「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・8
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「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」 (編集者, 2009/2/8 9:23)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
生きる
十三期 中 元 正 夫
物狂ほしい繚乱《りょうらん》の、春も束の間の夢のように立ち去って行った。天はその頃からしだいに雲にとざされ銀ねず色に底光りする空が若い新緑の梢をさへざへと浮き立たせてくれるようになる。
山々の谷から雨霧が、立ち苗田の緑が、目にしむる頃いよいよ梅雨の季節が、やってくる。あじさいは、その頃咲く。
雨の季節は早くその年は異常なままに、うつろいの年でもあつた。
西郷の墓を詣で、一路これから国の為に生きる身を北にむかつた。桜の花を二度見、春から夏、夏から秋、そして冬、季節はこの一週間に、こんなに早く来るものなのかと、うたがった。
雪深い五泉の駅から村松まで、一本のロープをたどりながら、歩いている私の靴が、ポッカリと底が、ぬけてしまった。十三期四中隊、芳隊、私は生まれて、はじめて雪を見た。
ダブダブの服の袖をおりまげ、ズボンの両端を腰の所で、つまみ、肩章のみが型よくその姿をカバーした。満十四才の背の小さい少年兵陸軍生徒の私の姿を見て藤本班長は、プッと吹き出した。
規則正しい毎日の中で教練、勉学と、おいまくられた日々、トンツーのさわやかな音が、今も目を閉じると聞えてくる。
森山中隊長のモスグリーンの軍服姿が馬上に見えるとき、何か尊いものを見る様に勉学に励んだ毎日であつた。
十四才の少年は、いきなり大人として生かされた。だからと言って「ゴウマン」な図太さは、もち得なかった。ただ殺気だった少年は「おおかみ」の様に吠え立てることは出来た。それは国の為に、いつ死してもいい教育の中で自分の心さへ、失なわれていた。
図太く短く生きねば、ならない人間は何をも恐れを知らなかつた。
アツッ島が玉砕《注1》したことを誰からともなく知った。そして少年兵は、やがてくる出発をまった。
抜けるように晴あがった日であつた。
八月十五日とぎれとぎれの玉音の放送《注2》は少年兵を打ちのめした。
悲しみが、全身を凍てつかせた。
「戦いは終った、だが逝ってしまった母や友人はいったい、どこへ帰りつけると言うのか。そして、この俺にどうして、何を始まりうるといふのか」。
いつまでも白い雲は動かなかった。
篠田佐多雄、小松、中元正夫、是枝宣雄、田中照二、五人は短剣で、小指をきり血書を書き、森山中隊長に持参した。
私達はその夜、練兵場の松林で、自害しようと約束しました。夕刻がすぎ真赤な夕陽が沈むころ正装し松林に向ふとした折、青白く、いすくめる様な目をして大声で中隊長から、よびつけられた。泣いた。抱き合って泣くしかなかった。森山中隊長の息が耳にふれ「死んだらあかん」 「死んだらあかん」と何度も耳をつんざめた。私達は肩を抱き合い、くずれる様に座し、コブシで、土をたたいた。希望を目的を断ちきられ、もぎとられた人間の心の痛みを、あなたは知るまい。明くる日もその次の日も又、肩を抱き合い、この痛みに耐えた。カンナの香りが涙の中にしみては消え、消えてはしみた。
牛馬をつむ荷物列車にのり広島の原爆のすさまじさを見、九月上旬、鹿児島に着く。
森山中隊長から何十通もの便りをいただいたまま、近事を書く気力さへなく、生きた「しかばね」の様な毎日だつた。
翌年、十一月上旬、友人の母上より便りがあつた。友は終戦前十日に戦死したといふ、沖縄に向ふ、飛行機のまま。私は、ありったけの食糧をもって何十里も離れた友の家を訪ねた。
親友は死にその妹も死んだと言ふ。桔梗の花に似て首の細い優しい人だった。その死顔に「何故、私の家だけこんなに次々と死ぬの」と母上は泣いた。
友の父は眼寓が大きく瞼《まぶた》が横一文字に閉じていた。それは私に向けられていて、私を見ていなかった。その目は「あなただけは、まだ生き続けておいでなんですか」と言っていた。
一つの想ひ心に満ちくれば
眼底 痛み 涙、湧きくる。
ひたぶるにしみる心の重きよ
リマの便り、泣きて、なつかし。
枯れ果てた心に、みづみづしい情熱をしみこませてくれる森山中隊長の便りは、私を半年の空白から立ち上らせてくれた。
私は鹿児島大学に入学し、ひたすら勉学に打ち込んだ。
夏のくる度に逢ふ約束をし私は励まされた。「リマに行くので語学の研究に入る」と上京された森山さんを自宅に招き、酒をくみかわし、ありし日を語ったことも何回となく重ねた。リマでの生活を便りできくとき、ありし日の面影はいつも私をささへてくれた。
学生時代に霧島の山野をかけめぐつた乗馬の話をしたら、行ってみようと、すぐ約束してくれた何十年前かを想ひ出す。
あの時の会話が又私に涙をさそうのです。
「中隊長、馬が私にこう云ふのです」
「君、今日は思い切って向ふの丘をこえてみようよ、傷だらけの心をいやして上げなければ余りに君が可愛そうだから」と。
空白の中から、やっと立ち上り友を失った矢先だっただけに私は馬といる時だけ、自然に心が開いていたのでしょう。
信愛の情といふものは水入らずの間に育ちそれは色彩の様に、一つ一つが金色に輝くのです。
私は、その時幸福にひたることが出来るのです。私の心をいつも清純にしてくれる、ものの言へない一つの動物が、沢山の言葉と喜びと励ましを与えてくれるのです。
中隊長は「まさか」と思ひでしようが、ほんとなので-と。
美しい夕陽を、ながめ乍ら森山中隊長は静かにこう言つたのです。
「人生は永いのだから、優しい気持だけは失わないようにしよう」 とそして尚、静かに、山紫に水清く……と軍歌を口づさんでいられた。
事故で入院し日本に帰っているといふ報せを聞き、私は大阪に飛んだ。何回となく行く内に私が行くと見えない目で、きけない口で、いろいろな事を語りかけて下さるのです。こきざみにふるへる手を握りしめると口もとが、かすかにほころぶのです。私がソッと、イチゴを口に入れようとした。涙があふれ薄赤色の肉片にしみて流れた。
帰りぎわに奥様から「面会にもう来ないで下さい。本当にもう来ないで下さい」と。
言ふ方もつらかったと思います。東京から大阪へ何度も行く私の心も痛くつらかった。でも、私は、奥様が病院にいない時間をみはからつて行った。私は通いつづけた。
洋々と拡大な海を感じ、怒濤《どとう》と飛沫を想わせる様な勇ましさと、なぎの様な静かな心を私は、森山さんに感じていたのです。
私は十四才の時この方を知らなかつたら、どうなっていたかと今でも、身ぶるいするのです。上官と部下の結びつきは而も十四才の少年の心にはそれが、どんな状態であろうとも断ちきる交りではなかったのです。
永田町の砂浜にねころび乍ら「せめて、やさしさのこもった強い交りで生きて行こう」と言って下さった森山中隊長の言葉が、今も胸をつくのです。
戦争は十四才の少年の心と前途をあの様な形で暗やみの中においやり、生きるすべまでもぎとろうとした。而し上官の励ましの中で、手さぐりで生きつづけて来たことは、森山中隊長だけが知っている様な気がするのです。
誰にも、わからないあの頃の「ほこり」を今も、私は失ひたくないのです。
森山中隊長は私の人生の中で最も尊敬する人間でした何十年交つても印象のボケている人とわづかの時期で心の中に、ジックリと住みついてしまふ人がある、森山中隊長はその後半のかたであった。
森山中隊長が亡くなったと聞いた。私は霧島の山野をかけめぐり馬上で泣けるだけ泣いた。まだ私の心の中に生きつづけている方に香をたくことが出来ないのです。
夏がくる度にいきていることが恐ろしい程、つらい。亡くなった多くの先輩達が生きていたら、もっと雄大な固い結びつきになつていたであろうと思ふと、ほとぼしる様に悲しみが胸をさすのです。
暮れなずむ部屋の片隅でギターの弦を、はじいて音のゆくえを追ふ心の重さが、今も痛い。
四十年を経ていると言ふのに。
そして今も生きている。
(昭六一・二----第四号収載)
注1 玉砕(ぎょくさい)=玉のように美しくくだけ散る。全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬこと
注2 玉音放送=1945 年(昭和 20)8 月 15 日、昭和天皇みずからの声でラジオを通じて全国民に戦争終結の詔書を放送したこと。日本国民ははじめて天皇の肉声に接した。
十三期 中 元 正 夫
物狂ほしい繚乱《りょうらん》の、春も束の間の夢のように立ち去って行った。天はその頃からしだいに雲にとざされ銀ねず色に底光りする空が若い新緑の梢をさへざへと浮き立たせてくれるようになる。
山々の谷から雨霧が、立ち苗田の緑が、目にしむる頃いよいよ梅雨の季節が、やってくる。あじさいは、その頃咲く。
雨の季節は早くその年は異常なままに、うつろいの年でもあつた。
西郷の墓を詣で、一路これから国の為に生きる身を北にむかつた。桜の花を二度見、春から夏、夏から秋、そして冬、季節はこの一週間に、こんなに早く来るものなのかと、うたがった。
雪深い五泉の駅から村松まで、一本のロープをたどりながら、歩いている私の靴が、ポッカリと底が、ぬけてしまった。十三期四中隊、芳隊、私は生まれて、はじめて雪を見た。
ダブダブの服の袖をおりまげ、ズボンの両端を腰の所で、つまみ、肩章のみが型よくその姿をカバーした。満十四才の背の小さい少年兵陸軍生徒の私の姿を見て藤本班長は、プッと吹き出した。
規則正しい毎日の中で教練、勉学と、おいまくられた日々、トンツーのさわやかな音が、今も目を閉じると聞えてくる。
森山中隊長のモスグリーンの軍服姿が馬上に見えるとき、何か尊いものを見る様に勉学に励んだ毎日であつた。
十四才の少年は、いきなり大人として生かされた。だからと言って「ゴウマン」な図太さは、もち得なかった。ただ殺気だった少年は「おおかみ」の様に吠え立てることは出来た。それは国の為に、いつ死してもいい教育の中で自分の心さへ、失なわれていた。
図太く短く生きねば、ならない人間は何をも恐れを知らなかつた。
アツッ島が玉砕《注1》したことを誰からともなく知った。そして少年兵は、やがてくる出発をまった。
抜けるように晴あがった日であつた。
八月十五日とぎれとぎれの玉音の放送《注2》は少年兵を打ちのめした。
悲しみが、全身を凍てつかせた。
「戦いは終った、だが逝ってしまった母や友人はいったい、どこへ帰りつけると言うのか。そして、この俺にどうして、何を始まりうるといふのか」。
いつまでも白い雲は動かなかった。
篠田佐多雄、小松、中元正夫、是枝宣雄、田中照二、五人は短剣で、小指をきり血書を書き、森山中隊長に持参した。
私達はその夜、練兵場の松林で、自害しようと約束しました。夕刻がすぎ真赤な夕陽が沈むころ正装し松林に向ふとした折、青白く、いすくめる様な目をして大声で中隊長から、よびつけられた。泣いた。抱き合って泣くしかなかった。森山中隊長の息が耳にふれ「死んだらあかん」 「死んだらあかん」と何度も耳をつんざめた。私達は肩を抱き合い、くずれる様に座し、コブシで、土をたたいた。希望を目的を断ちきられ、もぎとられた人間の心の痛みを、あなたは知るまい。明くる日もその次の日も又、肩を抱き合い、この痛みに耐えた。カンナの香りが涙の中にしみては消え、消えてはしみた。
牛馬をつむ荷物列車にのり広島の原爆のすさまじさを見、九月上旬、鹿児島に着く。
森山中隊長から何十通もの便りをいただいたまま、近事を書く気力さへなく、生きた「しかばね」の様な毎日だつた。
翌年、十一月上旬、友人の母上より便りがあつた。友は終戦前十日に戦死したといふ、沖縄に向ふ、飛行機のまま。私は、ありったけの食糧をもって何十里も離れた友の家を訪ねた。
親友は死にその妹も死んだと言ふ。桔梗の花に似て首の細い優しい人だった。その死顔に「何故、私の家だけこんなに次々と死ぬの」と母上は泣いた。
友の父は眼寓が大きく瞼《まぶた》が横一文字に閉じていた。それは私に向けられていて、私を見ていなかった。その目は「あなただけは、まだ生き続けておいでなんですか」と言っていた。
一つの想ひ心に満ちくれば
眼底 痛み 涙、湧きくる。
ひたぶるにしみる心の重きよ
リマの便り、泣きて、なつかし。
枯れ果てた心に、みづみづしい情熱をしみこませてくれる森山中隊長の便りは、私を半年の空白から立ち上らせてくれた。
私は鹿児島大学に入学し、ひたすら勉学に打ち込んだ。
夏のくる度に逢ふ約束をし私は励まされた。「リマに行くので語学の研究に入る」と上京された森山さんを自宅に招き、酒をくみかわし、ありし日を語ったことも何回となく重ねた。リマでの生活を便りできくとき、ありし日の面影はいつも私をささへてくれた。
学生時代に霧島の山野をかけめぐつた乗馬の話をしたら、行ってみようと、すぐ約束してくれた何十年前かを想ひ出す。
あの時の会話が又私に涙をさそうのです。
「中隊長、馬が私にこう云ふのです」
「君、今日は思い切って向ふの丘をこえてみようよ、傷だらけの心をいやして上げなければ余りに君が可愛そうだから」と。
空白の中から、やっと立ち上り友を失った矢先だっただけに私は馬といる時だけ、自然に心が開いていたのでしょう。
信愛の情といふものは水入らずの間に育ちそれは色彩の様に、一つ一つが金色に輝くのです。
私は、その時幸福にひたることが出来るのです。私の心をいつも清純にしてくれる、ものの言へない一つの動物が、沢山の言葉と喜びと励ましを与えてくれるのです。
中隊長は「まさか」と思ひでしようが、ほんとなので-と。
美しい夕陽を、ながめ乍ら森山中隊長は静かにこう言つたのです。
「人生は永いのだから、優しい気持だけは失わないようにしよう」 とそして尚、静かに、山紫に水清く……と軍歌を口づさんでいられた。
事故で入院し日本に帰っているといふ報せを聞き、私は大阪に飛んだ。何回となく行く内に私が行くと見えない目で、きけない口で、いろいろな事を語りかけて下さるのです。こきざみにふるへる手を握りしめると口もとが、かすかにほころぶのです。私がソッと、イチゴを口に入れようとした。涙があふれ薄赤色の肉片にしみて流れた。
帰りぎわに奥様から「面会にもう来ないで下さい。本当にもう来ないで下さい」と。
言ふ方もつらかったと思います。東京から大阪へ何度も行く私の心も痛くつらかった。でも、私は、奥様が病院にいない時間をみはからつて行った。私は通いつづけた。
洋々と拡大な海を感じ、怒濤《どとう》と飛沫を想わせる様な勇ましさと、なぎの様な静かな心を私は、森山さんに感じていたのです。
私は十四才の時この方を知らなかつたら、どうなっていたかと今でも、身ぶるいするのです。上官と部下の結びつきは而も十四才の少年の心にはそれが、どんな状態であろうとも断ちきる交りではなかったのです。
永田町の砂浜にねころび乍ら「せめて、やさしさのこもった強い交りで生きて行こう」と言って下さった森山中隊長の言葉が、今も胸をつくのです。
戦争は十四才の少年の心と前途をあの様な形で暗やみの中においやり、生きるすべまでもぎとろうとした。而し上官の励ましの中で、手さぐりで生きつづけて来たことは、森山中隊長だけが知っている様な気がするのです。
誰にも、わからないあの頃の「ほこり」を今も、私は失ひたくないのです。
森山中隊長は私の人生の中で最も尊敬する人間でした何十年交つても印象のボケている人とわづかの時期で心の中に、ジックリと住みついてしまふ人がある、森山中隊長はその後半のかたであった。
森山中隊長が亡くなったと聞いた。私は霧島の山野をかけめぐり馬上で泣けるだけ泣いた。まだ私の心の中に生きつづけている方に香をたくことが出来ないのです。
夏がくる度にいきていることが恐ろしい程、つらい。亡くなった多くの先輩達が生きていたら、もっと雄大な固い結びつきになつていたであろうと思ふと、ほとぼしる様に悲しみが胸をさすのです。
暮れなずむ部屋の片隅でギターの弦を、はじいて音のゆくえを追ふ心の重さが、今も痛い。
四十年を経ていると言ふのに。
そして今も生きている。
(昭六一・二----第四号収載)
注1 玉砕(ぎょくさい)=玉のように美しくくだけ散る。全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬこと
注2 玉音放送=1945 年(昭和 20)8 月 15 日、昭和天皇みずからの声でラジオを通じて全国民に戦争終結の詔書を放送したこと。日本国民ははじめて天皇の肉声に接した。
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編集者 (代理投稿)