「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・3
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「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」 (編集者, 2009/2/8 9:23)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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軍都村松の悼尾《とうび》を飾る村松少通校
新潟県郷友会会長 吉 田 富 忠
新潟県中蒲原郡村松町は、江戸時代に越後村上藩十三万石から三万石を分封《注1》され、外様ながら村松藩として明治維新まで続いた堀家十二代にわたる城下町である。その城下町の故をもってか、明治以後軍隊の衛戍地《注2》も置かれ歴史的にも栄えた町で、今では観光と産業に力を注ぐ人口二万の静かな街である。とはいえ、地番で甲は町人乙は武士の町として、はっきり城下町、軍都だった時の気風は今でも残っている。
日清戦争後、軍拡の計画を知り、いち早く町議会で、愛宕原の地四万坪の献上を決め、町上げての誘致運動の結果、明治二十九年八月、新発田の歩兵第十六聯隊内に開設された歩兵第三十聯隊がその年の九月移駐してきた。これより先、兵舎、練兵場、射的場等がつくられ、さらに往来の便のために、衛門前から下町まで新道を建設〝営所通り″と呼ばせた(現在は〝学校町″と呼ぶ)。
以来、村松は軍都として賑わうようなった。近郊の農家は農作物を納め、また肥料として糞尿等の処理も行い聯隊内の催し事があれば町民が招待されるなど軍民ともに共存共栄に努めていた。
今年で百周年を迎えた日露戦争に出征、戦勝記念として広大な村松公園が造られ、さらに大正八年シベリア出兵にも従軍したが、大正軍縮により同十四年五月、第三十聯隊は高田に移動し、新発田の歩兵第十六聯隊の第三大隊が村松に分屯した。
その後、昭和五年以降満州事変、支那事変の勃発により、昭和十三年に新発田陸軍病院分院が開設される。見舞いや勤労動員のほか毎日のように戦病傷者が送られてくるので、町の人達や学校の生徒たちは出迎えに忙しかった。昭和十六年七月に歩兵第百五十八聯隊が編成されるが、大東亜戦争開戦で千島列島松輪島に出動し、兵舎は空く。
その空いた兵舎に、今から丁度六十二年前の十八年十月「村松陸軍少年通信兵学校」が開設され、爾後、終戦まで約八百名が巣立って、各地戦域へ向かっていったが、生存者は僅かだった。終戦時の在校生千六百名は解散し軍都としての幕は閉じられた。
終戦直後の二十年九月二十四日、約千二百名の米軍が進駐してきたが、三か月後には引き上げていった。そしてかつての兵舎は、国外からの引揚者用の宿舎になったのは全国同様である。昭和四十五年十月十一日、愛宕山山麓に全国少通連合会により「少年通信兵の慰霊碑」が建立され、次いで平成七年十月十一日には、慰霊碑に並べて慰霊碑建立由来説明碑が建てられて今日に至っている。
軍都としての村松を記念するものが欲しいと、当町郷友会は奔走したが、莫《ばく》大な資金を要するため、なかなか構想は進捗《しんちょく》しなかったが、会長・伊藤勝三郎氏の長男・勝美氏が、平成十四年一月に町長に当選されたのを機会に、町議会に諮り、国有地の払い下げを受け、衛門・歩哨《ほしょう》舎および説明板などの工作物が十六年八月にようやく完成を見て、軍都の歴史を残せることができた。
村松町は、あと一月後の来年の一月一日をもって、ニットで有名な隣の五泉市と合併するので、名誉ある村松町の名は消える。新潟市郷友会会員の中に、この村松の兵舎で将校として初年兵教育に従事され、現在九十才を超えられたのに、今なお矍鑠《かくしゃく》たる方もおられるので、衛門だけでも懐かしい想い出につながるに相違なく、また幼くして散った少年兵の英霊の慰霊にもなるものと感慨一入《ひとしお》である。
軍都であつた村松の歴史を知る者として、合併前に明確な記念物を造成された伊藤町長殿に感謝申し上げたい。
説明板の中に掲げられている写真は、町役場に残っていたものを使っているとあり、撮影日時は不詳とのことだが、子細に見ると少年通信兵学校開校時のものではないかと推測される。村松陸軍少年通信兵学校の看板は真新しく墨痕淋漓《ぼっこんりんり》と書かれた表札が門柱に掲げられており、教育総監部から派遣されたと思われる高官が、帰路の衛門を出られる時の場面らしく、勲章を佩用の学校長が先導し、次の人は長い将校マントを着用している。その外に配属将校が打揃って整列して見送っているのに対して、挙手の答礼をしている画面である。
(平一七・二-郷友誌)
(編者・注)
末尾の 「説明板の中に掲げられている写真」は、
昭和十八年十二月一日、川並密通信兵監が第十一期生の入校式に来校された時のものです。
(二十五頁の「日記」および七十六真の「写真」参照)
注1 分封=領地を分けあたえられる
注2 衛戍地(えいじゅち)=軍隊が長く駐屯して防衛する重要地域
新潟県郷友会会長 吉 田 富 忠
新潟県中蒲原郡村松町は、江戸時代に越後村上藩十三万石から三万石を分封《注1》され、外様ながら村松藩として明治維新まで続いた堀家十二代にわたる城下町である。その城下町の故をもってか、明治以後軍隊の衛戍地《注2》も置かれ歴史的にも栄えた町で、今では観光と産業に力を注ぐ人口二万の静かな街である。とはいえ、地番で甲は町人乙は武士の町として、はっきり城下町、軍都だった時の気風は今でも残っている。
日清戦争後、軍拡の計画を知り、いち早く町議会で、愛宕原の地四万坪の献上を決め、町上げての誘致運動の結果、明治二十九年八月、新発田の歩兵第十六聯隊内に開設された歩兵第三十聯隊がその年の九月移駐してきた。これより先、兵舎、練兵場、射的場等がつくられ、さらに往来の便のために、衛門前から下町まで新道を建設〝営所通り″と呼ばせた(現在は〝学校町″と呼ぶ)。
以来、村松は軍都として賑わうようなった。近郊の農家は農作物を納め、また肥料として糞尿等の処理も行い聯隊内の催し事があれば町民が招待されるなど軍民ともに共存共栄に努めていた。
今年で百周年を迎えた日露戦争に出征、戦勝記念として広大な村松公園が造られ、さらに大正八年シベリア出兵にも従軍したが、大正軍縮により同十四年五月、第三十聯隊は高田に移動し、新発田の歩兵第十六聯隊の第三大隊が村松に分屯した。
その後、昭和五年以降満州事変、支那事変の勃発により、昭和十三年に新発田陸軍病院分院が開設される。見舞いや勤労動員のほか毎日のように戦病傷者が送られてくるので、町の人達や学校の生徒たちは出迎えに忙しかった。昭和十六年七月に歩兵第百五十八聯隊が編成されるが、大東亜戦争開戦で千島列島松輪島に出動し、兵舎は空く。
その空いた兵舎に、今から丁度六十二年前の十八年十月「村松陸軍少年通信兵学校」が開設され、爾後、終戦まで約八百名が巣立って、各地戦域へ向かっていったが、生存者は僅かだった。終戦時の在校生千六百名は解散し軍都としての幕は閉じられた。
終戦直後の二十年九月二十四日、約千二百名の米軍が進駐してきたが、三か月後には引き上げていった。そしてかつての兵舎は、国外からの引揚者用の宿舎になったのは全国同様である。昭和四十五年十月十一日、愛宕山山麓に全国少通連合会により「少年通信兵の慰霊碑」が建立され、次いで平成七年十月十一日には、慰霊碑に並べて慰霊碑建立由来説明碑が建てられて今日に至っている。
軍都としての村松を記念するものが欲しいと、当町郷友会は奔走したが、莫《ばく》大な資金を要するため、なかなか構想は進捗《しんちょく》しなかったが、会長・伊藤勝三郎氏の長男・勝美氏が、平成十四年一月に町長に当選されたのを機会に、町議会に諮り、国有地の払い下げを受け、衛門・歩哨《ほしょう》舎および説明板などの工作物が十六年八月にようやく完成を見て、軍都の歴史を残せることができた。
村松町は、あと一月後の来年の一月一日をもって、ニットで有名な隣の五泉市と合併するので、名誉ある村松町の名は消える。新潟市郷友会会員の中に、この村松の兵舎で将校として初年兵教育に従事され、現在九十才を超えられたのに、今なお矍鑠《かくしゃく》たる方もおられるので、衛門だけでも懐かしい想い出につながるに相違なく、また幼くして散った少年兵の英霊の慰霊にもなるものと感慨一入《ひとしお》である。
軍都であつた村松の歴史を知る者として、合併前に明確な記念物を造成された伊藤町長殿に感謝申し上げたい。
説明板の中に掲げられている写真は、町役場に残っていたものを使っているとあり、撮影日時は不詳とのことだが、子細に見ると少年通信兵学校開校時のものではないかと推測される。村松陸軍少年通信兵学校の看板は真新しく墨痕淋漓《ぼっこんりんり》と書かれた表札が門柱に掲げられており、教育総監部から派遣されたと思われる高官が、帰路の衛門を出られる時の場面らしく、勲章を佩用の学校長が先導し、次の人は長い将校マントを着用している。その外に配属将校が打揃って整列して見送っているのに対して、挙手の答礼をしている画面である。
(平一七・二-郷友誌)
(編者・注)
末尾の 「説明板の中に掲げられている写真」は、
昭和十八年十二月一日、川並密通信兵監が第十一期生の入校式に来校された時のものです。
(二十五頁の「日記」および七十六真の「写真」参照)
注1 分封=領地を分けあたえられる
注2 衛戍地(えいじゅち)=軍隊が長く駐屯して防衛する重要地域
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編集者 (代理投稿)