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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・2 (林ひろたけ)

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通常 戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・2 (林ひろたけ)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/7/6 7:35
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
  金の採れる里、順安面

 順安面は平壌の北二〇数キロにあった。現在は平壌市に合併され、平壌順安国際空港の存在地
である。
 北朝鮮の片田舎の順安面は国際空港ができるまで無名の村だった。しかし、日本に紹介された文献にはいくつかの記述がある。
 豊臣秀吉の朝鮮出兵(朝鮮では壬申倭乱という) のとき、小西行長は平壌まで占領した。このとき五〇日の休戦協定が結ばれたが、朝鮮とそれを支援していた明国の陣営が順安に置かれたと記録がある。一五九二年のことである。
 一九一九年の三・一独立万歳事件では、順安で一五八〇余名が六回にわたって集会を行い暴動になり、逮捕者一五七名をだし数十名が死傷した。
 三・一万歳事件とは、一九一〇年に「日韓併合」 (日本の朝鮮の軍事占領が全面化した年と韓国の教科書には書かれている)してから九年後、日本の植民地支配に反対した朝鮮人民が「朝鮮独立万歳」をとなえて各地で示威運動を行い、これに対して日本の官憲は激しい弾圧をおこない多数の民衆を虐殺した。朝鮮全土では当時の人口二千四百万人、参加者は二百二万人にのぼり、逮捕者四万七千人、死者七千五百人、負傷者一万六千人と記録されている。(「朝鮮独立運動の血史」 朴殿植著)。
 一九二五年順安にあるキリスト教系病院の経営者が、リンゴ泥棒に手をやいて朝鮮人少年の額に塩酸で「リンゴ泥棒」と書いた事件があった。当時、西洋人の 「有色人種蔑視事件」として、耶蘇教の人種差別事件として大々的な西洋人排斥運動に利用されたという。
 一九三五年、朝鮮総督府はすべての学校で神社参拝を行うことを通達した。これに対して、平壌崇実専門学校校長とともに順安義明中学校校長が「キリスト教を校是にしているわが校では生徒に神社参拝を強要することはできない」 と拒否をした。
 平安南道知事は 「わが国の教育方針に逆らう学校については廃校することもありうる」と強硬な態度に出たため、廃校問題がおこった。アメリカ人校長は帰国して順安義明学校は廃校になった。(以上の二項は 「日本の朝鮮支配と宗教政策」 韓哲義著)
一九五〇年朝鮮戦争初期に北朝鮮の捕虜になったアメリカ陸軍のディーン准将が順安捕虜収容所に収監された。(「朝鮮戦争」 児島襄著)
 一九五〇年の十月、朝鮮戦争で米軍の支援を得た韓国軍は平壌の占領をめざすとともに金日成を首班とする北朝鮮政府の退路を断とうと順川、粛川、永柔(平原郡部庁所在地)などに大量の空挺部隊を降下させた。このときすでに金日成ら政府首脳は中国国境に退避していた。(「朝鮮戦争」 児島襄著)

 父晋司の家は江戸時代の末期、長野県の山間地の大地主であった。晋司の祖祖父が、一里先の妾宅で死んだ時、他人の土地を踏まずに自宅に帰ってきたという逸話がある大地主であり、同時に名門でもあった。しかし、明治になって没落がはじまり祖父の代のとき、破産して、林家は一挙に落ちぶれほとんどの土地を失い小地主に転落した。父は次男であった。村の高等小学校を卒業すると横浜に糸相場商の丁稚になった。
 大正元年、徴兵検査とともに松本連隊に入るとすぐに満州(中国東北部)に派遣された。第一次大戦とシベリア出兵《注1》の戦争に参加し、十三年間の軍隊生活を経て曹長になっていた。
 大正十年、第一次大戦が終わった年、父は長野県の家のあとを継いだ兄嫁の妹であったハナを嫁にした。その四年後、軍縮で現地除隊することになった。長野県の山間地で育ち次男でもあった晋司は、「猫の額はど」の土地しかなかった長野の故郷に帰らず、大陸に土地を求めた。満州《注2》では日本人は土地をもてないからという理由で、晋司は退職金で朝鮮に土地を買って農業をはじめた。大正十四年(一九二四年) のことだった。
 十三年間、軍隊にいた晋司にとって自分の土地をもつことは生涯の夢だった。ちょうど順安の北方二里ほどのところに貯水池ができて灌漑がはじまろうとしていた。
 朝鮮では水田のことを沓 (とう) といった。当時の朝鮮総督府は朝鮮に水田を広めるために開沓事業にとりくんでいた。日本全土を揺り動かした一九一九年の米騒動《注3》以後、増大する日本の人口の米の不足を朝鮮で補うことを念頭に朝鮮全土で 「産米増殖運動」を大々的にすすめていた。
 たしかにそれまで粟を主食としていた北朝鮮の農民は米を手じかに手に入れることが可能になった。しかし、開沓事業は日本の米事情によって開始されたものであった。開沓事業によって強制的に水利組合に引き込まれ、土地取り上げが行われた。水利組合にくみこまれた土地には新たに多額な水利税がかけられたため、その負担に耐えきれない農民が続出した。開沓事業が始まると各地で旧来の朝鮮の地主達も自作農達も土地をつぎつぎに手放し始めていた。とくに北朝鮮はそれまで水田の発達がおくれていたため、開沓事業は大掛かりに進められた。それだけ農民の没落と階級分化は激しくすすんだ。朝鮮の植民地経営会社=東洋拓殖株式会社は日本人には金を貸したが、朝鮮人には担保なしに金を貸さなかった。そのため朝鮮人地主は新たな土地を手に入れることが出来ず、むしろ土地を手放すものが多かった。一方、日本人地主達は、日本人というだけで、次々に土地を拡大することができた。晋司はこうした気運のなか、畑地や荒地を購入し、畑地を水田に変えて開沓事業の先頭に立った。
 幸運にもめぐまれた。最初に購入した二町歩ほどの土地から砂金が出るということになった。
 その土地は大幅な値上がりをした。その土地を売っては新しい土地をつぎつぎに買い求め、砂金がでない土地は畑から水田にかえ十年足らずのうちに、二十数町歩の水田を所有する大地主、大農園を経営する大地主になっていた。
 朝鮮人の地主のことを両班 (ヤンバン) といった。ヤンバンとは正確には朝鮮の旧貴族のことを指しているのだが、総じて朝鮮人の金持ちのことをヤンバンといった。朝鮮の地主ヤンバンたちは、儒教の影響もあって自ら畑や田んぼにはいって働くことはしなかった。晋司は日本人の小地主出身らしくに自ら田んぼにも畑にもはいった。畑を平坦にして田んぼにするために自らチゲ(背負い子) を背負い、トロッコをおしたり土を運んだりして朝鮮人といっしょに働いた。満州から移ったばかりの時には、人夫集めにも苦労した。夕方にその日働いた賃金をその日のうちに人夫に支払った。働いても月末にならないと支払いをしない朝鮮流のやり方を変えた。また、新しく地主になったために小作人になる朝鮮人の確保にも工夫が必要だった。そのため小作人の扱いも日本流にした。朝鮮では小作人は土地を借りると収穫の五割を地主に取られた上、税金や水利税やさまざまな肥料代などの経費のすべての負担が小作人にかかった。しかし、晋司は日本流に小作料を五割にして、土地税や水利税などすべてを折半にした。小作料が他の朝鮮人地主に比較して割安になっていた。水田にした田の畔に日本流に畔豆を植えることを教え、それも日本と同じように小作人のとり分にした。そうした小作地経営は、そのかぎりでは朝鮮人の小作人に評判がよかった。晋司は、地元の朝鮮人地主との小作人獲得競争に勝つことができた。
 順安には警察署長や郵便局長、それに日本人学校と普通学校(朝鮮人の国民学校)に勤めている先生などと、リンゴ園など農園を経営している二・三世帯の日本人とそれに「請負師」とよばれる小土建業をしている数世帯の家族がいた。昭和五年ごろ砂金会社ができると順安砂金会社に勤めている従業員など加わり、八〇世帯ほどの日本人がいた。そして、日本人の多くは順安駅のまわりに日本人だけかたまって住むか、やはり順安駅のまわりにあった砂金会社の社宅に住むかそれぞれ日本人でかたまっていた。
 林家だけは順安駅から北に一キロはどの朝鮮人の部落、館北里のなかにあった。館北里は総じて貧しい集落だった。朝鮮人のヤンバンは住んでおらず、朝鮮人の家屋はほとんどが土間と部屋が一つあるだけの土塀で藁屋根の小さな家屋だった。オンドル《注4》一つの家は夏になるとほとんどの家族は、外で生活をした。夜は縁台を外に出しその上で寝ていた。赤ちゃんは道ばたでお尻をみんなに向けてウンチをした。すると、母親は「チョウ、チョウ」といって犬を呼んだ。野良犬がやってきて赤ちゃんのウンチをぺろりと食べてきれいに掃除をした。冬になると火事が多かった。オンドルの家は竃で炊いた火の煙を床下をとおして暖をとるが、その先の煙突のところが藁の屋根になっていて少し油断をするとすぐ火事になった。集落には共同井戸があった。井戸は深く、つるべを手でたぐつて汲み上げるため水くみには時間がかかった。共同井戸には近所のオマニ (お母さんの意) たちが集まって井戸端会議が繰り返されていた。
 そんな貧しい部落の中にあった林家はとりわけ目立つ家だった。丘の中腹に赤い屋根の大きな家と屋敷は周辺を威圧するようだった。居間にしていたオンドル、中の間、奥と表の座敷それぞれ一二畳はあり、オンドルの炊口にもなる大きな土間のある炊事場など大雑把な間取りだったが近辺の朝鮮人の家に比してもちろん、順安の日本人の家は多くは社宅や官舎だったので一きわ大きかった。また道路沿いの庭にはかなり大きな地下室が作られていた。林家にはポンプ式の井戸がありポンプで炊事場にも風呂場にも水が行くような水道管が設置してあった。
 順安面に住んでいる日本人の家には普通オンドルはなかった。その点、林家は朝鮮風と日本風を折衷した間取りだった。
 林家の東側は、京城と新義州をむすぶ京義国道に面しており国道側には長い板塀と門があった。国道は北にむかって上り坂になっていて、日に数回はとおるトラックは、わが家のまえでエンジンをふかし一段と大きな音をだして砂利道を砂挨をあげてのぼっていった。ときどき、日本人のトラック運転手が 「トラックの水をください」 といって立ち寄ることがあった。わが家をぬけると、すぐそこは大きな切りとおしになっていてそれを下りですぎると平らな畑と水田が続いていた。そして、家の西側の裏は、百メートルもいくとやはり京城と新義州をむすぶ京義本線 (鉄道)が走り、踏切があった。わが家は国道と鉄道にはさまれていた。踏切を渡るとすぐ普通江が流れていた。普通江はいつも黄河のように黄色に濁っていた。その濁った河べりでオマ二たちが砧をもって洗濯をしていた。夏には子供らは素っ裸で水浴びをし、冬には一面かちかちに凍った河の上でそり遊びやスケートに興じた。
 林家は四十本ほどのりんご畑に囲まれていた。リンゴ畑を丘の上までのぼると北側と西側が見渡すことができた。順安の集落がきれ北方に向けて京城と新義州を結ぶ京義本線と京義国道と大同江の支流になる普通江が、三本の縄をなうようにずっとつづいていて見渡すことができた。その平原に戦後平壌の国際空港にもなる順安飛行場の滑走路が出来たという。西側も普通江をはさんで、平原がつづいていた。
 普通江の向こうには、砂金をほりだすドレッジャーという砂金採取船(浚渫船)《しゅんせつせん》が三隻、四隻と年中地面をほりあげながら池を作り、膨大の砂利を後に残してすこしづつ進んでいた。ドレッジャーというのは小さなビルぐらいの大きさで、地をほりあげるバケットが連続していて砂をほりあげていた。砂の中から砂金をゆり分け水銀と結合させて採集する浚渫船だった。順安の砂金はとりわけ良質といわれた。通常は粟粒ほどの砂金を膨大の砂の中から、水銀アマルガムと結合させて採集していた。順安の砂金の中には、卵ほどの大きさの金塊が含まれていて、天覧に供された(天皇がごらんになること)と話題になった。ドレッジャーの中は、工場のようになってものすごい騒音と振動のなか、十数人の労働者が働いていた。
 林家から南側に三〇メートルほど下ると林家の農業倉庫があった。間口は二十間、奥行七間の高さは四間もある大きな農業倉庫だった。取り入れの秋ともなれば朝鮮人の小作人たちが牛車で米のつまった俵やら麻袋を運びこみ、高い天井にいっぱいにうめられていった。ときどきめずらしかったトラックが数台やってきてこの米俵を積み出していった。
 この農業倉庫は、晋司が農園を経営するなかで日本の米の相場にあわせて米の出荷を調節するために作られたものだった。集められた米は朝鮮人の口には届かず、直接日本に送られた。晋司が召集されていたとき、この倉庫の出し入れの采配は、すべて安田さんという朝鮮人の青年とチーネ (お手伝いさん=小娘という意) を使ってハナがやっていた。
 その農業倉庫の前には、藁屋根のオンドル一間と炊事場の土間がある小さな朝鮮家屋があった。その朝鮮家屋は、林家が満州から移住してきた時、三年ほど居住したものだった。秋になるとオンドルの部屋には取り入れられた綿が実の付いたまま天井まで積み込まれ、二~三人のオモニたちが終日、綿から実をはずす仕事をしていた。土間の方には、農業倉庫を管理する簡易事務所になっていて、安田さんの小さな机が置かれていた。机の上には安田さんの早稲田講義録がのっていた。安田さんは勉強家だった。土間には小作人に貸し出す脱穀機など農具の置き場所にもなっていた。
 晋司もハナも安田さんをたいへん気に入っていた。安田さんは順安の普通学校(朝鮮人の国民学校)をたいへん優秀な成績で卒業した。父親がいなかったので上の学校にはいかないで、普通学校を卒業したあと、林家で働くこととなった。とくに晋司が召集されている時は、ハナを助けてくれた。洋武が国民学校二年生になるまで安田さんはわが家で働いていた。洋武は近所の朝鮮人の子供とよく喧嘩をした。そのときもしばしば「それは武ちゃんが悪い」と叱かって、決して無条件に洋武の肩を持つようなことをしなかった。そのことを両親は洋武の教育のためにもよいことだと考えていたようだった。
 順安では五日ごとに定期市がたった。市の日には、林家から五百メートルぐらい南方のところから道の両側に露店がずっーと並んだ。
 市には何でもあった。魚や肉や野菜など山のようにつみあげられてオモこの売り子が掛け声を掛け合ってにぎわっていた。魚は太刀魚・たら・ほっけが多かった。五里(二十キロ)ほど西に行くとそこは黄海だった。黄海でとれた新鮮な魚が大量に市には並んでいた。バカチが山盛りにっみあげられていて、さかんに声をかけあって売っていた。バカチというのはひょうたんの一種で、日本のように徳利型にならずにスイカをまっ二つに切ってその中をくりぬいたかんじのもので、朝鮮では水汲みにもまたドンブリにも使っていたものだった。秋にはキムチの材料になる白菜や大根や唐辛子などが大きな山を作って売り出されていた。季節を通してチジミが売られていた。チジミは即席の竃が築かれて、鉄板の上に油を敷いて焼くやわらかなせんべいで、お好み焼きのような食べ物だった。チジミ売り場は定期市でもとりわけにぎやかだった。朝鮮の料理にはなんでも唐辛子がはいって辛いがそのお好み焼きも辛かったがおいしいものだった。
 ハナはチジミは子ども達に買って与えたが、朝鮮飴は絶対に買い与えなかった。真っ白い一口で食べられるような朝鮮飴を買ってくれと、洋武はしばしば座り込んではねだったが買わなかった。廃品回収をするくずやさんは、ビール瓶を持っていくと朝鮮飴を一つくれた。ハナは、ビール瓶を逆にして埋めて花壇のしきりにしていた。洋武はそのビール瓶を二本ほど抜いて飴と交換した。そのことを知ったハナは、子ども達を朝鮮飴を作るところに連れて行った。真っ黒い飴が柱のところに縛り付けられアポジ(お父さん)がその飴をひっぱったりのばしたりしていた。そのうちにアポジは手のひらにツバキをバッバッとつけてもむように引っ張ると真っ黒い飴は見る見るうちに白くなっていった。「あれをたべるのよ。おじさんのツバキがないと白くならないのよ」。ハナは実物教育をした。朝鮮飴を白くするのは当時から別の製法が使われていたが、市場に出てくる朝鮮飴やくず屋さんが交換する朝鮮飴はまだ非衛生的な製法から抜け出ていなかった。
 この市場に集まってくるオモ二たちは、買いこんだ荷物を頭に何重にも重ね、荷物が落ちないように腰をふりふり釣り合いを取って帰っていった。順安にはまとまったお店もなく、在留する日本人達もほとんどこの市場で買物をしていた。

 順安には幼稚園も保育園もなかった。しかも、近所には日本人の家庭はなかった。洋武にとって近所の朝鮮人の子どもと遊ぶ以外なかった。そのなかで、この市に行きチジミを買ってもらうことが洋武にとって最大の楽しみだった。安田さんはそんな時、朝鮮人の売り子との通訳の役割を果たしていた。
 家には朝鮮人の小作人たちがたえず出入りしていた。日本語のできる小作人もいたが、たいていの小作人は安田さんの通訳が必要だった。たいへんやさしいおじいさんの小作人がいた。その老小作人は昔はヤンバンで土地もちだったが、日本人に騙されて土地を人手に渡してしまい小作人になってしまった。という話しを安田さんがしていたことがあった。小作人たちがわが家に入ってくると、たいてい家に上がることを遠慮した。
 ハナは「うちでは居間はオンドルしかないんだから遠慮なくあがりなさいね」とオンドルでたいていのことはすんでいた。おじいさんはオンドルに胡坐《あぐら》をかいてすわると長いキセルを取り出しておいしそうにタバコを吸った。
 ハナは、「オンドルにあぐらをかいてすわるとそのあぐらのなかにちょこんと洋武は座るのが
おかしくて」とはなしていた。私もこのおじいさんだけはなぜか気が許せるように感じた。
 ハナは小柄で家族にはやさしかったが、朝鮮人の小作人たちにはきびしかった。
 まだ晋司が出征していたとき、その老いた小作人が小作料として牛車で運びこんだ俵の数が三俵たりなかった。
 「三俵というと一人が一年分食べる量よ。家を出るときあったからといって倉庫に入れるときなければどこかでくすねたのでしょう」
 ハナと激しい言い争いのなか決着がつかず警察を呼んだ。出征兵士の家庭を守ることと日本人の告発を鵜呑みにして、その老小作人は「アイゴー」と泣きながら警察にひかれていった。しかし、京義国道のわが家にくる上り坂の事前に米俵が三俵落ちていたことが伝えられてこの小作人はすぐ釈放された。ハナはもどってきた老小作人にあやまらなかった。そればかりか「牛車にのって居眠りでもしていたのでしょう。もっと気をつけてくれないと」と叱り付けていた。
 幼い記憶だったが、小作人にたいする厳しさは通常のやさしいハナとはちがっていた。
 父晋司が除隊される頃には直接供出がはじまり倉庫に米俵が天井までたまることは少なくなっていた。それでも、農業倉庫には絶えず朝鮮人が出入りして米や雑穀が積みこまれていった。そして安田さんがやはりそうした人たちの采配をしていた。

注1:1918~1925年に連合国(アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本等がロシア革命軍に囚われたチェコ軍団を救うという大義名分でシベリアに出兵したロシア革命軍に対する干渉戦争
注2:中国東北部に位置する地域
注3;ロシア革命を恐れた日本はシベリア出兵を開始したが それを見越した商人たちが米の買占めをした為 米価が高騰したので 米の安売りを求めて富山県の漁村の主婦達が米屋等を襲ったのがきっかけで全国に広がった騒動
注4:床下に石を用いて煙のトンネルを造り部屋の暖房とした
注5:松、杉、檜等の切り株を適当な厚さに切って洗濯に使用し
布を打ってもすり減ったり痛んだりは少なかった

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