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続 表参道が燃えた日 (抜粋)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2011/8/14 16:11
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 はじめに

 スタッフより

 この記録は「表参道が燃えた日-山の手大空襲の体験記-」からの続編です。

 転載に当たっては編集委員会のご了承をいただいております。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー







 カバー表
 「青山同潤会の井戸」木村万起
 (油絵 90.9×72.7cm)
 撮影小野静穏










 戦災犠牲者追悼碑
 表参道みずほ銀行前

 2007年1月、有志たちの署名によって建てられた。この建立がきっかけになって、戦災体験記が翌年発行された。










 みずほ銀行側の灯籠

 灯籠には亡くなった人の血と脂が黒く惨みこみ、いつまでも消えなかった。台座には焼夷弾によって欠けた跡が残っている。





 はじめに

 平成二十年二月「表参道が燃えた日」の初版が発行され、その後版を重ね増補版も出版されました。私も哀しい思い出として、子供にも話さなかった経験を、編集委員の方に誘われ、何時かは伝えなくてはと執筆しました。その縁なのでしょう、その後種々の会で語り部として、お話をすることになりました。その席では、表参道以外で空襲に遭われた方が、胸の内の思いを述べられました。「表参道が燃えた日」の本を読み、今まで楽しい思い出は残していたが、悲しく嫌な思い出は忘れたいと、子供や孫にも閉ざしていた口を、次の世代に伝える大切さ、又、戦中戦後の苦しみを共感出来る仲間を見付けた思いなのでしょうか、編集委員会に多くの原稿が寄せられました。

 その思いを生かそうと今回新たに「続 表参道が燃えた日」が刊行されることになりました。この度の刊行では、青山・原宿・穏田の表参道近辺に限らず五月二十五日の空襲で被害を受けた、周辺地域からの体験記も掲載しました。

 編集に同席し、既刊を含め読み直しますと、空襲当時小学児童や中学生徒だった人が多く、次に成人女性に占められていました、男子大学生や成人男性は工場に動員され、また戦場に赴いていたのでしょう、寄稿が殆ど見られません。

 空襲時に学童・学生・社会人・主婦・軍隊生活をしていた、それぞれの年代や立場で実体験の度合い、感じ方で微妙に異なるのを、本書を読み気が付かれると思います。

 三月十日の本所・深川を中心とした下町大空襲と比べ、表参道を中心とした山の手の大空襲は余り人の口にのぼらないのは、現在若者達の憧れの地である表参道のイメージからでしょうか。むかし、明治神宮に向かって右側は、三階建て黄土色の同潤会アパートが長屋の様に軒を連ね、左側は坂の上から下まで石垣で、その上にお屋敷が立ち並び、夕暮れになるとケヤキ並木の梢の先に小さな蝙蝠が飛び交っていました。

 その様な穏やかな住宅地であった青山や表参道に、空襲直後の参道の坂道に、多数の焼夷弾が刺さっていたり、黒焦げの遺体が横たわっていた状況などを、想像するのは難しいのでしょう。

 それだからこそ、体験者である我々には、山の手大空襲で起きた表参道の悲惨な事実と歴史を伝え、戦争回避の声を語り継ぐ責務が有ると信じています。

 このたび編集委員に加わりましたが、この「まえがき」は、「続 表参道が燃えた日」の発行を待たず亡くなられた、私と青南小学校の同期生で前任の編集委員児玉昭太郎さんに、捧げます。
 児玉さんは同期生で唯一人広島原爆の体験者でした。

 二〇一一年五月

 泉  宏
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/15 7:36
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

   編集にあたって

 一、体験記の配列は、表参道と青山通りの交差点付近から、順次その周りへとグループを分けた。

 二、執筆者の戦災時の住所を、文末に当時の住居表示で記した。

 三、体験記の内容で明らかな事実の誤りについては訂正したが、その他については原文どおりとした。

 四、漢字、かなづかいについては、なるべく当用漢字、現代かなづかいを採用した。読みにくい熟語についてはルビをふった。

 五、各グループごとの地図は、昭和十六年日本統制地図(株)発行の地図をもとに作成した。

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 目 次

 はじめに

 赤坂区青山南町六丁目・青山高樹町

   白い小さな紙の箱                 KI
   戦争のないことを願って              神谷和子
   三度の空襲                     中村正英
   青山つれづれ まさか青山が燃えるなんて   上野正雄
   忘れられない恐怖の空襲              KA・AM
   「北杜夫」 斯く語りき               伊原太郎
   空襲の想い出                    十代田禮子


 赤坂区青山北町六丁目
 
   恐ろしく悲しい大空襲の記憶          平田 諦
   山陽堂さんに助けられて             若林加寿子
   創業一二〇周年の山陽堂書店         萬納昭一郎
   思い出の青山                   田中寿子


 渋谷区穏田一、三丁目・竹下町

   戦時中の出来事                 佐藤銀重
   戦災の記                      島野敬一郎
   私の大東亜戦争                 松田豊彦
   忘れられない五月二十五日           岩崎栄子
   戦後六十五年 東京の記憶           斎藤伊佐雄
   おばあちゃんのうけた空しゅう


 渋谷区原宿二丁目・赤坂区青山北町四丁目

   空が赤く燃えた日                  栂野春野
   それは五月二十五日に!             平瀬 庸
   故郷の空が燃えている               千野 孝


 渋谷区穏田二丁目・上通二二丁目・青葉町・金王町

   穏田川に入って                  柴田キヨ
   母の手紙                      稲葉正輝
   三たびの空襲-両親を失う            岩田昭男
   五月二十五日の思い出              SK
   山手大空襲                     石井 昭


 赤坂区一ツ木町・新町=〒目・表町四丁目

   赤坂の空襲                    阿川君子
   弁慶堀に一晩浸かって              安藤要吉
   大空襲で焼失した「戸籍謄本」         若宮正子


 世田谷区・麻布区・渋谷区幡ヶ谷本町・中野区・淀橋区

   太平洋戦争と私                  依田比沙子
   戦災の記録                     YF
   焼夷弾が焼いたもの               永井おとよ
   戦後六十五年、我が町南中野         脅藤百合子
   母親の悲しみ                   村井恵以子


 付 録

   空襲前後の表参道のけやき並木(米軍撮影空中写真)
   昭和二一十年五月二十五日~二十六日の空襲について
   遺体の行方-仮埋葬から慰霊堂へ
   東京の空襲 / 東京空襲記録 / 略年表 / 軍事施設

   東京都戦災焼失地図  /参考資料

 編集後記

 本文挿絵    穂積 和夫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/16 6:39
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 青山南町6丁目・青山高木町


 白い小さな紙の箱  KI





 軍事教練で富士の裾野にて鍛えられていた青山学院中等部二年生の私達は、昭和二十年五月二十五日夜半からの空襲により、学校が被害を受けたというので、二十七日朝、急遽帰る事となった。

 なんとか大崎駅まで辿りつき、学校まで徒歩で行く間、異臭を放つ道や焼け落ちて瓦礫のみになった焼け野原を見ながら、やっと校庭についた。学校は相当な被害を受けていたが、一部は焼け残っていた。解散後、真っ直ぐ校庭を横切り、我家とおぼしき焼け跡についた。青山学院のすぐそば、青山南町六丁目で旅館を営んでいた。

 人のいる気配がなく、洗面所跡の赤レンガがコの字型に残り、周りを見るとお隣の長澤さんの焼けていないお蔵と、道を隔てた斎藤さんの石塀と、少し離れて焼けたお蔵があるだけだった。

 日が暮れて来たので、指示された通り学校へ戻り、佐藤君と二人で女子部の医務室で寝た。
 翌朝、焼け跡に戻ると、お隣の竹内君(小学校の同期生)の一家が驚いて私を迎えてくれ、鉄兜で炊いたご飯をご馳走してくれた。焼ける寸前まで頑張って消火活動をしていたが、焼夷弾が落ちたので逃げたとの事、そして、私の家族とは今朝まで一人も会っていないので、皆心配していた所へ私が現れたのでびっくりしたと言った。種々情報を伝えてくれた。そして彼の一家は故郷の北軽井沢へと焼け跡を後にした。

 昼過ぎ焼け跡に戻って来ると、煉瓦の所で動く人影があるので声を掛けると、母親であった。
 無事を喜び合い突然現れた理由を聞くと、二十四日朝、千葉の実家へ買い出しに家を出て、少し前に帰ってきた所だと言う。留守を守っていた叔母とその娘や、下宿をしていた学生さん達はどうなったかと心配で、私が探しに行く事になった。

 青山墓地には、肉親を探す人が三々五々集まってきていて、皆無口で腰を屈めながら探していた。敷石が飛び飛びに並んでいる小さな広場に遺体が「定方向に頭を揃え、確認出来易くする為か、少し間隔をあけて並べてあった。そこに運ばれてきた遺体は比較的良好な服装状態が多く、なかには警防団の黒の細い線が入った帽子を被り、濃草色の上着、ズボンにゲートルを巻いて上を向いている遺体があり、生々しかった。モンペ姿の女性たち、手縫いの布袋を肩から斜めにかけた人、裸足の人達が上を向いて家人が来るのを待っている様な恰好だった。所持品と思われる小物が一纏めにしてあった。若しかしたら叔母親娘かもしれない二遺体が一番端に置かれていた。頭髪と着衣はなく、猛火に炙りだされて茶色になった蝋人形の様だった。なぜか寄り添うような感じがする並べ方であった。美しいと感じさせる遺体であった。体型が少し違うので、行きつ戻りつ見直して歩くが、どうしても蝋人形さんの所へ戻ってしまった。

 少し離れた所で見たのは、一瞬声が出なかった。皆きれいな衣類を着てお人形さんかと見聞違うばかりの可愛い赤ん坊や幼児達が、無造作に積み重なっていて、まるで小さな山の様であった。
 わけはどうであれ、あまりの光景に足が止まったが、私は再び肉親探しにその場を後にした。

 結局、親子は見つからなかった。夕方帰って、墓地で見た光景と探す苦労を母親に話すと、うっすらと眼が濡れている様な感じがした。日を経ずして、人づてに遺骨を貰えると聞いたので、徒歩で青山一丁目の石勝石材店の所まで出向いた。町会の方かと思われる男性が、二人分として、こぶし大ほどある遺骨二片と小片を白い小さな紙の箱に入れてくれた。どなたのお骨とも分からないが、焼け跡で待つ母の所へ持ち帰り見せた。後日、墓のある多摩墓地に納骨した。

 叔母親子は祖母の死後、敦賀より青山へ来て約二年ほどなので近辺の地理に疎かった。娘は四月に青山学院の女子部に入学したばかりだった。

 (赤坂区青山南町六丁目)


 写真は「青山南町6丁目・青山高木町 地図」



前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/17 7:25
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 戦争のないことを願って その1
 神谷 和子(かみや かずこ)




 はじめに

 私は青山六丁目で育ちました。現在は立派な建物がたくさん建ち並び、いろんなお洒落なお店が軒を並べ、ニューヨークやパリなど世界のファッションをリードするどの街と比べても見劣りしない街になっています。なつかしい昔の面影などは全然残っておりません。私は今は多摩市に住んでいますが、私たちの育った頃と全く様子が違ってしまった街を見ると、私の故郷はなくなってしまったと悲しく感じます。

 私のところは立派な家ではありませんでした。父親は福島の田舎育ち、母親は浅草の出で、借家住いの身でした。戦争になっても疎開もしませんでした。ずっと青山で育ち、空襲で焼け出されたあとも青山に残りました。


女学校生活

 太平洋戦争(大東亜戦争)が始まったのは私が女学校二年の時です。戦争のはじめの頃は学校でも普通に授業があり、時々勤労奉仕で宮城とか明治神官とかの草むしりに行く程度でした。それでも勤労奉仕のたびにくたびれ果てて家に帰ってきました。戦争が激しくなり日本の旗色が悪くなってきますと、学校でも授業などは全くしないで、軍需工場へ動員されて働かされるようになりました。私の場合は、世田谷の三宿の方にあった落下傘工場へ行って、落下傘用の絹の布にしっけをする仕事をしました。とにかく、戦争に勝つために何らかのお役に立ちたい、お国のためにお役に立ちたいと一所懸命でした。

 昭和十九年が過ぎてまもなく、学校の方から行くように言われて、青山一丁目にあった陸軍需品本省に勤めるようになりました。そのため三月の女学校の卒業式にも出席出来ませんでした。

 私のいた部署は会計や庶務を行うところで、兵隊さんの被服や、出撃手当等を計算して出すところでした。毎日の仕事を覚えるのがなかなか大変でしたが、どうにかなれた頃、昭和二十年に入ってすぐ、陸軍の尉官の方達の指導で軍事教練をやりました。青山一丁目から、もんぺ姿で竹槍(たけやり)をかついで駆け足で外苑の絵画館前まで行き、そこに造ってあった藁(わら)人形を竹槍で突く稽古(けいこ)をさせられました。アメリカ軍が上陸してきたら一人でも多くの敵兵を刺し殺して自分も玉砕するという趣旨の訓練でした。とても辛い訓練で、突き刺すときの気合いの声が小さいと何度でもやり直しをさせられました。

 今の人たちには馬鹿馬鹿しい話でしょうが、当時の私たちは娘ながらに本当に一所懸命でした。本当につらい時期でした。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/18 6:44
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 戦争のないことを願って その2
 神谷 和子(かみや かずこ)


 空襲がはじまる

 戦争の終わりの頃になり、サイパン島が占領された後は毎日毎日米軍の爆撃機のB29が飛んでくるようになりました。そのたびに、朝となく、昼となく、夜となく、警戒警報、空襲警報が発令されました。ラジオで警報発令の放送があると、庭に造った防空壕に入りました。

 私は一人っ子でしたので父と二人で庭に防空壕を掘りました。その中には布団、お米、学校の道具、とっておかなければいけない最低限のものを入れておきました。夜に警戒警報が発令されることは本当につらいことでした。毎晩、電灯を消して真っ暗にし、雨戸や玄関の戸を開けて、いつでも防空壕に入れるように構えているわけです。それが毎晩続くと十分な睡眠もとれませんし、また冬などは寒いこともあって、とてもつらい思いをしました。三月には下町が大空襲で焼けてしまいました。四月には戸越の方にいた親戚が焼け出され、そこの子供、女の子三人を預かりました。小さい子は二歳か三歳で、上の子が五、六歳だったと思います。


 五月二十五日の夜

 あの時は母と預かった子供たちを、落ち合う場所を決めて青山墓地へ一足早めに避難させました。あちらこちらで火の手が上がり、家の近くにも焼夷弾が落ちてくるようになり、煙で空が見えなくなりました。私と父は防空壕に木の蓋をして、その上に土をいっぱい載せ、それに水をかけて簡単には燃えないようにしました。それから父は野宿することになってもいいように布団を一組自転車の荷台にくくり付け、私は水を一杯入れた大きな薬缶(やかん)を持ち、防空頭巾(ぼうくうずきん)をかぶり、もんぺをはいて母と約束した青山墓地に向かいました。途中表参道のところまで来ると、大勢の人が煙に追われて原宿の方へ逃げて行くのが見えました。なにしろ風上の青山墓地方向は煙で五十メートル先も見えない状況でした。空からは焼夷弾がばらばらばらばらと落ちてきますし、それが行こうとする先に落ちるので、そのために出る煙もまた凄まじいものでした。それでみんなのように表参道を原宿の方へ逃げた方がよいのではないかと思い父に話しましたが、父は風下に逃げると煙に巻き込まれてやられるから風上に逃げなければならないのだと言って墓地の方へ逃げて行きました。そのような状況の中を父にしがみつくようにしながら、重い薬缶の水を持って青山墓地までたどり着きました。

 私たちが墓地に着いたとき、取り決めていたところに母たちの姿が見当たりませんでした。父と二人でずいぶん探し回りました。たまたま預かった子のおしっこをさせに外に出てきた母に私が行き会うことができ、ほっとして、お互いに助かってよかったねと嬉し泣きでした。周りを見ると、燃えている火のために空は真っ赤で昼間のように明るく、とても真夜中とは思えないほどでした。また上空にはトタンとか薄緑(うすべり。ふち付きのゴザ)のようなものが爆風のために舞い上がって飛んでおり、すごく怖くてわなわなと震え上がっておりました。青山墓地には墓地裏の方にあった陸軍の歩兵第三連隊の軍馬を避難させるための穴がたくさん掘ってありました。私たちが行った時には馬など全然いませんでしたので、私たちがその穴の中に入って「夜を過ごしました。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/19 8:14
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 焼けた街

 怖い一夜が明けた翌日父が家の様子を見てこようと言い出し、私は怖かったのですが一緒について行きました。まだ地面はぶすぶすといっており、とても熱くて歩くのも大変でした。避難の時に持ってきた薬缶の水を防空頭巾にかけながら家まで帰って行きました。表参道から都電の通っていた青山通りを青山六丁目の方へ行くまで、死体の間を、真っ黒な死体、半焦げの死体、などなど、その無惨な死体の間を、死体をよけながら、見るのも怖いのですが必死の思いで家までたどり着きました。やっぱりと言うか、予想通り家は焼けて無くなっていました。ご近所全部一軒も残らず焼けてしまっていました。

 その晩は神宮前より入ったところにあった青山会館で一夜を過ごしました。炊き出しがあっておにぎりが配られましたが、なかなかのどを通りませんでした。表通りの六丁目のところにあった紳士服専門の洋服屋の土屋さんのご主人は顔に大火傷を負ったため、目だけ出してあとは包帯でぐるぐる巻きでしたが、口も開けにくいようで、父が小さじに少しずつご飯粒を乗せて食べさせてあげていました。そういうのを見て、なんとも言えない無常を感じました。


 怖かった死体の片付け

 その翌日、父は青年団の方々と一緒に表参道の片付けをいたしました。表参道の入り口に安田銀行(現在のみずほ銀行)が、反対側には交番がありましたが、そこから原宿の方へ倒れている死体のうち、お顔のはっきりしている死体をよって、並べてゆきました。身内の方が捜しに来られても、顔さえわかれば引き取ることができるだろうということでした。私もそのお手伝いをいたしましたが、怖くて怖くて、足が震える思いで、何かにつかまらなければ立っていられないような気分でした。

 なかでも表参道の入り口の灯籠のところで目にしたご遺体のことは今でも忘れられません。昔はお年を召したご婦人、ご隠居様になりますと、頭は束髪(そくはつ)にして一つに束ね、被布(ひふ)を着ておられたものですが、そういうお姿で明治神官の方を向いてお辞儀をしたままで亡くなっておられました。真っ黒になって座ってお辞儀しているお姿は今でも頭の中に焼きついて忘れられません。思い出しますと今も涙です。

 何しろ死体の山で、表参道の角の安田銀行の壁にもたくさんの死体が折り重なり、その死体のシミが付いて二メートル以上の高さまで黒くなっていました。銀行はシャッターが閉められていて、中に入れてもらえずに亡くなった方たちのシミなのです。また、原宿の渋谷川、穏田川(おんでんがわ)の中にもたくさんの人が飛び込んで亡くなっておられます。学校のお友達にも家族で川に飛び込んだかたがいらっしゃるようです。

 あの時のことは、五年、十年経っても忘れることができませんでした。よく夢を見ました。夢に真っ黒焦げになった死体が出てくる、真っ黒焦げの死体に追いかけられて目を覚ますことなどよくありました。

 表参道に立って左を見ると議事堂が、右を見ると富士山がまる見えで、その間にさえぎるものが何もありませんでした。それだけ完全に青山一帯が焼けてしまったわけです。それにともなって多勢の人達が亡くなっておられます。私の学校時代のお友達の中にも亡くなった方がいらっしゃいます。一年下のタイル屋さんの娘さん、ご近所の三味線のお師匠さんのご家族も一人として助かったかたはおられなかったようです。渋谷から赤坂、青山一帯、全く何も残っておりませんでした。青山通りは死体の山、死体ごろごろでした。いまだに忘れられません。こうして懐かしの青山は滅びました。


 おわリに

 このような体験のためか、私は戦争の映画とかテレビなどみたこともありません。嫌だったのです。あの死体の山を思い出すのです。でも私も年をとってきました。私たちが経験した悲惨な思いを若いかた達に経験してほしくない。戦争は絶対にやってほしくない、あんな悲惨な思いをしてほしくない。生き残ったものの一人としてそれを強く願っております。一般市民を巻き込んだ悲惨な戦争が二度と起こらないことを願っております。

 (赤坂区青山南町六丁目)

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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 三度の空襲 その1
 中村 正英(なかむら まさふさ)



 我が家は三度空襲にやられた。東京で空襲にあい、疎開先でまたまたやられたという話はよく聞くが、我が家は青山の同じ家で三回被災した。

 第一回目は昭和二十年二月、焼夷弾のそれ弾がお勝手に続く物置の屋根に落ちた。単発だったので、火たたき棒などで消火した。二度目は五月二十四日、大型の油脂爆弾が我が家に落ちて、二階の物干台をすっ飛ばし、屋根をつき破って一番奥の部屋に落ちた。なんとそこは父母の寝所でもあり、爆弾は母の枕を飛ばし床下につきささった。もし避難をさぼっていたら、完全に即死だったろう。油脂爆弾は破壊力は小さいが、着弾と同時に四方八方に油脂をまき散らし、そこに火が廻って火災になる仕組みなのでたまらない。それでも幸い隣近所の方々に手助けしてもらい、必死の消火でとうとう消し止めた。この事は、敢然として消火活動にあたった行動は賞讃に値するとして町会長より表彰される話まで出ていた。ところが騒ぎも静まらぬ翌二十五日、第三回目の山の手大空襲にあい、とうとう息の根をとめられた。考えてみるとこの不思議な三回の戦災は表参道に関係があるようで、当時としては広々とした表参道の道路が空襲の目安になった。そして爆弾を落とし始めた最初のものが我が家に落ちたのではないか等と勝手な推理をしている。

 当時の私は、出征し満州に居て、幸いなことに二十年四月、本土決戦要員として高射第一師団司令部に配属になり、東京に帰っていた。司令部は、上野の科学博物館に陣取って、関東一円の防空守備の任にあたっていた。戦時中皆さんがよく聞いた東部軍管区情報の元締めもここにあり、敵機来襲の情報は克明にわかった。広い壁面に描き出された巨大な日本地図。それをとりまく多数の情報係と電話。全国の監視所から刻々と流れる敵機の進入状況。そして部屋の大地図に点々と赤い電気がつき敵機の状況が手に取るようにわかる。居並ぶ情報将校達がこれを取り囲みながら大局を判定し、「敵数十機只今相模湾上空を横浜方面にむけ北上中」等の防空情報を流していた。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 三度の空襲 その2
 中村 正英(なかむら まさふさ)

 五月二十五日の青山空襲の時は、司令部の屋上から山の手に火の上るのを見ていたが、翌日軍の車で青山方面の視察に出かけた。東郷神社の通りから表参道を青山通りに向かったが、美しいケヤキ並木は無残にも焼けただれ、坂道を上るにつれ見えるはずの青山通りの町並がまったく見えない。その時、衝撃的な風景を眼のあたりにして思わず息をのんだ。はるかかなたに青南小学校の建物が見え、あたりは一面の焼け野原だ。青山通りと表参道の交差点附近は、あちこちに焼け残りのものがくすぶり、安田銀行横には黒こげの死体が折り重なっていた。

 青山墓地に避難した父母が焼け跡の整理をしていた。当時私は、避難するなら明治神官か代々木練兵場が最適で、表参道の広い道を行けば一番安全と考えていたが、これは間違いだった。青山通りは燃えさかる炎が地面を這い、広いと思われた表参道と青山通りの交差点は火の海となった。表参道は明治神宮に近い穏田の方から燃え広がり、代々木練兵場への道を断ってしまった。結果的に表参道方面に逃げた人は被災し、青山墓地に逃げた人達は助かった。

 我が家は青山通りより少し入った路地の奥だったが、我が家の近くの防火水槽や隣家の風呂桶の中には見知らぬ人達の焼死体があった。きっと逃げまどいながら苦しまざれに飛び込んで息絶えたのであろう。我が家の焼け跡に立ち、何もかも焼け尽くされた現実に茫然自失。覚悟していたとは言いながら、好きで蒐集していた映画史資料や昆虫や植物の標本等灰燼に帰して、青春の思い出が一瞬にして消されてしまった。

 何ともかなしくむなしい喪失感に、ぼんやりたたずんでいた。焼け跡をほじくり返していたら少年時代から集めていた古銭が焼けただれ、溶けて塊になったのを見つけた(写真参照)。空襲の火災のものすごさを実証する記念品として、戦後六十五年の現在も大切に保管している。

 当時の青山には青南小学校の同窓生がたくさん住んでいた。山本五十六元帥や菱刈陸軍大将のご子息や小堀遠州流の小堀宗慶さんなど、そうそうたる人達の家も焦土と化し、歴史が消えた。本当に戦争ほどかなしいものはない。

 青山通りと表参道の交差点に当時からあり、今も残っている明治神宮大灯籠の石座には被災者たちの油がしみついている。あの時ここで見た惨状は脳裏に焼きついて離れない。そして二度と戦争はしないでくれと被災者の悲痛な叫び声が聞こえてくるようだ。

 (赤坂区青山南町六丁目)


 右下:5月25日の空襲により溶けた古銭
 左上:電波探知を撹乱するために米軍がまいたアルミ片
 左下:高射砲弾の破片 右下:機関砲弾丸の破片

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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 青山つれづれ
  まさか青山が燃えるなんて その1
 上野 正雄(うえの まさお)



 青山。私のふるさと青山、青山南町六丁目。我が家は、表参道と青山通りの交差点から目と鼻の先、縁の多い静かな住宅地だった。春は桜が咲き、秋はもみじの紅葉。落ち着いた美しい町であった。あちらこちらにゴマ柿が、枝もたわわに実っていた。イチジクも、ちょうど子どもの手の届く所に熟れていた。当時小学生だった私は、学校から帰ると、よく近所の家の塀を乗り越えてはカキ、イチジクを盗みに入った。家の奥から「コラー」という声が聞えて、一目散に塀をよじのぼり逃げた。近所の男の子と、両手にしっかり持っていた戦利品を、路上に座り込むなり噛り付いた。その美味しかったこと。今でも忘れられない良き思い出である。

 私の自宅から、明治神宮の鳥居まで約一キロの路。学校から帰ると、夕方まで代々木練兵場(今の代々木公園)の小高い山々を駆け巡った。長い竹竿の先にトリモチ(もちの木などの樹皮から作られるネバネバしたもの)を巻きつけるように付け、しなやかな竹竿を振り回しながらオニヤンマ捕りに夢中になった。帰りはトンボに糸をしばりつけて、得意げに何匹も家に持ち帰ったものだ。この辺りは天気の良い口、風の強い目などは砂ぼこりが舞上がり、空が黄色くなっていた。

 ある時は、都電青山車庫の裏側に池があり、ザリガニ、小鮒などを釣りに行ったりもした。家の近くの青山通り(今の246)に「青山日活館」(青山北町六丁目二二九番地)があって、「丹下左膳」が上映されていた。今はなき無声映画、弁士が画面を見ながら弁舌巧みに説明している風景が、子供心に焼き付いている。入場料は大人五十銭、子供二十銭だった。
 青南小学校の近くにある「大松稲荷」 の隣に、小さな駄菓子屋(安い材料で大衆的な菓子などを売っている店)があって、お婆さんが一人で店番をしていた。子供達がよくベーゴマ、ブロマイド、めんこなどを買いに来ていた。私はアンコ玉を一個五厘(厘は昭和二十八年十二月まで通貨として使用されていた。十厘で一銭)で買ったのを覚えている。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 青山つれづれ
  まさか青山が燃えるなんて  
 上野 正雄(うえの まさお) その2

 こんな平和な日々も、太平洋戦争の勃発とともに急速に失われて行った。昭和二十年五月二十五日夜半から始まった米軍による東京大空襲。B29による焼夷弾が一斉に落とされ、火災があちらこちらで発生した。渋谷の東横百貨店を中心に火の手がどんどん広がり、空や雲が赤くなり、まるで昼間のように明るく、何か恐ろしいあやしい、空模様だった。

 渋谷方面から炎上が始まり、青山の方へ向って、火の勢いが強くなり迫ってくるようだった。我が家の前の家に焼夷弾が落ち壁に火が移り、近所の人達とバケツで水をかけたが火は消えず、あっという間に一軒が火の海と化した。大人の人達の「早く避難しろ」「逃げた方が良い」という声を聞き、防火用水の水を頭からかぶって、全身ビショビショになりながら、父と母と三人で青山墓地へ一目散に逃げた。この時、運命が分かれたものと思われる。私達より先に逃げた人の中に、明治神宮方面に行かれた人が表参道付近で亡くなられた。
 なお、妹と弟は京王つつじヶ丘駅の北側にあるお寺「金龍寺」(調布市西つつじヶ丘二⊥四)に学童疎開していた。

 青山墓地は、人、人、人で、ごった返していた。タンカで運ばれてきた人は、お腹が裂けて血だらけ、頭を怪我して血を流している人、火傷を負った人。うめき声と悲鳴があちこちで聞こえ、親が子を、子供が親を探していた。辺り一面を強烈な熱風が襲い、まるで地獄絵図を見ているようであった。

 当時の事を、通称「墓地下」という所にある島村花店(約百二十年続く花店で、大正十二年の関東大震災にも、今大戦でも被災せず、昔のままのたたずまいで経営されている)のご主人の父島村金之助さんは、「店の前は避難の人であふれかえっていた」と五月二十五日のことを、よく語り伝えていた。今は、ご主人の義雄さんも金之助さんも故人となられてしまった。

 そして、青山墓地から、自宅の方向に帰るのであったが、見渡す限り、焼け野原で、道路も、家々の境も分からず歩き続け、いつの間にか青山通りに出てしまった。

 そこで見た光景は、今でも脳裏に焼き付いて離れない。この空襲により亡くなられた方々には誠に不謹慎な言い方になるが、見たままを書くと、男か女か、子供か老人か判らない、身には何もつけてなく、全身がツルツルで、まるで蝋人形やマネキン人形のような死体が累々としていた。死体を踏まないように、跨がないように避けながら、この光景の中をどのくらい歩いたであろうか。ようやく我が家に辿り着いたのであった。恐ろしかったこと、恐ろしくて声も出ず、歩きながらガタガタ震えていた事を思い出す。

 あった筈の我が家はまる焼けであった。見なれた風景は、おどろおどろしい恐怖の世界へと一変してしまった。この焼け跡で親子三人は、焼けトタン、焼けぼっくいの柱、板を掻き集め、小さな掘立小屋を作った。電気もガスも水道もない所で、三日間をここで過した。どこからか配られたおにぎりに夢中でかじりついた。今、思い出せば、すぐ近くは、この世の地獄を思わせる場所である。この環境の中で、良く食べられたものだと思う。

 なお、その時の東京の気象状況は下記の通りであった。(気象庁天気相談所資料)

五月二十六日 曇り 最高気温二五・五度 最低気温一六・二度 南 風速20m
五月二十七日 曇り 最高気温二八・一度 最低気温一五・二度 南南西 風速7・3m
五月二十八日 晴れ 最高気温二五・一度 最低気温一四・二度南 風速7・3m

 振り返ってみると、この焼け跡での三日間は、雨にもあわず、気温も昼、夜とも五月下旬にしては比較的暖かい日が続いていたのである。

 青山通り沿いの死体はやがて、警察の人、軍の関係者など、大勢の人の手により、トラック」リヤカー、大八車の荷台に山積みにされ、早朝から青山警察署、青山墓地、都電青山車庫、神宮外苑の空地にそれぞれ運ばれていった。

 毎年三月になると「東京大空襲展」「「平和展」などが各地で催され、特に警視庁報道カメラマン石川光陽氏の撮影された「青山車庫に集められた焼死体」の写真の前では、毎年、いつまでも立ち止まって、見入ってしまう。

 これら写真展を見るたびに、つくづく戦争の悲惨さを繰り返してはいけないと願う。あの穏やかで美しい青山を返してほしいと思う。

 そして、何より戦火により亡くなられた方々へ合掌し、心からご冥福をお祈りしている。

 (赤坂区青山南町六丁目)
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