「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・5
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「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」 (編集者, 2009/2/8 9:23)
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編集者
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では、こうした少年通信兵の特徴を踏まえて、実際に村松においては、どのような訓育が行われていたでしょうか。
高木校長は、教育方針として生徒に、①我は皇軍《注1》の一員なり ②責任を重んじ実行力を尊ぶ ③通信技術は我らが特技 ④武勇を尚び《たっとび》礼儀を正しくする ⑤健康は忠孝の基 の五訓を与え、特に責任感と実行力を重んじる校風の樹立に努められましたが、これを証するものとして 総括的な意味での七期生・山田善三郎氏の 「伝統」 と、これらの伝統と訓育を生徒がどう受け止めたかについて、十二期生・山本内良二氏の「訓育は降る雨の如し」と十三期生・中元正夫氏の 「生きる」を掲載します。
また、「某班長の母に宛てた手紙」は、本紙の前身である「かんとう少通第九号」の刊行が新潟日報で報じられた時、偶々《たまたま》この記事をご覧になった新潟市の江口直禎氏からお寄せ頂いたものです。
終戦当時、五泉国民学校の校長だった氏の岳父・板橋利邦氏の遺品「昭和十九年度学校経営記録」の中に収められていた由で、江口氏は 「当時は当時なりに懸命な教育が為されていた訳で、今更ながら教育の影響力の大きさに感じ入っている」と語っておられます。
伝 統
七期 山 田 善三郎
伝統と云う言葉は最近あまり使わないようである。何となく固い感じの印象を受ける言葉だが、ひと頃は割合使われ、「我が社の伝統は……」、「我が校の伝統を生かせ」、「伝統を守る」等々。戦時中軍隊に於ても「我が部隊の光輝ある伝統を守り…」、「……はわが連隊の伝統である」など、いろいろな面で使われていた。
近頃でも使われない訳ではなく、「伝統芸能」、「伝統工芸」と云うことを時折見たり聞いたりする。然らば伝統と云う言葉の持つ意味は何か、と考え辞書を引っばり出して見た。
一、伝統を受け継ぐこと、又受け伝える系統。
二、同じ社会、民族間で昔から受け継がれてきて、現在も尚生命を保っているもの。
三、長い間に出来上がつた、しきたり。
四、旧来の伝承する系統を尊重し、これを模範とする主義。
と解明されている。
私はここでむずかしい伝統の字句に関して論ずるつもりはない。唯私達はいち様に少通校出身である。その少通校には何らかの形で培われた、伝統が有ったであろうか。確かに在校中、生徒隊長・中隊長・教官・内務班長などから、何かの折にこの伝統と云う言葉を聞かされたことが、今でも記憶の底に残っている。伝統を解釈の
(二) 項に当嵌め《あてはめ》てみると「同じ社会(少通校)、民族(同期生)間で昔から受け継がれてきて、現在も尚生命を保っているもの」、或いは
(三) 項の「長い間に出来上がった、しきたり」、等の解釈を適用するならば、私達の陸軍少年通信兵学校にも一期生から十三期生迄(東京少通校は十二期生迄)何らかの形で伝統と云うものが引き継がれてきた筈である。
昭和十八年十月に新潟県中蒲原郡村松町に村松陸軍少年通信兵学校が新設され第十一期生は東京少通校に八百名、村松少通校に八百名夫々入校した。従って東京少通校には一期生から培われ伝承された、「伝統的校風又は伝統的要素」が多分に存在したことと考える。
村松少通校は歴史も浅く、長い間のしきたりには乏しかったかも知れない。然し教職にあった中隊長・教官・内務班長或は助教などは東京少通校よりの転校者又は少通出身者その他優秀な人達を以って各中隊が編成されており、生徒教育には熱誠を以って当つた為、歴史は浅くとも斬新な、ひと味違った伝統的校風が醸成されたものと思考される。
戦後既に四十余年を経過した今日、少通校の伝統がどんな形で存在したのか、或いは伝統が在ったのか、そもそもの意味が具体性に欠け曖昧模糊《あいまいもこ》としているので、いまそれを模索してみても、「これだ!!」或は「それだ!!」と云う決定的な要素を具現することは、むずかしいかも知れない。何故ならそれぞれの期に依って、又は中隊に依って生徒教育の方針とか理念が異っていたものであれば、訓化される生徒も自ら多少の差異が生れる。
例えば或る中隊の教官は通信兵操典より歩兵操典を重視する教育で戦闘教練に力を入れたとすると、その区隊は必然的に闘志旺盛な生徒が多くなる。これに反して通信兵としての教育を重視する教官の生徒は「通信こそわが使命」と考える生徒が多くなる。この様に中隊長特に教官や内務班長助教の生徒教育に及ぼす影響は大きく個々の人格、薀蓄《うんちく》、熱意などに依って生徒はそれぞれのかたちに培われたのである。
此の様に教育の最小単位の内務班に於ても班長の人格識見素養などが異なると、生徒に与える教育の内容、課程なども変わってくるので、当然培われる要素も異なるようになる。
従って東京村松の両校を通じての伝統、全期を網羅して伝統の模索は非常に困難と云わねばならない。然し昭和八年に一期生が入校し、二十年八月終戦まで十三期を数えた、この約十二年間に於いて陸軍少年通信兵学校の伝統は何か、と問われ「無」と答える訳にはゆかない。少なくとも私達には高く掲げられる何かがあつた筈である。通信兵の本領に曰く「通信兵の本領は戦役の全期に亘り指揮統帥の脈絡を成形し、戦闘力統合の骨幹となり以て全軍戦捷《せんしょう=勝ち戦》の途を拓くにあり。」としている。所謂通信兵は戦役の全期に指揮統帥の脈絡であるとされ、戦闘力を統合する為の骨幹である、としている。更に曰く「故に通信兵は常に相互の意思を疎通し、特有の技術に精熟し、周密にして機敏、耐忍にして沈着、進んで任務を遂行し、全軍の犠牲たるべき気塊を堅持し、以て其の本領を完うせざるべからず。」として通信兵の技術や精神的要素の昂揚によって戦捷の為の犠牲となる気迫を持て、と云っている。そして最後に「通信兵は常に兵器及び材料を尊重し、整備節用に務め、馬を愛護し、又特に防諜に留意すべし。」 と結んでいる。
軍隊における通信兵としての要素は、「必通」と云うことである。これあながち少年通信兵ばかりでなく、一般兵科通信に於ても同様である。少年通信兵の教育課程に於て「必通」と云うことは至極当然のことである。大切なことは、如何なる状況のもとでも「必ず通ずる」信念、所謂「必通の信念」こそ少年通信兵教育に於ける独立不羈《どくりつふき 注2》の伝統的要素であつたのでないか。「必通の信念」は「通信兵の本領」 で説かれている精神的要素と、特有の技術に精熟していることに依って達成される。太平洋戦争に緒戦に於ける赫々《かくかく》たる戦果、そして戦争全局を通じての通信兵特に少年通信兵出身の人達が電波を通じて、如何に戦い、如何に作戦に寄与したか、と云うことを想起し、少年通信兵斯く戦えり、と痛感する。最近少通出身各期に於て記録、歩み、軌跡、などが出版されており、それらを読んで益々その感慨を深くする次第である。
「貴様と俺とは同期の桜、同じ少通校の庭に咲く」と同じ目的に向い同じ釜の飯を食べて、「契りを籠めし稚木に、万朶《ばんだ》を誇れ桜花…」と唄い万感を籠めて、南漠北涯の戦線に赴き「必通の信念」を以て「通信兵の本領」を発揮したが「たたかい利あらず」戦争は終った。そして戦後は四十余年が過ぎ去り、各地の少通会、中隊或いは区隊会などが盛んに開かれ、「月日の脚に明日なし、只一心に必通の信念(オモイ)は吾等が身の運命(サダメ)---」と唄い「鍛えよ、伸びよ少年通信兵」と結び、これら会合にはお互いの毀誉褒貶《きよほうへん 注3》を超越して参加し、何の蟠(ワタカマ)りもなく愉快に談笑出来るは、「同期の桜」 であり「同じ目的に精魂を傾けた仲」であるからに他ならない。そして「血肉分けたる仲ではないが、なぜか気が合うて別れられぬ」、楽しかった余韻を残して又合う機会を想い画く、同期生として、或いは先輩後輩として信頼と敬愛に依って繋(ツナガ)り、敬愛の思いやりに結ばれている何かがある。この「何か」こそ今後共大切に温めてゆくべき「至宝」と心得る私達は残された人生をこの、「至宝」と共に楽しくすごそうではありませんか。
(昭六三・一〇-第五号収載)
注1 皇軍=天皇が統率する軍隊。日本の陸海軍のこと
注2 独立不羈=他からの束縛をうけない
注3 毀誉褒貶=さまざまな評判
高木校長は、教育方針として生徒に、①我は皇軍《注1》の一員なり ②責任を重んじ実行力を尊ぶ ③通信技術は我らが特技 ④武勇を尚び《たっとび》礼儀を正しくする ⑤健康は忠孝の基 の五訓を与え、特に責任感と実行力を重んじる校風の樹立に努められましたが、これを証するものとして 総括的な意味での七期生・山田善三郎氏の 「伝統」 と、これらの伝統と訓育を生徒がどう受け止めたかについて、十二期生・山本内良二氏の「訓育は降る雨の如し」と十三期生・中元正夫氏の 「生きる」を掲載します。
また、「某班長の母に宛てた手紙」は、本紙の前身である「かんとう少通第九号」の刊行が新潟日報で報じられた時、偶々《たまたま》この記事をご覧になった新潟市の江口直禎氏からお寄せ頂いたものです。
終戦当時、五泉国民学校の校長だった氏の岳父・板橋利邦氏の遺品「昭和十九年度学校経営記録」の中に収められていた由で、江口氏は 「当時は当時なりに懸命な教育が為されていた訳で、今更ながら教育の影響力の大きさに感じ入っている」と語っておられます。
伝 統
七期 山 田 善三郎
伝統と云う言葉は最近あまり使わないようである。何となく固い感じの印象を受ける言葉だが、ひと頃は割合使われ、「我が社の伝統は……」、「我が校の伝統を生かせ」、「伝統を守る」等々。戦時中軍隊に於ても「我が部隊の光輝ある伝統を守り…」、「……はわが連隊の伝統である」など、いろいろな面で使われていた。
近頃でも使われない訳ではなく、「伝統芸能」、「伝統工芸」と云うことを時折見たり聞いたりする。然らば伝統と云う言葉の持つ意味は何か、と考え辞書を引っばり出して見た。
一、伝統を受け継ぐこと、又受け伝える系統。
二、同じ社会、民族間で昔から受け継がれてきて、現在も尚生命を保っているもの。
三、長い間に出来上がつた、しきたり。
四、旧来の伝承する系統を尊重し、これを模範とする主義。
と解明されている。
私はここでむずかしい伝統の字句に関して論ずるつもりはない。唯私達はいち様に少通校出身である。その少通校には何らかの形で培われた、伝統が有ったであろうか。確かに在校中、生徒隊長・中隊長・教官・内務班長などから、何かの折にこの伝統と云う言葉を聞かされたことが、今でも記憶の底に残っている。伝統を解釈の
(二) 項に当嵌め《あてはめ》てみると「同じ社会(少通校)、民族(同期生)間で昔から受け継がれてきて、現在も尚生命を保っているもの」、或いは
(三) 項の「長い間に出来上がった、しきたり」、等の解釈を適用するならば、私達の陸軍少年通信兵学校にも一期生から十三期生迄(東京少通校は十二期生迄)何らかの形で伝統と云うものが引き継がれてきた筈である。
昭和十八年十月に新潟県中蒲原郡村松町に村松陸軍少年通信兵学校が新設され第十一期生は東京少通校に八百名、村松少通校に八百名夫々入校した。従って東京少通校には一期生から培われ伝承された、「伝統的校風又は伝統的要素」が多分に存在したことと考える。
村松少通校は歴史も浅く、長い間のしきたりには乏しかったかも知れない。然し教職にあった中隊長・教官・内務班長或は助教などは東京少通校よりの転校者又は少通出身者その他優秀な人達を以って各中隊が編成されており、生徒教育には熱誠を以って当つた為、歴史は浅くとも斬新な、ひと味違った伝統的校風が醸成されたものと思考される。
戦後既に四十余年を経過した今日、少通校の伝統がどんな形で存在したのか、或いは伝統が在ったのか、そもそもの意味が具体性に欠け曖昧模糊《あいまいもこ》としているので、いまそれを模索してみても、「これだ!!」或は「それだ!!」と云う決定的な要素を具現することは、むずかしいかも知れない。何故ならそれぞれの期に依って、又は中隊に依って生徒教育の方針とか理念が異っていたものであれば、訓化される生徒も自ら多少の差異が生れる。
例えば或る中隊の教官は通信兵操典より歩兵操典を重視する教育で戦闘教練に力を入れたとすると、その区隊は必然的に闘志旺盛な生徒が多くなる。これに反して通信兵としての教育を重視する教官の生徒は「通信こそわが使命」と考える生徒が多くなる。この様に中隊長特に教官や内務班長助教の生徒教育に及ぼす影響は大きく個々の人格、薀蓄《うんちく》、熱意などに依って生徒はそれぞれのかたちに培われたのである。
此の様に教育の最小単位の内務班に於ても班長の人格識見素養などが異なると、生徒に与える教育の内容、課程なども変わってくるので、当然培われる要素も異なるようになる。
従って東京村松の両校を通じての伝統、全期を網羅して伝統の模索は非常に困難と云わねばならない。然し昭和八年に一期生が入校し、二十年八月終戦まで十三期を数えた、この約十二年間に於いて陸軍少年通信兵学校の伝統は何か、と問われ「無」と答える訳にはゆかない。少なくとも私達には高く掲げられる何かがあつた筈である。通信兵の本領に曰く「通信兵の本領は戦役の全期に亘り指揮統帥の脈絡を成形し、戦闘力統合の骨幹となり以て全軍戦捷《せんしょう=勝ち戦》の途を拓くにあり。」としている。所謂通信兵は戦役の全期に指揮統帥の脈絡であるとされ、戦闘力を統合する為の骨幹である、としている。更に曰く「故に通信兵は常に相互の意思を疎通し、特有の技術に精熟し、周密にして機敏、耐忍にして沈着、進んで任務を遂行し、全軍の犠牲たるべき気塊を堅持し、以て其の本領を完うせざるべからず。」として通信兵の技術や精神的要素の昂揚によって戦捷の為の犠牲となる気迫を持て、と云っている。そして最後に「通信兵は常に兵器及び材料を尊重し、整備節用に務め、馬を愛護し、又特に防諜に留意すべし。」 と結んでいる。
軍隊における通信兵としての要素は、「必通」と云うことである。これあながち少年通信兵ばかりでなく、一般兵科通信に於ても同様である。少年通信兵の教育課程に於て「必通」と云うことは至極当然のことである。大切なことは、如何なる状況のもとでも「必ず通ずる」信念、所謂「必通の信念」こそ少年通信兵教育に於ける独立不羈《どくりつふき 注2》の伝統的要素であつたのでないか。「必通の信念」は「通信兵の本領」 で説かれている精神的要素と、特有の技術に精熟していることに依って達成される。太平洋戦争に緒戦に於ける赫々《かくかく》たる戦果、そして戦争全局を通じての通信兵特に少年通信兵出身の人達が電波を通じて、如何に戦い、如何に作戦に寄与したか、と云うことを想起し、少年通信兵斯く戦えり、と痛感する。最近少通出身各期に於て記録、歩み、軌跡、などが出版されており、それらを読んで益々その感慨を深くする次第である。
「貴様と俺とは同期の桜、同じ少通校の庭に咲く」と同じ目的に向い同じ釜の飯を食べて、「契りを籠めし稚木に、万朶《ばんだ》を誇れ桜花…」と唄い万感を籠めて、南漠北涯の戦線に赴き「必通の信念」を以て「通信兵の本領」を発揮したが「たたかい利あらず」戦争は終った。そして戦後は四十余年が過ぎ去り、各地の少通会、中隊或いは区隊会などが盛んに開かれ、「月日の脚に明日なし、只一心に必通の信念(オモイ)は吾等が身の運命(サダメ)---」と唄い「鍛えよ、伸びよ少年通信兵」と結び、これら会合にはお互いの毀誉褒貶《きよほうへん 注3》を超越して参加し、何の蟠(ワタカマ)りもなく愉快に談笑出来るは、「同期の桜」 であり「同じ目的に精魂を傾けた仲」であるからに他ならない。そして「血肉分けたる仲ではないが、なぜか気が合うて別れられぬ」、楽しかった余韻を残して又合う機会を想い画く、同期生として、或いは先輩後輩として信頼と敬愛に依って繋(ツナガ)り、敬愛の思いやりに結ばれている何かがある。この「何か」こそ今後共大切に温めてゆくべき「至宝」と心得る私達は残された人生をこの、「至宝」と共に楽しくすごそうではありませんか。
(昭六三・一〇-第五号収載)
注1 皇軍=天皇が統率する軍隊。日本の陸海軍のこと
注2 独立不羈=他からの束縛をうけない
注3 毀誉褒貶=さまざまな評判
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編集者 (代理投稿)