「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」
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- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」 (編集者, 2009/2/8 9:23)
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投稿日時 2009/2/8 9:23
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
スタッフより
この投稿は、
大 口 光 威 様
佐 藤 嘉 道 様
のご了承を得て転載させていただくものです。
なお、この仮名付け及び注記(オレンジ色の文字)は、原文あったものではなく、メロウ伝承館のスタッフにより付記させていただいたものです。
(庭訓《ていきん注1》)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
は じ め に
村松ご在住の皆様、或いはご関係の皆様。皆様は郷土資料館の中に堀家三万石の藩政時代を偲ぶ数々の遺品に並んで「村松陸軍少年通信兵学校」関係コーナーが設けられ、其処に二冊の書籍「かんとう少通第九号(集約保存版)」と「西海の浪、穏やかに 殉国散華《注2》した少年たち」が展示されているのにお気付きでしょうか。
これは、先の大戦中、戦局の急迫に伴って、全国から十五、六歳の少年達が志願して来た村松陸軍少年通信兵学校に纏《まつ》わるもので、前者は同校で行われた教育訓練の実態、戦後まで秘匿され続けた十一期生の出陣直後の遭難の詳報、戦後における慰霊碑(村松及び平戸島)建立の経緯と慰霊祭の模様等を、生き残った関係者の手記や証言、遺族の感想などをもとに編集、また後者は更にこれを平戸島碑関係者向けに纏めたものです。何れも各方面から予想以上の大きな反響と高い評価を得、国会図書館、防衛庁の戦史研究室、靖国神社の偕行文庫等にも収録され、同時に村松ご当局の温かいご配慮によって本資料館への展示が実現しました。
ただ、この中で唯一残念なのは資料館での展示が陳列棚に収納されているため来館者の方にはガラス越しでしかご覧頂けないことで、これでは資料の保管としては万全だとしても、中味をお読み願うことによって史実を正しくご理解頂きたいという私達の気持が伝わりません。また、別途ご覧頂きたくても現在は絶版で余部がありません。
そこで今回、思いついて直接手にとって頂けるよう新に要約・編集し直してみたのが本書です。
ご承知のように、村松は明治二十九年九月に新発田から歩兵三十聯隊が移駐して以来終戦まで略半世紀に亘《わた》って軍都としての歩みを続けましたが、この間、昭和十八年に陸軍少年通信兵学校が招致され、爾来《=それ以来》、同校では少年生徒を迎えること三回二千四百名に及び、町当局並びに官民一致の温かい支援と清浄な雰囲気の許に練武砕魂、教授一体の猛訓練が展開されました。そして昭和十九年十一月、戦局の更なる緊迫により、第一回入校生徒(十一期生)の一部約三百名に対し繰上げ卒業が命じられ、直ちに比島、台湾等に、また、残る五百名も翌二十年三月に卒業、満州、中国、朝鮮、樺太並びに内地の師団、軍などに夫々配属されましたが、とりわけ繰上げ卒業組は僅かその十日後、南方に向かつて輸送される途中、待機していた敵潜水艦の攻撃を受け、五島列島沖或いは済州島沖に於いてあたら錬磨の腕も空しく、一発の電鍵すら打つ《注3》ことなく水漬く屍《みずくかばね》と散華し、幸いに難を免れ比島に上陸した者もまた、悪戦敢闘、その多くが彼の地で玉砕《注4》し、再び村松の土を踏むことはありませんでした。
ここにおいて、戦後、生き残った私達は、昭和四十年八月、此処・村松に於ける「戦後二十周年記念の集い」を契機に「全国少通連合会」を結成、同四十五年には村松公園内に慰霊碑を建立、この一角を聖域と定め、全国からご遺族をお招きして毎年或いは定期的に日枝神社神官による手厚い慰霊祭を催すなど三十余年に亘って英霊《=戦死者の魂を敬って》鎮魂に努めて参りました(現在慰霊碑には少年通信兵八百十二柱の御霊が合祀されています)。
ところでその後、これら慰霊行事も関係者の高齢化が進むに連れてその継続が危ぶまれるに至り、平成十三年十月の合同慰霊祭を最後に全国少通連合会が解散に踏み切ったのを皮切りに各地に誕生していた少通会もその大半が順次解散し、これに伴って毎年十月十一日を「少通慰霊の日」に定め、その後は各自の「自主慰霊」に切り替えることを申し合わせましたが、これらを踏まえ、如何にしてこれらの史実を正しく後世に伝えるかにつき論議を重ねた結果、誕生したのが上記の二書だつた次第です。
従って、今回の本書にもまた、私共生き残った者の先輩十一期生に捧げる鎮魂の思いと、亡き彼等も抱いたであろう村松に対する尽きない愛惜の気持が込められています。
この点、本冊子は、上記二書に盛られた内容を改めて精査し、その後に入手した文献等も含め当時をご存知ない現代の方々にもご理解頂けるよう村松の皆様を念頭に、当地で展開された訓育の実態を現代の視点から編集し直してみました。
歴史は学ぶべきもの。最近国際情勢の緊張を背景に再び各種の防衛論議が横行し始めていますが、被爆した我が国だからこそ世界の先頭に立つて核兵器の廃絶を訴える資格があると同様に、軍都としての長い歴史をお持ちの皆様に、こうした冷厳な史実を踏まえた上での自由な平和論議が為されることを期待してやみません。
本書が村松関係の皆様を中心に、お一人でも多くの皆様の目にとまるよう念じつつ、読後感などお寄せ頂ければ真に有難く泉下《=あの世》の英霊に対する何にも勝る供養になろうかと存じます。
平成二十年初秋
旧村松陸軍少年通信兵学校
第十二期生徒 大 口 光 威
第十二期生徒 佐 藤 嘉 道
識す
注1 庭訓(ていきん)=「論語(季氏)」の故事から家庭で子に親が教えること。親が子に教える教訓。にわのおしえ。
注2 殉国散華(じゅんこくさんげ)=国のために戦死、特に若くして戦死
注3 電腱を打つ=巻末の写真で生徒が教室にならんでいるものがあるが、これが『電鍵を打つ練習をしているところ』
注4 玉砕=全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬこと。
この投稿は、
大 口 光 威 様
佐 藤 嘉 道 様
のご了承を得て転載させていただくものです。
なお、この仮名付け及び注記(オレンジ色の文字)は、原文あったものではなく、メロウ伝承館のスタッフにより付記させていただいたものです。
(庭訓《ていきん注1》)
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は じ め に
村松ご在住の皆様、或いはご関係の皆様。皆様は郷土資料館の中に堀家三万石の藩政時代を偲ぶ数々の遺品に並んで「村松陸軍少年通信兵学校」関係コーナーが設けられ、其処に二冊の書籍「かんとう少通第九号(集約保存版)」と「西海の浪、穏やかに 殉国散華《注2》した少年たち」が展示されているのにお気付きでしょうか。
これは、先の大戦中、戦局の急迫に伴って、全国から十五、六歳の少年達が志願して来た村松陸軍少年通信兵学校に纏《まつ》わるもので、前者は同校で行われた教育訓練の実態、戦後まで秘匿され続けた十一期生の出陣直後の遭難の詳報、戦後における慰霊碑(村松及び平戸島)建立の経緯と慰霊祭の模様等を、生き残った関係者の手記や証言、遺族の感想などをもとに編集、また後者は更にこれを平戸島碑関係者向けに纏めたものです。何れも各方面から予想以上の大きな反響と高い評価を得、国会図書館、防衛庁の戦史研究室、靖国神社の偕行文庫等にも収録され、同時に村松ご当局の温かいご配慮によって本資料館への展示が実現しました。
ただ、この中で唯一残念なのは資料館での展示が陳列棚に収納されているため来館者の方にはガラス越しでしかご覧頂けないことで、これでは資料の保管としては万全だとしても、中味をお読み願うことによって史実を正しくご理解頂きたいという私達の気持が伝わりません。また、別途ご覧頂きたくても現在は絶版で余部がありません。
そこで今回、思いついて直接手にとって頂けるよう新に要約・編集し直してみたのが本書です。
ご承知のように、村松は明治二十九年九月に新発田から歩兵三十聯隊が移駐して以来終戦まで略半世紀に亘《わた》って軍都としての歩みを続けましたが、この間、昭和十八年に陸軍少年通信兵学校が招致され、爾来《=それ以来》、同校では少年生徒を迎えること三回二千四百名に及び、町当局並びに官民一致の温かい支援と清浄な雰囲気の許に練武砕魂、教授一体の猛訓練が展開されました。そして昭和十九年十一月、戦局の更なる緊迫により、第一回入校生徒(十一期生)の一部約三百名に対し繰上げ卒業が命じられ、直ちに比島、台湾等に、また、残る五百名も翌二十年三月に卒業、満州、中国、朝鮮、樺太並びに内地の師団、軍などに夫々配属されましたが、とりわけ繰上げ卒業組は僅かその十日後、南方に向かつて輸送される途中、待機していた敵潜水艦の攻撃を受け、五島列島沖或いは済州島沖に於いてあたら錬磨の腕も空しく、一発の電鍵すら打つ《注3》ことなく水漬く屍《みずくかばね》と散華し、幸いに難を免れ比島に上陸した者もまた、悪戦敢闘、その多くが彼の地で玉砕《注4》し、再び村松の土を踏むことはありませんでした。
ここにおいて、戦後、生き残った私達は、昭和四十年八月、此処・村松に於ける「戦後二十周年記念の集い」を契機に「全国少通連合会」を結成、同四十五年には村松公園内に慰霊碑を建立、この一角を聖域と定め、全国からご遺族をお招きして毎年或いは定期的に日枝神社神官による手厚い慰霊祭を催すなど三十余年に亘って英霊《=戦死者の魂を敬って》鎮魂に努めて参りました(現在慰霊碑には少年通信兵八百十二柱の御霊が合祀されています)。
ところでその後、これら慰霊行事も関係者の高齢化が進むに連れてその継続が危ぶまれるに至り、平成十三年十月の合同慰霊祭を最後に全国少通連合会が解散に踏み切ったのを皮切りに各地に誕生していた少通会もその大半が順次解散し、これに伴って毎年十月十一日を「少通慰霊の日」に定め、その後は各自の「自主慰霊」に切り替えることを申し合わせましたが、これらを踏まえ、如何にしてこれらの史実を正しく後世に伝えるかにつき論議を重ねた結果、誕生したのが上記の二書だつた次第です。
従って、今回の本書にもまた、私共生き残った者の先輩十一期生に捧げる鎮魂の思いと、亡き彼等も抱いたであろう村松に対する尽きない愛惜の気持が込められています。
この点、本冊子は、上記二書に盛られた内容を改めて精査し、その後に入手した文献等も含め当時をご存知ない現代の方々にもご理解頂けるよう村松の皆様を念頭に、当地で展開された訓育の実態を現代の視点から編集し直してみました。
歴史は学ぶべきもの。最近国際情勢の緊張を背景に再び各種の防衛論議が横行し始めていますが、被爆した我が国だからこそ世界の先頭に立つて核兵器の廃絶を訴える資格があると同様に、軍都としての長い歴史をお持ちの皆様に、こうした冷厳な史実を踏まえた上での自由な平和論議が為されることを期待してやみません。
本書が村松関係の皆様を中心に、お一人でも多くの皆様の目にとまるよう念じつつ、読後感などお寄せ頂ければ真に有難く泉下《=あの世》の英霊に対する何にも勝る供養になろうかと存じます。
平成二十年初秋
旧村松陸軍少年通信兵学校
第十二期生徒 大 口 光 威
第十二期生徒 佐 藤 嘉 道
識す
注1 庭訓(ていきん)=「論語(季氏)」の故事から家庭で子に親が教えること。親が子に教える教訓。にわのおしえ。
注2 殉国散華(じゅんこくさんげ)=国のために戦死、特に若くして戦死
注3 電腱を打つ=巻末の写真で生徒が教室にならんでいるものがあるが、これが『電鍵を打つ練習をしているところ』
注4 玉砕=全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬこと。
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編集者 (代理投稿)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
一.少年通信兵とは(少年通信兵制度の始まりと、その歩み)
本書をお読み頂くに当たって皆様には、先ず「少年通信兵」とは何か、また、その少年兵を擁した村松陸軍少年通信兵学校(以下、「村松少通校」と略称します)が何故此処・村松に開設されるに至ったか、等についてご理解いただく必要があろうかと思います。
先ず、「少年通信兵」については、第一期生であり、村松少通校の区隊長でもあつた本川栄吉氏は、「我が国軍の歴史において、陸軍通信部隊が置かれたのは、明治十年の西南戦役の時、官軍の中に「軍用電信掛」が設けられたときである」前置きされたあと、こう述べています。
昭和八年、東京市杉並区馬橋の陸軍通信学校に生徒隊が新設され、生徒を全国から募集し、十二月一日、第一期生徒十五名の入校式が行われた。これら生徒は無線通信に従事する工兵科現役下士官になることを志願して募集試験に合格した者をもって宛てられ、その修業年限は概《おおむ》ね二年間であつた。
応募資格は満十五歳以上、十八歳未満で高等小学校(現在の中学校)卒業以上の学力を持つ者とされていたが実際には中学校(現在の高校)の在学者や卒業者も混じっていた。
因《ちな》みに十五名が合格した第一期生の応募者は全国で約二千五百名であつた。
卒業時には、成績優秀者一名(後年、生徒数増加に伴い数名となる)に教育総監賞として銀時計が授与された。
卒業と同時に電信連隊に配属され、伍長勤務上等兵(後に兵長)の階級が与えられ、大体一年で伍長に任官し、通信部隊の有力な戦力となった。
太平洋戦争の勃発《ぼっぱつ》と共に、通信部隊下士官の需要が急を告げ、生徒数の飛躍的増加が要請されたため、昭和十七年四月、それまでの生徒隊を陸軍通信學校から独立させることになり、生徒隊を昇格して「陸軍少年通信兵学校」が創設された。(ここに初めて公式に「少年通信兵」という呼称が用いられることになった)。
やがて東京都北多摩郡東村山町に新校舎の竣工《しゅんこう》をみたので十七年十月、第八期生及び第九期生がこれに移転し、さらに同年十二月第十期生七百二十名が入校した。因みに第十期生の応募数は約一万二千名であつた。
太平洋戦争の戦域拡大に伴い、益々増大する少年通信兵の需要に応じるため、十八年十月一日陸軍少年通信兵学校を発展的に解消して新たに東京陸軍少年通信兵学校と村松陸軍少年通信兵学校の二校が新設された。そして、東京少通校は従来の少通校の施設をそのまま継承し、初代校長に少通校校長だった末光元宏少将が任命された。また、村松少通校は新潟県中蒲原郡村松町の元歩兵第十六連隊第三大隊跡の兵舎を使用することになり、初代校長には高木正實大佐(後に少将)が新任された。
同年十二月一日、両校に夫々八百余名の第十一期生が入校した。この第十一期生は少年通信兵最後の卒業生になるが、戦局の急迫により二回に分けて繰上げ卒業し戦場に向かった。十九年六月、両校に各八百余名の第十二期生が入校し、翌年四月、村松少通校にのみ八百余名の第十三期生が入校したが十二期、十三期生は在校中に終戦を迎え、卒業に至らなかった。
このように、昭和八年、東京馬橋の地に呱々《ここ=うぶごえ》の声を挙げた陸軍少年通信兵は、春秋十二年、期を重ねること十三期、送り迎えた生徒数六千余名、四校に亘って必通の信念の伝統を受け継ぎ、至純至誠、ひたすら訓練にいそしみ、多くの同窓生が祖国の護りと散っていったが、図らずも祖国の敗戦に遭遇し、第十一期生を最後の卒業生として、昭和二十年、その熱気溢るる伝統に涙の終止符が打たれた。そして彼等の母校も夫々その光輝ある校史の頁を閉じた。
(昭五六 毎日新聞社刊 「陸軍少年兵」 収載)
次いで、その村松少通校の村松開校と、その後の経緯について、平成十七年、当時新潟県郷友会会長だった吉田富忠氏は機関誌 「郷友」 の中で軍都・村松の歴史とも絡めて、このように説明して居られます。
本書をお読み頂くに当たって皆様には、先ず「少年通信兵」とは何か、また、その少年兵を擁した村松陸軍少年通信兵学校(以下、「村松少通校」と略称します)が何故此処・村松に開設されるに至ったか、等についてご理解いただく必要があろうかと思います。
先ず、「少年通信兵」については、第一期生であり、村松少通校の区隊長でもあつた本川栄吉氏は、「我が国軍の歴史において、陸軍通信部隊が置かれたのは、明治十年の西南戦役の時、官軍の中に「軍用電信掛」が設けられたときである」前置きされたあと、こう述べています。
昭和八年、東京市杉並区馬橋の陸軍通信学校に生徒隊が新設され、生徒を全国から募集し、十二月一日、第一期生徒十五名の入校式が行われた。これら生徒は無線通信に従事する工兵科現役下士官になることを志願して募集試験に合格した者をもって宛てられ、その修業年限は概《おおむ》ね二年間であつた。
応募資格は満十五歳以上、十八歳未満で高等小学校(現在の中学校)卒業以上の学力を持つ者とされていたが実際には中学校(現在の高校)の在学者や卒業者も混じっていた。
因《ちな》みに十五名が合格した第一期生の応募者は全国で約二千五百名であつた。
卒業時には、成績優秀者一名(後年、生徒数増加に伴い数名となる)に教育総監賞として銀時計が授与された。
卒業と同時に電信連隊に配属され、伍長勤務上等兵(後に兵長)の階級が与えられ、大体一年で伍長に任官し、通信部隊の有力な戦力となった。
太平洋戦争の勃発《ぼっぱつ》と共に、通信部隊下士官の需要が急を告げ、生徒数の飛躍的増加が要請されたため、昭和十七年四月、それまでの生徒隊を陸軍通信學校から独立させることになり、生徒隊を昇格して「陸軍少年通信兵学校」が創設された。(ここに初めて公式に「少年通信兵」という呼称が用いられることになった)。
やがて東京都北多摩郡東村山町に新校舎の竣工《しゅんこう》をみたので十七年十月、第八期生及び第九期生がこれに移転し、さらに同年十二月第十期生七百二十名が入校した。因みに第十期生の応募数は約一万二千名であつた。
太平洋戦争の戦域拡大に伴い、益々増大する少年通信兵の需要に応じるため、十八年十月一日陸軍少年通信兵学校を発展的に解消して新たに東京陸軍少年通信兵学校と村松陸軍少年通信兵学校の二校が新設された。そして、東京少通校は従来の少通校の施設をそのまま継承し、初代校長に少通校校長だった末光元宏少将が任命された。また、村松少通校は新潟県中蒲原郡村松町の元歩兵第十六連隊第三大隊跡の兵舎を使用することになり、初代校長には高木正實大佐(後に少将)が新任された。
同年十二月一日、両校に夫々八百余名の第十一期生が入校した。この第十一期生は少年通信兵最後の卒業生になるが、戦局の急迫により二回に分けて繰上げ卒業し戦場に向かった。十九年六月、両校に各八百余名の第十二期生が入校し、翌年四月、村松少通校にのみ八百余名の第十三期生が入校したが十二期、十三期生は在校中に終戦を迎え、卒業に至らなかった。
このように、昭和八年、東京馬橋の地に呱々《ここ=うぶごえ》の声を挙げた陸軍少年通信兵は、春秋十二年、期を重ねること十三期、送り迎えた生徒数六千余名、四校に亘って必通の信念の伝統を受け継ぎ、至純至誠、ひたすら訓練にいそしみ、多くの同窓生が祖国の護りと散っていったが、図らずも祖国の敗戦に遭遇し、第十一期生を最後の卒業生として、昭和二十年、その熱気溢るる伝統に涙の終止符が打たれた。そして彼等の母校も夫々その光輝ある校史の頁を閉じた。
(昭五六 毎日新聞社刊 「陸軍少年兵」 収載)
次いで、その村松少通校の村松開校と、その後の経緯について、平成十七年、当時新潟県郷友会会長だった吉田富忠氏は機関誌 「郷友」 の中で軍都・村松の歴史とも絡めて、このように説明して居られます。
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編集者 (代理投稿)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
軍都村松の悼尾《とうび》を飾る村松少通校
新潟県郷友会会長 吉 田 富 忠
新潟県中蒲原郡村松町は、江戸時代に越後村上藩十三万石から三万石を分封《注1》され、外様ながら村松藩として明治維新まで続いた堀家十二代にわたる城下町である。その城下町の故をもってか、明治以後軍隊の衛戍地《注2》も置かれ歴史的にも栄えた町で、今では観光と産業に力を注ぐ人口二万の静かな街である。とはいえ、地番で甲は町人乙は武士の町として、はっきり城下町、軍都だった時の気風は今でも残っている。
日清戦争後、軍拡の計画を知り、いち早く町議会で、愛宕原の地四万坪の献上を決め、町上げての誘致運動の結果、明治二十九年八月、新発田の歩兵第十六聯隊内に開設された歩兵第三十聯隊がその年の九月移駐してきた。これより先、兵舎、練兵場、射的場等がつくられ、さらに往来の便のために、衛門前から下町まで新道を建設〝営所通り″と呼ばせた(現在は〝学校町″と呼ぶ)。
以来、村松は軍都として賑わうようなった。近郊の農家は農作物を納め、また肥料として糞尿等の処理も行い聯隊内の催し事があれば町民が招待されるなど軍民ともに共存共栄に努めていた。
今年で百周年を迎えた日露戦争に出征、戦勝記念として広大な村松公園が造られ、さらに大正八年シベリア出兵にも従軍したが、大正軍縮により同十四年五月、第三十聯隊は高田に移動し、新発田の歩兵第十六聯隊の第三大隊が村松に分屯した。
その後、昭和五年以降満州事変、支那事変の勃発により、昭和十三年に新発田陸軍病院分院が開設される。見舞いや勤労動員のほか毎日のように戦病傷者が送られてくるので、町の人達や学校の生徒たちは出迎えに忙しかった。昭和十六年七月に歩兵第百五十八聯隊が編成されるが、大東亜戦争開戦で千島列島松輪島に出動し、兵舎は空く。
その空いた兵舎に、今から丁度六十二年前の十八年十月「村松陸軍少年通信兵学校」が開設され、爾後、終戦まで約八百名が巣立って、各地戦域へ向かっていったが、生存者は僅かだった。終戦時の在校生千六百名は解散し軍都としての幕は閉じられた。
終戦直後の二十年九月二十四日、約千二百名の米軍が進駐してきたが、三か月後には引き上げていった。そしてかつての兵舎は、国外からの引揚者用の宿舎になったのは全国同様である。昭和四十五年十月十一日、愛宕山山麓に全国少通連合会により「少年通信兵の慰霊碑」が建立され、次いで平成七年十月十一日には、慰霊碑に並べて慰霊碑建立由来説明碑が建てられて今日に至っている。
軍都としての村松を記念するものが欲しいと、当町郷友会は奔走したが、莫《ばく》大な資金を要するため、なかなか構想は進捗《しんちょく》しなかったが、会長・伊藤勝三郎氏の長男・勝美氏が、平成十四年一月に町長に当選されたのを機会に、町議会に諮り、国有地の払い下げを受け、衛門・歩哨《ほしょう》舎および説明板などの工作物が十六年八月にようやく完成を見て、軍都の歴史を残せることができた。
村松町は、あと一月後の来年の一月一日をもって、ニットで有名な隣の五泉市と合併するので、名誉ある村松町の名は消える。新潟市郷友会会員の中に、この村松の兵舎で将校として初年兵教育に従事され、現在九十才を超えられたのに、今なお矍鑠《かくしゃく》たる方もおられるので、衛門だけでも懐かしい想い出につながるに相違なく、また幼くして散った少年兵の英霊の慰霊にもなるものと感慨一入《ひとしお》である。
軍都であつた村松の歴史を知る者として、合併前に明確な記念物を造成された伊藤町長殿に感謝申し上げたい。
説明板の中に掲げられている写真は、町役場に残っていたものを使っているとあり、撮影日時は不詳とのことだが、子細に見ると少年通信兵学校開校時のものではないかと推測される。村松陸軍少年通信兵学校の看板は真新しく墨痕淋漓《ぼっこんりんり》と書かれた表札が門柱に掲げられており、教育総監部から派遣されたと思われる高官が、帰路の衛門を出られる時の場面らしく、勲章を佩用の学校長が先導し、次の人は長い将校マントを着用している。その外に配属将校が打揃って整列して見送っているのに対して、挙手の答礼をしている画面である。
(平一七・二-郷友誌)
(編者・注)
末尾の 「説明板の中に掲げられている写真」は、
昭和十八年十二月一日、川並密通信兵監が第十一期生の入校式に来校された時のものです。
(二十五頁の「日記」および七十六真の「写真」参照)
注1 分封=領地を分けあたえられる
注2 衛戍地(えいじゅち)=軍隊が長く駐屯して防衛する重要地域
新潟県郷友会会長 吉 田 富 忠
新潟県中蒲原郡村松町は、江戸時代に越後村上藩十三万石から三万石を分封《注1》され、外様ながら村松藩として明治維新まで続いた堀家十二代にわたる城下町である。その城下町の故をもってか、明治以後軍隊の衛戍地《注2》も置かれ歴史的にも栄えた町で、今では観光と産業に力を注ぐ人口二万の静かな街である。とはいえ、地番で甲は町人乙は武士の町として、はっきり城下町、軍都だった時の気風は今でも残っている。
日清戦争後、軍拡の計画を知り、いち早く町議会で、愛宕原の地四万坪の献上を決め、町上げての誘致運動の結果、明治二十九年八月、新発田の歩兵第十六聯隊内に開設された歩兵第三十聯隊がその年の九月移駐してきた。これより先、兵舎、練兵場、射的場等がつくられ、さらに往来の便のために、衛門前から下町まで新道を建設〝営所通り″と呼ばせた(現在は〝学校町″と呼ぶ)。
以来、村松は軍都として賑わうようなった。近郊の農家は農作物を納め、また肥料として糞尿等の処理も行い聯隊内の催し事があれば町民が招待されるなど軍民ともに共存共栄に努めていた。
今年で百周年を迎えた日露戦争に出征、戦勝記念として広大な村松公園が造られ、さらに大正八年シベリア出兵にも従軍したが、大正軍縮により同十四年五月、第三十聯隊は高田に移動し、新発田の歩兵第十六聯隊の第三大隊が村松に分屯した。
その後、昭和五年以降満州事変、支那事変の勃発により、昭和十三年に新発田陸軍病院分院が開設される。見舞いや勤労動員のほか毎日のように戦病傷者が送られてくるので、町の人達や学校の生徒たちは出迎えに忙しかった。昭和十六年七月に歩兵第百五十八聯隊が編成されるが、大東亜戦争開戦で千島列島松輪島に出動し、兵舎は空く。
その空いた兵舎に、今から丁度六十二年前の十八年十月「村松陸軍少年通信兵学校」が開設され、爾後、終戦まで約八百名が巣立って、各地戦域へ向かっていったが、生存者は僅かだった。終戦時の在校生千六百名は解散し軍都としての幕は閉じられた。
終戦直後の二十年九月二十四日、約千二百名の米軍が進駐してきたが、三か月後には引き上げていった。そしてかつての兵舎は、国外からの引揚者用の宿舎になったのは全国同様である。昭和四十五年十月十一日、愛宕山山麓に全国少通連合会により「少年通信兵の慰霊碑」が建立され、次いで平成七年十月十一日には、慰霊碑に並べて慰霊碑建立由来説明碑が建てられて今日に至っている。
軍都としての村松を記念するものが欲しいと、当町郷友会は奔走したが、莫《ばく》大な資金を要するため、なかなか構想は進捗《しんちょく》しなかったが、会長・伊藤勝三郎氏の長男・勝美氏が、平成十四年一月に町長に当選されたのを機会に、町議会に諮り、国有地の払い下げを受け、衛門・歩哨《ほしょう》舎および説明板などの工作物が十六年八月にようやく完成を見て、軍都の歴史を残せることができた。
村松町は、あと一月後の来年の一月一日をもって、ニットで有名な隣の五泉市と合併するので、名誉ある村松町の名は消える。新潟市郷友会会員の中に、この村松の兵舎で将校として初年兵教育に従事され、現在九十才を超えられたのに、今なお矍鑠《かくしゃく》たる方もおられるので、衛門だけでも懐かしい想い出につながるに相違なく、また幼くして散った少年兵の英霊の慰霊にもなるものと感慨一入《ひとしお》である。
軍都であつた村松の歴史を知る者として、合併前に明確な記念物を造成された伊藤町長殿に感謝申し上げたい。
説明板の中に掲げられている写真は、町役場に残っていたものを使っているとあり、撮影日時は不詳とのことだが、子細に見ると少年通信兵学校開校時のものではないかと推測される。村松陸軍少年通信兵学校の看板は真新しく墨痕淋漓《ぼっこんりんり》と書かれた表札が門柱に掲げられており、教育総監部から派遣されたと思われる高官が、帰路の衛門を出られる時の場面らしく、勲章を佩用の学校長が先導し、次の人は長い将校マントを着用している。その外に配属将校が打揃って整列して見送っているのに対して、挙手の答礼をしている画面である。
(平一七・二-郷友誌)
(編者・注)
末尾の 「説明板の中に掲げられている写真」は、
昭和十八年十二月一日、川並密通信兵監が第十一期生の入校式に来校された時のものです。
(二十五頁の「日記」および七十六真の「写真」参照)
注1 分封=領地を分けあたえられる
注2 衛戍地(えいじゅち)=軍隊が長く駐屯して防衛する重要地域
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二、村松における訓育(厳格な中に慈愛ある教育)
前項の本川氏は陸軍少年通信兵教育の特殊性について、次のように述べています。
往時の陸軍諸学校の生徒が皆そうであつたように、少年通信兵もまた、在校中の全期間を校舎内において起居した。こうすることによって一般軍隊と同じ形の軍隊内務を経験し、戦場生活の予習を行うとともに一元的、効果的な教育が出来た。即ち、生活の全期間が、教育訓練人格陶冶《じんかくとうや 注1》の場となったのである。
訓育と学術科教育の両面から行うことは、学校令等にも明記されていた。
そのうち訓育は軍人、特に指揮官、幹部としての人格の陶冶、いわゆる徳育を意味しており、これは学術科教育と別個に対置してあるものでなく、学術科教育を通じて日常、行住座臥《ぎょうじゅうざが=注2》の間あらゆる機会と場所を捉えて行われたものである。
陸軍の教育においては一貫して人格面(精神要素)の涵養《かんよう=注3》が重視された。従って、個々の生徒や兵を仮に点数で評定するとすれば、人格面に少なくとも総点の五十パーセントの配点をするのが普通であつた。
少年通信兵教育の特徴を知るには、まず少年通信兵に期待される人間像を見るのが手っ取り早い。その人間像とは「無線通信士(オペレーター)」と「無線技術士(エンジニヤ)」の両方の技能を併せ持ち、至誠純忠、年少気鋭の優秀な通信部隊初級幹部(下士官)」と要約することができる。
また、その延長として、本人の努力によって将来将校になり得る素地を与えることも、この制度を企画した関係者や、直接教育に当たつた校長以下の念頭に強く存在したことは疑いない。従って少年通信兵教育の方針は以上の二点を軸として貫かれている。
実際の教育においては、厳格な中にも家庭内の子供に対するような慈愛深い面があり、また情操、品性の陶冶に意が注がれた。そして、教育を受ける側の生徒は、年少であるがゆえに純真で向学心に燃え、心身ともに柔軟かつ敏捷であって、よく薫陶《注4》を受け入れ、卒業後は優秀な下士官として各部隊で好評を得た。
少年通信兵教育の特徴をもうひとつの角度から眺めてみよう。それは少年通信兵が備えなければならない精神的素質の面についてである。
少年通信兵は学校を卒業して部隊に配属後は、兵営生活においては内務班長として、教育の場においては助教として、作戦行動中は分隊長、小隊長または通信所長として、その外、初級幹部として様々な任務を与えられる。これらの任務を遂行するためには軍人として、軍隊幹部として、また軍隊指揮官として身に着けていなければならない多くの素質があるが、その中でも通信兵として特に強く要請されるものが幾つかある。必通の信念、犠牲的精神、緻密性、沈着性、耐忍性、機密保持性などがこれである。
もともと通信兵の本領は、戦役の全期にわたり指揮統帥の脈絡を成形して、戦闘力統合の骨幹となり、もって全軍戦捷の途を拓くにあるから、どのように困難な状況下においても身命を賭して通信網を確保するという〝必通″の信念こそ、全通信兵の基本的な精神要素である。
通信兵は他兵種の作戦を、縁の下の力持ちとなって支えるのが任務であるから、徒に外見の華々しさを競うことなく、功を包み、名を求めず、困難に耐えて黙々と任務を遂行し、全軍の犠牲となる気迫を持つべき宿命を担っている。
通信兵はまた、精巧な科学機器を駆使し、秒単位で行動を律し、敵に開放されている空間に電波を放ち、常時暗号書を携行使用する兵種であるから、どのような場面においても常に冷静沈着な動作と機密保持の確実さが要求される。
戦況不利にして玉砕の運命を担った部隊に於いて、最後の電波を送り終え、従容として通信機を破壊し、暗号書を焼き、自らも敵陣に突入した先人の偉績にこそ、通信兵精神の極地を見る思いがするのを禁じえない。
(昭五六 毎日新聞社刊「陸軍少年兵」 収載)
注1 人格陶冶 =生まれついた性質や才能を鍛えて練り上げる
注2 行住座臥 =日常の立ち居振る舞い
注3 涵養 =水が自然にしみこむように、少しずつ養い育てること。
注4 薫陶=徳の力で人を感化し、教育すること
前項の本川氏は陸軍少年通信兵教育の特殊性について、次のように述べています。
往時の陸軍諸学校の生徒が皆そうであつたように、少年通信兵もまた、在校中の全期間を校舎内において起居した。こうすることによって一般軍隊と同じ形の軍隊内務を経験し、戦場生活の予習を行うとともに一元的、効果的な教育が出来た。即ち、生活の全期間が、教育訓練人格陶冶《じんかくとうや 注1》の場となったのである。
訓育と学術科教育の両面から行うことは、学校令等にも明記されていた。
そのうち訓育は軍人、特に指揮官、幹部としての人格の陶冶、いわゆる徳育を意味しており、これは学術科教育と別個に対置してあるものでなく、学術科教育を通じて日常、行住座臥《ぎょうじゅうざが=注2》の間あらゆる機会と場所を捉えて行われたものである。
陸軍の教育においては一貫して人格面(精神要素)の涵養《かんよう=注3》が重視された。従って、個々の生徒や兵を仮に点数で評定するとすれば、人格面に少なくとも総点の五十パーセントの配点をするのが普通であつた。
少年通信兵教育の特徴を知るには、まず少年通信兵に期待される人間像を見るのが手っ取り早い。その人間像とは「無線通信士(オペレーター)」と「無線技術士(エンジニヤ)」の両方の技能を併せ持ち、至誠純忠、年少気鋭の優秀な通信部隊初級幹部(下士官)」と要約することができる。
また、その延長として、本人の努力によって将来将校になり得る素地を与えることも、この制度を企画した関係者や、直接教育に当たつた校長以下の念頭に強く存在したことは疑いない。従って少年通信兵教育の方針は以上の二点を軸として貫かれている。
実際の教育においては、厳格な中にも家庭内の子供に対するような慈愛深い面があり、また情操、品性の陶冶に意が注がれた。そして、教育を受ける側の生徒は、年少であるがゆえに純真で向学心に燃え、心身ともに柔軟かつ敏捷であって、よく薫陶《注4》を受け入れ、卒業後は優秀な下士官として各部隊で好評を得た。
少年通信兵教育の特徴をもうひとつの角度から眺めてみよう。それは少年通信兵が備えなければならない精神的素質の面についてである。
少年通信兵は学校を卒業して部隊に配属後は、兵営生活においては内務班長として、教育の場においては助教として、作戦行動中は分隊長、小隊長または通信所長として、その外、初級幹部として様々な任務を与えられる。これらの任務を遂行するためには軍人として、軍隊幹部として、また軍隊指揮官として身に着けていなければならない多くの素質があるが、その中でも通信兵として特に強く要請されるものが幾つかある。必通の信念、犠牲的精神、緻密性、沈着性、耐忍性、機密保持性などがこれである。
もともと通信兵の本領は、戦役の全期にわたり指揮統帥の脈絡を成形して、戦闘力統合の骨幹となり、もって全軍戦捷の途を拓くにあるから、どのように困難な状況下においても身命を賭して通信網を確保するという〝必通″の信念こそ、全通信兵の基本的な精神要素である。
通信兵は他兵種の作戦を、縁の下の力持ちとなって支えるのが任務であるから、徒に外見の華々しさを競うことなく、功を包み、名を求めず、困難に耐えて黙々と任務を遂行し、全軍の犠牲となる気迫を持つべき宿命を担っている。
通信兵はまた、精巧な科学機器を駆使し、秒単位で行動を律し、敵に開放されている空間に電波を放ち、常時暗号書を携行使用する兵種であるから、どのような場面においても常に冷静沈着な動作と機密保持の確実さが要求される。
戦況不利にして玉砕の運命を担った部隊に於いて、最後の電波を送り終え、従容として通信機を破壊し、暗号書を焼き、自らも敵陣に突入した先人の偉績にこそ、通信兵精神の極地を見る思いがするのを禁じえない。
(昭五六 毎日新聞社刊「陸軍少年兵」 収載)
注1 人格陶冶 =生まれついた性質や才能を鍛えて練り上げる
注2 行住座臥 =日常の立ち居振る舞い
注3 涵養 =水が自然にしみこむように、少しずつ養い育てること。
注4 薫陶=徳の力で人を感化し、教育すること
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では、こうした少年通信兵の特徴を踏まえて、実際に村松においては、どのような訓育が行われていたでしょうか。
高木校長は、教育方針として生徒に、①我は皇軍《注1》の一員なり ②責任を重んじ実行力を尊ぶ ③通信技術は我らが特技 ④武勇を尚び《たっとび》礼儀を正しくする ⑤健康は忠孝の基 の五訓を与え、特に責任感と実行力を重んじる校風の樹立に努められましたが、これを証するものとして 総括的な意味での七期生・山田善三郎氏の 「伝統」 と、これらの伝統と訓育を生徒がどう受け止めたかについて、十二期生・山本内良二氏の「訓育は降る雨の如し」と十三期生・中元正夫氏の 「生きる」を掲載します。
また、「某班長の母に宛てた手紙」は、本紙の前身である「かんとう少通第九号」の刊行が新潟日報で報じられた時、偶々《たまたま》この記事をご覧になった新潟市の江口直禎氏からお寄せ頂いたものです。
終戦当時、五泉国民学校の校長だった氏の岳父・板橋利邦氏の遺品「昭和十九年度学校経営記録」の中に収められていた由で、江口氏は 「当時は当時なりに懸命な教育が為されていた訳で、今更ながら教育の影響力の大きさに感じ入っている」と語っておられます。
伝 統
七期 山 田 善三郎
伝統と云う言葉は最近あまり使わないようである。何となく固い感じの印象を受ける言葉だが、ひと頃は割合使われ、「我が社の伝統は……」、「我が校の伝統を生かせ」、「伝統を守る」等々。戦時中軍隊に於ても「我が部隊の光輝ある伝統を守り…」、「……はわが連隊の伝統である」など、いろいろな面で使われていた。
近頃でも使われない訳ではなく、「伝統芸能」、「伝統工芸」と云うことを時折見たり聞いたりする。然らば伝統と云う言葉の持つ意味は何か、と考え辞書を引っばり出して見た。
一、伝統を受け継ぐこと、又受け伝える系統。
二、同じ社会、民族間で昔から受け継がれてきて、現在も尚生命を保っているもの。
三、長い間に出来上がつた、しきたり。
四、旧来の伝承する系統を尊重し、これを模範とする主義。
と解明されている。
私はここでむずかしい伝統の字句に関して論ずるつもりはない。唯私達はいち様に少通校出身である。その少通校には何らかの形で培われた、伝統が有ったであろうか。確かに在校中、生徒隊長・中隊長・教官・内務班長などから、何かの折にこの伝統と云う言葉を聞かされたことが、今でも記憶の底に残っている。伝統を解釈の
(二) 項に当嵌め《あてはめ》てみると「同じ社会(少通校)、民族(同期生)間で昔から受け継がれてきて、現在も尚生命を保っているもの」、或いは
(三) 項の「長い間に出来上がった、しきたり」、等の解釈を適用するならば、私達の陸軍少年通信兵学校にも一期生から十三期生迄(東京少通校は十二期生迄)何らかの形で伝統と云うものが引き継がれてきた筈である。
昭和十八年十月に新潟県中蒲原郡村松町に村松陸軍少年通信兵学校が新設され第十一期生は東京少通校に八百名、村松少通校に八百名夫々入校した。従って東京少通校には一期生から培われ伝承された、「伝統的校風又は伝統的要素」が多分に存在したことと考える。
村松少通校は歴史も浅く、長い間のしきたりには乏しかったかも知れない。然し教職にあった中隊長・教官・内務班長或は助教などは東京少通校よりの転校者又は少通出身者その他優秀な人達を以って各中隊が編成されており、生徒教育には熱誠を以って当つた為、歴史は浅くとも斬新な、ひと味違った伝統的校風が醸成されたものと思考される。
戦後既に四十余年を経過した今日、少通校の伝統がどんな形で存在したのか、或いは伝統が在ったのか、そもそもの意味が具体性に欠け曖昧模糊《あいまいもこ》としているので、いまそれを模索してみても、「これだ!!」或は「それだ!!」と云う決定的な要素を具現することは、むずかしいかも知れない。何故ならそれぞれの期に依って、又は中隊に依って生徒教育の方針とか理念が異っていたものであれば、訓化される生徒も自ら多少の差異が生れる。
例えば或る中隊の教官は通信兵操典より歩兵操典を重視する教育で戦闘教練に力を入れたとすると、その区隊は必然的に闘志旺盛な生徒が多くなる。これに反して通信兵としての教育を重視する教官の生徒は「通信こそわが使命」と考える生徒が多くなる。この様に中隊長特に教官や内務班長助教の生徒教育に及ぼす影響は大きく個々の人格、薀蓄《うんちく》、熱意などに依って生徒はそれぞれのかたちに培われたのである。
此の様に教育の最小単位の内務班に於ても班長の人格識見素養などが異なると、生徒に与える教育の内容、課程なども変わってくるので、当然培われる要素も異なるようになる。
従って東京村松の両校を通じての伝統、全期を網羅して伝統の模索は非常に困難と云わねばならない。然し昭和八年に一期生が入校し、二十年八月終戦まで十三期を数えた、この約十二年間に於いて陸軍少年通信兵学校の伝統は何か、と問われ「無」と答える訳にはゆかない。少なくとも私達には高く掲げられる何かがあつた筈である。通信兵の本領に曰く「通信兵の本領は戦役の全期に亘り指揮統帥の脈絡を成形し、戦闘力統合の骨幹となり以て全軍戦捷《せんしょう=勝ち戦》の途を拓くにあり。」としている。所謂通信兵は戦役の全期に指揮統帥の脈絡であるとされ、戦闘力を統合する為の骨幹である、としている。更に曰く「故に通信兵は常に相互の意思を疎通し、特有の技術に精熟し、周密にして機敏、耐忍にして沈着、進んで任務を遂行し、全軍の犠牲たるべき気塊を堅持し、以て其の本領を完うせざるべからず。」として通信兵の技術や精神的要素の昂揚によって戦捷の為の犠牲となる気迫を持て、と云っている。そして最後に「通信兵は常に兵器及び材料を尊重し、整備節用に務め、馬を愛護し、又特に防諜に留意すべし。」 と結んでいる。
軍隊における通信兵としての要素は、「必通」と云うことである。これあながち少年通信兵ばかりでなく、一般兵科通信に於ても同様である。少年通信兵の教育課程に於て「必通」と云うことは至極当然のことである。大切なことは、如何なる状況のもとでも「必ず通ずる」信念、所謂「必通の信念」こそ少年通信兵教育に於ける独立不羈《どくりつふき 注2》の伝統的要素であつたのでないか。「必通の信念」は「通信兵の本領」 で説かれている精神的要素と、特有の技術に精熟していることに依って達成される。太平洋戦争に緒戦に於ける赫々《かくかく》たる戦果、そして戦争全局を通じての通信兵特に少年通信兵出身の人達が電波を通じて、如何に戦い、如何に作戦に寄与したか、と云うことを想起し、少年通信兵斯く戦えり、と痛感する。最近少通出身各期に於て記録、歩み、軌跡、などが出版されており、それらを読んで益々その感慨を深くする次第である。
「貴様と俺とは同期の桜、同じ少通校の庭に咲く」と同じ目的に向い同じ釜の飯を食べて、「契りを籠めし稚木に、万朶《ばんだ》を誇れ桜花…」と唄い万感を籠めて、南漠北涯の戦線に赴き「必通の信念」を以て「通信兵の本領」を発揮したが「たたかい利あらず」戦争は終った。そして戦後は四十余年が過ぎ去り、各地の少通会、中隊或いは区隊会などが盛んに開かれ、「月日の脚に明日なし、只一心に必通の信念(オモイ)は吾等が身の運命(サダメ)---」と唄い「鍛えよ、伸びよ少年通信兵」と結び、これら会合にはお互いの毀誉褒貶《きよほうへん 注3》を超越して参加し、何の蟠(ワタカマ)りもなく愉快に談笑出来るは、「同期の桜」 であり「同じ目的に精魂を傾けた仲」であるからに他ならない。そして「血肉分けたる仲ではないが、なぜか気が合うて別れられぬ」、楽しかった余韻を残して又合う機会を想い画く、同期生として、或いは先輩後輩として信頼と敬愛に依って繋(ツナガ)り、敬愛の思いやりに結ばれている何かがある。この「何か」こそ今後共大切に温めてゆくべき「至宝」と心得る私達は残された人生をこの、「至宝」と共に楽しくすごそうではありませんか。
(昭六三・一〇-第五号収載)
注1 皇軍=天皇が統率する軍隊。日本の陸海軍のこと
注2 独立不羈=他からの束縛をうけない
注3 毀誉褒貶=さまざまな評判
高木校長は、教育方針として生徒に、①我は皇軍《注1》の一員なり ②責任を重んじ実行力を尊ぶ ③通信技術は我らが特技 ④武勇を尚び《たっとび》礼儀を正しくする ⑤健康は忠孝の基 の五訓を与え、特に責任感と実行力を重んじる校風の樹立に努められましたが、これを証するものとして 総括的な意味での七期生・山田善三郎氏の 「伝統」 と、これらの伝統と訓育を生徒がどう受け止めたかについて、十二期生・山本内良二氏の「訓育は降る雨の如し」と十三期生・中元正夫氏の 「生きる」を掲載します。
また、「某班長の母に宛てた手紙」は、本紙の前身である「かんとう少通第九号」の刊行が新潟日報で報じられた時、偶々《たまたま》この記事をご覧になった新潟市の江口直禎氏からお寄せ頂いたものです。
終戦当時、五泉国民学校の校長だった氏の岳父・板橋利邦氏の遺品「昭和十九年度学校経営記録」の中に収められていた由で、江口氏は 「当時は当時なりに懸命な教育が為されていた訳で、今更ながら教育の影響力の大きさに感じ入っている」と語っておられます。
伝 統
七期 山 田 善三郎
伝統と云う言葉は最近あまり使わないようである。何となく固い感じの印象を受ける言葉だが、ひと頃は割合使われ、「我が社の伝統は……」、「我が校の伝統を生かせ」、「伝統を守る」等々。戦時中軍隊に於ても「我が部隊の光輝ある伝統を守り…」、「……はわが連隊の伝統である」など、いろいろな面で使われていた。
近頃でも使われない訳ではなく、「伝統芸能」、「伝統工芸」と云うことを時折見たり聞いたりする。然らば伝統と云う言葉の持つ意味は何か、と考え辞書を引っばり出して見た。
一、伝統を受け継ぐこと、又受け伝える系統。
二、同じ社会、民族間で昔から受け継がれてきて、現在も尚生命を保っているもの。
三、長い間に出来上がつた、しきたり。
四、旧来の伝承する系統を尊重し、これを模範とする主義。
と解明されている。
私はここでむずかしい伝統の字句に関して論ずるつもりはない。唯私達はいち様に少通校出身である。その少通校には何らかの形で培われた、伝統が有ったであろうか。確かに在校中、生徒隊長・中隊長・教官・内務班長などから、何かの折にこの伝統と云う言葉を聞かされたことが、今でも記憶の底に残っている。伝統を解釈の
(二) 項に当嵌め《あてはめ》てみると「同じ社会(少通校)、民族(同期生)間で昔から受け継がれてきて、現在も尚生命を保っているもの」、或いは
(三) 項の「長い間に出来上がった、しきたり」、等の解釈を適用するならば、私達の陸軍少年通信兵学校にも一期生から十三期生迄(東京少通校は十二期生迄)何らかの形で伝統と云うものが引き継がれてきた筈である。
昭和十八年十月に新潟県中蒲原郡村松町に村松陸軍少年通信兵学校が新設され第十一期生は東京少通校に八百名、村松少通校に八百名夫々入校した。従って東京少通校には一期生から培われ伝承された、「伝統的校風又は伝統的要素」が多分に存在したことと考える。
村松少通校は歴史も浅く、長い間のしきたりには乏しかったかも知れない。然し教職にあった中隊長・教官・内務班長或は助教などは東京少通校よりの転校者又は少通出身者その他優秀な人達を以って各中隊が編成されており、生徒教育には熱誠を以って当つた為、歴史は浅くとも斬新な、ひと味違った伝統的校風が醸成されたものと思考される。
戦後既に四十余年を経過した今日、少通校の伝統がどんな形で存在したのか、或いは伝統が在ったのか、そもそもの意味が具体性に欠け曖昧模糊《あいまいもこ》としているので、いまそれを模索してみても、「これだ!!」或は「それだ!!」と云う決定的な要素を具現することは、むずかしいかも知れない。何故ならそれぞれの期に依って、又は中隊に依って生徒教育の方針とか理念が異っていたものであれば、訓化される生徒も自ら多少の差異が生れる。
例えば或る中隊の教官は通信兵操典より歩兵操典を重視する教育で戦闘教練に力を入れたとすると、その区隊は必然的に闘志旺盛な生徒が多くなる。これに反して通信兵としての教育を重視する教官の生徒は「通信こそわが使命」と考える生徒が多くなる。この様に中隊長特に教官や内務班長助教の生徒教育に及ぼす影響は大きく個々の人格、薀蓄《うんちく》、熱意などに依って生徒はそれぞれのかたちに培われたのである。
此の様に教育の最小単位の内務班に於ても班長の人格識見素養などが異なると、生徒に与える教育の内容、課程なども変わってくるので、当然培われる要素も異なるようになる。
従って東京村松の両校を通じての伝統、全期を網羅して伝統の模索は非常に困難と云わねばならない。然し昭和八年に一期生が入校し、二十年八月終戦まで十三期を数えた、この約十二年間に於いて陸軍少年通信兵学校の伝統は何か、と問われ「無」と答える訳にはゆかない。少なくとも私達には高く掲げられる何かがあつた筈である。通信兵の本領に曰く「通信兵の本領は戦役の全期に亘り指揮統帥の脈絡を成形し、戦闘力統合の骨幹となり以て全軍戦捷《せんしょう=勝ち戦》の途を拓くにあり。」としている。所謂通信兵は戦役の全期に指揮統帥の脈絡であるとされ、戦闘力を統合する為の骨幹である、としている。更に曰く「故に通信兵は常に相互の意思を疎通し、特有の技術に精熟し、周密にして機敏、耐忍にして沈着、進んで任務を遂行し、全軍の犠牲たるべき気塊を堅持し、以て其の本領を完うせざるべからず。」として通信兵の技術や精神的要素の昂揚によって戦捷の為の犠牲となる気迫を持て、と云っている。そして最後に「通信兵は常に兵器及び材料を尊重し、整備節用に務め、馬を愛護し、又特に防諜に留意すべし。」 と結んでいる。
軍隊における通信兵としての要素は、「必通」と云うことである。これあながち少年通信兵ばかりでなく、一般兵科通信に於ても同様である。少年通信兵の教育課程に於て「必通」と云うことは至極当然のことである。大切なことは、如何なる状況のもとでも「必ず通ずる」信念、所謂「必通の信念」こそ少年通信兵教育に於ける独立不羈《どくりつふき 注2》の伝統的要素であつたのでないか。「必通の信念」は「通信兵の本領」 で説かれている精神的要素と、特有の技術に精熟していることに依って達成される。太平洋戦争に緒戦に於ける赫々《かくかく》たる戦果、そして戦争全局を通じての通信兵特に少年通信兵出身の人達が電波を通じて、如何に戦い、如何に作戦に寄与したか、と云うことを想起し、少年通信兵斯く戦えり、と痛感する。最近少通出身各期に於て記録、歩み、軌跡、などが出版されており、それらを読んで益々その感慨を深くする次第である。
「貴様と俺とは同期の桜、同じ少通校の庭に咲く」と同じ目的に向い同じ釜の飯を食べて、「契りを籠めし稚木に、万朶《ばんだ》を誇れ桜花…」と唄い万感を籠めて、南漠北涯の戦線に赴き「必通の信念」を以て「通信兵の本領」を発揮したが「たたかい利あらず」戦争は終った。そして戦後は四十余年が過ぎ去り、各地の少通会、中隊或いは区隊会などが盛んに開かれ、「月日の脚に明日なし、只一心に必通の信念(オモイ)は吾等が身の運命(サダメ)---」と唄い「鍛えよ、伸びよ少年通信兵」と結び、これら会合にはお互いの毀誉褒貶《きよほうへん 注3》を超越して参加し、何の蟠(ワタカマ)りもなく愉快に談笑出来るは、「同期の桜」 であり「同じ目的に精魂を傾けた仲」であるからに他ならない。そして「血肉分けたる仲ではないが、なぜか気が合うて別れられぬ」、楽しかった余韻を残して又合う機会を想い画く、同期生として、或いは先輩後輩として信頼と敬愛に依って繋(ツナガ)り、敬愛の思いやりに結ばれている何かがある。この「何か」こそ今後共大切に温めてゆくべき「至宝」と心得る私達は残された人生をこの、「至宝」と共に楽しくすごそうではありませんか。
(昭六三・一〇-第五号収載)
注1 皇軍=天皇が統率する軍隊。日本の陸海軍のこと
注2 独立不羈=他からの束縛をうけない
注3 毀誉褒貶=さまざまな評判
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訓育は降る雨の如し
十二期 山 本 内良二
衛兵勤務に就いていた時のことである。長く感じられた一夜が明け、朝から雨が降り出した。営外居住者の殆どが校門を入り、緊張感がほぐれた午前八時頃、突然正門外に勤務していた衛兵の声、「整列」と号令がかかった。
予期はしていたものの、控えの衛兵は、あわただしく銃をとり、全員衛舎前に整列した。横目で校門の外を見ると、乗馬の高木校長が、約五十メートルの前方に悠々と馬を進めておられる姿が見えた。
少々整列をするのが早過ぎた感じはあつたが今更どうすることもできない、雨は容赦なく全身を濡らす、銃口から雨水の入るのが痛わしい、一刻も早く校長が校門へ入られることを心から願った。
この様子を見られた馬上の校長は、少しでも早く通過してやろうとの親心から、馬をせきたてられた、だが馬は少々老年の軍馬であったのか、駆足をはじめて間もなくのこと、石にでもつまづいた様子で、急に馬首を下げ前足の膝を地についてしまった。途端に校長は手綱に引かれて、馬上から振り落とされてしまった。
整列していた先頭の衛兵、二~三人が反射的に飛び出して行き、倒れた校長を助け起こした。ご存じのとおり校長は戦傷のため少し足がご不自由なお身体であるだけに気になった。幸いに怪我はなかったらしく、馬は馬丁に委《まか》せて、こちらに歩いてこられる。
「整列」の号令をかけた衛兵と、衛兵司令の顔面は、特に血の気を全く失しなつている。我々衛兵もどうなることかと生きた心地はしなかった。雷の落ちるのは当然と覚悟した。
「敬礼」が済んで、校長は、衛兵全員を衛舎内に入れさせ、ご自分は屋外の雨の降る場所に立って、なにごともなかつたような、穏やかな口調で、
『「整列」が少し早過ぎたな。皆が雨に濡れると思って、少しでも早く済まそうと思ったところ、こんなことになってしまった。今後は、一番こちらの電柱のところに来てから「整列」 をかけるようにせよ。
必ず、申送り事項として忘れずに、落馬のことは内密に』と、懇篤に、具体的に、注意、諭された。
「冷汗三斗のおもい」《注1》で聞いていたが、校長が立去られ、皆は、ほつと安堵の胸を撫でおろすと共に、漸く生気が蘇《よみ》がえったことは言うまでもない。この事実は、内々裡に結末して、当日の衛兵勤務以外は誰も知らずに終了した。
若しあの場合、高木校長でなく、他の人であつたらどんなことになっていたであろうか、単なる、その場の注意だけで済むことではなかつたと思うにつけ、高木校長の仏のような慈愛に溢れた、その人格を、目の当りに見て、尊敬の念を、一段と募らせる出来事であつた。
村松少通校の将校は、口癖のように「此処の将校団はどこの将校団よりも、和気あいあいで、みんな意気投合していて実によい」と、また、他から着任される方々の第一印象もそうである。と聞かされた、特に最近着任された、生徒隊長は、「以前から此処に来たいと、希望していたが、それが実現できて非常に嬉しい」と喜んでおられた。
以上のことを綜《そう》合して考えるとき、これは一重に、高木校長の人徳の至す所以であろうと。
以上 「昭和二十二年私の随想記」 から抜粋
注1 冷汗三斗(れいかんさんと)のおもい=恥ずかしさや恐ろしさのためにひどく冷や汗をかくこと
十二期 山 本 内良二
衛兵勤務に就いていた時のことである。長く感じられた一夜が明け、朝から雨が降り出した。営外居住者の殆どが校門を入り、緊張感がほぐれた午前八時頃、突然正門外に勤務していた衛兵の声、「整列」と号令がかかった。
予期はしていたものの、控えの衛兵は、あわただしく銃をとり、全員衛舎前に整列した。横目で校門の外を見ると、乗馬の高木校長が、約五十メートルの前方に悠々と馬を進めておられる姿が見えた。
少々整列をするのが早過ぎた感じはあつたが今更どうすることもできない、雨は容赦なく全身を濡らす、銃口から雨水の入るのが痛わしい、一刻も早く校長が校門へ入られることを心から願った。
この様子を見られた馬上の校長は、少しでも早く通過してやろうとの親心から、馬をせきたてられた、だが馬は少々老年の軍馬であったのか、駆足をはじめて間もなくのこと、石にでもつまづいた様子で、急に馬首を下げ前足の膝を地についてしまった。途端に校長は手綱に引かれて、馬上から振り落とされてしまった。
整列していた先頭の衛兵、二~三人が反射的に飛び出して行き、倒れた校長を助け起こした。ご存じのとおり校長は戦傷のため少し足がご不自由なお身体であるだけに気になった。幸いに怪我はなかったらしく、馬は馬丁に委《まか》せて、こちらに歩いてこられる。
「整列」の号令をかけた衛兵と、衛兵司令の顔面は、特に血の気を全く失しなつている。我々衛兵もどうなることかと生きた心地はしなかった。雷の落ちるのは当然と覚悟した。
「敬礼」が済んで、校長は、衛兵全員を衛舎内に入れさせ、ご自分は屋外の雨の降る場所に立って、なにごともなかつたような、穏やかな口調で、
『「整列」が少し早過ぎたな。皆が雨に濡れると思って、少しでも早く済まそうと思ったところ、こんなことになってしまった。今後は、一番こちらの電柱のところに来てから「整列」 をかけるようにせよ。
必ず、申送り事項として忘れずに、落馬のことは内密に』と、懇篤に、具体的に、注意、諭された。
「冷汗三斗のおもい」《注1》で聞いていたが、校長が立去られ、皆は、ほつと安堵の胸を撫でおろすと共に、漸く生気が蘇《よみ》がえったことは言うまでもない。この事実は、内々裡に結末して、当日の衛兵勤務以外は誰も知らずに終了した。
若しあの場合、高木校長でなく、他の人であつたらどんなことになっていたであろうか、単なる、その場の注意だけで済むことではなかつたと思うにつけ、高木校長の仏のような慈愛に溢れた、その人格を、目の当りに見て、尊敬の念を、一段と募らせる出来事であつた。
村松少通校の将校は、口癖のように「此処の将校団はどこの将校団よりも、和気あいあいで、みんな意気投合していて実によい」と、また、他から着任される方々の第一印象もそうである。と聞かされた、特に最近着任された、生徒隊長は、「以前から此処に来たいと、希望していたが、それが実現できて非常に嬉しい」と喜んでおられた。
以上のことを綜《そう》合して考えるとき、これは一重に、高木校長の人徳の至す所以であろうと。
以上 「昭和二十二年私の随想記」 から抜粋
注1 冷汗三斗(れいかんさんと)のおもい=恥ずかしさや恐ろしさのためにひどく冷や汗をかくこと
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「ローマは、一日にして成らず」と謂《い》われます。当時は「陛下の威を借る」軍人が大半であった時代風潮のなかにあって、「人に接するに、春風の如き」穏やかな態度と口調で望まれる、あの高木校長の内面には、日夜「秋霜、己を持す」《注1》 精神修養が積まれていたのではないだろうか、永年の心の修業が結実して「その人と成り」の人徳を身につけられたものと推察される。
厳格な、日常の起き臥しの中であったが、学校長を頂点に、なにか 「慈愛という核の傘」の下に、学校生活を送り、有形、無形の薫陶《注2》を受けたように思う、少年時代の得難い貴重な体験であった。
前述した、衛兵勤務の責任者であった衛兵司令から、一言の叱責もなく、また愚痴を聞くこともなく済んだことは、その証左であり、下番の我々の眠気を覚ます一服の清涼剤であつた。
四十年後の今、当時を想い浮かべ、高木校長がお持ちになっていた「学校教育に対する理念」 と「自己の人間形成の秘訣」などを、是非とも、紙上でお聞かせ願いたいものである。
終戦後、暫らくは、無い、無い尽くしの日本であつたが、現在では、物は豊富となり、国際社会における先進国に成長した。しかしながら、あまりにも算術のみが先行して、人間としての大切なものが失なわれ、忘れられてきているように思われてならないのは、私だけの危惧でありましょうか。
「あの日のことは内密に」との、お言葉でしたが、四十年を経過した今日、もはや時効になったものと解釈して、学校長のエピソードとして、紹介いたします。
(当初の題名は「降る雨の如し」) 昭六一・二--第四号収載)
注1 「秋霜、己を持す」=《秋の霜が草木を枯らすところから》刑罰・権威の厳しさにわが身をつつしむ
注2 薫陶=《香をたいて薫りを染み込ませ、土をこねて形を整えながら陶器を作り上げる意から》徳の力で人を感化し、教育すること
厳格な、日常の起き臥しの中であったが、学校長を頂点に、なにか 「慈愛という核の傘」の下に、学校生活を送り、有形、無形の薫陶《注2》を受けたように思う、少年時代の得難い貴重な体験であった。
前述した、衛兵勤務の責任者であった衛兵司令から、一言の叱責もなく、また愚痴を聞くこともなく済んだことは、その証左であり、下番の我々の眠気を覚ます一服の清涼剤であつた。
四十年後の今、当時を想い浮かべ、高木校長がお持ちになっていた「学校教育に対する理念」 と「自己の人間形成の秘訣」などを、是非とも、紙上でお聞かせ願いたいものである。
終戦後、暫らくは、無い、無い尽くしの日本であつたが、現在では、物は豊富となり、国際社会における先進国に成長した。しかしながら、あまりにも算術のみが先行して、人間としての大切なものが失なわれ、忘れられてきているように思われてならないのは、私だけの危惧でありましょうか。
「あの日のことは内密に」との、お言葉でしたが、四十年を経過した今日、もはや時効になったものと解釈して、学校長のエピソードとして、紹介いたします。
(当初の題名は「降る雨の如し」) 昭六一・二--第四号収載)
注1 「秋霜、己を持す」=《秋の霜が草木を枯らすところから》刑罰・権威の厳しさにわが身をつつしむ
注2 薫陶=《香をたいて薫りを染み込ませ、土をこねて形を整えながら陶器を作り上げる意から》徳の力で人を感化し、教育すること
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生きる
十三期 中 元 正 夫
物狂ほしい繚乱《りょうらん》の、春も束の間の夢のように立ち去って行った。天はその頃からしだいに雲にとざされ銀ねず色に底光りする空が若い新緑の梢をさへざへと浮き立たせてくれるようになる。
山々の谷から雨霧が、立ち苗田の緑が、目にしむる頃いよいよ梅雨の季節が、やってくる。あじさいは、その頃咲く。
雨の季節は早くその年は異常なままに、うつろいの年でもあつた。
西郷の墓を詣で、一路これから国の為に生きる身を北にむかつた。桜の花を二度見、春から夏、夏から秋、そして冬、季節はこの一週間に、こんなに早く来るものなのかと、うたがった。
雪深い五泉の駅から村松まで、一本のロープをたどりながら、歩いている私の靴が、ポッカリと底が、ぬけてしまった。十三期四中隊、芳隊、私は生まれて、はじめて雪を見た。
ダブダブの服の袖をおりまげ、ズボンの両端を腰の所で、つまみ、肩章のみが型よくその姿をカバーした。満十四才の背の小さい少年兵陸軍生徒の私の姿を見て藤本班長は、プッと吹き出した。
規則正しい毎日の中で教練、勉学と、おいまくられた日々、トンツーのさわやかな音が、今も目を閉じると聞えてくる。
森山中隊長のモスグリーンの軍服姿が馬上に見えるとき、何か尊いものを見る様に勉学に励んだ毎日であつた。
十四才の少年は、いきなり大人として生かされた。だからと言って「ゴウマン」な図太さは、もち得なかった。ただ殺気だった少年は「おおかみ」の様に吠え立てることは出来た。それは国の為に、いつ死してもいい教育の中で自分の心さへ、失なわれていた。
図太く短く生きねば、ならない人間は何をも恐れを知らなかつた。
アツッ島が玉砕《注1》したことを誰からともなく知った。そして少年兵は、やがてくる出発をまった。
抜けるように晴あがった日であつた。
八月十五日とぎれとぎれの玉音の放送《注2》は少年兵を打ちのめした。
悲しみが、全身を凍てつかせた。
「戦いは終った、だが逝ってしまった母や友人はいったい、どこへ帰りつけると言うのか。そして、この俺にどうして、何を始まりうるといふのか」。
いつまでも白い雲は動かなかった。
篠田佐多雄、小松、中元正夫、是枝宣雄、田中照二、五人は短剣で、小指をきり血書を書き、森山中隊長に持参した。
私達はその夜、練兵場の松林で、自害しようと約束しました。夕刻がすぎ真赤な夕陽が沈むころ正装し松林に向ふとした折、青白く、いすくめる様な目をして大声で中隊長から、よびつけられた。泣いた。抱き合って泣くしかなかった。森山中隊長の息が耳にふれ「死んだらあかん」 「死んだらあかん」と何度も耳をつんざめた。私達は肩を抱き合い、くずれる様に座し、コブシで、土をたたいた。希望を目的を断ちきられ、もぎとられた人間の心の痛みを、あなたは知るまい。明くる日もその次の日も又、肩を抱き合い、この痛みに耐えた。カンナの香りが涙の中にしみては消え、消えてはしみた。
牛馬をつむ荷物列車にのり広島の原爆のすさまじさを見、九月上旬、鹿児島に着く。
森山中隊長から何十通もの便りをいただいたまま、近事を書く気力さへなく、生きた「しかばね」の様な毎日だつた。
翌年、十一月上旬、友人の母上より便りがあつた。友は終戦前十日に戦死したといふ、沖縄に向ふ、飛行機のまま。私は、ありったけの食糧をもって何十里も離れた友の家を訪ねた。
親友は死にその妹も死んだと言ふ。桔梗の花に似て首の細い優しい人だった。その死顔に「何故、私の家だけこんなに次々と死ぬの」と母上は泣いた。
友の父は眼寓が大きく瞼《まぶた》が横一文字に閉じていた。それは私に向けられていて、私を見ていなかった。その目は「あなただけは、まだ生き続けておいでなんですか」と言っていた。
一つの想ひ心に満ちくれば
眼底 痛み 涙、湧きくる。
ひたぶるにしみる心の重きよ
リマの便り、泣きて、なつかし。
枯れ果てた心に、みづみづしい情熱をしみこませてくれる森山中隊長の便りは、私を半年の空白から立ち上らせてくれた。
私は鹿児島大学に入学し、ひたすら勉学に打ち込んだ。
夏のくる度に逢ふ約束をし私は励まされた。「リマに行くので語学の研究に入る」と上京された森山さんを自宅に招き、酒をくみかわし、ありし日を語ったことも何回となく重ねた。リマでの生活を便りできくとき、ありし日の面影はいつも私をささへてくれた。
学生時代に霧島の山野をかけめぐつた乗馬の話をしたら、行ってみようと、すぐ約束してくれた何十年前かを想ひ出す。
あの時の会話が又私に涙をさそうのです。
「中隊長、馬が私にこう云ふのです」
「君、今日は思い切って向ふの丘をこえてみようよ、傷だらけの心をいやして上げなければ余りに君が可愛そうだから」と。
空白の中から、やっと立ち上り友を失った矢先だっただけに私は馬といる時だけ、自然に心が開いていたのでしょう。
信愛の情といふものは水入らずの間に育ちそれは色彩の様に、一つ一つが金色に輝くのです。
私は、その時幸福にひたることが出来るのです。私の心をいつも清純にしてくれる、ものの言へない一つの動物が、沢山の言葉と喜びと励ましを与えてくれるのです。
中隊長は「まさか」と思ひでしようが、ほんとなので-と。
美しい夕陽を、ながめ乍ら森山中隊長は静かにこう言つたのです。
「人生は永いのだから、優しい気持だけは失わないようにしよう」 とそして尚、静かに、山紫に水清く……と軍歌を口づさんでいられた。
事故で入院し日本に帰っているといふ報せを聞き、私は大阪に飛んだ。何回となく行く内に私が行くと見えない目で、きけない口で、いろいろな事を語りかけて下さるのです。こきざみにふるへる手を握りしめると口もとが、かすかにほころぶのです。私がソッと、イチゴを口に入れようとした。涙があふれ薄赤色の肉片にしみて流れた。
帰りぎわに奥様から「面会にもう来ないで下さい。本当にもう来ないで下さい」と。
言ふ方もつらかったと思います。東京から大阪へ何度も行く私の心も痛くつらかった。でも、私は、奥様が病院にいない時間をみはからつて行った。私は通いつづけた。
洋々と拡大な海を感じ、怒濤《どとう》と飛沫を想わせる様な勇ましさと、なぎの様な静かな心を私は、森山さんに感じていたのです。
私は十四才の時この方を知らなかつたら、どうなっていたかと今でも、身ぶるいするのです。上官と部下の結びつきは而も十四才の少年の心にはそれが、どんな状態であろうとも断ちきる交りではなかったのです。
永田町の砂浜にねころび乍ら「せめて、やさしさのこもった強い交りで生きて行こう」と言って下さった森山中隊長の言葉が、今も胸をつくのです。
戦争は十四才の少年の心と前途をあの様な形で暗やみの中においやり、生きるすべまでもぎとろうとした。而し上官の励ましの中で、手さぐりで生きつづけて来たことは、森山中隊長だけが知っている様な気がするのです。
誰にも、わからないあの頃の「ほこり」を今も、私は失ひたくないのです。
森山中隊長は私の人生の中で最も尊敬する人間でした何十年交つても印象のボケている人とわづかの時期で心の中に、ジックリと住みついてしまふ人がある、森山中隊長はその後半のかたであった。
森山中隊長が亡くなったと聞いた。私は霧島の山野をかけめぐり馬上で泣けるだけ泣いた。まだ私の心の中に生きつづけている方に香をたくことが出来ないのです。
夏がくる度にいきていることが恐ろしい程、つらい。亡くなった多くの先輩達が生きていたら、もっと雄大な固い結びつきになつていたであろうと思ふと、ほとぼしる様に悲しみが胸をさすのです。
暮れなずむ部屋の片隅でギターの弦を、はじいて音のゆくえを追ふ心の重さが、今も痛い。
四十年を経ていると言ふのに。
そして今も生きている。
(昭六一・二----第四号収載)
注1 玉砕(ぎょくさい)=玉のように美しくくだけ散る。全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬこと
注2 玉音放送=1945 年(昭和 20)8 月 15 日、昭和天皇みずからの声でラジオを通じて全国民に戦争終結の詔書を放送したこと。日本国民ははじめて天皇の肉声に接した。
十三期 中 元 正 夫
物狂ほしい繚乱《りょうらん》の、春も束の間の夢のように立ち去って行った。天はその頃からしだいに雲にとざされ銀ねず色に底光りする空が若い新緑の梢をさへざへと浮き立たせてくれるようになる。
山々の谷から雨霧が、立ち苗田の緑が、目にしむる頃いよいよ梅雨の季節が、やってくる。あじさいは、その頃咲く。
雨の季節は早くその年は異常なままに、うつろいの年でもあつた。
西郷の墓を詣で、一路これから国の為に生きる身を北にむかつた。桜の花を二度見、春から夏、夏から秋、そして冬、季節はこの一週間に、こんなに早く来るものなのかと、うたがった。
雪深い五泉の駅から村松まで、一本のロープをたどりながら、歩いている私の靴が、ポッカリと底が、ぬけてしまった。十三期四中隊、芳隊、私は生まれて、はじめて雪を見た。
ダブダブの服の袖をおりまげ、ズボンの両端を腰の所で、つまみ、肩章のみが型よくその姿をカバーした。満十四才の背の小さい少年兵陸軍生徒の私の姿を見て藤本班長は、プッと吹き出した。
規則正しい毎日の中で教練、勉学と、おいまくられた日々、トンツーのさわやかな音が、今も目を閉じると聞えてくる。
森山中隊長のモスグリーンの軍服姿が馬上に見えるとき、何か尊いものを見る様に勉学に励んだ毎日であつた。
十四才の少年は、いきなり大人として生かされた。だからと言って「ゴウマン」な図太さは、もち得なかった。ただ殺気だった少年は「おおかみ」の様に吠え立てることは出来た。それは国の為に、いつ死してもいい教育の中で自分の心さへ、失なわれていた。
図太く短く生きねば、ならない人間は何をも恐れを知らなかつた。
アツッ島が玉砕《注1》したことを誰からともなく知った。そして少年兵は、やがてくる出発をまった。
抜けるように晴あがった日であつた。
八月十五日とぎれとぎれの玉音の放送《注2》は少年兵を打ちのめした。
悲しみが、全身を凍てつかせた。
「戦いは終った、だが逝ってしまった母や友人はいったい、どこへ帰りつけると言うのか。そして、この俺にどうして、何を始まりうるといふのか」。
いつまでも白い雲は動かなかった。
篠田佐多雄、小松、中元正夫、是枝宣雄、田中照二、五人は短剣で、小指をきり血書を書き、森山中隊長に持参した。
私達はその夜、練兵場の松林で、自害しようと約束しました。夕刻がすぎ真赤な夕陽が沈むころ正装し松林に向ふとした折、青白く、いすくめる様な目をして大声で中隊長から、よびつけられた。泣いた。抱き合って泣くしかなかった。森山中隊長の息が耳にふれ「死んだらあかん」 「死んだらあかん」と何度も耳をつんざめた。私達は肩を抱き合い、くずれる様に座し、コブシで、土をたたいた。希望を目的を断ちきられ、もぎとられた人間の心の痛みを、あなたは知るまい。明くる日もその次の日も又、肩を抱き合い、この痛みに耐えた。カンナの香りが涙の中にしみては消え、消えてはしみた。
牛馬をつむ荷物列車にのり広島の原爆のすさまじさを見、九月上旬、鹿児島に着く。
森山中隊長から何十通もの便りをいただいたまま、近事を書く気力さへなく、生きた「しかばね」の様な毎日だつた。
翌年、十一月上旬、友人の母上より便りがあつた。友は終戦前十日に戦死したといふ、沖縄に向ふ、飛行機のまま。私は、ありったけの食糧をもって何十里も離れた友の家を訪ねた。
親友は死にその妹も死んだと言ふ。桔梗の花に似て首の細い優しい人だった。その死顔に「何故、私の家だけこんなに次々と死ぬの」と母上は泣いた。
友の父は眼寓が大きく瞼《まぶた》が横一文字に閉じていた。それは私に向けられていて、私を見ていなかった。その目は「あなただけは、まだ生き続けておいでなんですか」と言っていた。
一つの想ひ心に満ちくれば
眼底 痛み 涙、湧きくる。
ひたぶるにしみる心の重きよ
リマの便り、泣きて、なつかし。
枯れ果てた心に、みづみづしい情熱をしみこませてくれる森山中隊長の便りは、私を半年の空白から立ち上らせてくれた。
私は鹿児島大学に入学し、ひたすら勉学に打ち込んだ。
夏のくる度に逢ふ約束をし私は励まされた。「リマに行くので語学の研究に入る」と上京された森山さんを自宅に招き、酒をくみかわし、ありし日を語ったことも何回となく重ねた。リマでの生活を便りできくとき、ありし日の面影はいつも私をささへてくれた。
学生時代に霧島の山野をかけめぐつた乗馬の話をしたら、行ってみようと、すぐ約束してくれた何十年前かを想ひ出す。
あの時の会話が又私に涙をさそうのです。
「中隊長、馬が私にこう云ふのです」
「君、今日は思い切って向ふの丘をこえてみようよ、傷だらけの心をいやして上げなければ余りに君が可愛そうだから」と。
空白の中から、やっと立ち上り友を失った矢先だっただけに私は馬といる時だけ、自然に心が開いていたのでしょう。
信愛の情といふものは水入らずの間に育ちそれは色彩の様に、一つ一つが金色に輝くのです。
私は、その時幸福にひたることが出来るのです。私の心をいつも清純にしてくれる、ものの言へない一つの動物が、沢山の言葉と喜びと励ましを与えてくれるのです。
中隊長は「まさか」と思ひでしようが、ほんとなので-と。
美しい夕陽を、ながめ乍ら森山中隊長は静かにこう言つたのです。
「人生は永いのだから、優しい気持だけは失わないようにしよう」 とそして尚、静かに、山紫に水清く……と軍歌を口づさんでいられた。
事故で入院し日本に帰っているといふ報せを聞き、私は大阪に飛んだ。何回となく行く内に私が行くと見えない目で、きけない口で、いろいろな事を語りかけて下さるのです。こきざみにふるへる手を握りしめると口もとが、かすかにほころぶのです。私がソッと、イチゴを口に入れようとした。涙があふれ薄赤色の肉片にしみて流れた。
帰りぎわに奥様から「面会にもう来ないで下さい。本当にもう来ないで下さい」と。
言ふ方もつらかったと思います。東京から大阪へ何度も行く私の心も痛くつらかった。でも、私は、奥様が病院にいない時間をみはからつて行った。私は通いつづけた。
洋々と拡大な海を感じ、怒濤《どとう》と飛沫を想わせる様な勇ましさと、なぎの様な静かな心を私は、森山さんに感じていたのです。
私は十四才の時この方を知らなかつたら、どうなっていたかと今でも、身ぶるいするのです。上官と部下の結びつきは而も十四才の少年の心にはそれが、どんな状態であろうとも断ちきる交りではなかったのです。
永田町の砂浜にねころび乍ら「せめて、やさしさのこもった強い交りで生きて行こう」と言って下さった森山中隊長の言葉が、今も胸をつくのです。
戦争は十四才の少年の心と前途をあの様な形で暗やみの中においやり、生きるすべまでもぎとろうとした。而し上官の励ましの中で、手さぐりで生きつづけて来たことは、森山中隊長だけが知っている様な気がするのです。
誰にも、わからないあの頃の「ほこり」を今も、私は失ひたくないのです。
森山中隊長は私の人生の中で最も尊敬する人間でした何十年交つても印象のボケている人とわづかの時期で心の中に、ジックリと住みついてしまふ人がある、森山中隊長はその後半のかたであった。
森山中隊長が亡くなったと聞いた。私は霧島の山野をかけめぐり馬上で泣けるだけ泣いた。まだ私の心の中に生きつづけている方に香をたくことが出来ないのです。
夏がくる度にいきていることが恐ろしい程、つらい。亡くなった多くの先輩達が生きていたら、もっと雄大な固い結びつきになつていたであろうと思ふと、ほとぼしる様に悲しみが胸をさすのです。
暮れなずむ部屋の片隅でギターの弦を、はじいて音のゆくえを追ふ心の重さが、今も痛い。
四十年を経ていると言ふのに。
そして今も生きている。
(昭六一・二----第四号収載)
注1 玉砕(ぎょくさい)=玉のように美しくくだけ散る。全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬこと
注2 玉音放送=1945 年(昭和 20)8 月 15 日、昭和天皇みずからの声でラジオを通じて全国民に戦争終結の詔書を放送したこと。日本国民ははじめて天皇の肉声に接した。
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某班長の母に宛てた手紙 (抄)
五泉国民学校校長 板橋 利邦
(昭和十九年度学校経営記録より)
母上様 春とは申すものの唯名のみにて未だ肌寒い此頃を老の御身のいと健かに家事に励み遊さるるとの事此の上もなく心嬉しく存じて居ります 雪や氷で唯真白でありました此處新潟にも早くも春は訪れ 野辺の若草色みせて 練武の靴に躙《ふむ》らんも心苦しい様なよい時候となりました さるにても心浮き立つ此の春に 花の便りよりも もつと嬉しい事を御耳に入れたいと思ひます 私は昨年の暮から 班長と申す下士官としては 最も責任の重い最も御奉公甲斐のあるさうして愉快な職務を命せられました 然し私は此の命令を受けました時考へました 「私は明日から大切な天子様の赤子 大事な人様の子五十名と言ふものを御預りせねばならぬ 我身一つでさへ満足に保って行くのにせいぜいな此身が 五十に餘る人の子の朝な夕なの起床から晝の休み居づまい迄心を配らねばならぬ重い勤めが果せるであらうか 自分一人の僅かな品物でさへ 時折粗末に仕勝ちな此の身が あの数千を数へる班員に支給せられて居る武器被服物品を気を付けてやる事が出来るであらうか 自分の心一つを正しく保って行くのに 汗みどろな此の私が 五十人の人の心を正しく向けて行くと云う事が出来様か」とかう言ふ風に考へました時 私は現在明日から其の重大な何と考へても出来さうもない職務に直面せねばならない然も力ない自分を思ふて餘りの恐ろしさに 心も空になりました
母上様 此の時です 此の時圖らずも心に浮び出したのは母上の慈愛に満ちた眼指でありました 又十年を一日の如く家庭の些事《さじ》を捌《さば》いて行かれるあの献身的な御姿でありました 「ああこれだ」思はずも叫びました 此の時心の奥から呼び掛くる力強い聲を聞きました 純真な愛 献身的の努力 これぞ 勅諭に示さるる誠ではないか 三年間鍛へ上げたる軍人精神は常に光を放つべき折を待って居るではないか 行け!
誠の一字を真向に翳《かざ》して! 其の時以来私はありとあらゆる私慾に鞭打って晝となく夜となく私の身も心も五十の班員の為に捧げ盡くしました 遂に私の誠が天に通ずる折が来ました 此の頃は班長班員でなく 親と子に成りきりました 大切な 陛下 の赤子大事な人様の子じやなくて 可愛い我が子です 「子を持って初めて知るや親心」私にも漸く此の頃 親の慈愛と言ふものが解って来た様な気がします 私の兄弟では三郎が子供の時分一番いけなかつた様です 意地悪で徒らで無鉄砲でした よく兄様と蔭口をしたものです「お母さんは一番いけない子を一番可愛がりなさるじやないか」と 今之を思えば之が親の慈悲でした 世に片輪の子程可愛いと申しますが 是が即 満足な者にしてやりたい親の慈悲でせう 身體の片輪も心の片輪も同じ事です これに一入《ひとしお》目をかけて直してやるのが親の慈悲と言ふものでせう
私の班にも不幸な家庭に育った為 非常に心のひねくれた生徒が二名居りまして 随分と困らされましたが一層心を盡くして導きました處 此の頃は余程よくなりました 奇体なもので此の良くない生徒が良くなるに連れて班の空気全体が良く成って参りました
私が中学の入学試験で不幸落第して帰って申上げた時の悲しそうな御顔は今だに眼にちらついて居ります 然も共に悲しんで下さつた後で涙を以て激励して下さいました 其の翌年は幸に見事入學し得た時のあの嬉し相な御顔是亦忘れ得ませぬが其の時も後で油断せぬ様の御注意を戴きました 子の喜は親の喜であり子の悲しみは親の悲しみであります 班員の喜びを共に喜び戒めてやり班員の悲しみを共に悲しんで励ましてやるここに純情の愛が燃え上がって来るのを覚えます 私が子供の時 寝相が悪かつたのは有名なもので 西枕がいつの間にやら東枕 蒲団を飛び出すのは愚なこと蚊帳の外まで遠征してよく三郎や花子に笑はれたものです 真夜中ふと目をさますと母上が私の枕辺に来てはね飛した蒲団を着せ額に手を當てて首を傾けてから両肩の蒲団を押へて下さるのに気付いた事がありました 其の時はさ程にも感じませんでしたが今泌々と有難さがこみ上げて来ます
晝の演習で身体の疲れ 朝夕の心使ひに気の疲れ 班長に成ります前は枕につくと翌朝迄は夢も見ずに熟睡したものですが班長に成りまして以来一晩も夜の見回りをかかした事なく毛布を脱いで居る者の世話や室の温さに気を配り寝苦しがる生徒 熱気のある者でもあればいたはってやる 此の夜廻りも最初は大儀でしたが 今はもう習慣になって夜半には独りでに眼がさめ班内を一巡せぬと気掛りで 熟睡が出来ぬ様になりました お蔭で先頃猛烈に風邪が流行した時でも私の班だけは一名の患者も出さず皆から不思議がられました
學校では毎日課業始めの前に 全員整列して朝礼を致します 此の前後に週番士官と言ふ方が生徒の服装所持品其の他身の廻に就て検査を致します 處が私が班長に成って未だ間のない頃 週番士官の検査を受けた時 不幸にもー番欠点の多かつたのは 私の班員でありました
其の時私は 興奮の余り聲を荒げて班員を叱りました
自分も亦其の一日を悶々《もんもん》の裡に送り床に入りましたが寝つかれぬ儘 色々と考えて居る内に 頭に浮かんで来たのが私の小学校時代 毎朝の登校前の有様でした 母上が毎日私の登校前学用品は揃ってゐるか それ鉛筆が削ってないのではないか 今日は修身があるのに揃って居ないではないか それ上草履の鼻緒が切れて居る 帽子は良いか 服の釦が一つ無いではないか それ御飯粒が附いてゐるではないか 三郎の分は出来たか 又四郎の分も斯様な事では駄目だと次から次へと面倒な風もなく 其の度毎に こんな身なりをして學校へ行っては先生や人様に あの家庭は躾が悪いと言ふて笑はれ あの子供は 「ダラシ」 がないと言うて御友達から嫌がられるではないか と叱り乍らもー々直してから 學校に遅れぬ様に登校せよと送り出し 門前に立って私共の姿が見えなくなる迄見送って戴いた 何でも我が子は立派にとこれが親として真の愛であつたか 親切であつたか思はずも脇の下から冷汗が流れました それ以来 班員の朝礼前は勿論の事 其の他検査査閲から 日々の演習学科の直前に必ず班に臨みまして一通り検査し缺点を修正する事を怠りません 斯様になると班員も亦私の心を大いに酌んで 班員互いに注意を仕合ふ つまり 持ちつ靠《もた》れつと言ふ様な気分に成って此の頃は服装上に就ての缺点《けってん》が大変に少くなりました
又これにつけて思を深く致しましたのは 弟の三郎や四郎が着物の袖で鼻汁を拭ったり汚れた手を着物で拭ふ箱庭「ゴツコ」で土「イヂリ」 が多かつたので 着物を汚す事は他の子供並ではなかった事でありました その時母上が 鼻汁は塵紙で拭けよ 汚れた手は手拭で拭へよ 箱庭「ゴツコ」で塵が着いたら斯様にして拂ふのだと 手真似をして迄 殆んど毎日何回となく懇に教へ時折には叱り乍らも 「おお可愛想に着物も着れば垢《あか》が附く垢染みた着物をきるのは誰でもいやなもの 物は何んでも使った後で手入れをし綻《ほころ》びを直して置かなければいざと言ふ時に間に合はぬ」 とおっしやって其の度毎に 手まめに手入から 洗濯修理迄 能く行届いたものであつた
学科や演習で忙しいとか何とか言ふて やれんやれんは班長即ち母としての班長が班員に對する愛でない 母の子に對する心でやらねばならぬと奮起してからは 班員に対し先ず第一に 被服の手入から 洗濯の方法 個人修理の範囲から実施の方法を実地実物に就て詳しく懇切に教へる
第二には軍隊の品物は 何一つとして不経済に使ってよい物はない永く持てば持つだけ 国家の利益となり国民の負担が減じそれだけ 大東亜戦争完遂の戦力増強になるとか 服装の如何は軍人の威容に及ぼす事が大である殊に 吾々の如き衆望篤《あつ》き少年兵は特に心得ねばならぬとか 被服も使ったら必ず手入だ 汚れたら必ず洗濯だ 綻びたら必ず縫って置け 自分で直らぬ程度のものは 速かに修理を申立てよ 手入れの良否は保存上影響する事が大である 何でも粗末に取扱ひ又は手入をせずに使えば吃度命数が短縮する 學校の被服が悪くなる
互に程度の悪い物を使はねばならぬのみか後々から入校する生徒にも迷惑をかける事になる等の意味をよく説明して理解させ 且極く僅かな時間即ち毎日朝夕の点呼時等を利用して一品づつ検査を励行する 其の缺点事項は速かに處理をする 又同一事項を繰返して点検をする
特に使用が頻繁《ひんぱん》なるものとか 弟の三郎や四郎の様に服を多く汚す生徒に注意を重ねる事に致しました 此の結果此頃では班員を見ても汚れたり破れたり綻びたりするものを殆ど見受けません 之に伴って常に隊長殿から御注意になって居る物品の取扱が非常に良くなり 演習先での紛失等も全くなくなりました
まあ以上申上げた様な次第で 日一日と班員の空気は和やかに成って行き班員の気は一致して行き 従って班員の総べての技倆《ぎりょう》もめきめきと上達して行くと言ふ様な訳で極めて温い空気の裡に 班員諸共非常な愉快な其の日其の日を送って居ります 此の生徒も後一年程で卒業し皇軍の通信を 双肩に担って立つ立派な通信手となり
又幹部となるのでありますのですからそれだけに教へ甲斐があると存じます
まだまた書けば限りはありませんが 余り長くなるので此の位に止めます 兎に角學校では模範班長と言はれる迄になりましたのも 実は唯自分の子供の時の 親の心盡しを其の儘行って居るのに過ぎないで 御恩の程を泌々と有難く思います
母上様に是非班生活の和やかな様子を見て戴き度いのでありますが 時局下私事の旅行も出来ませぬので 入校後三日目の班員一同の写真が出来上がりましたので御送り致します 向って私の右側の方は区隊長の山下少尉殿です その外は私の班員である少年兵五十名です みんな元気な朗かな姿でせう この五十名の母親代りが私とすれば結局母上からは五十人の孫と言ふ訳です 母上様この五十人の孫達は 必ず喜んで戴ける様に 戦場で立派に御国に役立つ股肱《ここう=手足の意》として 私の命に代へても育て上げて参ります 母上様どうぞ二郎のこの大事な仕事を
お楽しみにして下さると共に 天晴れ巣立つ初孫の武運長久をお祈り下さい
母上様
二郎
比の文は中等學校長国民學校長の村松陸軍少年通信兵學校参観の際に指導官から御話のあつたものです 通信兵學校は教育方針として ほんとうに親心に徹した精神訓練を行っ居りますが其の方針の下に心血を濺《そそ》いで居られる一下士官の書かれたものであります 洵《まこと》によく躾教育の真髄を述べて居って 大きな感激に打たれ思はず頭を下げました
国軍の内務班の躾訓練・學校家庭の躾訓練は皇国民の錬成上聯關《れんかん=関連》発展を考へねばならぬもので皆様に是非御熟読をお薦め致します
五泉国民學校 板橋利邦
五泉国民学校校長 板橋 利邦
(昭和十九年度学校経営記録より)
母上様 春とは申すものの唯名のみにて未だ肌寒い此頃を老の御身のいと健かに家事に励み遊さるるとの事此の上もなく心嬉しく存じて居ります 雪や氷で唯真白でありました此處新潟にも早くも春は訪れ 野辺の若草色みせて 練武の靴に躙《ふむ》らんも心苦しい様なよい時候となりました さるにても心浮き立つ此の春に 花の便りよりも もつと嬉しい事を御耳に入れたいと思ひます 私は昨年の暮から 班長と申す下士官としては 最も責任の重い最も御奉公甲斐のあるさうして愉快な職務を命せられました 然し私は此の命令を受けました時考へました 「私は明日から大切な天子様の赤子 大事な人様の子五十名と言ふものを御預りせねばならぬ 我身一つでさへ満足に保って行くのにせいぜいな此身が 五十に餘る人の子の朝な夕なの起床から晝の休み居づまい迄心を配らねばならぬ重い勤めが果せるであらうか 自分一人の僅かな品物でさへ 時折粗末に仕勝ちな此の身が あの数千を数へる班員に支給せられて居る武器被服物品を気を付けてやる事が出来るであらうか 自分の心一つを正しく保って行くのに 汗みどろな此の私が 五十人の人の心を正しく向けて行くと云う事が出来様か」とかう言ふ風に考へました時 私は現在明日から其の重大な何と考へても出来さうもない職務に直面せねばならない然も力ない自分を思ふて餘りの恐ろしさに 心も空になりました
母上様 此の時です 此の時圖らずも心に浮び出したのは母上の慈愛に満ちた眼指でありました 又十年を一日の如く家庭の些事《さじ》を捌《さば》いて行かれるあの献身的な御姿でありました 「ああこれだ」思はずも叫びました 此の時心の奥から呼び掛くる力強い聲を聞きました 純真な愛 献身的の努力 これぞ 勅諭に示さるる誠ではないか 三年間鍛へ上げたる軍人精神は常に光を放つべき折を待って居るではないか 行け!
誠の一字を真向に翳《かざ》して! 其の時以来私はありとあらゆる私慾に鞭打って晝となく夜となく私の身も心も五十の班員の為に捧げ盡くしました 遂に私の誠が天に通ずる折が来ました 此の頃は班長班員でなく 親と子に成りきりました 大切な 陛下 の赤子大事な人様の子じやなくて 可愛い我が子です 「子を持って初めて知るや親心」私にも漸く此の頃 親の慈愛と言ふものが解って来た様な気がします 私の兄弟では三郎が子供の時分一番いけなかつた様です 意地悪で徒らで無鉄砲でした よく兄様と蔭口をしたものです「お母さんは一番いけない子を一番可愛がりなさるじやないか」と 今之を思えば之が親の慈悲でした 世に片輪の子程可愛いと申しますが 是が即 満足な者にしてやりたい親の慈悲でせう 身體の片輪も心の片輪も同じ事です これに一入《ひとしお》目をかけて直してやるのが親の慈悲と言ふものでせう
私の班にも不幸な家庭に育った為 非常に心のひねくれた生徒が二名居りまして 随分と困らされましたが一層心を盡くして導きました處 此の頃は余程よくなりました 奇体なもので此の良くない生徒が良くなるに連れて班の空気全体が良く成って参りました
私が中学の入学試験で不幸落第して帰って申上げた時の悲しそうな御顔は今だに眼にちらついて居ります 然も共に悲しんで下さつた後で涙を以て激励して下さいました 其の翌年は幸に見事入學し得た時のあの嬉し相な御顔是亦忘れ得ませぬが其の時も後で油断せぬ様の御注意を戴きました 子の喜は親の喜であり子の悲しみは親の悲しみであります 班員の喜びを共に喜び戒めてやり班員の悲しみを共に悲しんで励ましてやるここに純情の愛が燃え上がって来るのを覚えます 私が子供の時 寝相が悪かつたのは有名なもので 西枕がいつの間にやら東枕 蒲団を飛び出すのは愚なこと蚊帳の外まで遠征してよく三郎や花子に笑はれたものです 真夜中ふと目をさますと母上が私の枕辺に来てはね飛した蒲団を着せ額に手を當てて首を傾けてから両肩の蒲団を押へて下さるのに気付いた事がありました 其の時はさ程にも感じませんでしたが今泌々と有難さがこみ上げて来ます
晝の演習で身体の疲れ 朝夕の心使ひに気の疲れ 班長に成ります前は枕につくと翌朝迄は夢も見ずに熟睡したものですが班長に成りまして以来一晩も夜の見回りをかかした事なく毛布を脱いで居る者の世話や室の温さに気を配り寝苦しがる生徒 熱気のある者でもあればいたはってやる 此の夜廻りも最初は大儀でしたが 今はもう習慣になって夜半には独りでに眼がさめ班内を一巡せぬと気掛りで 熟睡が出来ぬ様になりました お蔭で先頃猛烈に風邪が流行した時でも私の班だけは一名の患者も出さず皆から不思議がられました
學校では毎日課業始めの前に 全員整列して朝礼を致します 此の前後に週番士官と言ふ方が生徒の服装所持品其の他身の廻に就て検査を致します 處が私が班長に成って未だ間のない頃 週番士官の検査を受けた時 不幸にもー番欠点の多かつたのは 私の班員でありました
其の時私は 興奮の余り聲を荒げて班員を叱りました
自分も亦其の一日を悶々《もんもん》の裡に送り床に入りましたが寝つかれぬ儘 色々と考えて居る内に 頭に浮かんで来たのが私の小学校時代 毎朝の登校前の有様でした 母上が毎日私の登校前学用品は揃ってゐるか それ鉛筆が削ってないのではないか 今日は修身があるのに揃って居ないではないか それ上草履の鼻緒が切れて居る 帽子は良いか 服の釦が一つ無いではないか それ御飯粒が附いてゐるではないか 三郎の分は出来たか 又四郎の分も斯様な事では駄目だと次から次へと面倒な風もなく 其の度毎に こんな身なりをして學校へ行っては先生や人様に あの家庭は躾が悪いと言ふて笑はれ あの子供は 「ダラシ」 がないと言うて御友達から嫌がられるではないか と叱り乍らもー々直してから 學校に遅れぬ様に登校せよと送り出し 門前に立って私共の姿が見えなくなる迄見送って戴いた 何でも我が子は立派にとこれが親として真の愛であつたか 親切であつたか思はずも脇の下から冷汗が流れました それ以来 班員の朝礼前は勿論の事 其の他検査査閲から 日々の演習学科の直前に必ず班に臨みまして一通り検査し缺点を修正する事を怠りません 斯様になると班員も亦私の心を大いに酌んで 班員互いに注意を仕合ふ つまり 持ちつ靠《もた》れつと言ふ様な気分に成って此の頃は服装上に就ての缺点《けってん》が大変に少くなりました
又これにつけて思を深く致しましたのは 弟の三郎や四郎が着物の袖で鼻汁を拭ったり汚れた手を着物で拭ふ箱庭「ゴツコ」で土「イヂリ」 が多かつたので 着物を汚す事は他の子供並ではなかった事でありました その時母上が 鼻汁は塵紙で拭けよ 汚れた手は手拭で拭へよ 箱庭「ゴツコ」で塵が着いたら斯様にして拂ふのだと 手真似をして迄 殆んど毎日何回となく懇に教へ時折には叱り乍らも 「おお可愛想に着物も着れば垢《あか》が附く垢染みた着物をきるのは誰でもいやなもの 物は何んでも使った後で手入れをし綻《ほころ》びを直して置かなければいざと言ふ時に間に合はぬ」 とおっしやって其の度毎に 手まめに手入から 洗濯修理迄 能く行届いたものであつた
学科や演習で忙しいとか何とか言ふて やれんやれんは班長即ち母としての班長が班員に對する愛でない 母の子に對する心でやらねばならぬと奮起してからは 班員に対し先ず第一に 被服の手入から 洗濯の方法 個人修理の範囲から実施の方法を実地実物に就て詳しく懇切に教へる
第二には軍隊の品物は 何一つとして不経済に使ってよい物はない永く持てば持つだけ 国家の利益となり国民の負担が減じそれだけ 大東亜戦争完遂の戦力増強になるとか 服装の如何は軍人の威容に及ぼす事が大である殊に 吾々の如き衆望篤《あつ》き少年兵は特に心得ねばならぬとか 被服も使ったら必ず手入だ 汚れたら必ず洗濯だ 綻びたら必ず縫って置け 自分で直らぬ程度のものは 速かに修理を申立てよ 手入れの良否は保存上影響する事が大である 何でも粗末に取扱ひ又は手入をせずに使えば吃度命数が短縮する 學校の被服が悪くなる
互に程度の悪い物を使はねばならぬのみか後々から入校する生徒にも迷惑をかける事になる等の意味をよく説明して理解させ 且極く僅かな時間即ち毎日朝夕の点呼時等を利用して一品づつ検査を励行する 其の缺点事項は速かに處理をする 又同一事項を繰返して点検をする
特に使用が頻繁《ひんぱん》なるものとか 弟の三郎や四郎の様に服を多く汚す生徒に注意を重ねる事に致しました 此の結果此頃では班員を見ても汚れたり破れたり綻びたりするものを殆ど見受けません 之に伴って常に隊長殿から御注意になって居る物品の取扱が非常に良くなり 演習先での紛失等も全くなくなりました
まあ以上申上げた様な次第で 日一日と班員の空気は和やかに成って行き班員の気は一致して行き 従って班員の総べての技倆《ぎりょう》もめきめきと上達して行くと言ふ様な訳で極めて温い空気の裡に 班員諸共非常な愉快な其の日其の日を送って居ります 此の生徒も後一年程で卒業し皇軍の通信を 双肩に担って立つ立派な通信手となり
又幹部となるのでありますのですからそれだけに教へ甲斐があると存じます
まだまた書けば限りはありませんが 余り長くなるので此の位に止めます 兎に角學校では模範班長と言はれる迄になりましたのも 実は唯自分の子供の時の 親の心盡しを其の儘行って居るのに過ぎないで 御恩の程を泌々と有難く思います
母上様に是非班生活の和やかな様子を見て戴き度いのでありますが 時局下私事の旅行も出来ませぬので 入校後三日目の班員一同の写真が出来上がりましたので御送り致します 向って私の右側の方は区隊長の山下少尉殿です その外は私の班員である少年兵五十名です みんな元気な朗かな姿でせう この五十名の母親代りが私とすれば結局母上からは五十人の孫と言ふ訳です 母上様この五十人の孫達は 必ず喜んで戴ける様に 戦場で立派に御国に役立つ股肱《ここう=手足の意》として 私の命に代へても育て上げて参ります 母上様どうぞ二郎のこの大事な仕事を
お楽しみにして下さると共に 天晴れ巣立つ初孫の武運長久をお祈り下さい
母上様
二郎
比の文は中等學校長国民學校長の村松陸軍少年通信兵學校参観の際に指導官から御話のあつたものです 通信兵學校は教育方針として ほんとうに親心に徹した精神訓練を行っ居りますが其の方針の下に心血を濺《そそ》いで居られる一下士官の書かれたものであります 洵《まこと》によく躾教育の真髄を述べて居って 大きな感激に打たれ思はず頭を下げました
国軍の内務班の躾訓練・學校家庭の躾訓練は皇国民の錬成上聯關《れんかん=関連》発展を考へねばならぬもので皆様に是非御熟読をお薦め致します
五泉国民學校 板橋利邦
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編集者 (代理投稿)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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それでは、村松の教育を語ってきた最後に、その日々はどんなものであつたか、これを生徒自身の日記の中から再現してみます。
ある少年通信兵の日記
村松十一期 吉 田 直 喜
注
吉田氏は昭和二年福島県生まれ、村松少通校に十一期生として入校、この日記を遺したあと、十九年十一月、繰上げ卒業組の一員として南方戦線に出陣、出港直後の遭難は免れ比島に辿り着いたものの、二十年六月ルソン島に於いて戦死した。
十九歳。
昭和十八年
十二月一日(水) 晴後雨
六時、起床ラッパと同時に飛び起きる。乾布摩擦、床取り、点呼に出る。本日より陸軍少年通信兵としての第一歩が始まったのである。
入校式あり、通信兵監陸軍中将川並密閣下が御来校になられ、有難い御訓示を賜わった。皇軍の一員として吾人は今後一意専心御奉公の誠を以って軍務に精励せん哉。生を享けて十七年、今日の如き感激を味わった事があつたであろうか。吾人に奮励努力あるのみ。
十二月二日(木) 晴
午前の課業、第一校時に中隊長殿の精神訓話あり。講話最後の 「元気明朗、正直に勉強し、戦場に役立つ軍人たらん」の誓いを日訓としてしっかり心に刻みつけ、日々の軍務に精励せん。
十二月十一日(土) 晴
午前中、通信修技あり。本日の修技は発唱。大分良くなったようであるが、ますます努力せねばならない。正しい発唱は正しい送受信の基なり。午後、入校最初の身体検査あり。
夜、映画会あり。一つ一つが吾人らの良き教材なり。特に「武蔵野に鍛ふ」(少年通信兵の記録映画)の感銘探し。
十二月十五日(水) 晴時々曇
近頃にない暖かい日であつた。午前中、通信修技あり、送信姿勢、点の打ち方等について勉強す。
十二月二十二日(水) 晴
保育の時間に銃を授与されたり。本日より銃を持ち決意新たなものあり。午後、中隊全員記念撮影す。
十二月二十三日(木) 晴
午後、銃の手入法を習う。今後は銃を磨くと共に己の魂をも磨かん哉。九九式短小銃。これを持ちて大いに今後は奮励せん。軍服をつけ銃を持ち毎日訓練に励む。何たる喜びか、感慨無量なり。
十二月二十六日(日) 雪
昨夜の雨ついに雪に変る。日朝点呼後、雪中で騎馬戦を行い大いに闘志を養う。午前中故郷への便りを書いて過す。午後は明日、歴史、国語の素養検査があるため戦友たちとともに勉強す。
夕刻、軍歌演習のため村松の町を歩武堂々、行進しながら大声で軍歌をうたう。我が心勇み立つ。
十二月三十日(木) 曇後雨
午前中、ドイツ映画 「勝利の記録」 を見学す。吾人に感銘深し。即ち大和魂と共通すべきドイツ魂が画面によく表れている。彼等は実に勇敢である。かつ軍規の厳正なることには感心させられたり。
昭和十九年
一月二日(日) 曇
訓育演習あり。村松駅にて 「中隊は予定のごとく若松に向かい出発せんとす」 の命令のもと元気一杯出発す。十時半過ぎ会津若松着。直ちに飯盛山に向かい行軍を開始す。白虎隊の墓所に参詣し、剣舞を見、講話を聞く。剣舞を行いし会津少年たちの元気な姿を見て吾人大いに感激す。石塚教授殿より、白虎隊奮戦の講話を聞き、ますます御奉公の誠を致し、毎日の訓練に励まんことを墓前に誓う。飯盛山より遥か鶴ガ城を望み、想いを当時に馳せるとき、傍らに立てる老松吾に何事か語りかけるがごとし。
下山、東山温泉に向かって行軍す。ここにて昼食を摂りたる後、会津鶴ガ城に行軍す。暮色迫りし城跡において会津精神について講話を聞くとき、同県人の吾人もまた感銘深きものあり、十八時すぎ若松を出発、二十二時すぎ無事帰校す。
一月五日(水) 曇
午前中、初の数学の学科あり。吾人好む学科ゆえよく頭に入るように思わる。習學上の注意に、通信兵にとりては電磁気学と相並んでともに大切な学科なれば、自学自習し、課業中は熱心に修学すべしとの教官殿の注意あり、静電気について勉強す。
一月九日(日) 晴
午前中、通信修技あり、午後は初めての外出あり。
陸軍生徒としての初の外出、今日の日を入校以来いかに待ちたることか。外出許可がかくも早くなるとは想ってもいなかつただけに、実に嬉しく感ず。
校門を出て警察前を通り駅前に出ず。駅前で少々遊び、買物などして戦友と共に一路帰校す。外出して新しき気持ちになり、また明日よりは大いに課業に精励せん哉《かな》。
一月二十日(木) 曇
朝礼の際、中隊長殿より敬礼の厳正と衛生につき訓示あり、午前中、通信修技。入校後早くも五十日を経過し、送受信もどうやら出来るようになりたり。
午後、数学の時間に試験あり、大体出来たようなるも、なお一層努力せざるべからず。
一月二十二日(日) 晴
午前中、普通學あり、歴史は建軍の本義につきての講話なり。数学は方程式につき勉強す。午後、保育の時間に区隊長殿より病の注意につき訓示あり。
「快笑する者は快勝す」 との話。吾大いに感ず。
一月二十六日(水) 雪
課業集合の際、週番士官殿より注意事項あり、暖炉にて靴類を乾かすべからず。午前中、通信修技あり。近頃は送受信とも進歩したるようなり。今後とも大いに努力せん。
本日正午より今週の後半期週番生徒に勤務す。集合の迅速、班内の整頓に力を尽さん。
二月十日(木) 曇
本日六段目、銃剣術あり、「構え銃」 「前進」 「後退」の教育を受く。
母面会に来たる。遠路吾を案じて来られた母を想うとき、吾感無量。ますます御奉公の誠を致し、以つて忠孝一致の実を挙げん。
三月十日(日) 晴
五時三十分起床、本日は陸軍記念日なり、我が村松少通校においても今日の良き日を記念すべく○○山に行軍、巻狩りを実施す。「前面の敵(兎部隊)を包囲殲滅《せんめつ》すべし」 との渡辺中佐殿の命令一下、われら八百の健児は、捕りてし止まんの意気にて山上目指して突進す。そこかしこに歓声をあげつつ敵を谷間に追って行く。しばし追ううちに木の間がくれに逃げ惑う敵の姿を見る。我々の前面に敵現るの報に接し、更に突撃を敢行し、包囲網を縮め、敵を完全に捕捉し目的地に着きたれば、やれ嬉しや敵は戦友に捕らえられたり。凱歌《がいか》を挙げつつ出発点に戻り、ここで校長殿の訓話ありて、高々と勝鬨を上げたり。
戦果は兎五羽、雉一羽なり。
三月十三日(月) 曇
午後、はじめて器材取扱あり。九二式電話機なり。器材取扱は通信修技と共に我々の生命なり。
三月十七日(金) 晴
午後、器材取扱、空中線建柱について勉強す。
三月二十日(月) 晴
一段目、機械学の考査あり、続いて器材取扱、本日は通信所開設につき勉強す。通信機の配置、また九四式二号乙無線機の機能につき植原大尉殿より学科あり。
午後、通信修技あり、送信が良くなると受信が十分ならず、両者併行にならざるものなりや。努力し必ず併行ならしめん。
三月二十三日(木) 晴
午前の器材取扱、本日は発動機の接続及び運転について勉強す。吾生まれて初めて発動発電機を発動したり。エンジンの快い唸りを聞くとき感慨無量なり。早く一人前の通信兵となり第一線目指し突進せん。
四月九日(日) 雨
通信修技も時間に初めて対向修技を習得す。命令布達式あり、新しく生徒隊長来らる。訓示は「底力ある修学、気はやさしくて力持ちの昭和の桃太郎たるべし」
四月十三日(木) 雨
午前中、通信修技。受話器を耳にし対向通信に励むとき、通信兵としての喜びを大いに感ず。午後、器材取扱あり、九四式二号乙無線機の送信機について配線要図を前に、皆一生懸命なり。電波兵器の世界に乗り出し、わが打つ電鍵、電波となり地球を包むときは遠からず来る。
四月十八日(火) 曇
午前一段目、無線学、真空管について、二段日通信、三段目電磁気学。午後は器材取扱、送信機の点検、線輪の装脱等について学ぶ。夜は四講堂にて三所一系の対向通信、連絡通信を行う。
五月二十一日(日) 晴
午前自習。午後農耕あり。広々とせる練兵場の一角に鍬を振うも愉しきことなり。日増しに伸びる若芽、新緑鮮やかにして初夏の風肌に心地良し。
五月二十九日(月) 晴
午前、馬事訓練あり。部隊に行けば馬を取扱うこと多し。今のうちに馴れ、器材と同様大いに親しまんと思う。午後は電信電話学、典範令の講義あり。
六月一日(木) 曇後雨
十二期生の入校式あり。吾らの弟たちの晴の入校式を見るとき、半年前を振返り感慨無量なるも、現在の吾はこれで良いのか、と大いに反省させられる。
校長殿の訓示を聞く一年生の心は吾らの入校時と同じならん。ただ変わるは時局戦局のみ。大いに奮起し困難突破に邁進《まいしん》せん。
七月六日(木) 曇
本日より野外調整演習開始。五時三十分学校を出発し先遣隊として演習地鼠が関村に向う。十時頃到着、直ちに通信所開設位置を選定し、器材を運搬す。
わが七分隊の位置は、日本海を目前に見る風光明媚《めいび》の場所なり。十四時、後発隊到着、通信所の開設と諸準備をなす。
七月七日(金) 晴
五時起床、朝食後直ちに通信所に行き連絡開始。感度良好なり。送受信を行う。十時第一回、十四時第二回、十九時第三回。本日は混信分離も容易にして、すべて順調裡に終了、二十三時就寝す。
七月十日(月) 晴
六時より十時まで連絡通信、電報の送受を実施。一人一時間の割合にて吾第一回に勤務することに決まり、対所を呼び出すも応答なし。一時間ついに連絡とれず、涙を呑んで交代す。実に残念なり。
演習最後の夜は十八時より翌朝六時まで通信連絡を行う。前半二号乙、後半三号甲なり。混信、空電多く、送受信に時間がかかり送信一通、受信二通のみに終る。
七月十六日(日) 晴
本日は一日中、全休なり。午前中は洗濯と環境の整理。遊泳演習も近く、先発隊は既に出発す。午後は生徒集会所にて読書。地方新聞を久しぶりに見るに、世間は吾らの入校当時より一変せり。夕食後、軍歌演習あり、大いに士気の昂揚《こうよう》に努めたり。
七月二十日(木) 雨
午前八時三十分舎前に集合、五泉駅に向い行動を開始。十二時列車にて新潟着。市内を軍歌演習を行いつつ堂々と行進す。十三時目的地の宿舎に到着、先発隊の準備せし内務班に入る。本日より二週間の遊泳演習なり。張り切って過さん。
七月二十三日(日) 晴
大和百貨店にて開催中の「少年兵展覧会」に出場、器材の操法等につき一般見学者に説明、また実演す。連隊区司令部の御骨折りにて盛況なり。見学者多く、その熱心な見学振りに自ら操法にも力が入りし次第なり。
七月二十四日(月) 晴
本日は好天気なり。午前一段目は九二式回光機の取扱法、開設、点検についての教育。二、三段目は溺水《できすい=おぼれた》者救助法について、海岸において教授さる。午後遊泳。
八月一日(火) 晴
午前中、生徒隊計画の遠泳に参加。四キロ遊泳なるも千五百メートルにして右足けいれんを起こし、涙をのみて落伍せり。本日を以って遊泳演習も終る。
八月三日(木) 晴
臨時帰郷の発表あり。内務班、中隊舎内外の清掃をなす。遠距離の者出発し、内務班は急に寂しくなる。日夕点呼後、吾は明日出発と決定す。懐かしの故郷、今夜はいかなる夢を見るであろうか。
八月四日(金) 晴
四時起床。心はすでに故郷に飛び、飯もろくに口に入らぬ有様なり。六時週番士官殿の諸注意を受け出発。七時四十分五泉発、十八時半故郷の駅に到着。神仏に礼拝し途中の無事を謝す。二十二時就寝、布団の上にて第一夜を眠る。
八月七日(月) 晴
午前中、母校を訪問、恩師の依頼により後輩達の前で、電気通信につき三十分話す。吾も三年前はこの学校に在り、想い出は次々眼前に浮かぶ。先生方と在校当時の想い出を午前中語り合う。
八月十二日(土) 晴
薄磯海岸に父とともに水泳。今日の日は永遠にまたと来ないであろう。夕食は家族全員で語り合う。
八月十四日(月) 晴
帰校の日。親妹たちの見送る中、五時四十五分、平駅を発つ。十六時学校着。さあ張切ってやるぞの気概自ら湧く。
九月四日(月) 晴
午前中作業、通信壕を作る。いざ戦場に出て実際に役立つ掩壕《えんごう=注1》を短時間に構築する作業なり。
九月五日(火) 晴
分隊訓練。敵落下傘部隊多数降下の想定のもと、軍と連行の通信部隊は行動を開始。矢津川付近に前進し通信所を開設。状況の設定通信実施。みな懸命なり。敵襲に対しての処置。敵空襲下の通信実施をし演練す。
十四時半、帰校の途次、練兵場で車両破壊の想定下、腕力運搬で中隊舎前に到着。
十月一日(日) 晴
本日は学校創立一周年記念日なり。四時三十分非常呼集。完全軍装にて全校生徒校庭に整列、記念式を行う。
十七時、練兵場にて大会食。学校長殿の訓示のあと和気藹々《あいあい》のうちに折からの月を賞しながら戦友と語り合いつつの食事。今日の行事、この月を来年また再来年は、どこにて眺むるものぞ、想えば感無量なり。
(昭五六 毎日新聞社刊「陸軍少年兵」収載)
注1 掩壕=兵などを敵弾から守るために掘った壕
ある少年通信兵の日記
村松十一期 吉 田 直 喜
注
吉田氏は昭和二年福島県生まれ、村松少通校に十一期生として入校、この日記を遺したあと、十九年十一月、繰上げ卒業組の一員として南方戦線に出陣、出港直後の遭難は免れ比島に辿り着いたものの、二十年六月ルソン島に於いて戦死した。
十九歳。
昭和十八年
十二月一日(水) 晴後雨
六時、起床ラッパと同時に飛び起きる。乾布摩擦、床取り、点呼に出る。本日より陸軍少年通信兵としての第一歩が始まったのである。
入校式あり、通信兵監陸軍中将川並密閣下が御来校になられ、有難い御訓示を賜わった。皇軍の一員として吾人は今後一意専心御奉公の誠を以って軍務に精励せん哉。生を享けて十七年、今日の如き感激を味わった事があつたであろうか。吾人に奮励努力あるのみ。
十二月二日(木) 晴
午前の課業、第一校時に中隊長殿の精神訓話あり。講話最後の 「元気明朗、正直に勉強し、戦場に役立つ軍人たらん」の誓いを日訓としてしっかり心に刻みつけ、日々の軍務に精励せん。
十二月十一日(土) 晴
午前中、通信修技あり。本日の修技は発唱。大分良くなったようであるが、ますます努力せねばならない。正しい発唱は正しい送受信の基なり。午後、入校最初の身体検査あり。
夜、映画会あり。一つ一つが吾人らの良き教材なり。特に「武蔵野に鍛ふ」(少年通信兵の記録映画)の感銘探し。
十二月十五日(水) 晴時々曇
近頃にない暖かい日であつた。午前中、通信修技あり、送信姿勢、点の打ち方等について勉強す。
十二月二十二日(水) 晴
保育の時間に銃を授与されたり。本日より銃を持ち決意新たなものあり。午後、中隊全員記念撮影す。
十二月二十三日(木) 晴
午後、銃の手入法を習う。今後は銃を磨くと共に己の魂をも磨かん哉。九九式短小銃。これを持ちて大いに今後は奮励せん。軍服をつけ銃を持ち毎日訓練に励む。何たる喜びか、感慨無量なり。
十二月二十六日(日) 雪
昨夜の雨ついに雪に変る。日朝点呼後、雪中で騎馬戦を行い大いに闘志を養う。午前中故郷への便りを書いて過す。午後は明日、歴史、国語の素養検査があるため戦友たちとともに勉強す。
夕刻、軍歌演習のため村松の町を歩武堂々、行進しながら大声で軍歌をうたう。我が心勇み立つ。
十二月三十日(木) 曇後雨
午前中、ドイツ映画 「勝利の記録」 を見学す。吾人に感銘深し。即ち大和魂と共通すべきドイツ魂が画面によく表れている。彼等は実に勇敢である。かつ軍規の厳正なることには感心させられたり。
昭和十九年
一月二日(日) 曇
訓育演習あり。村松駅にて 「中隊は予定のごとく若松に向かい出発せんとす」 の命令のもと元気一杯出発す。十時半過ぎ会津若松着。直ちに飯盛山に向かい行軍を開始す。白虎隊の墓所に参詣し、剣舞を見、講話を聞く。剣舞を行いし会津少年たちの元気な姿を見て吾人大いに感激す。石塚教授殿より、白虎隊奮戦の講話を聞き、ますます御奉公の誠を致し、毎日の訓練に励まんことを墓前に誓う。飯盛山より遥か鶴ガ城を望み、想いを当時に馳せるとき、傍らに立てる老松吾に何事か語りかけるがごとし。
下山、東山温泉に向かって行軍す。ここにて昼食を摂りたる後、会津鶴ガ城に行軍す。暮色迫りし城跡において会津精神について講話を聞くとき、同県人の吾人もまた感銘深きものあり、十八時すぎ若松を出発、二十二時すぎ無事帰校す。
一月五日(水) 曇
午前中、初の数学の学科あり。吾人好む学科ゆえよく頭に入るように思わる。習學上の注意に、通信兵にとりては電磁気学と相並んでともに大切な学科なれば、自学自習し、課業中は熱心に修学すべしとの教官殿の注意あり、静電気について勉強す。
一月九日(日) 晴
午前中、通信修技あり、午後は初めての外出あり。
陸軍生徒としての初の外出、今日の日を入校以来いかに待ちたることか。外出許可がかくも早くなるとは想ってもいなかつただけに、実に嬉しく感ず。
校門を出て警察前を通り駅前に出ず。駅前で少々遊び、買物などして戦友と共に一路帰校す。外出して新しき気持ちになり、また明日よりは大いに課業に精励せん哉《かな》。
一月二十日(木) 曇
朝礼の際、中隊長殿より敬礼の厳正と衛生につき訓示あり、午前中、通信修技。入校後早くも五十日を経過し、送受信もどうやら出来るようになりたり。
午後、数学の時間に試験あり、大体出来たようなるも、なお一層努力せざるべからず。
一月二十二日(日) 晴
午前中、普通學あり、歴史は建軍の本義につきての講話なり。数学は方程式につき勉強す。午後、保育の時間に区隊長殿より病の注意につき訓示あり。
「快笑する者は快勝す」 との話。吾大いに感ず。
一月二十六日(水) 雪
課業集合の際、週番士官殿より注意事項あり、暖炉にて靴類を乾かすべからず。午前中、通信修技あり。近頃は送受信とも進歩したるようなり。今後とも大いに努力せん。
本日正午より今週の後半期週番生徒に勤務す。集合の迅速、班内の整頓に力を尽さん。
二月十日(木) 曇
本日六段目、銃剣術あり、「構え銃」 「前進」 「後退」の教育を受く。
母面会に来たる。遠路吾を案じて来られた母を想うとき、吾感無量。ますます御奉公の誠を致し、以つて忠孝一致の実を挙げん。
三月十日(日) 晴
五時三十分起床、本日は陸軍記念日なり、我が村松少通校においても今日の良き日を記念すべく○○山に行軍、巻狩りを実施す。「前面の敵(兎部隊)を包囲殲滅《せんめつ》すべし」 との渡辺中佐殿の命令一下、われら八百の健児は、捕りてし止まんの意気にて山上目指して突進す。そこかしこに歓声をあげつつ敵を谷間に追って行く。しばし追ううちに木の間がくれに逃げ惑う敵の姿を見る。我々の前面に敵現るの報に接し、更に突撃を敢行し、包囲網を縮め、敵を完全に捕捉し目的地に着きたれば、やれ嬉しや敵は戦友に捕らえられたり。凱歌《がいか》を挙げつつ出発点に戻り、ここで校長殿の訓話ありて、高々と勝鬨を上げたり。
戦果は兎五羽、雉一羽なり。
三月十三日(月) 曇
午後、はじめて器材取扱あり。九二式電話機なり。器材取扱は通信修技と共に我々の生命なり。
三月十七日(金) 晴
午後、器材取扱、空中線建柱について勉強す。
三月二十日(月) 晴
一段目、機械学の考査あり、続いて器材取扱、本日は通信所開設につき勉強す。通信機の配置、また九四式二号乙無線機の機能につき植原大尉殿より学科あり。
午後、通信修技あり、送信が良くなると受信が十分ならず、両者併行にならざるものなりや。努力し必ず併行ならしめん。
三月二十三日(木) 晴
午前の器材取扱、本日は発動機の接続及び運転について勉強す。吾生まれて初めて発動発電機を発動したり。エンジンの快い唸りを聞くとき感慨無量なり。早く一人前の通信兵となり第一線目指し突進せん。
四月九日(日) 雨
通信修技も時間に初めて対向修技を習得す。命令布達式あり、新しく生徒隊長来らる。訓示は「底力ある修学、気はやさしくて力持ちの昭和の桃太郎たるべし」
四月十三日(木) 雨
午前中、通信修技。受話器を耳にし対向通信に励むとき、通信兵としての喜びを大いに感ず。午後、器材取扱あり、九四式二号乙無線機の送信機について配線要図を前に、皆一生懸命なり。電波兵器の世界に乗り出し、わが打つ電鍵、電波となり地球を包むときは遠からず来る。
四月十八日(火) 曇
午前一段目、無線学、真空管について、二段日通信、三段目電磁気学。午後は器材取扱、送信機の点検、線輪の装脱等について学ぶ。夜は四講堂にて三所一系の対向通信、連絡通信を行う。
五月二十一日(日) 晴
午前自習。午後農耕あり。広々とせる練兵場の一角に鍬を振うも愉しきことなり。日増しに伸びる若芽、新緑鮮やかにして初夏の風肌に心地良し。
五月二十九日(月) 晴
午前、馬事訓練あり。部隊に行けば馬を取扱うこと多し。今のうちに馴れ、器材と同様大いに親しまんと思う。午後は電信電話学、典範令の講義あり。
六月一日(木) 曇後雨
十二期生の入校式あり。吾らの弟たちの晴の入校式を見るとき、半年前を振返り感慨無量なるも、現在の吾はこれで良いのか、と大いに反省させられる。
校長殿の訓示を聞く一年生の心は吾らの入校時と同じならん。ただ変わるは時局戦局のみ。大いに奮起し困難突破に邁進《まいしん》せん。
七月六日(木) 曇
本日より野外調整演習開始。五時三十分学校を出発し先遣隊として演習地鼠が関村に向う。十時頃到着、直ちに通信所開設位置を選定し、器材を運搬す。
わが七分隊の位置は、日本海を目前に見る風光明媚《めいび》の場所なり。十四時、後発隊到着、通信所の開設と諸準備をなす。
七月七日(金) 晴
五時起床、朝食後直ちに通信所に行き連絡開始。感度良好なり。送受信を行う。十時第一回、十四時第二回、十九時第三回。本日は混信分離も容易にして、すべて順調裡に終了、二十三時就寝す。
七月十日(月) 晴
六時より十時まで連絡通信、電報の送受を実施。一人一時間の割合にて吾第一回に勤務することに決まり、対所を呼び出すも応答なし。一時間ついに連絡とれず、涙を呑んで交代す。実に残念なり。
演習最後の夜は十八時より翌朝六時まで通信連絡を行う。前半二号乙、後半三号甲なり。混信、空電多く、送受信に時間がかかり送信一通、受信二通のみに終る。
七月十六日(日) 晴
本日は一日中、全休なり。午前中は洗濯と環境の整理。遊泳演習も近く、先発隊は既に出発す。午後は生徒集会所にて読書。地方新聞を久しぶりに見るに、世間は吾らの入校当時より一変せり。夕食後、軍歌演習あり、大いに士気の昂揚《こうよう》に努めたり。
七月二十日(木) 雨
午前八時三十分舎前に集合、五泉駅に向い行動を開始。十二時列車にて新潟着。市内を軍歌演習を行いつつ堂々と行進す。十三時目的地の宿舎に到着、先発隊の準備せし内務班に入る。本日より二週間の遊泳演習なり。張り切って過さん。
七月二十三日(日) 晴
大和百貨店にて開催中の「少年兵展覧会」に出場、器材の操法等につき一般見学者に説明、また実演す。連隊区司令部の御骨折りにて盛況なり。見学者多く、その熱心な見学振りに自ら操法にも力が入りし次第なり。
七月二十四日(月) 晴
本日は好天気なり。午前一段目は九二式回光機の取扱法、開設、点検についての教育。二、三段目は溺水《できすい=おぼれた》者救助法について、海岸において教授さる。午後遊泳。
八月一日(火) 晴
午前中、生徒隊計画の遠泳に参加。四キロ遊泳なるも千五百メートルにして右足けいれんを起こし、涙をのみて落伍せり。本日を以って遊泳演習も終る。
八月三日(木) 晴
臨時帰郷の発表あり。内務班、中隊舎内外の清掃をなす。遠距離の者出発し、内務班は急に寂しくなる。日夕点呼後、吾は明日出発と決定す。懐かしの故郷、今夜はいかなる夢を見るであろうか。
八月四日(金) 晴
四時起床。心はすでに故郷に飛び、飯もろくに口に入らぬ有様なり。六時週番士官殿の諸注意を受け出発。七時四十分五泉発、十八時半故郷の駅に到着。神仏に礼拝し途中の無事を謝す。二十二時就寝、布団の上にて第一夜を眠る。
八月七日(月) 晴
午前中、母校を訪問、恩師の依頼により後輩達の前で、電気通信につき三十分話す。吾も三年前はこの学校に在り、想い出は次々眼前に浮かぶ。先生方と在校当時の想い出を午前中語り合う。
八月十二日(土) 晴
薄磯海岸に父とともに水泳。今日の日は永遠にまたと来ないであろう。夕食は家族全員で語り合う。
八月十四日(月) 晴
帰校の日。親妹たちの見送る中、五時四十五分、平駅を発つ。十六時学校着。さあ張切ってやるぞの気概自ら湧く。
九月四日(月) 晴
午前中作業、通信壕を作る。いざ戦場に出て実際に役立つ掩壕《えんごう=注1》を短時間に構築する作業なり。
九月五日(火) 晴
分隊訓練。敵落下傘部隊多数降下の想定のもと、軍と連行の通信部隊は行動を開始。矢津川付近に前進し通信所を開設。状況の設定通信実施。みな懸命なり。敵襲に対しての処置。敵空襲下の通信実施をし演練す。
十四時半、帰校の途次、練兵場で車両破壊の想定下、腕力運搬で中隊舎前に到着。
十月一日(日) 晴
本日は学校創立一周年記念日なり。四時三十分非常呼集。完全軍装にて全校生徒校庭に整列、記念式を行う。
十七時、練兵場にて大会食。学校長殿の訓示のあと和気藹々《あいあい》のうちに折からの月を賞しながら戦友と語り合いつつの食事。今日の行事、この月を来年また再来年は、どこにて眺むるものぞ、想えば感無量なり。
(昭五六 毎日新聞社刊「陸軍少年兵」収載)
注1 掩壕=兵などを敵弾から守るために掘った壕
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