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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 4

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 4

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/17 7:25
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 戦争のないことを願って その1
 神谷 和子(かみや かずこ)




 はじめに

 私は青山六丁目で育ちました。現在は立派な建物がたくさん建ち並び、いろんなお洒落なお店が軒を並べ、ニューヨークやパリなど世界のファッションをリードするどの街と比べても見劣りしない街になっています。なつかしい昔の面影などは全然残っておりません。私は今は多摩市に住んでいますが、私たちの育った頃と全く様子が違ってしまった街を見ると、私の故郷はなくなってしまったと悲しく感じます。

 私のところは立派な家ではありませんでした。父親は福島の田舎育ち、母親は浅草の出で、借家住いの身でした。戦争になっても疎開もしませんでした。ずっと青山で育ち、空襲で焼け出されたあとも青山に残りました。


女学校生活

 太平洋戦争(大東亜戦争)が始まったのは私が女学校二年の時です。戦争のはじめの頃は学校でも普通に授業があり、時々勤労奉仕で宮城とか明治神官とかの草むしりに行く程度でした。それでも勤労奉仕のたびにくたびれ果てて家に帰ってきました。戦争が激しくなり日本の旗色が悪くなってきますと、学校でも授業などは全くしないで、軍需工場へ動員されて働かされるようになりました。私の場合は、世田谷の三宿の方にあった落下傘工場へ行って、落下傘用の絹の布にしっけをする仕事をしました。とにかく、戦争に勝つために何らかのお役に立ちたい、お国のためにお役に立ちたいと一所懸命でした。

 昭和十九年が過ぎてまもなく、学校の方から行くように言われて、青山一丁目にあった陸軍需品本省に勤めるようになりました。そのため三月の女学校の卒業式にも出席出来ませんでした。

 私のいた部署は会計や庶務を行うところで、兵隊さんの被服や、出撃手当等を計算して出すところでした。毎日の仕事を覚えるのがなかなか大変でしたが、どうにかなれた頃、昭和二十年に入ってすぐ、陸軍の尉官の方達の指導で軍事教練をやりました。青山一丁目から、もんぺ姿で竹槍(たけやり)をかついで駆け足で外苑の絵画館前まで行き、そこに造ってあった藁(わら)人形を竹槍で突く稽古(けいこ)をさせられました。アメリカ軍が上陸してきたら一人でも多くの敵兵を刺し殺して自分も玉砕するという趣旨の訓練でした。とても辛い訓練で、突き刺すときの気合いの声が小さいと何度でもやり直しをさせられました。

 今の人たちには馬鹿馬鹿しい話でしょうが、当時の私たちは娘ながらに本当に一所懸命でした。本当につらい時期でした。

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