戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ)
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投稿日時 2008/7/5 9:05
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
スタッフより
この記録は、ぱらむさんよりお送りいただき、またメロウ伝承館への転載に関する著者のご了解も得てくださったものです。
なお、この仮名付け及び注記(オレンジ色の文字)は、原文にはないもので、メロウ伝承館のスタッフにより付記させていただきました
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はじめに
1 この小説は昭和一六年 (一九四一年) 十二月八日の太平洋戦争《注1》開始から昭和二五年六月二五日の朝鮮戦争《注2》開始までの九年間の私の少年時代の体験にもとづいてかかれている。小説における林家は、ほぼ実在の林家と私の等身大のものであるが、その他はモデルはあってもそのままではない。とくに小説で重要な役割をはたす菊村家は順安面《注3》にいた数家族をモデルにしていてそのままの事実ではない。ただ、菊村順一君にはモデルがいて、コレラ船VO一八号で日本上陸を目前にして、博多湾上でコレラで死亡した私より二才下の聡明で敏捷な友人がモデルである。八才にして戦争犠牲者となったこの友人の御霊にこの小説を捧げたい。
2 全体として歴史的な事実に基づくように努力した。そのために、「朝鮮終戦の記録」 (森田芳夫著南巌堂刊) 「戦後引揚げの記録」 (若槻泰雄著時事通信社刊) 「邦人引揚げの記録」(毎日新聞社刊) をはじめ朝鮮の各種の歴史書など百数十冊の書籍を参考にした。
3 順安面市街地地図はじめ終戦当時十八歳だった兄林典夫から多くの教示を受けた。
自伝的小説なので最初に筆者の略歴を記しておきたい。
一、一九三六年 (昭和十一年一月二十七日) 北朝鮮平安南道平原郡順安面で生まれる。 現平壌市
二、一九四一年(昭和一七年四月)順安日本人国民学校に入学
三、一九四五年(昭和二〇年八月一五日)終戦。国民学校四年生
四、一九四六年(昭和二一年十一月六日)朝鮮より長野県北佐久郡春日村(現佐久市)に引き揚げ。村立春日国民学校の四年生に転入
五、一九五二年 (昭和二七年) 三月村立春日中学校を卒業
六、同年四月 東京都立小山台高等学校に入学
七、一九五五年 (昭和三〇年) 三月 同校を卒業と同時に肺結核を発病。二年間の療養生活。
八、一九五七年 (昭和三二年) 四月 東京大学に入学。東大川崎セツルメント活動に参加。日本共産党に入党。
九、一九六一年(昭和三六年) 三月 東大経済学部卒業
十、同年四月 山口県徳山曹達(現トクヤマ) に就職。労働組合活動に参加
十一、一九六六年(昭和四一年) 四月 徳山曹達を退職。日本共産党の専従活動家
二〇〇〇年(平成二一年)一二月 日本共産党の専従活動家を退職
十二、現在 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟山口県本部会長、日朝協会山口県支部長 社会保険労務士
目 次
第一章 砂金の里・普通江のほとりで
第二章 日本人強制収容所
第三章 必死の逃避行
第四章 コレラ船に乗せられて
第五章 戦争はもういやだよ
第一章 砂金の里・普通江のはとりで
その日の朝
その日の朝、林家は異状な興奮に包まれていた。ラジオからはくりかえし軍艦マーチがながれていた。
「大本営発表 帝国陸海軍は本日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」 「帝国海軍は本八日未明ハワイ方面の米国艦隊ならびに航空兵力にたいして決死的大空襲を敢行せり」。
和服姿の二番目の兄和雄は大東亜共栄圏《注4》の地図を壁にはりだし、そこにハワイやマレー半島の入り口に日の丸の旗を書いた。
「やった。また戦艦を撃破した」。和雄はそのたびに踊りあがるばかりに叫んでいた。「大日本帝国もやっと米英国と戦争をはじめたのか。ABCD包囲網《注5》をいつ打ち破るのか、日本中でこの日を待っていたんだ」。
父晋司はにこにこ顔で饒舌だった。
来年が学校に上がる五才十ケ月の私洋武は、朝の食卓が用意されていた卓袱台のまわりを 「こうやって突撃するのだね」。両手をひろげて 「ブーン、バーン、バチバチ」 など叫び飛行機のまねをしてまわった。朝ご飯どころではなかった。いつもならチーネ(朝鮮人のお手伝さん=小娘の意)にすぐ食卓に座らされるのに、この時ばかりは母のハナもやさしかった。
「洋武も山本五十六のように海軍大将になればいいね」
「海軍大将にはどうすればなれるの」
「海軍兵学校にはいって、それから手柄をたてるの」
「ぼくも海軍兵学校にいくよ」
「兄さんたちは陸軍でおれのあとを継がそうと思って、雄という字をつけたがお前は太平洋の武士になれと洋武とつけたんだ。海軍にいってお国の役にたってくれないとなあ」
父晋司も嬉しそうだった。
食事が終わった時、晋司が音頭をとって万歳をした。
「天皇陛下万歳。大日本帝国万歳。帝国陸海軍の大勝利万歳」
晋司も、ハナも、和雄も、洋武も、チーネも、できるだけ大きな声で「ばあんざい」を繰り返した。二つ年上の姉由美は学校に出かけ、一番上の兄俊雄は内地の予備校に、三番目の兄典雄は平壌の第一中学校の寄宿舎に留学中だった。
「そうだ。今日は戦勝祝いをやろう。チーネお使いを頼む」。
晋司は便箋に「本日戦勝祝いを行う。こぞって参加を乞う」と記した紙を何枚か作った。
「ぼくも行く。」洋武も元気に応じた。とかく家でじっとしていないで家事の邪魔ばかりしている洋武を家から追い出せるとハナはすぐ賛成した。毛絲の帽子と襟巻き、手袋それにコートを着せられて洋武は、チーネといっしょに門を出た。京義国道では切り通しのある北方から乾いた北風がビューと吹くとチーネのチマ(スカート)に囲われるように抱きついた。外は氷点下の寒さだった。雪はないが朝鮮人の共同井戸から流れ出たりこぼれたりする水が凍り付いて道はカチカチに凍りついていた。北朝鮮の冬は土気色だった。朝鮮家屋の屋根は藁屋根、壁は土壁、見える限り緑もない黄土色に覆われていた。
順安面事務所(村の役場のこと)、郵便局。それから少し急な坂道はもう氷でかちんかちんに凍っていたが、その坂道を登って国民学校の職員室に晋司の手紙を届けようとした。職員室には誰もいなかった。授業が行われていた。洋武は教室に顔を出し、「お姉ちゃん!戦争がはじまったよ。日本軍大勝利だよ」と叫んだ。
教室からは笑い声がひろがった。姉の由美は国民学校二年生だった。
「洋武恥ずかしい。すぐ帰りなさい」と叱ったが先生も含めて教室中は大笑いだった。順安日本人国民学校には教室は二つしかなかった。一年生から三年生までと、四年生と六年生までがいっしょに勉強していた。
「武ちゃんも来年からおいでなさいね。今日はまたね」。女の先生にやさしく追いかえされた。
それから順安駅にむかった。駅のまわりには水利組合や砂金会社の事務所があった。砂金会社の事務所には二〇人ほどの人がいたが、みんな笑い声がたえなかった。
「林在郷軍人会長の家で、今夜戦勝会をやるそうです。ひまの人は家族づれでいってください。」と小父さんが大きな声で紹介をした。
「あのね。武ちゃん。お母さんにいってマヨネーズを作ってといっておいて。お母さんのマヨネーズは特別においしいんだ。」
その小父さんがつけくわえた。事務所の中はさらに大きな笑い声に包まれた。
順安駅前の周りには日本人の家が数軒固まっていた。林家と親しくしていた粟野さん、羽野さん、小森さんの家にもチーネが「今夜お祝いをします」と口頭で伝えた。晴れた午後だった。それだけに寒さも厳しい一日だったが、どこでも「やっとアメリカと戦争がはじまった。しかも大勝利だ」という笑い声が広がっていた。
林家では、ハナがすり鉢に卵を十数個をわり黄身だけ取り出し、油と酢をゆっくりまぜながら注文のマヨネーズをつくった。
「急なお祝いだからなにもありません」と独り言をいいながら、ありたっけの鮭缶や蟹缶や雲丹の瓶詰がだされた。自家製のリンゴがお盆に山のように積まれた。座敷の床の間には「千代の桜」という酒樽がおかれた。
その夜、順安面の十数名の日本人たちがなかには家族連れでかけつけて戦争勃発と勝利の祝宴が開かれた。順安面は田舎町だった。面事務所前に平壌冷麺の店が一軒あるだけで食べ物屋や飲み屋はなかった。順安の日本人達は、なにかあるとそれぞれの家に集まっては食事をすることを楽しみにしていた。
八畳二間続きの座敷には、石炭ストーブが真っ赤になるほど焚かれ、ストーブの上には鉄瓶の湯がチンチン煮えたぎっていた。その日もお客達はかってに樽から酒を汲み、爛をつけて飲み出していた。座敷からあふれた人達は、いつもは林家の居間にしているオンドルの部屋にも徳利と盃をもって、ラジオのニュースを聞いていた。
その日の夕方からの放送は、真珠湾での大勝利をさらに加速されるように報じていた。ラジオがニュースを流すたびに和雄がお客に報告して歓声があがった。
林家はその日一日、「戦争の勃発」 で興奮の坩堝 (るつぼ)であった。
晋司はその年の夏、二度目の召集が解除され陸軍少尉で除隊されてきたばかりだった。そして順安面の在郷軍人会の会長だった。日中戦争 (当時は支那事変と呼んだ) がはじまった昭和十二年 (一九三七年)、四五才になった晋司に召集令状がきたとき、さすがに 「この年でお役に立てるのか」 そういいながら出征していったという。しかし、晋司は戦地にはいかず平壌府 (市) にある陸軍兵器廠に配属されて、四年の軍隊生活のうえ陸軍少尉になって除隊していたところだった。
昭和十六年(一九四一年)十二月八日、北朝鮮平安南道平原郡順安面(面とは村のこと)のわが家の一日だった。
注1:元々我が国では 当初大東亜戦争と呼称していたのを 米軍の占領時に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から検閲後に強制的に書き換えさせられた
注2:1950~1953年大韓民国と北朝鮮との間で 朝鮮半島の主権を巡って勃発した国際戦争
注3:平壌直轄市北部郊外にある行政区域
注4:東アジアや東南アジアで欧米諸国から植民地化されていた国々を日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を建設しようとする 日本の大東亜戦争の大義名分である
注5:東アジアに権益を持つ アメリカ、イギリス、オランダ、シナ諸国が日本に行なった貿易制限の呼称