翼賛の一環として1941年1月から終戦まで実施された国民運動