「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・2
投稿ツリー
-
「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」 (編集者, 2009/2/8 9:23)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・2 (編集者, 2009/2/10 8:10)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・3 (編集者, 2009/2/13 9:03)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・4 (編集者, 2009/2/15 9:03)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・5 (編集者, 2009/2/17 9:01)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・6 (編集者, 2009/2/19 8:45)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・7 (編集者, 2009/2/23 7:50)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・8 (編集者, 2009/2/25 9:36)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・9 (編集者, 2009/3/1 9:40)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・10 (編集者, 2009/3/4 8:25)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・11 (編集者, 2009/3/6 8:12)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・12 (編集者, 2009/3/7 10:21)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・13 (編集者, 2009/3/8 8:35)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・14 (編集者, 2009/3/9 8:19)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・15 (編集者, 2009/3/10 10:16)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・16 (編集者, 2009/3/11 8:38)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・17 (編集者, 2009/3/12 8:22)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・18 (編集者, 2009/3/13 8:43)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・19 (編集者, 2009/3/14 9:05)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・20 (編集者, 2009/3/17 7:45)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・21 (編集者, 2009/3/18 8:29)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・22 (編集者, 2009/3/18 8:34)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・23 (編集者, 2009/3/19 8:24)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・24 (編集者, 2009/3/20 8:24)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・25 (編集者, 2009/3/22 7:32)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・26 (編集者, 2009/3/23 7:35)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
一.少年通信兵とは(少年通信兵制度の始まりと、その歩み)
本書をお読み頂くに当たって皆様には、先ず「少年通信兵」とは何か、また、その少年兵を擁した村松陸軍少年通信兵学校(以下、「村松少通校」と略称します)が何故此処・村松に開設されるに至ったか、等についてご理解いただく必要があろうかと思います。
先ず、「少年通信兵」については、第一期生であり、村松少通校の区隊長でもあつた本川栄吉氏は、「我が国軍の歴史において、陸軍通信部隊が置かれたのは、明治十年の西南戦役の時、官軍の中に「軍用電信掛」が設けられたときである」前置きされたあと、こう述べています。
昭和八年、東京市杉並区馬橋の陸軍通信学校に生徒隊が新設され、生徒を全国から募集し、十二月一日、第一期生徒十五名の入校式が行われた。これら生徒は無線通信に従事する工兵科現役下士官になることを志願して募集試験に合格した者をもって宛てられ、その修業年限は概《おおむ》ね二年間であつた。
応募資格は満十五歳以上、十八歳未満で高等小学校(現在の中学校)卒業以上の学力を持つ者とされていたが実際には中学校(現在の高校)の在学者や卒業者も混じっていた。
因《ちな》みに十五名が合格した第一期生の応募者は全国で約二千五百名であつた。
卒業時には、成績優秀者一名(後年、生徒数増加に伴い数名となる)に教育総監賞として銀時計が授与された。
卒業と同時に電信連隊に配属され、伍長勤務上等兵(後に兵長)の階級が与えられ、大体一年で伍長に任官し、通信部隊の有力な戦力となった。
太平洋戦争の勃発《ぼっぱつ》と共に、通信部隊下士官の需要が急を告げ、生徒数の飛躍的増加が要請されたため、昭和十七年四月、それまでの生徒隊を陸軍通信學校から独立させることになり、生徒隊を昇格して「陸軍少年通信兵学校」が創設された。(ここに初めて公式に「少年通信兵」という呼称が用いられることになった)。
やがて東京都北多摩郡東村山町に新校舎の竣工《しゅんこう》をみたので十七年十月、第八期生及び第九期生がこれに移転し、さらに同年十二月第十期生七百二十名が入校した。因みに第十期生の応募数は約一万二千名であつた。
太平洋戦争の戦域拡大に伴い、益々増大する少年通信兵の需要に応じるため、十八年十月一日陸軍少年通信兵学校を発展的に解消して新たに東京陸軍少年通信兵学校と村松陸軍少年通信兵学校の二校が新設された。そして、東京少通校は従来の少通校の施設をそのまま継承し、初代校長に少通校校長だった末光元宏少将が任命された。また、村松少通校は新潟県中蒲原郡村松町の元歩兵第十六連隊第三大隊跡の兵舎を使用することになり、初代校長には高木正實大佐(後に少将)が新任された。
同年十二月一日、両校に夫々八百余名の第十一期生が入校した。この第十一期生は少年通信兵最後の卒業生になるが、戦局の急迫により二回に分けて繰上げ卒業し戦場に向かった。十九年六月、両校に各八百余名の第十二期生が入校し、翌年四月、村松少通校にのみ八百余名の第十三期生が入校したが十二期、十三期生は在校中に終戦を迎え、卒業に至らなかった。
このように、昭和八年、東京馬橋の地に呱々《ここ=うぶごえ》の声を挙げた陸軍少年通信兵は、春秋十二年、期を重ねること十三期、送り迎えた生徒数六千余名、四校に亘って必通の信念の伝統を受け継ぎ、至純至誠、ひたすら訓練にいそしみ、多くの同窓生が祖国の護りと散っていったが、図らずも祖国の敗戦に遭遇し、第十一期生を最後の卒業生として、昭和二十年、その熱気溢るる伝統に涙の終止符が打たれた。そして彼等の母校も夫々その光輝ある校史の頁を閉じた。
(昭五六 毎日新聞社刊 「陸軍少年兵」 収載)
次いで、その村松少通校の村松開校と、その後の経緯について、平成十七年、当時新潟県郷友会会長だった吉田富忠氏は機関誌 「郷友」 の中で軍都・村松の歴史とも絡めて、このように説明して居られます。
本書をお読み頂くに当たって皆様には、先ず「少年通信兵」とは何か、また、その少年兵を擁した村松陸軍少年通信兵学校(以下、「村松少通校」と略称します)が何故此処・村松に開設されるに至ったか、等についてご理解いただく必要があろうかと思います。
先ず、「少年通信兵」については、第一期生であり、村松少通校の区隊長でもあつた本川栄吉氏は、「我が国軍の歴史において、陸軍通信部隊が置かれたのは、明治十年の西南戦役の時、官軍の中に「軍用電信掛」が設けられたときである」前置きされたあと、こう述べています。
昭和八年、東京市杉並区馬橋の陸軍通信学校に生徒隊が新設され、生徒を全国から募集し、十二月一日、第一期生徒十五名の入校式が行われた。これら生徒は無線通信に従事する工兵科現役下士官になることを志願して募集試験に合格した者をもって宛てられ、その修業年限は概《おおむ》ね二年間であつた。
応募資格は満十五歳以上、十八歳未満で高等小学校(現在の中学校)卒業以上の学力を持つ者とされていたが実際には中学校(現在の高校)の在学者や卒業者も混じっていた。
因《ちな》みに十五名が合格した第一期生の応募者は全国で約二千五百名であつた。
卒業時には、成績優秀者一名(後年、生徒数増加に伴い数名となる)に教育総監賞として銀時計が授与された。
卒業と同時に電信連隊に配属され、伍長勤務上等兵(後に兵長)の階級が与えられ、大体一年で伍長に任官し、通信部隊の有力な戦力となった。
太平洋戦争の勃発《ぼっぱつ》と共に、通信部隊下士官の需要が急を告げ、生徒数の飛躍的増加が要請されたため、昭和十七年四月、それまでの生徒隊を陸軍通信學校から独立させることになり、生徒隊を昇格して「陸軍少年通信兵学校」が創設された。(ここに初めて公式に「少年通信兵」という呼称が用いられることになった)。
やがて東京都北多摩郡東村山町に新校舎の竣工《しゅんこう》をみたので十七年十月、第八期生及び第九期生がこれに移転し、さらに同年十二月第十期生七百二十名が入校した。因みに第十期生の応募数は約一万二千名であつた。
太平洋戦争の戦域拡大に伴い、益々増大する少年通信兵の需要に応じるため、十八年十月一日陸軍少年通信兵学校を発展的に解消して新たに東京陸軍少年通信兵学校と村松陸軍少年通信兵学校の二校が新設された。そして、東京少通校は従来の少通校の施設をそのまま継承し、初代校長に少通校校長だった末光元宏少将が任命された。また、村松少通校は新潟県中蒲原郡村松町の元歩兵第十六連隊第三大隊跡の兵舎を使用することになり、初代校長には高木正實大佐(後に少将)が新任された。
同年十二月一日、両校に夫々八百余名の第十一期生が入校した。この第十一期生は少年通信兵最後の卒業生になるが、戦局の急迫により二回に分けて繰上げ卒業し戦場に向かった。十九年六月、両校に各八百余名の第十二期生が入校し、翌年四月、村松少通校にのみ八百余名の第十三期生が入校したが十二期、十三期生は在校中に終戦を迎え、卒業に至らなかった。
このように、昭和八年、東京馬橋の地に呱々《ここ=うぶごえ》の声を挙げた陸軍少年通信兵は、春秋十二年、期を重ねること十三期、送り迎えた生徒数六千余名、四校に亘って必通の信念の伝統を受け継ぎ、至純至誠、ひたすら訓練にいそしみ、多くの同窓生が祖国の護りと散っていったが、図らずも祖国の敗戦に遭遇し、第十一期生を最後の卒業生として、昭和二十年、その熱気溢るる伝統に涙の終止符が打たれた。そして彼等の母校も夫々その光輝ある校史の頁を閉じた。
(昭五六 毎日新聞社刊 「陸軍少年兵」 収載)
次いで、その村松少通校の村松開校と、その後の経緯について、平成十七年、当時新潟県郷友会会長だった吉田富忠氏は機関誌 「郷友」 の中で軍都・村松の歴史とも絡めて、このように説明して居られます。
--
編集者 (代理投稿)