@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

疎開児童から21世紀への伝言

  • このフォーラムに新しいトピックを立てることはできません
  • このフォーラムではゲスト投稿が禁止されています

投稿ツリー


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2010/4/20 9:43
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 はじめに

 スタッフより
 
 「疎開児童から21世紀への伝言」よりの転載です。

 なお、転載につきましては、疎開問題研究会 事務局長 小柴俊雄様 の了解を得ております。

    ---------------------------------------------------------

 文集 疎開学童から飢世紀への伝言 目次

 刊行に寄せて----------------------------------------代表世話人・ゆりはじめ
 幸せとは--------------------------------------------藤原 里子
 心の痕-「いじめ」・レクイエム「ある少女の面影」-------------青木平衛
 仮想ブログ「太郎伝説]---------------------------------清野登代松
 『横浜市の学童疎開』と超満員の被爆体験講演会------------鈴木 昭三
 戦争の恐怖二題--------------------------------------菊地  章
 六十三年も前のことなのだけれど-------------------------植田 総子
 集団疎開での主な出来事-------------------------------吉岡 重昭
 疎開地で出会い黙って消えた戦傷病兵に思う----------------野本  洋
 ジオラマ外箱作り--------------------------------------田中 米昭
 疎開・空襲・空腹を乗り越えて----------------------------大石 俊雄
 挽歌-----------------------------------------------大類 幸恵
 心のささえ-------------------------------------------井関芙美代
 疎開問題あれこれ-------------------------------------滝口 康雄
 横浜大空襲------------------------------------------鈴木 知明
 「語り部」を通して--------------------------------------川田 敦子
 戦史と疎開問題研究会の感慨----------------------------元木 恒雄
 戦争への思い-日中戦争で父を亡くして--------------------佐藤 輝子
 友との絆---------------------------------------------福原 弘子
 ジオラマ始末記----------------------------------------山添 孝子
 疎開地での回想と近頃思うこと----------------------------関口 昌弘
 疎開残留組の全体像-----------------------------------宮原 昭夫
 途中退場の君へ---------------------------------------ゆりはじめ
 奈良屋の思い出---------------------------------------伊波新之助
 戦争が残したもの--------------------------------------小堀 初枝
 葛野重雄氏旧蔵資料のことなど---------------------------小柴 俊雄
 昭和二十年疎開地図こぼればなし-------------------------磯貝 真子
 小さな履歴書------------------------------------------大石 規子

 あとがき…………………………………………………………ゆりはじめ
                                      小柴 俊雄
                                      大石 規子

    挿絵…………………………………………………………岡本 陽



 疎開問題研究会・十五周年

 記念文集刊行に寄せて

  ゆりはじめ (老松校)

 まずは十五周年の記念催事が盛会のうちに無事終わることができて、まことにおめでとうございました。それぞれのパートで尽力してくださり、おかげさまで多くの市民の皆さんの来場を得て、ジャーナリズムの反響もまずまずの事でありました。
 戦後六十年を超える歳月がながれている平和な杜会で、われわれの活動が極めて特徴的なものであることは言うまでもありません。市民活動を通じて戦争の悲惨さと平和の大切さを、しかも長い間真剣にヴォランティアとして訴え続けて来たことが、市民の皆さんに理解されていると実感したことでありました。
 思えば十五年間は長い時間の蓄積でありました。過ぎてしまえばそうは感じないがその時々で、一つの目的のために仲間が集中して過ごす時間は、生涯のなかでも鮮明に残るものであることは ご存じの通りです。この十五年は世代的に同一の世話人の皆さんと一緒に「学童疎開」の事実を共通の意識に持ちつつ、横浜市中央図書館、神奈川県地球プラザ、そして有隣堂ギャラリーでの例年の催しや、教育委員会とタイアップした『横浜市の学童疎開』の刊行、各地での講演、小学校での「語りべ」の活動と、次々に足跡を刻んできたということが出来ましよう。それが結果的には戦後の時間に連続している平和の大切さをアピールしている事になっていて、市民の皆さんの共感を呼んでいるのでしょう。
 思い起こすと一九九三(平成五)年の確か四月二目の土曜日であったと思います。話は山手のスィドモア桜の会で世話人となる小柴俊雄氏・神里公氏と、私ゆりはじめが同じテーブルに着いたことから始まりました。それ以前に多少の知り合いではあったが、疎開の会の立ち上げを意識したのはその時が最初で、そのころは「いつか疎開の会をやろうね」と語り合っていた程度でしたが。
 要するに一九九三年の春のその会合は天啓であったのです。手探りで船出した「横浜疎開丸」は財政の裏付け、組織の確立と拡充、関係自治体への呼びかけなどなどの行動に移りました。その間の充実感と実現の過程は、次第に増加する世話人たちに、皆が戦後ずっと待ち望んで久しかったのは「学童疎開」探究ということだったのだということが改めて実感できるのでした。一九九五年が疎開五十周年。そこに焦点を合わせての一年余りの時間でした。

 催事が終わって難物の『横浜市の学童疎開』の刊行。市の理解のある態度で予算がほぼ希望どおりについた時には歓喜でした。そして教育委員会の橋渡しを買って出てくれた梶田さんにはまことに感謝に耐えない。印象的なのはその出版記念会を市長公舎の広間で催し、市長自らも出席をしてくれたことが誇らしい。他の自治体では決して出来ない心の交流までも実現したことを忘れてはならないだろう。そして十年後、想定外の「ヨコハマ遊大賞」 の受賞という栄誉が訪れた。

 一区切りが終りました。いずれにせよ、それぞれの人生の後半の時間帯に出会い、力を合わせて疎開の体験を歴史に刻んだということを共有して、今後も元気で過ごして行きたいと考えます。ご協力たまわった関係機関の皆様やその都度の寄付金に応じてくださった方々、そして会員、世話人の皆さん各局面で御協力下さって心から
の感謝を申し上げます。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/4/21 7:28
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 幸せとは

  -戦争を知らない人たちへ-

   藤原里子(栗田谷校)


  空を見上げる。
  澄みわたった青空に白い飛行機雲ひと筋。
  空から鉄の筒は落ちてこない。火焔は吹き上がらない。それがどんなに幸せなことか。
  六十四年前、日本国民は戦禍の真っただ中にいた。国土は焼かれ、
  多くの命が失われた。筆舌に尽くし難い凄まじい惨状にさらされた。

  一九三七年生まれ、終戦時、国民学校(小学校) 三年生の私の戦時体験も過酷なものだった。学童とは名ばかりで勉強どころではなく、いつも身近に 「死」があった。「死」が身近にあるということは、家族や友だち、自分自身の命の、ほんの僅か先の予測さえ全くつかないということである。

 いつの時代でも、その時代なりの不平、不満はあるであろう。
 しかし、少し視点を変え、想いを変えれば、戦争のない時世に生きられる幸せに気づくだろう。
 いったん戦争が起きれば、かけがえのない命が失われる。命の大切さ、平和のありがたさを、絶えず心に留めておいてほしい。
 自分がされて嫌なこと、決してしなければいい。

  ----------------------------------------------------------


 傷だらけの写真

  幾筋もの皺の入った写真
  父の招集 入隊
  わたしの学童疎開
  今生の別れを覚悟しての家族写真
  軍服姿の父 着物にモンペの母
  セーラー服にモンペのわたし 母の膝に幼い弟
  家族 四人
  横浜 山北 広島 三方に別れた
  敗戦 多くのものを失った
  わたしの手元に 疎開荷物の行李ひとつ 布団一組
  家族の証 母の持たせてくれた写真一葉
  この中にだけ 幼い日のわたしがいる

  霧散消滅するかもしれなかった家族
  辛うじて 生き延びた わたしたち
  安否わからぬ 友 想い
  悲しい記憶 甦る 八月


 失いたくないのは

  空から鉄の筒が降ってくる
  一つでも怖いのに 数知れず
  いちどに無くなる 何もかも
  親も きょうだいも 友だちも
  家も 食糧も 自分さえも
  平和で のどかな 飛行機雲
  けれど 今でも怖い 空の音
  首をすくめて 見上げる空
  落ちてきそうな 焼夷弾
  破滅の雨は もう降らせないで

  陽の光 静かな雨だけ降るといい
  やさしい まなざし 注ぐといい
  きっと気づいているはず あなたなら
  失いたくないのは 何なのか
  大切なものは 何なのか


 空

  逃げ惑う人々の頭上に
  火を噴く鉄の筒 空から無数に落下する
  そんな時代が かって あった


 敗戦の夏

  日陰ひとつない焼け野原に涙した少女には
  二十一世紀の日本の空は恵みのベール
  紺碧の空 白線描く飛行機雲
  桜 銀杏 けやき並木に降り注ぐ陽光と雨
  ときに柔らかく ときには激しく

  今はない 空を覆う爆撃機
  人間を 家を 街を 山野を
  焼き尽くす鉄の筒は もう降らない

  あの時の少女に
  これ以上の何の望みがあろう
  日本の空に 世界の空に


 戦争を知らない人たちへ

  戦禍を受けた 少年少女
  いつまでも消えない 心の傷
  陽気に遊ぶ時でさえ
  心の底から 笑えない
  どこかに 不安を抱えてる
  助けも出来ず 助けも受けず
  みんな生きるに 精いっぱい
  戦中戦後の 苦しい日々は
  二度とイヤだと 言ってみても
  体験のない人には わからない

  けれど お願い これだけは
  戦争だけは 起こさないで
  命落とすのも 孤児となるのも
  今度は あなたたち あなたの子どもたち
  戦争だけは 起こさないで!


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/5/3 7:47
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 心の庇 -「いじめ」

  青木平衡(一本松校)

 『横浜市の学童疎開』の体験記に書いた「いじめ」は、わたしの人生はじめての辛くて厳しい経験だったが、その屈辱の体験が今のわたしの負けず嫌いの性格を作ってきたのではないかと思う。

 当時六年生だったわたしは昭和二十年二月、中学受験のために集団疎開先の湯河原から横浜の自宅に帰って来た。希望の中学に合格したわたしは、学業に取り組むかたわら、軍事教練、援農(人手不足の農家に泊り込みで田植え、麦刈りなど泊り込みで手伝いに行く) など新しい環境に慣れるのに精一杯で疎開の出来事を思い起こすこともなかった。

 わたしをいじめたWも同じ中学に入学したが、戦時下の少年には疎開の頃の話など、とうの昔に忘れ去り、身体を鍛え勉学に励み一日も早く立派な帝国軍人になることを目標に頑張っていた毎日だった。

 そして昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲に会う。学校も家も焼かれ、その焼け跡整理で碌に勉強もしないまま八月十五日の終戦を迎えるにいたった。

 敗戦後の混乱の中では、生きることに精一杯だったし、戦争のない自由な時代で青春を謳歌していたわたしには、仕返しなんていうつまらない気持ちはとうに消え去っていた。

 同じ学校に入ったWも、あまり親しい友達も作れなかったのか、ラグビー部に入ったり、草野球に熱中したり、多くの友人に囲まれたわたしに怖れをなしたのか、全く近づいてこない。それどころか中途退学してしまった。


 それから四十年近くたったある年。久しぶりに小学校の同期会に顔を出した時のことだった。学童疎開をしていたときの小学校の分団長のS先生 (当時、副校長が疎開団の分団長であった) のご子息が参加していた。お世話になった先生を同期会にお呼びするのは当然だが、息子が代りに出席するというのはあまり例がない。不審に思ったが、父親が体調を崩されたので代理出席したのだというので、さして気にせずに親しい仲間と楽しい時間を過ごしていた。

 会の終りがけに幹事が声を掛けて来た。先生のご子息がわたしに話があるので待っていてくれというのだ。何事か分らぬままに、一緒に近くの喫茶店に入って話を聞いた。

 ご子息の話では、今度の同期会の案内を見たS先生が、青木さんが来るなら、どうしても席して、疎開時代に辛い思いをさせてしまった青木に詫びたいと言い出したが、体調が優れずどうしても出席できない。代りに出席してお詫びして来いといわれたので、幹事に無理を言って臨時参加させてもらったのだという。

 S先生のご子息も一年下で同じ学童疎開に来ていた。寮母として来ていたWのお母さんが、分団長の子どもの面倒を見たのも不思議ではない。そんな関係もあってS先生がわたしがWにいじめられているのをうすうす知りながら、何も言わなかったことを恥じていられるという。

 戦後もS先生とWの家族との付き合いは続いていて、Wの近況も知っていた。Wは神経を病んで廃人同様の生活をしているらしい。今更、そのようなことを聞いても、どうという感慨も無い。あの時はあの時だ。今、Wが病んでいようと元気でいようとわたしには何も関係はない。わざわざご子息が同期会に見えてお詫びの言葉を伝えていただいても、何か白けた感じしかなかった。

 それでご安心されたわけではないだろうが、わずか二年後、S先生の計報が届いた。平塚のご自宅近くの斎場の通夜の席に参列、何も恨んでいませんとお伝えしたが、Wの姿はなかった。

 あのようなことを経験したお蔭で、今のわたしがある。「どんなにいじめられても、どんなに辛くてもやりもしないことをやったと言ってはいけない。言ってしまった途端に、それが事実になる。」という教訓を得たことで十分だ。


 それから十数年たったある日。姉が家にきた。前日に姉の友人が訪ねてきて、彼女の弟のS君が病に倒れて、明日をも知れぬ状態にあるそうだ。Sはわたしの小学校の友人で、年に一度の同期会でよく顔を会わす仲だった。

 そのSが顔を見せなくなったので気にはなっていたのだが、Sのお姉さんの話では病床のSが苦しい息で「青木君に悪かった。青木君に謝りたい」と繰り返しいっているが、きっと疎開の時の「いじめ」のことに違いない。今Sはとても青木君に会える状態ではないのでわたしが青木君のお姉さんに会って様子を聞いてくると言って、姉に会いに来たのだそうだ。

 それを聞いて驚いた。Sは大柄だが気の優しい男の子だった。姉同士が同じ学年だったこともあり、親しみを感じていた。たまたま疎開の宿で同じ部屋に入ったが、Sからいじめられた記憶はない。ここ数年参加している同期会の席上でも,楽しく語り合うほどの仲なのに、そのSが病床で、何故、青木に悪い、すまないとうわごとの様につぶやくのか分らない。疎開先でいじめにあって、辛い思いをしいたことはあったが、Sからいじめられた記憶はないし恨みも持っていないと伝えてくれるよう姉に話しておく。

 S先生にしてもSにしても、わたしのほうですっかり忘れてしまった「いじめ」を心にかかえて生きてこられたのは何故なのだろう。

 S先生の場合は学童疎開の責任者として、一生徒の父母との関係から、その行為を見過ごした責任が心の負担となったと理解できるが、Sの心には何があるのだろうか?

 自分の友達がいじめられているのを見ながら、ボスのWが怖くて何も出来ず、わたしがやられるままにしておいたことが、心の痕になっていたのかもしれない。

 戦争末期の学童集団疎開の密室の中で繰り広げられた異常な出来事は、いじめたWいじめられたわたしだけでなく、それを見逃したS先生と、同じ部屋でいじめられているわたしを助けることも出来ず、見て見ぬ振りをしてしまったSの心に大きな痕(トラウマ 〔精神的外傷〕)を残していたのだ。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/5/6 6:14
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 レクイエム 「ある少女の面影」

   青木平衡(一本松校)

  昭和二十年五月二十九日 午前九時
  響き渡る空襲警報
  わずか一時間の無差別爆撃で
  横浜の街は燃え尽きた

  降りしきる焼夷弾の雨
  わたしは年老いた祖母の手を引いて走った
  紅蓮の炎 真っ黒な煙
  右も左も 逃げ場はない
  丘に行け! そんな声が聞こえた
  見上げる丘に向かって走る人々
  祖母には無理だ
  祖母をかかえて 近くの横穴壕に飛び込んだ
  それが生死の分かれ目だった

  暗闇の中
  時は止まった
  永劫の時が過ぎて壕を出る
  そこは一面の焼け野原
  ただただ 灰色
  モノクロの世界

  動員先から馳せ戻った姉が
  灰色の中から現れた
  無我夢中で帰ってきたのか
  まわりの様子にも気づかない
  祖母と ひしと抱きあった
  安堵と喜びのシーンの横に
  真っ黒な焼死体が折重なっている

  傍らに跪いている一人の娘
  髪は焼け 火傷に覆われた顔
  隣の家のお姉さんだ

  声をかけても返事はない
  その視線の先の黒焦げの死体
  焼けた運動靴に少女の名前が
  くっきりと残っていた
  握り締めた彼女の指先が震えていた

  少女はわたしより一つ歳上
  笑顔の奇麗な人だった
  幼いわたしの最初の冒険
  お泊りをしたのが隣の家だった
  夜遅くまでしゃべりあっていて
  叱られたことを思い出す
  わたしも焼け焦げた死体を
  ただ見つめていた

  その三ケ月後に戦は終わり
  六十有余の年月が流れた

  今は 少女のことを知る人はいない
  ただ私の心の中だけで生きている
  何のけがれもないあの笑顔
  そして無残に焼けた運動靴が
  いつまでもいつまでも残っている
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/5/23 7:24
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

仮想ブログ「太郎伝説」・その1

 清野登代松(西潮田校)


太郎ブログ開設のご挨拶

 このたび「太郎伝説」という名のブログを開設しました
 管理人は僕即ちブログネーム太郎です
 国民学校四年生 学童疎開中の報告が主なテーマです
 現在の日付は昭和十九年(一九四五年)八月上旬です
 六十五年後の僕即ちブログネーム一郎さんの書き込みをお待ちします


一郎から太郎へ 「ブログ開設おめでとう」

 お前の時代はブログなんてサービスはなかったからね
 存在しないシステムでは検閲なんて出来ないから何を書いても大丈夫だよ


太郎から一郎へ 「いざ入村」

 今日 疎開地に到着しました
 御殿場線の松田駅から徒歩で足柄上郡清水村の清水国民学校に着きました
 校庭では村人が ふかしたサツマイモをふるまってくれました
 僕たちの疎開方式は全国でも非常に珍しい各戸分宿方式といい
 あえて敵性言語で表せば「ホームステイ」方式です
 校庭で僕の受け入れ家庭は用沢という部落にある農家に決まりました
 ここに宿泊して徒歩二十分ほど離れた学校に通学します
 清水村には部落が十三箇所ほどありますが各部落とも個数十戸程度の小さな部落です
 用沢は比較的学校から近い方で遠い部落は四㌔程度の道のりを通学します
 鶴見では隣接学校との距離は一キロあるかないかですから五百㍍も歩けば学校に行けます
 それ以上歩いたら隣の学区です 通学は土地の子供と一緒です
 宿泊先は茅葺屋根の農家でした 建具は雨戸と障子と板ですから閉めると暗いです
 入口を入ると土間 ここに竃と石臼があり火を使うと煙がこもります
 この煙は江戸時代の時代劇に出てくる無双窓を開いて 逃がします
 無双窓とは「水戸黄門」のかげろうお銀が入浴したとき 覗かれた窓のことです
 理論的には全開しても五十パーセントしか開きません
 ガラスを使った建具は皆無です
 この家に初めて着いたとき家人が出迎えてくれました
 家族構成はお婆さんとその娘であるおかみさん
 高二の長男 小六の長女 小三の次男 小二の三女 五歳の四女 三歳の五女
 お婆さんの連れ合いのお爺さん 合計十人の大家族です
 僕を迎えた家人の目には歓迎の色は読み取れませんでした
 中でも小三の次男はクセモノで ことあるごとに僕をいじめました
 年下でも僕より体格が大きく敵いません
 僕がおかみさんと一言口利いただけでクセモノの表情はみるみる険しくなります
 僕はおかみさんを独占しようなんて毛頭考えていないのですが
 勢い僕は無口になります その後が大変です 次男の報復が始まります
 食事中 隣に座って僕の体を折るのです
 この家のご主人は兵役についていて家には居ません
 東京の麻布ナントカ連隊に駐屯しています
 家族はときどき面会に行きます
 そのときは お饅頭など作って持って行くのです
 僕はご主人になんの興味もありませんが
 このお饅頭だけは楽しみでした

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/5/25 8:21
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

仮想ブログ「太郎伝説」・その2

 清野登代松(西潮田校)


一郎から太郎へ 「いじめ」

 いじめられたら仕方ないよ 忘れることだな
 尤も 忘れるのはいじめた方で
 いじめられた方は墓場まで覚えているもんだけど
 いじめた方だって悲しかったんだよ


太郎から一郎へ 「戦争には勝てるのか」

 質問します 新聞もラジオも先生も「この戦争は必ず勝つ」と言っていますが
 本当でしょうか信じられません 未来から教えてください


一郎から太郎へ 「戦争の結末」

 本当のことを言おうこの戦争は負ける その時期は来年八月だ
 陸軍も海軍も戦うだけの力はもう残ってないんだ


太郎から一郎へ 「アンコロ餅」

 年の暮れ受け入れ先でお餅を搗いてくれました
 アンコをからめたアンコロ餅を作ってくれました
 あんまり美味しかったのでその感激を翌日学校で作文に書きました
 「清野君はアンコが好きなのね」と先生のコメント
 好きか嫌いかの問題ではないのです
 なにしろ砂糖が不足しています
 子供たちは甘いものに飢えているのです


太郎から-部へ「ウサギ昇天」

 ある日土地の子供がめいめいにウサギを抱いて登校してきました
 さすが農家の子供は動物好きだと関心しましたが
 それが全く的外れなことは下校時に判りました
 校門の前に何やら人だかり
 何と衆人環視の中でウサギを殺していたのです
 耳で吊るしてハンマーで一撃
 ウサギの赤い目はみるみる灰色に変わります
 後ろ足で逆さに吊るして ノドを掻き切り 血を抜きます
 このために辺りに漂う血脹さつたらありやしません
 殺したウサギはすぐに皮を剥いで肉と皮を別々に積み重ねます
 ウワサではこの皮は航空兵の防寒着に使うのだとか
 日本の軍用機は与圧とか暖房が貧弱なので 無いそうだから
 富士山より高い上空数千㍍だと さぞ寒いんでしょう
 将来何も食べるものがなかったら ウサギを食べましょう
 そのときこの情景は役に立つかもしれません


一郎から太郎へ 「ウサギの続き」

 日本人は魚を捌くのは得意だけど
 四つ足の動物を殺すのは不得意だから 役に立つかもしれないね
 中国に派遣された日本兵が 現地人から生きた豚をもらって
 食べるのにすごく苦労したという話を聞いたことがある
 ところで大量のウサギの血は何に使うのだろう
 当たっていないかもしれないが
 乾かして鶏のエサに混ぜると色の濃い黄味のタマゴを生むらしい
 肉はソーセージにでもして戦地の兵隊さんに送るのかも
 このようなことウサギに話したら
 「俺の目の赤いうちはそんな勝手なまねはさせねえ」と
 すごまれました

 
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/5/27 8:23
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

仮想ブログ「太郎伝説」・その3

 清野登代松(西潮田校)


太郎から一郎へ 「甘いものの不足」

 疎開する前にお菓子屋がみんな店を閉めたので 町はさびしい限り
 甘いものといえば乾燥バナナくらいのもの
 南方でバナナの皮をむいて乾燥した食べ物です
 色は真っ黒で衛生状態の悪いところで干したのでしょう
 中からウジが出たりしていました


一郎から太郎へ 「茅葺屋根の葺き替え」

 秋も深まったころ部落のとある農家で屋根の葺き替え工事をしました
 部落全員が集まって作業します 見知らぬおじさんが何人もきました
 茅は川向こうの山から川越しに張った鉄線で滑らして下ろします
 子供たちは茅の束を工事中の家まで運びます
 茅は乾燥していて軽いのですが 葉の縁はカミソリみたいに切れるのです
 子供たちは手に切り傷を負って血だらけになって手伝います
 軍手なんて気の利いたものはありません


太郎から一郎へ 「お手伝いの駄賃」
 
 工事手伝いの謝礼の意味もあったのか その家に夕飯を呼ばれました
 久しぶりの白いご飯にキンビラゴボウと味噌汁
 この食事すごく美味しかったです
 僕の最後の晩餐のメニューはこれで決まりです


一郎から太郎へ 「もういくつ寝るとお正月」

 もうすぐ正月だ お前には五円預けた貯金通帳を持たせてある
 半分くらい下ろして正月の小遣いにしろ
 受け入れ先からは小遣いはもらえない
 多分 町場にでかけることもあるだろう 無一文では寂しいからね


太郎から一郎へ 「独楽とドンド焼き」

 正月に家人たちは山北へ遊びに出かけ 玩具の独楽を買ってきました
 この独楽は直径十㌢ほどの木製のもので紐でまわして喧嘩します
 ぶつけられて割れたら負けです
 鶴見で遊んだベイゴマほど精緻な独楽ではありません
 またベイゴマほど回転の息が長くはありません
 なにしろ地べたでまわすので摩擦が大きいのです
 この地方では凧を揚げる風習はありません
 正月の男の子の遊びといえばこの独楽だけです
 楽しみといえばドンド焼きがあります
 これは生竹を直径一㍍ほどの束にして立てて
 中に枯れた木をつめて燃やすのです
 途中まで燃えると竹の束は倒れます
 枯れ木の燃えたオキで持ってきたお米の粉の団子を
 木の枝に刺して火にかざして焼きます
 数個のお団子は一つだけ子供が食べて残りは家に持ち帰ります
 家人はこの残りを食べて一年の無病息災を願うのです
 そんなしきたりを知らない僕は全部食べてしまいました
 家に帰ったらコッテリとイヤミを言われました
 そんなことなら初めから教えてくれればよかったのに
 疎開児はドンド焼きの経験なんてないんだから仕方ないよ


一郎から太郎へ 「ドンド焼きのお団子」

 それは災難だったね
 戦争中は何でも依らしむべしシラシムベカラズだからね
 済んだことは仕方ないから来年もう一度機会があったら
 気をつければいいさ
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/5/29 7:22
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

仮想ブログ「太郎伝説」・その4

 清野登代松(西潮田校)


一郎から太郎へ 「弟のこと」

 弟の輝雄は病死した
 年寄りっこでひ弱な上に医者も薬も不自由だったしね
 生まれてからずっと下痢していたものね
 疎開前に輝雄の固いウンチ見たことなかった
 末っ子のお前は輝雄から「お兄さん」と呼ばれるのを楽しみにしていたのに
 叶わなかったね


太郎から一郎へ 「稲刈り」

 刈り入れの時期です一家総出で稲の刈り入れをしました
 横濱の学校から学生が二人勤労奉仕に泊り込みで来ました
 仕事は脱穀と運搬
 若い彼らにとってもこの仕事は相当にコタエたらしく結構疲れたみたいです
 僕は夜 勉強を教えてもらいました
 彼らは良く食べました 僕たち居候と違って客人ですから
 ふかしたサツマイモを囲炉裏で焼いたのとか
 僕にはくれないものが振舞われていました
 お風呂は一緒でしたが どだい処遇が違います


一郎から太郎へ 「勤労奉仕の学生」

 二人居たうちの一人は 将来お前が就職する会社で
 偶然お前の上司になる人物だ 名前を覚えておけ
 名前は彼が持つ手拭いに墨で書いてある
 ここで書いてもいいが個人名は書きたくないので書かない


太郎から一郎へ 「米の収穫量」

 収穫した米は縁側に積み上げられた
 俵の数で三十俵一俵六十㌔として一、八トン
 籾殻やヌカを抜くと八割くらいになるとして一日あたりの量にすると
 一四四〇㌘ これ升目にすると一升くらい
 これのすべてが保有米になるわけではないこの中から供出という年貢を差し引く
 一升のご飯を十人で三食食べるのでは不足である
 この農家は収穫量が絶対的に不足しているのだ
 だからご飯に高梁、豆、芋などを混ぜるのです
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/6/3 7:54
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

仮想ブログ「太郎伝説」・その5

 清野登代松(西潮田校)


 太郎から一郎へ 「縁故疎開」

 新学期になるころ鶴見の家族は父の郷里に縁故疎開することになりました
 父が鉄道員のため家財道具一式を十五トン貨車に積み込み 運びました
 ヌカミソの甕も運んだのですが 上に炭俵を載せたため
 炭の粉が甕に入って ヌカドコが真っ黒になりました
 ダイコンがナスのように黒く染まるほどでした
 これぞまさにヌカヅケカルボナーラです
 郷里は福島県安達郡熱海町熱海の名の通り温泉町です
 町といっても鄙びたところで 温泉宿はいくつかありますが
 みんな東京日暮里第ナントカ国民学校の表札がかかっています
 町には公衆浴場みたいな温泉場が二軒あります
 温泉から遠いせいか湯は極めてぬるいです
 町の学校熱海国民学校に転入手続きをしました
 この学校は一学年一クラスで 毎朝講堂で朝礼します
 講堂のステージにはアップライトピアノがありました
 この学校には校歌があります
 歌詞を抜粋すると
 「わが高玉の小学の(この辺りは昔高玉という地名だったようです)」
 で始まり途中「五百川清しソウソウと 流れ流れて大海に」
 この部分のメロディは「ララソドミソラソファミレド」です
 地元の子供は東北誹りでタイカイニをタエカエニと歌います
 僕はタイカイニと発音できるけど ここで正しく発音しても
 無用の摩擦を起こすのでわざと「タエカエニ」と歌っています
 ーヒトツ疎開児は気遣いを本分トスへシー


太郎からl郎へ 「夏休みの宿題」

 夏休みに宿題が出されました
 「桑の木の皮を集めろ」「歴代天皇の名前を全部暗誦しろ」
 疎開児には木の皮を集めることは無理ですから 天皇の名前を選ぶしかありません
 僕は必死になって覚えました初代から三十代までを抜粋しますと
  ①神武(ジンム) ②綏靖(スイゼイ) ③安寧(アンネイ)④威徳(イトク)
  ⑤孝昭(コウショウ) ⑥孝安(コウアン) ⑦孝霊(コウレイ) ⑧孝元(コウゲン)
  ⑨開化(カイカ) ⑩崇神(スジン) ⑪垂仁(スイニン)⑫景行(ケイコウ) ⑬成務(セイム)
  ⑭仲哀(チユウアイ) ⑮応神(オウジン) ⑯仁徳(ニントク) ⑰履中(リチユウ) 
  ⑱反正(バンゼイ) ⑲允恭(インギョウ)⑳安康(アンコウ) (21)雄略(ユウリヤク)
  (22)清寧(セイネイ) (23)顕宗(ケンゾウ) (24)仁賢(ニンケン) (25)武烈(プレツ) 
  (26)継体(ケイタイ) (27)安閑(アンカン) (28)宣化(センカ) 
  (29)欽明(キンメイ) (31)敏達(ビダツ)  (32)用明(ヨウメイ)


太郎から一郎へ 「海軍の疎開」

 町のウワサは正しい
 日本海軍は船も油も無いのだ おまけに東京湾は機雷封鎖されていた
 海軍は身動きが取れないのだ
 おまけにしかもアメリカは日本が負けることを読んでいて
 東京湾の封鎖機雷は八月十五日には信管が解除されるよう設定されていたという


太郎から一郎へ 「竹ヤリ教練」

 六年生になると竹ヤリ教練があります
 校庭で竹ヤリで人を突く訓練です
 先生は敵が落下傘で降りてきたら 竹ヤリで突き殺せと言います
 これって意味があるのでしょうか


一郎から太郎へ 「竹ヤリ訓練の効果」

 みんな思い違いしているよ
 敵が武器を持たずに降下してくるなんてことはあり得ないよ
 機関銃、手榴弾、火焔放射器で重装備して降りてくる
 そんな完全装備した軍隊に竹ヤリで向かっても所詮は蟷螂の斧というものよ

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/6/5 7:56
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 仮想ブログ「太郎伝説」・その5

 清野登代松(西潮田校)


 太郎から一郎へ 「終戦」

  八月十五日のお昼ごろ学級担任から近くの神社に集まれと伝令が飛ぶ
  先生を真ん中に円陣を組み先生の話を聞きました
  「日本はこの戦争に負けてしまった悔しい話だ」と
  涙ながらに話すと 級友の一人がもらい泣きしていました
  僕は悲しいよりむしろ先行き不安のことが心配で泣くどころではありませんでした
  ただ歴代天皇の暗誦からは解放されたと思いました


 一郎から太郎へ 「海軍さんの疎開」

  海軍さんは正に陸に上がった河童だ


 太郎から一郎へ 「松根油」

  石油がない日本は代替燃料として松根油を開発しようとした
  通学路にそれらしい工場があり 入口には松の切り株が積まれています
  でも製品を運び出すところを見ることはありませんでした


 一郎から太郎へ 「松根油」

  松根油の開発は失敗したのだろう 大体植物油というのは繊維が多く固まりやすくて
  エンジンには使いにくいものなのだ
  そんな燃料で空中戦なんか出来ないよ


 太郎から一郎へ 「帰浜」

  十一月 貨車の手配が出来たので 鶴見に帰るときが来た
  満員の東北本線の夜行列車で鶴見に着いた 駅前は焼け野原
  鶴見の家は幸運にも焼けなかった
  その代わり見ず知らずの焼け出され一家がころがりこんで生活している
  このことについて記述するとさらにページが増えるので省略する
  京浜国道を米軍のトラックが唸りをあげて疾走する
  トラックの大きさとそのスピードから国道を貨物列車が走っているのかと見まごう
  その機動力を目の辺りに見たとき
  こんな国と戦争したのかと負けたことに納得する
  片や日本ではゼロ戦の機体を荷馬車で運んだというのに


 太郎から一郎へ 「ブログ閉鎖しますよー」

  疎開が終わったのでこのブログは閉鎖します
  一郎さんたくさんの書き込み有難うございました


 後記

  ブログの何たるかを知らない方にとって、この文はイメージしにくいだろう。
  だが、くれぐれも仮想と仮装を混同しないように。
  条件検索へ