疎開児童から21世紀への伝言 3
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編集者
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心の庇 -「いじめ」
青木平衡(一本松校)
『横浜市の学童疎開』の体験記に書いた「いじめ」は、わたしの人生はじめての辛くて厳しい経験だったが、その屈辱の体験が今のわたしの負けず嫌いの性格を作ってきたのではないかと思う。
当時六年生だったわたしは昭和二十年二月、中学受験のために集団疎開先の湯河原から横浜の自宅に帰って来た。希望の中学に合格したわたしは、学業に取り組むかたわら、軍事教練、援農(人手不足の農家に泊り込みで田植え、麦刈りなど泊り込みで手伝いに行く) など新しい環境に慣れるのに精一杯で疎開の出来事を思い起こすこともなかった。
わたしをいじめたWも同じ中学に入学したが、戦時下の少年には疎開の頃の話など、とうの昔に忘れ去り、身体を鍛え勉学に励み一日も早く立派な帝国軍人になることを目標に頑張っていた毎日だった。
そして昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲に会う。学校も家も焼かれ、その焼け跡整理で碌に勉強もしないまま八月十五日の終戦を迎えるにいたった。
敗戦後の混乱の中では、生きることに精一杯だったし、戦争のない自由な時代で青春を謳歌していたわたしには、仕返しなんていうつまらない気持ちはとうに消え去っていた。
同じ学校に入ったWも、あまり親しい友達も作れなかったのか、ラグビー部に入ったり、草野球に熱中したり、多くの友人に囲まれたわたしに怖れをなしたのか、全く近づいてこない。それどころか中途退学してしまった。
それから四十年近くたったある年。久しぶりに小学校の同期会に顔を出した時のことだった。学童疎開をしていたときの小学校の分団長のS先生 (当時、副校長が疎開団の分団長であった) のご子息が参加していた。お世話になった先生を同期会にお呼びするのは当然だが、息子が代りに出席するというのはあまり例がない。不審に思ったが、父親が体調を崩されたので代理出席したのだというので、さして気にせずに親しい仲間と楽しい時間を過ごしていた。
会の終りがけに幹事が声を掛けて来た。先生のご子息がわたしに話があるので待っていてくれというのだ。何事か分らぬままに、一緒に近くの喫茶店に入って話を聞いた。
ご子息の話では、今度の同期会の案内を見たS先生が、青木さんが来るなら、どうしても席して、疎開時代に辛い思いをさせてしまった青木に詫びたいと言い出したが、体調が優れずどうしても出席できない。代りに出席してお詫びして来いといわれたので、幹事に無理を言って臨時参加させてもらったのだという。
S先生のご子息も一年下で同じ学童疎開に来ていた。寮母として来ていたWのお母さんが、分団長の子どもの面倒を見たのも不思議ではない。そんな関係もあってS先生がわたしがWにいじめられているのをうすうす知りながら、何も言わなかったことを恥じていられるという。
戦後もS先生とWの家族との付き合いは続いていて、Wの近況も知っていた。Wは神経を病んで廃人同様の生活をしているらしい。今更、そのようなことを聞いても、どうという感慨も無い。あの時はあの時だ。今、Wが病んでいようと元気でいようとわたしには何も関係はない。わざわざご子息が同期会に見えてお詫びの言葉を伝えていただいても、何か白けた感じしかなかった。
それでご安心されたわけではないだろうが、わずか二年後、S先生の計報が届いた。平塚のご自宅近くの斎場の通夜の席に参列、何も恨んでいませんとお伝えしたが、Wの姿はなかった。
あのようなことを経験したお蔭で、今のわたしがある。「どんなにいじめられても、どんなに辛くてもやりもしないことをやったと言ってはいけない。言ってしまった途端に、それが事実になる。」という教訓を得たことで十分だ。
それから十数年たったある日。姉が家にきた。前日に姉の友人が訪ねてきて、彼女の弟のS君が病に倒れて、明日をも知れぬ状態にあるそうだ。Sはわたしの小学校の友人で、年に一度の同期会でよく顔を会わす仲だった。
そのSが顔を見せなくなったので気にはなっていたのだが、Sのお姉さんの話では病床のSが苦しい息で「青木君に悪かった。青木君に謝りたい」と繰り返しいっているが、きっと疎開の時の「いじめ」のことに違いない。今Sはとても青木君に会える状態ではないのでわたしが青木君のお姉さんに会って様子を聞いてくると言って、姉に会いに来たのだそうだ。
それを聞いて驚いた。Sは大柄だが気の優しい男の子だった。姉同士が同じ学年だったこともあり、親しみを感じていた。たまたま疎開の宿で同じ部屋に入ったが、Sからいじめられた記憶はない。ここ数年参加している同期会の席上でも,楽しく語り合うほどの仲なのに、そのSが病床で、何故、青木に悪い、すまないとうわごとの様につぶやくのか分らない。疎開先でいじめにあって、辛い思いをしいたことはあったが、Sからいじめられた記憶はないし恨みも持っていないと伝えてくれるよう姉に話しておく。
S先生にしてもSにしても、わたしのほうですっかり忘れてしまった「いじめ」を心にかかえて生きてこられたのは何故なのだろう。
S先生の場合は学童疎開の責任者として、一生徒の父母との関係から、その行為を見過ごした責任が心の負担となったと理解できるが、Sの心には何があるのだろうか?
自分の友達がいじめられているのを見ながら、ボスのWが怖くて何も出来ず、わたしがやられるままにしておいたことが、心の痕になっていたのかもしれない。
戦争末期の学童集団疎開の密室の中で繰り広げられた異常な出来事は、いじめたWいじめられたわたしだけでなく、それを見逃したS先生と、同じ部屋でいじめられているわたしを助けることも出来ず、見て見ぬ振りをしてしまったSの心に大きな痕(トラウマ 〔精神的外傷〕)を残していたのだ。
青木平衡(一本松校)
『横浜市の学童疎開』の体験記に書いた「いじめ」は、わたしの人生はじめての辛くて厳しい経験だったが、その屈辱の体験が今のわたしの負けず嫌いの性格を作ってきたのではないかと思う。
当時六年生だったわたしは昭和二十年二月、中学受験のために集団疎開先の湯河原から横浜の自宅に帰って来た。希望の中学に合格したわたしは、学業に取り組むかたわら、軍事教練、援農(人手不足の農家に泊り込みで田植え、麦刈りなど泊り込みで手伝いに行く) など新しい環境に慣れるのに精一杯で疎開の出来事を思い起こすこともなかった。
わたしをいじめたWも同じ中学に入学したが、戦時下の少年には疎開の頃の話など、とうの昔に忘れ去り、身体を鍛え勉学に励み一日も早く立派な帝国軍人になることを目標に頑張っていた毎日だった。
そして昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲に会う。学校も家も焼かれ、その焼け跡整理で碌に勉強もしないまま八月十五日の終戦を迎えるにいたった。
敗戦後の混乱の中では、生きることに精一杯だったし、戦争のない自由な時代で青春を謳歌していたわたしには、仕返しなんていうつまらない気持ちはとうに消え去っていた。
同じ学校に入ったWも、あまり親しい友達も作れなかったのか、ラグビー部に入ったり、草野球に熱中したり、多くの友人に囲まれたわたしに怖れをなしたのか、全く近づいてこない。それどころか中途退学してしまった。
それから四十年近くたったある年。久しぶりに小学校の同期会に顔を出した時のことだった。学童疎開をしていたときの小学校の分団長のS先生 (当時、副校長が疎開団の分団長であった) のご子息が参加していた。お世話になった先生を同期会にお呼びするのは当然だが、息子が代りに出席するというのはあまり例がない。不審に思ったが、父親が体調を崩されたので代理出席したのだというので、さして気にせずに親しい仲間と楽しい時間を過ごしていた。
会の終りがけに幹事が声を掛けて来た。先生のご子息がわたしに話があるので待っていてくれというのだ。何事か分らぬままに、一緒に近くの喫茶店に入って話を聞いた。
ご子息の話では、今度の同期会の案内を見たS先生が、青木さんが来るなら、どうしても席して、疎開時代に辛い思いをさせてしまった青木に詫びたいと言い出したが、体調が優れずどうしても出席できない。代りに出席してお詫びして来いといわれたので、幹事に無理を言って臨時参加させてもらったのだという。
S先生のご子息も一年下で同じ学童疎開に来ていた。寮母として来ていたWのお母さんが、分団長の子どもの面倒を見たのも不思議ではない。そんな関係もあってS先生がわたしがWにいじめられているのをうすうす知りながら、何も言わなかったことを恥じていられるという。
戦後もS先生とWの家族との付き合いは続いていて、Wの近況も知っていた。Wは神経を病んで廃人同様の生活をしているらしい。今更、そのようなことを聞いても、どうという感慨も無い。あの時はあの時だ。今、Wが病んでいようと元気でいようとわたしには何も関係はない。わざわざご子息が同期会に見えてお詫びの言葉を伝えていただいても、何か白けた感じしかなかった。
それでご安心されたわけではないだろうが、わずか二年後、S先生の計報が届いた。平塚のご自宅近くの斎場の通夜の席に参列、何も恨んでいませんとお伝えしたが、Wの姿はなかった。
あのようなことを経験したお蔭で、今のわたしがある。「どんなにいじめられても、どんなに辛くてもやりもしないことをやったと言ってはいけない。言ってしまった途端に、それが事実になる。」という教訓を得たことで十分だ。
それから十数年たったある日。姉が家にきた。前日に姉の友人が訪ねてきて、彼女の弟のS君が病に倒れて、明日をも知れぬ状態にあるそうだ。Sはわたしの小学校の友人で、年に一度の同期会でよく顔を会わす仲だった。
そのSが顔を見せなくなったので気にはなっていたのだが、Sのお姉さんの話では病床のSが苦しい息で「青木君に悪かった。青木君に謝りたい」と繰り返しいっているが、きっと疎開の時の「いじめ」のことに違いない。今Sはとても青木君に会える状態ではないのでわたしが青木君のお姉さんに会って様子を聞いてくると言って、姉に会いに来たのだそうだ。
それを聞いて驚いた。Sは大柄だが気の優しい男の子だった。姉同士が同じ学年だったこともあり、親しみを感じていた。たまたま疎開の宿で同じ部屋に入ったが、Sからいじめられた記憶はない。ここ数年参加している同期会の席上でも,楽しく語り合うほどの仲なのに、そのSが病床で、何故、青木に悪い、すまないとうわごとの様につぶやくのか分らない。疎開先でいじめにあって、辛い思いをしいたことはあったが、Sからいじめられた記憶はないし恨みも持っていないと伝えてくれるよう姉に話しておく。
S先生にしてもSにしても、わたしのほうですっかり忘れてしまった「いじめ」を心にかかえて生きてこられたのは何故なのだろう。
S先生の場合は学童疎開の責任者として、一生徒の父母との関係から、その行為を見過ごした責任が心の負担となったと理解できるが、Sの心には何があるのだろうか?
自分の友達がいじめられているのを見ながら、ボスのWが怖くて何も出来ず、わたしがやられるままにしておいたことが、心の痕になっていたのかもしれない。
戦争末期の学童集団疎開の密室の中で繰り広げられた異常な出来事は、いじめたWいじめられたわたしだけでなく、それを見逃したS先生と、同じ部屋でいじめられているわたしを助けることも出来ず、見て見ぬ振りをしてしまったSの心に大きな痕(トラウマ 〔精神的外傷〕)を残していたのだ。