戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・3 (林ひろたけ)
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順安日本人国民学校
洋武が、昭和一七年国民学校に入ったとき、順安日本人国民学校は、一年生から六年生まで総勢十数名だった。新入生は、菊村順一と渋井義子と洋武の三人だった。国民学校は複式学級で六年生と五年生と三年生が一クラスで校長先生が担当して、四年生と二年生と一年生は女先生が担当した。今までは、四年生から六年生を校長先生、三年から一年生は女先生が受け持つことになっていた。しかし、洋武には姉由美が三年生に、順一には姉美代子が三年生にいて、姉弟が同じクラスになってしまうので少し変則的なクラス編成になったらしかった。
順安国民学校は順安の街の南の小高い丘の上にあった。順安の街の真中で独立した標高差五十メートルぐらいの小山の頂上を平らにして運動場と校舎と校長先生の官舎をたてたような小さな学校だった。運動場の隅をぐるりとまわると東・西・南の三方の順安の町が見渡すことが出来た。北だけが台地の続きになっていてゆるい傾斜の先には閉校した義明学校のあとがあった。だから北側から、坂道を登って登校した。
校舎は赤レンガで作られ、上級生の教室と下級生の教室が二つあうて、真中に職員室があった。
校舎の前には桜の木と二セアカシヤの木が左右に二本づつ植えてあり、校舎に並んで小さな雨天体操場もあった。運動場には鉄棒やろくぼくやブランコなどが狭い運動場のまわりに備えてあった。
入学式は全校生徒とそれよりも多い日本人の父母が集まって校庭で行われた。面長さんも警察署長さんもそれに晋司も在郷軍人会長として前に並んでいた。中村剛三校長先生が、白い手袋をして恭しく黒い箱を頭の上にかかげて教壇にたった。その箱から壊れ物でも扱うようにして大きな紙を取り出した。末永美子先生が「気を付け、敬礼」といった。洋武は敬礼までしたがすぐ頭をあげると洋武と順一の間に立っていた末永先生が両手で二人の頭をおさえて 「敬礼のままでいなさい」 といわれた。
校長先生は「朕思?うに皇祖皇宗徳をはじめること」と教育勅語を読み出した。洋武にはこの勅語がたいへん長い時間のように思えた。それからご真影に敬礼をすることになった。校舎の壁にあらかじめ移してあった神棚のカーテンを開くと軍服姿の天皇陛下と皇后陛下がならんだ写真があって、それにもう一度頭をさげた。校長先生と面長さんのあいさつがあった。面長さんは朝鮮人だった。そのあと宮城遥拝といって東の方を向いて天皇陛下のおられる宮城に向かって頭を下げた。
新入生を受け持つことになった末永美子先生は、平壌の高等女学校を卒業したばかりで先生になってほやほやだった。複式学級だから一年生にそうかまってはおれないが、一年生三人が仲良くあそんでいることに安心して四年生や二年生の方ばかりいって一年生の勉強はあまり教えてはくれなかった。順一は順ちゃん、渋井さんは義ちゃん、洋武は武ちゃんと学校でも呼ばれることになった。
順ちゃんも洋武もなかなかなやんちゃな子どもだった。私が国民学校に入学したばかりの時、六年生が一年生になにかいたずらしたらしい。私はこの六年生にしゃにむにかぶりつき校庭中わんわん泣きながら順ちゃんと二人で追い回して、最後には六年生の方がたまらなくなって職員室に逃げ込んだ。末永先生は、私たちの腕白ぶりにあきれたりたのもしがったりした。また全校の生徒も「あいつらは気をつけろ」ということでそれからあまりいじめられることもなかった。
中村剛三校長先生はまだ三〇才代前半の若さだった。先生はときどきわが家に遊びにきて父と酒を飲んでいた。総じて順安の日本人同士は、よく家庭的に行き来をしては、男たちは酒を飲みに、女たちはお客に料理を作りおしゃべりをしていた。わが家の床の間には、いつも「千代の桜」という朝鮮でできる日本酒の酒樽が置いてあって、わが家にきた人は断りもなくそこから酒をくみ上げて飲んでいた。母もいつもなにかおかずを用意していて急なお客にも応じることが出きるようにしていた。映画館もなく、娯楽施設らしいものもなく、食べ物屋も平壌冷麺のお店が面事務所の前にあるだけの田舎町だった。中村先生は、私が六年生と喧嘩した日もわが家にやってきた。てっきり叱られると思っていたが、先生は「今日は六年生とけんかしたそうだな。六年生とけんかするのは元気はよくていいが、わあわあ泣いて走り回るのは男らしくない」といいながら、中村先生が京城師範学校の学生時代にスポーツ大会でとったメダルを勲章のように胸につけてくれた。
学校になれたころ、順ちゃんと私が朝、桜の木の下で帽子を上に高く投げあいっこをしていた。
末永先生は、突然二人に「ろくぼくのところに立っていなさい」としかりつけた。私たちは理由もわからずにろくぼくの前にたっていたが、お許しはでないまま一時間も立たされていた。私は立ったままおしっこをもらしていた。順ちゃんと二人で泣きながら、職員室にいって 「ぼくたちどうしてたたされているの」 と聞きにいった。
「よく考えてみなさい」 といわれたが理由は思いつかなかった。
先生は 「あれほどサクランボをとって食べてはいけません。アカシヤの花をたべてはいけません。と言ってたのに君たちは帽子を投げてサクランボを落としていたんでしょう」といった。
私たちは口々に 「ぼくたち帽子をとばしっこしていたんだよ」と言い訳をした。しばらくすると今度は先生がすっかり困って泣き出した。
「ごめんね。先生が勘違いしていた」とあやまった。裏にある校長先生の官舎の風呂場にいって、今度は中村校長先生の奥さんが「まあ、それはかわいそうに。でも武ちゃん、だれでもまちがうことあるのよ」と笑いながら体を拭いてくれた。子どもたちの名前も正式なときは別にしてみんな「ちゃん」づけで呼び合い、校長先生のことを男先生、末永先生のことを女先生と呼んだ。校長先生の奥さんもときには産まれたばかりの赤ちゃんを負ぶって教壇に立つこともあり、学校そのものはたいへん家庭的な雰囲気だった。
学校に入ると 「アカシヤの花は食べてはいけません。それから校庭の桜の実がなっても食べて行けません。そんないやしい子は日本人ではありませんので普通学校(朝鮮人の国民学校)に行ってもらいます」 とくりかえし注意された。
北朝鮮では、春になるとレンギョウの黄色い小さな花がまず咲き、そのあと朝鮮つつじが咲く頃には桜も杏もりんごもアカシヤの花も、ほぼ同時にいっせい咲き土気色の冬景色から一転して野山が明るくなっていった。わが家では農業倉庫への下り坂にレンギョウの潅木が植えられていた。レンギョウはハナが野山にある潅木を切って挿し木にした。ハナは「レンギョウはいくらでも挿し木でつくし、真っ先に春先に咲くから」と林家の隅々に植えてあった。たしかに順安では、空に黄砂が舞いそしてレンギョウが真っ先に黄色い小さな花をつけて春を知らせていた。わが家には、桜も杏もスモモの木もあたりかまわず何本かが植えられていた。
実のなる時期が来ると近所の朝鮮人の子供達がかわりばんこに採りにきた。私は朝鮮人の子供のまねをしてさくらんぼやまだよく熟れていない杏などよく食べた。同時にわが家にある木々を朝鮮人の子供達が、自分のもののように採りに来ることに自分の物がとられるような気持ちで意地悪をしたりした。近所の朝鮮人の子ども達は普通学校に行っている子ども達は少なかった。普通学校は朝鮮人の国民学校だったが、貧しい家の子どもたちは学校には行かず、私たちが学校に行っている間にわが家のスモモや杏の実を採りに来ていた。
ハナは「リンゴは大切だからやたら採られたら困るが、そのほかはみんなにあげましょう」といっておおらかに解放していた。校庭にあったさくらんぼはもちろん、真っ白いアカシヤの花は甘い味がしてとてもおいしかった。日本人学校では 「衛生上よくない」 ということで季節が来ると厳しく禁止されていた。
学校生活は楽しかったが、困ったことに家がよくなかった。夕食のたびに両親に姉の由美は学校であったことを告げ口するようになった。「洋武は今日は宿題があるのよ」 などはまだよい方だった。
「洋武は今日も女の子を泣かしたんだよ。義子ちゃんだけでなく、美代子ちゃんや恵子ちゃんまで泣かしたんだよ」。
美代子ちゃんは順ちゃんの姉さんで久美と同じ三年生だった。恵子ちゃんはやはり順ちゃんの姉さんで五年生だった。その日、私は学校で蛇を捕まえた。蛇は頭の後ろから押さえ込むと容易に捕まえることができた。大きな蛇を生きたままにつるし上げ、自慢げにみんなに見せたのがいけなかった。女の子は 「こわい」 といっせいに泣き出したのだった。
由美はハナににて端整な顔立ちの美少女だった。学校でもみんなから大切に扱われているようだった。その由美も弟のガキ大将が学校に来るようになって、すっかり様子が狂ってしまったようだった。
「洋武は悪いんだから。悪いことするのはいつも洋武。恥ずかしくて」。
父は、夕食中にいきなり拳骨で殴ってきた。殴られつけているので私は頭を下げると父の拳骨は空振りになることがあったが、その日はみごとに頭に命中した。私は大きな声で泣くと 「女の子を泣かせるのは卑怯者のすることだ」 父はさらに殴りつけてきた。
洋武には理屈があった。「南洋で戦っている兵隊さんは蛇や蛙やトカゲを食べて飢えをしのいでいる」 ということをなにかで聞いていた。だから今のうちに蛇やトカゲをしっかり捕まえる練習をしたつもりだったし、その成果を示したのだった。しかも学校に上がるまで朝鮮人の子供達と遊んでいた。朝鮮人の子供達は蛇も蛙もよくとって遊んでいた。蛙も蛇もトカゲも特別に怖い存在ではなかった。日本人の子供たちは、そんな乱暴なこととは無縁だった。それだけに洋武のいたずらはとりわけ目だっていた。
ハナは 「洋武は元気はいいが女の子を泣かしてはいけないわ。ここにはマムシはいないのでしょうね。」 と晋司にたずねた。「順安には毒蛇はいないはずだ。」 晋司は答えた。おかげで蛇の話しはこれでおわった。
日本人国民学校の運動会も学芸会も日本人社会の交流の場だった。洋武は順ちゃんに勉強やお行儀では負けていたが、運動会ではいつも負けなかった。そればかりか三年生までふくむ駆けっこでも一等になった。相撲では四年生まで負かした。「武ちゃんは、やんちゃで餓鬼大将」 ということがどこにいっても定着していた。その反面、なにか悪いことがおきるとすぐ 「武ちゃんじゃないか」 と疑われる原因にもなった。
学芸会は、国民学校の雨天体操場はせまいのでいつも順安駅前にある砂金会社のクラブを借りておこなわれた。
運動会もそうだったが、学芸会も一人が何回も出ることになった。そしてお父さんもお母さんも負けずに出演した。
郵便局長の奥さんは、子供はいなかったのにいつも学芸会にきてアリランとトラジという朝鮮の歌を朝鮮語で歌い、自分の歌にあわせて踊りを踊った。順ちゃんのおばさんは、オルガンを弾きながら小学唱歌をうたった。その時代、オルガンがある家は少なかったし、学校にも小さなオルガンが一つあるだけだった。順ちゃんのおばさんが、先生と同じようにオルガンをひいて見せることは子供達にとって憧れの一つだった。