「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・10
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編集者
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それでは、村松の教育を語ってきた最後に、その日々はどんなものであつたか、これを生徒自身の日記の中から再現してみます。
ある少年通信兵の日記
村松十一期 吉 田 直 喜
注
吉田氏は昭和二年福島県生まれ、村松少通校に十一期生として入校、この日記を遺したあと、十九年十一月、繰上げ卒業組の一員として南方戦線に出陣、出港直後の遭難は免れ比島に辿り着いたものの、二十年六月ルソン島に於いて戦死した。
十九歳。
昭和十八年
十二月一日(水) 晴後雨
六時、起床ラッパと同時に飛び起きる。乾布摩擦、床取り、点呼に出る。本日より陸軍少年通信兵としての第一歩が始まったのである。
入校式あり、通信兵監陸軍中将川並密閣下が御来校になられ、有難い御訓示を賜わった。皇軍の一員として吾人は今後一意専心御奉公の誠を以って軍務に精励せん哉。生を享けて十七年、今日の如き感激を味わった事があつたであろうか。吾人に奮励努力あるのみ。
十二月二日(木) 晴
午前の課業、第一校時に中隊長殿の精神訓話あり。講話最後の 「元気明朗、正直に勉強し、戦場に役立つ軍人たらん」の誓いを日訓としてしっかり心に刻みつけ、日々の軍務に精励せん。
十二月十一日(土) 晴
午前中、通信修技あり。本日の修技は発唱。大分良くなったようであるが、ますます努力せねばならない。正しい発唱は正しい送受信の基なり。午後、入校最初の身体検査あり。
夜、映画会あり。一つ一つが吾人らの良き教材なり。特に「武蔵野に鍛ふ」(少年通信兵の記録映画)の感銘探し。
十二月十五日(水) 晴時々曇
近頃にない暖かい日であつた。午前中、通信修技あり、送信姿勢、点の打ち方等について勉強す。
十二月二十二日(水) 晴
保育の時間に銃を授与されたり。本日より銃を持ち決意新たなものあり。午後、中隊全員記念撮影す。
十二月二十三日(木) 晴
午後、銃の手入法を習う。今後は銃を磨くと共に己の魂をも磨かん哉。九九式短小銃。これを持ちて大いに今後は奮励せん。軍服をつけ銃を持ち毎日訓練に励む。何たる喜びか、感慨無量なり。
十二月二十六日(日) 雪
昨夜の雨ついに雪に変る。日朝点呼後、雪中で騎馬戦を行い大いに闘志を養う。午前中故郷への便りを書いて過す。午後は明日、歴史、国語の素養検査があるため戦友たちとともに勉強す。
夕刻、軍歌演習のため村松の町を歩武堂々、行進しながら大声で軍歌をうたう。我が心勇み立つ。
十二月三十日(木) 曇後雨
午前中、ドイツ映画 「勝利の記録」 を見学す。吾人に感銘深し。即ち大和魂と共通すべきドイツ魂が画面によく表れている。彼等は実に勇敢である。かつ軍規の厳正なることには感心させられたり。
昭和十九年
一月二日(日) 曇
訓育演習あり。村松駅にて 「中隊は予定のごとく若松に向かい出発せんとす」 の命令のもと元気一杯出発す。十時半過ぎ会津若松着。直ちに飯盛山に向かい行軍を開始す。白虎隊の墓所に参詣し、剣舞を見、講話を聞く。剣舞を行いし会津少年たちの元気な姿を見て吾人大いに感激す。石塚教授殿より、白虎隊奮戦の講話を聞き、ますます御奉公の誠を致し、毎日の訓練に励まんことを墓前に誓う。飯盛山より遥か鶴ガ城を望み、想いを当時に馳せるとき、傍らに立てる老松吾に何事か語りかけるがごとし。
下山、東山温泉に向かって行軍す。ここにて昼食を摂りたる後、会津鶴ガ城に行軍す。暮色迫りし城跡において会津精神について講話を聞くとき、同県人の吾人もまた感銘深きものあり、十八時すぎ若松を出発、二十二時すぎ無事帰校す。
一月五日(水) 曇
午前中、初の数学の学科あり。吾人好む学科ゆえよく頭に入るように思わる。習學上の注意に、通信兵にとりては電磁気学と相並んでともに大切な学科なれば、自学自習し、課業中は熱心に修学すべしとの教官殿の注意あり、静電気について勉強す。
一月九日(日) 晴
午前中、通信修技あり、午後は初めての外出あり。
陸軍生徒としての初の外出、今日の日を入校以来いかに待ちたることか。外出許可がかくも早くなるとは想ってもいなかつただけに、実に嬉しく感ず。
校門を出て警察前を通り駅前に出ず。駅前で少々遊び、買物などして戦友と共に一路帰校す。外出して新しき気持ちになり、また明日よりは大いに課業に精励せん哉《かな》。
一月二十日(木) 曇
朝礼の際、中隊長殿より敬礼の厳正と衛生につき訓示あり、午前中、通信修技。入校後早くも五十日を経過し、送受信もどうやら出来るようになりたり。
午後、数学の時間に試験あり、大体出来たようなるも、なお一層努力せざるべからず。
一月二十二日(日) 晴
午前中、普通學あり、歴史は建軍の本義につきての講話なり。数学は方程式につき勉強す。午後、保育の時間に区隊長殿より病の注意につき訓示あり。
「快笑する者は快勝す」 との話。吾大いに感ず。
一月二十六日(水) 雪
課業集合の際、週番士官殿より注意事項あり、暖炉にて靴類を乾かすべからず。午前中、通信修技あり。近頃は送受信とも進歩したるようなり。今後とも大いに努力せん。
本日正午より今週の後半期週番生徒に勤務す。集合の迅速、班内の整頓に力を尽さん。
二月十日(木) 曇
本日六段目、銃剣術あり、「構え銃」 「前進」 「後退」の教育を受く。
母面会に来たる。遠路吾を案じて来られた母を想うとき、吾感無量。ますます御奉公の誠を致し、以つて忠孝一致の実を挙げん。
三月十日(日) 晴
五時三十分起床、本日は陸軍記念日なり、我が村松少通校においても今日の良き日を記念すべく○○山に行軍、巻狩りを実施す。「前面の敵(兎部隊)を包囲殲滅《せんめつ》すべし」 との渡辺中佐殿の命令一下、われら八百の健児は、捕りてし止まんの意気にて山上目指して突進す。そこかしこに歓声をあげつつ敵を谷間に追って行く。しばし追ううちに木の間がくれに逃げ惑う敵の姿を見る。我々の前面に敵現るの報に接し、更に突撃を敢行し、包囲網を縮め、敵を完全に捕捉し目的地に着きたれば、やれ嬉しや敵は戦友に捕らえられたり。凱歌《がいか》を挙げつつ出発点に戻り、ここで校長殿の訓話ありて、高々と勝鬨を上げたり。
戦果は兎五羽、雉一羽なり。
三月十三日(月) 曇
午後、はじめて器材取扱あり。九二式電話機なり。器材取扱は通信修技と共に我々の生命なり。
三月十七日(金) 晴
午後、器材取扱、空中線建柱について勉強す。
三月二十日(月) 晴
一段目、機械学の考査あり、続いて器材取扱、本日は通信所開設につき勉強す。通信機の配置、また九四式二号乙無線機の機能につき植原大尉殿より学科あり。
午後、通信修技あり、送信が良くなると受信が十分ならず、両者併行にならざるものなりや。努力し必ず併行ならしめん。
三月二十三日(木) 晴
午前の器材取扱、本日は発動機の接続及び運転について勉強す。吾生まれて初めて発動発電機を発動したり。エンジンの快い唸りを聞くとき感慨無量なり。早く一人前の通信兵となり第一線目指し突進せん。
四月九日(日) 雨
通信修技も時間に初めて対向修技を習得す。命令布達式あり、新しく生徒隊長来らる。訓示は「底力ある修学、気はやさしくて力持ちの昭和の桃太郎たるべし」
四月十三日(木) 雨
午前中、通信修技。受話器を耳にし対向通信に励むとき、通信兵としての喜びを大いに感ず。午後、器材取扱あり、九四式二号乙無線機の送信機について配線要図を前に、皆一生懸命なり。電波兵器の世界に乗り出し、わが打つ電鍵、電波となり地球を包むときは遠からず来る。
四月十八日(火) 曇
午前一段目、無線学、真空管について、二段日通信、三段目電磁気学。午後は器材取扱、送信機の点検、線輪の装脱等について学ぶ。夜は四講堂にて三所一系の対向通信、連絡通信を行う。
五月二十一日(日) 晴
午前自習。午後農耕あり。広々とせる練兵場の一角に鍬を振うも愉しきことなり。日増しに伸びる若芽、新緑鮮やかにして初夏の風肌に心地良し。
五月二十九日(月) 晴
午前、馬事訓練あり。部隊に行けば馬を取扱うこと多し。今のうちに馴れ、器材と同様大いに親しまんと思う。午後は電信電話学、典範令の講義あり。
六月一日(木) 曇後雨
十二期生の入校式あり。吾らの弟たちの晴の入校式を見るとき、半年前を振返り感慨無量なるも、現在の吾はこれで良いのか、と大いに反省させられる。
校長殿の訓示を聞く一年生の心は吾らの入校時と同じならん。ただ変わるは時局戦局のみ。大いに奮起し困難突破に邁進《まいしん》せん。
七月六日(木) 曇
本日より野外調整演習開始。五時三十分学校を出発し先遣隊として演習地鼠が関村に向う。十時頃到着、直ちに通信所開設位置を選定し、器材を運搬す。
わが七分隊の位置は、日本海を目前に見る風光明媚《めいび》の場所なり。十四時、後発隊到着、通信所の開設と諸準備をなす。
七月七日(金) 晴
五時起床、朝食後直ちに通信所に行き連絡開始。感度良好なり。送受信を行う。十時第一回、十四時第二回、十九時第三回。本日は混信分離も容易にして、すべて順調裡に終了、二十三時就寝す。
七月十日(月) 晴
六時より十時まで連絡通信、電報の送受を実施。一人一時間の割合にて吾第一回に勤務することに決まり、対所を呼び出すも応答なし。一時間ついに連絡とれず、涙を呑んで交代す。実に残念なり。
演習最後の夜は十八時より翌朝六時まで通信連絡を行う。前半二号乙、後半三号甲なり。混信、空電多く、送受信に時間がかかり送信一通、受信二通のみに終る。
七月十六日(日) 晴
本日は一日中、全休なり。午前中は洗濯と環境の整理。遊泳演習も近く、先発隊は既に出発す。午後は生徒集会所にて読書。地方新聞を久しぶりに見るに、世間は吾らの入校当時より一変せり。夕食後、軍歌演習あり、大いに士気の昂揚《こうよう》に努めたり。
七月二十日(木) 雨
午前八時三十分舎前に集合、五泉駅に向い行動を開始。十二時列車にて新潟着。市内を軍歌演習を行いつつ堂々と行進す。十三時目的地の宿舎に到着、先発隊の準備せし内務班に入る。本日より二週間の遊泳演習なり。張り切って過さん。
七月二十三日(日) 晴
大和百貨店にて開催中の「少年兵展覧会」に出場、器材の操法等につき一般見学者に説明、また実演す。連隊区司令部の御骨折りにて盛況なり。見学者多く、その熱心な見学振りに自ら操法にも力が入りし次第なり。
七月二十四日(月) 晴
本日は好天気なり。午前一段目は九二式回光機の取扱法、開設、点検についての教育。二、三段目は溺水《できすい=おぼれた》者救助法について、海岸において教授さる。午後遊泳。
八月一日(火) 晴
午前中、生徒隊計画の遠泳に参加。四キロ遊泳なるも千五百メートルにして右足けいれんを起こし、涙をのみて落伍せり。本日を以って遊泳演習も終る。
八月三日(木) 晴
臨時帰郷の発表あり。内務班、中隊舎内外の清掃をなす。遠距離の者出発し、内務班は急に寂しくなる。日夕点呼後、吾は明日出発と決定す。懐かしの故郷、今夜はいかなる夢を見るであろうか。
八月四日(金) 晴
四時起床。心はすでに故郷に飛び、飯もろくに口に入らぬ有様なり。六時週番士官殿の諸注意を受け出発。七時四十分五泉発、十八時半故郷の駅に到着。神仏に礼拝し途中の無事を謝す。二十二時就寝、布団の上にて第一夜を眠る。
八月七日(月) 晴
午前中、母校を訪問、恩師の依頼により後輩達の前で、電気通信につき三十分話す。吾も三年前はこの学校に在り、想い出は次々眼前に浮かぶ。先生方と在校当時の想い出を午前中語り合う。
八月十二日(土) 晴
薄磯海岸に父とともに水泳。今日の日は永遠にまたと来ないであろう。夕食は家族全員で語り合う。
八月十四日(月) 晴
帰校の日。親妹たちの見送る中、五時四十五分、平駅を発つ。十六時学校着。さあ張切ってやるぞの気概自ら湧く。
九月四日(月) 晴
午前中作業、通信壕を作る。いざ戦場に出て実際に役立つ掩壕《えんごう=注1》を短時間に構築する作業なり。
九月五日(火) 晴
分隊訓練。敵落下傘部隊多数降下の想定のもと、軍と連行の通信部隊は行動を開始。矢津川付近に前進し通信所を開設。状況の設定通信実施。みな懸命なり。敵襲に対しての処置。敵空襲下の通信実施をし演練す。
十四時半、帰校の途次、練兵場で車両破壊の想定下、腕力運搬で中隊舎前に到着。
十月一日(日) 晴
本日は学校創立一周年記念日なり。四時三十分非常呼集。完全軍装にて全校生徒校庭に整列、記念式を行う。
十七時、練兵場にて大会食。学校長殿の訓示のあと和気藹々《あいあい》のうちに折からの月を賞しながら戦友と語り合いつつの食事。今日の行事、この月を来年また再来年は、どこにて眺むるものぞ、想えば感無量なり。
(昭五六 毎日新聞社刊「陸軍少年兵」収載)
注1 掩壕=兵などを敵弾から守るために掘った壕
ある少年通信兵の日記
村松十一期 吉 田 直 喜
注
吉田氏は昭和二年福島県生まれ、村松少通校に十一期生として入校、この日記を遺したあと、十九年十一月、繰上げ卒業組の一員として南方戦線に出陣、出港直後の遭難は免れ比島に辿り着いたものの、二十年六月ルソン島に於いて戦死した。
十九歳。
昭和十八年
十二月一日(水) 晴後雨
六時、起床ラッパと同時に飛び起きる。乾布摩擦、床取り、点呼に出る。本日より陸軍少年通信兵としての第一歩が始まったのである。
入校式あり、通信兵監陸軍中将川並密閣下が御来校になられ、有難い御訓示を賜わった。皇軍の一員として吾人は今後一意専心御奉公の誠を以って軍務に精励せん哉。生を享けて十七年、今日の如き感激を味わった事があつたであろうか。吾人に奮励努力あるのみ。
十二月二日(木) 晴
午前の課業、第一校時に中隊長殿の精神訓話あり。講話最後の 「元気明朗、正直に勉強し、戦場に役立つ軍人たらん」の誓いを日訓としてしっかり心に刻みつけ、日々の軍務に精励せん。
十二月十一日(土) 晴
午前中、通信修技あり。本日の修技は発唱。大分良くなったようであるが、ますます努力せねばならない。正しい発唱は正しい送受信の基なり。午後、入校最初の身体検査あり。
夜、映画会あり。一つ一つが吾人らの良き教材なり。特に「武蔵野に鍛ふ」(少年通信兵の記録映画)の感銘探し。
十二月十五日(水) 晴時々曇
近頃にない暖かい日であつた。午前中、通信修技あり、送信姿勢、点の打ち方等について勉強す。
十二月二十二日(水) 晴
保育の時間に銃を授与されたり。本日より銃を持ち決意新たなものあり。午後、中隊全員記念撮影す。
十二月二十三日(木) 晴
午後、銃の手入法を習う。今後は銃を磨くと共に己の魂をも磨かん哉。九九式短小銃。これを持ちて大いに今後は奮励せん。軍服をつけ銃を持ち毎日訓練に励む。何たる喜びか、感慨無量なり。
十二月二十六日(日) 雪
昨夜の雨ついに雪に変る。日朝点呼後、雪中で騎馬戦を行い大いに闘志を養う。午前中故郷への便りを書いて過す。午後は明日、歴史、国語の素養検査があるため戦友たちとともに勉強す。
夕刻、軍歌演習のため村松の町を歩武堂々、行進しながら大声で軍歌をうたう。我が心勇み立つ。
十二月三十日(木) 曇後雨
午前中、ドイツ映画 「勝利の記録」 を見学す。吾人に感銘深し。即ち大和魂と共通すべきドイツ魂が画面によく表れている。彼等は実に勇敢である。かつ軍規の厳正なることには感心させられたり。
昭和十九年
一月二日(日) 曇
訓育演習あり。村松駅にて 「中隊は予定のごとく若松に向かい出発せんとす」 の命令のもと元気一杯出発す。十時半過ぎ会津若松着。直ちに飯盛山に向かい行軍を開始す。白虎隊の墓所に参詣し、剣舞を見、講話を聞く。剣舞を行いし会津少年たちの元気な姿を見て吾人大いに感激す。石塚教授殿より、白虎隊奮戦の講話を聞き、ますます御奉公の誠を致し、毎日の訓練に励まんことを墓前に誓う。飯盛山より遥か鶴ガ城を望み、想いを当時に馳せるとき、傍らに立てる老松吾に何事か語りかけるがごとし。
下山、東山温泉に向かって行軍す。ここにて昼食を摂りたる後、会津鶴ガ城に行軍す。暮色迫りし城跡において会津精神について講話を聞くとき、同県人の吾人もまた感銘深きものあり、十八時すぎ若松を出発、二十二時すぎ無事帰校す。
一月五日(水) 曇
午前中、初の数学の学科あり。吾人好む学科ゆえよく頭に入るように思わる。習學上の注意に、通信兵にとりては電磁気学と相並んでともに大切な学科なれば、自学自習し、課業中は熱心に修学すべしとの教官殿の注意あり、静電気について勉強す。
一月九日(日) 晴
午前中、通信修技あり、午後は初めての外出あり。
陸軍生徒としての初の外出、今日の日を入校以来いかに待ちたることか。外出許可がかくも早くなるとは想ってもいなかつただけに、実に嬉しく感ず。
校門を出て警察前を通り駅前に出ず。駅前で少々遊び、買物などして戦友と共に一路帰校す。外出して新しき気持ちになり、また明日よりは大いに課業に精励せん哉《かな》。
一月二十日(木) 曇
朝礼の際、中隊長殿より敬礼の厳正と衛生につき訓示あり、午前中、通信修技。入校後早くも五十日を経過し、送受信もどうやら出来るようになりたり。
午後、数学の時間に試験あり、大体出来たようなるも、なお一層努力せざるべからず。
一月二十二日(日) 晴
午前中、普通學あり、歴史は建軍の本義につきての講話なり。数学は方程式につき勉強す。午後、保育の時間に区隊長殿より病の注意につき訓示あり。
「快笑する者は快勝す」 との話。吾大いに感ず。
一月二十六日(水) 雪
課業集合の際、週番士官殿より注意事項あり、暖炉にて靴類を乾かすべからず。午前中、通信修技あり。近頃は送受信とも進歩したるようなり。今後とも大いに努力せん。
本日正午より今週の後半期週番生徒に勤務す。集合の迅速、班内の整頓に力を尽さん。
二月十日(木) 曇
本日六段目、銃剣術あり、「構え銃」 「前進」 「後退」の教育を受く。
母面会に来たる。遠路吾を案じて来られた母を想うとき、吾感無量。ますます御奉公の誠を致し、以つて忠孝一致の実を挙げん。
三月十日(日) 晴
五時三十分起床、本日は陸軍記念日なり、我が村松少通校においても今日の良き日を記念すべく○○山に行軍、巻狩りを実施す。「前面の敵(兎部隊)を包囲殲滅《せんめつ》すべし」 との渡辺中佐殿の命令一下、われら八百の健児は、捕りてし止まんの意気にて山上目指して突進す。そこかしこに歓声をあげつつ敵を谷間に追って行く。しばし追ううちに木の間がくれに逃げ惑う敵の姿を見る。我々の前面に敵現るの報に接し、更に突撃を敢行し、包囲網を縮め、敵を完全に捕捉し目的地に着きたれば、やれ嬉しや敵は戦友に捕らえられたり。凱歌《がいか》を挙げつつ出発点に戻り、ここで校長殿の訓話ありて、高々と勝鬨を上げたり。
戦果は兎五羽、雉一羽なり。
三月十三日(月) 曇
午後、はじめて器材取扱あり。九二式電話機なり。器材取扱は通信修技と共に我々の生命なり。
三月十七日(金) 晴
午後、器材取扱、空中線建柱について勉強す。
三月二十日(月) 晴
一段目、機械学の考査あり、続いて器材取扱、本日は通信所開設につき勉強す。通信機の配置、また九四式二号乙無線機の機能につき植原大尉殿より学科あり。
午後、通信修技あり、送信が良くなると受信が十分ならず、両者併行にならざるものなりや。努力し必ず併行ならしめん。
三月二十三日(木) 晴
午前の器材取扱、本日は発動機の接続及び運転について勉強す。吾生まれて初めて発動発電機を発動したり。エンジンの快い唸りを聞くとき感慨無量なり。早く一人前の通信兵となり第一線目指し突進せん。
四月九日(日) 雨
通信修技も時間に初めて対向修技を習得す。命令布達式あり、新しく生徒隊長来らる。訓示は「底力ある修学、気はやさしくて力持ちの昭和の桃太郎たるべし」
四月十三日(木) 雨
午前中、通信修技。受話器を耳にし対向通信に励むとき、通信兵としての喜びを大いに感ず。午後、器材取扱あり、九四式二号乙無線機の送信機について配線要図を前に、皆一生懸命なり。電波兵器の世界に乗り出し、わが打つ電鍵、電波となり地球を包むときは遠からず来る。
四月十八日(火) 曇
午前一段目、無線学、真空管について、二段日通信、三段目電磁気学。午後は器材取扱、送信機の点検、線輪の装脱等について学ぶ。夜は四講堂にて三所一系の対向通信、連絡通信を行う。
五月二十一日(日) 晴
午前自習。午後農耕あり。広々とせる練兵場の一角に鍬を振うも愉しきことなり。日増しに伸びる若芽、新緑鮮やかにして初夏の風肌に心地良し。
五月二十九日(月) 晴
午前、馬事訓練あり。部隊に行けば馬を取扱うこと多し。今のうちに馴れ、器材と同様大いに親しまんと思う。午後は電信電話学、典範令の講義あり。
六月一日(木) 曇後雨
十二期生の入校式あり。吾らの弟たちの晴の入校式を見るとき、半年前を振返り感慨無量なるも、現在の吾はこれで良いのか、と大いに反省させられる。
校長殿の訓示を聞く一年生の心は吾らの入校時と同じならん。ただ変わるは時局戦局のみ。大いに奮起し困難突破に邁進《まいしん》せん。
七月六日(木) 曇
本日より野外調整演習開始。五時三十分学校を出発し先遣隊として演習地鼠が関村に向う。十時頃到着、直ちに通信所開設位置を選定し、器材を運搬す。
わが七分隊の位置は、日本海を目前に見る風光明媚《めいび》の場所なり。十四時、後発隊到着、通信所の開設と諸準備をなす。
七月七日(金) 晴
五時起床、朝食後直ちに通信所に行き連絡開始。感度良好なり。送受信を行う。十時第一回、十四時第二回、十九時第三回。本日は混信分離も容易にして、すべて順調裡に終了、二十三時就寝す。
七月十日(月) 晴
六時より十時まで連絡通信、電報の送受を実施。一人一時間の割合にて吾第一回に勤務することに決まり、対所を呼び出すも応答なし。一時間ついに連絡とれず、涙を呑んで交代す。実に残念なり。
演習最後の夜は十八時より翌朝六時まで通信連絡を行う。前半二号乙、後半三号甲なり。混信、空電多く、送受信に時間がかかり送信一通、受信二通のみに終る。
七月十六日(日) 晴
本日は一日中、全休なり。午前中は洗濯と環境の整理。遊泳演習も近く、先発隊は既に出発す。午後は生徒集会所にて読書。地方新聞を久しぶりに見るに、世間は吾らの入校当時より一変せり。夕食後、軍歌演習あり、大いに士気の昂揚《こうよう》に努めたり。
七月二十日(木) 雨
午前八時三十分舎前に集合、五泉駅に向い行動を開始。十二時列車にて新潟着。市内を軍歌演習を行いつつ堂々と行進す。十三時目的地の宿舎に到着、先発隊の準備せし内務班に入る。本日より二週間の遊泳演習なり。張り切って過さん。
七月二十三日(日) 晴
大和百貨店にて開催中の「少年兵展覧会」に出場、器材の操法等につき一般見学者に説明、また実演す。連隊区司令部の御骨折りにて盛況なり。見学者多く、その熱心な見学振りに自ら操法にも力が入りし次第なり。
七月二十四日(月) 晴
本日は好天気なり。午前一段目は九二式回光機の取扱法、開設、点検についての教育。二、三段目は溺水《できすい=おぼれた》者救助法について、海岸において教授さる。午後遊泳。
八月一日(火) 晴
午前中、生徒隊計画の遠泳に参加。四キロ遊泳なるも千五百メートルにして右足けいれんを起こし、涙をのみて落伍せり。本日を以って遊泳演習も終る。
八月三日(木) 晴
臨時帰郷の発表あり。内務班、中隊舎内外の清掃をなす。遠距離の者出発し、内務班は急に寂しくなる。日夕点呼後、吾は明日出発と決定す。懐かしの故郷、今夜はいかなる夢を見るであろうか。
八月四日(金) 晴
四時起床。心はすでに故郷に飛び、飯もろくに口に入らぬ有様なり。六時週番士官殿の諸注意を受け出発。七時四十分五泉発、十八時半故郷の駅に到着。神仏に礼拝し途中の無事を謝す。二十二時就寝、布団の上にて第一夜を眠る。
八月七日(月) 晴
午前中、母校を訪問、恩師の依頼により後輩達の前で、電気通信につき三十分話す。吾も三年前はこの学校に在り、想い出は次々眼前に浮かぶ。先生方と在校当時の想い出を午前中語り合う。
八月十二日(土) 晴
薄磯海岸に父とともに水泳。今日の日は永遠にまたと来ないであろう。夕食は家族全員で語り合う。
八月十四日(月) 晴
帰校の日。親妹たちの見送る中、五時四十五分、平駅を発つ。十六時学校着。さあ張切ってやるぞの気概自ら湧く。
九月四日(月) 晴
午前中作業、通信壕を作る。いざ戦場に出て実際に役立つ掩壕《えんごう=注1》を短時間に構築する作業なり。
九月五日(火) 晴
分隊訓練。敵落下傘部隊多数降下の想定のもと、軍と連行の通信部隊は行動を開始。矢津川付近に前進し通信所を開設。状況の設定通信実施。みな懸命なり。敵襲に対しての処置。敵空襲下の通信実施をし演練す。
十四時半、帰校の途次、練兵場で車両破壊の想定下、腕力運搬で中隊舎前に到着。
十月一日(日) 晴
本日は学校創立一周年記念日なり。四時三十分非常呼集。完全軍装にて全校生徒校庭に整列、記念式を行う。
十七時、練兵場にて大会食。学校長殿の訓示のあと和気藹々《あいあい》のうちに折からの月を賞しながら戦友と語り合いつつの食事。今日の行事、この月を来年また再来年は、どこにて眺むるものぞ、想えば感無量なり。
(昭五六 毎日新聞社刊「陸軍少年兵」収載)
注1 掩壕=兵などを敵弾から守るために掘った壕
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編集者 (代理投稿)